小学校六年生のキングと、お母さまの勝負服のお話。
一昨年に頒布した「キングヘイロー短編集」に収録していたお話です。
思い出せる限り一番幼い頃の記憶は、果てまで澄み渡る真っ青な空を背にして、緑のターフに二本の脚で立つ、一人のウマ娘の姿だった。
幼い頃の記憶なんて本当に曖昧なものでしかない。多くの人は自分が三歳だった頃のことだって憶えてないという。私だってそうだ。小さい頃のことなんて何一つ覚えてない。好きだったというお菓子やぬいぐるみを見せられてもピンとこない。何冊も丁寧に作られたアルバムをめくっても、敷き詰められた写真に映る自分自身は何だか他人みたいで、不思議な気分がするものだ。
あの時の記憶もやはり曖昧だ。いつの頃だったのか、どういう場所だったのかはアルバムをめくるまで思い出せなかった。大きなレースだったから、きっとターフに立つウマ娘には割れんばかりの喝采が浴びせられたはずだ。当時の私の背ではレース場なんて見えないだろうし、一緒にいたメイド長が抱えてくれていただろう。メイド長はきっと何某かを私へ話しかけただろうし、私もきっとそれへ興奮気味に答えていたはずだ。だけど、そうしたことは一つも思い出せない。何となくそんな気はするけれど、幼い私の記憶には残っていない。
思い出すのはいつだって、眩い笑顔で手を振ってくれた、たった一人のウマ娘のことだけだ。
かっこよかった。誇らしかった。眩かった。今思うと、子供心にそういうことを感じていた気がする。息をすることも、瞬きすることも忘れて、食い入るようにその姿を凝視していたような気もする。そうでなければ、きっとこんなに鮮明に思い出すこともできない。私というウマ娘の一生は――キングヘイローというウマ娘の生きる道は、この記憶から始まったと言っても過言ではない。
……思えばあの日あの瞬間から、私は漠然と、けれど確かに、こう思うようになったのだろう。
いつかこの人のように――お母さまのようになりたい、と。
◇
今日一日のノルマを達成すると、窓から差し込む光はいつの間にやら夕焼け茜色になっていた。HBの鉛筆と角の丸まってきた消しゴムを筆箱へ仕舞い、私は机の前で大きく伸びを一つする。最後の問題は随分集中して取り掛かっていたし、流石に肩のあたりに妙な張りがあった。伸ばしてやると、痛くて気持ちいい。
よし、悪くないわね。解き終わった問題集に確かな手ごたえを感じて頷く。鉛筆に替えて赤ペンを持ち、早速採点を始めた。自分でやる以上、採点基準は厳しくだ。納得いかない箇所には容赦なく赤字を入れていく。五分ほどをかけて採点作業を終え、合計点数を出した。やはり悪くない数字だ。これなら難関中学も受験できるんじゃないかしら。
間違った箇所の見直しを手早く終えて、問題集とノートを棚へ戻す。ふと、書店の袋から取り出さないまま棚へ並べてある本に目が留まった。取り出して手に取ると、相応の厚さがあって、ずしりとした質量を手で感じる。その中身がとある学校の過去問題集であることを、買った張本人の私は知っていた。
「……そろそろ、解いてみようかしら」
取り出した中身の表紙を見つめながら考え込む。難関中学の問題ほどではないにしろ、相応に難易度の高い問題が並んでいる問題集だ。生徒に文武両道を求める校風らしい。買ったばかりの頃、一度だけ解いてみたことがあるけれど、合格ラインには程遠い惨敗だった。まず、小学校六年生の範囲が出てきた時点で、そこまで勉強していなかった私に太刀打ちができるはずもなかった訳だけれど。でも今は違う。学校の授業を一年分ほど先取りして、さらに中学受験用の問題集にも取り組んだ私は、最早無敵とも言えるだろう。今こそリベンジの時ではないだろうか。
ここに乗っている過去問のすべてで合格に十分なラインを取れていれば、学力試験は問題ないはずだ。そうすればあとは実技試験が残るだけとなる。そっちは私の才能――授かったこの二本の脚をもってすればどうということはない。
この過去問題集さえ解ければ、きっと安心させることができる。だからこそ、この過去問題集が解けてから、私は自分の進路を打ち明けようとそう決意したのだから。
――「見てお母さま! 私、トレセン学園に通うわ! 学力試験だって、このキングにかかれば余裕よ、ほら!」
赤丸で一杯に埋まった答案用紙を見せてそう告げたら、お母さまはどんな顔をするだろうか。きっと笑ってくれるに違いない。もしかしたら、「私に勝てるかしら、キング?」とライバル宣言されてしまうかも。そうしたら、私はそれに「絶対に勝って見せるわ!」って応えるんだ。それで、二人揃って一しきり笑って、その後でお母さまは「頑張りなさい、キング」と背中を押してくれるだろう。それを思うと、今から頬が緩んで仕方ない。
いけないいけないと首を振る。一流になるんだもの、だらしないところは見せられない。一流はいつだって、優雅に高らかに笑ってみせるのだ。
「中央トレーニングセンター学園」と表紙に書かれた問題集を、また書店の袋へ戻して棚に並べる。取り組むにしたって明日以降だ。今から解き始めたら、せっかくメイド長が用意してくれている夕飯の時間に間に合わない。
とはいえこうなると、特にやることというのが無くなってしまう。夕飯の時間までは手持無沙汰だ。日の長い季節ならウマ娘用ランニングコースを走ってくるところだけど、もう陽も沈むとなれば爺やは許してくれないだろう。かといって、他にできることというのもない。
こういう時、私には決まってすることがある。
自室から顔を覗かせ、辺りの様子を探る。私の部屋がある屋敷の二階に人の気配はない。メイドたちは階下で夕飯の支度中のようだし、爺やは車の整備をしている頃だろう。しばらくは誰も二階へ上がってこないはずだ。
これ幸いと自室を抜け出した私は、いつも鍵のかかっていない隣の部屋へそそくさと歩み入った。扉を閉じると、あまり人の温もりがしない部屋の中に、カーテン越しの夕焼けが満ちていた。
ここはお母さまの部屋だ。とは言っても、いつも忙しく働いている人だし、この部屋にいることはほとんどない。せいぜい毎日寝る時くらいのものだろう。その就寝時間すらも、最近はファッションショーやイベントへの参加が重なって、この部屋にはいない。だから余計に、ベッドとテーブル、二つのクローゼットしかないこの部屋には生活感が感じられなかった。
ふらふらとベッドへ歩み寄る。主が使っていなくても、メイドの手で毎日綺麗に整えられているベッドに、私は迷うことなくうつぶせで倒れこんだ。ギシリとスプリングが軋んで、私の体を受け止める。干したてなんだろう、ふかふかの掛布団が心地よい。私より少しだけ高さのある枕も申し分ない感触だ。そうしてしばらくの間、ここ最近主人に会えていないベッドを慰めていた。
「……お母さまの香りがする」
顔を埋めた枕にふと呟いた。
そんなはずはないってわかってる。ベッドは毎日綺麗にされている。枕も掛布団もシーツも、たとえ使っていなくたってメイドたちが毎日取り換えてくれている。だからいつだって、ベッドからはお日様の香りがしている。お母さまの香りが残っているはずない。
それでも微かに、お母さまの香りがしたのだ。その匂いの正体が何なのかはわからない。シャンプーなのか、リンスなのか、香水の類なのか、毎夜飲む紅茶なのか。でも確かに、私を抱き締めてくれた時に広がるあのふわりとした香りが感じられるのだ。
こうしていると自然に深い息が漏れる。両の瞼が勝手に落ちていく。揺れる尻尾と脚でパタパタとベッドを叩いた。こんなところを見られたら、きっと子供っぽいと思われてしまう。だから誰にも見られてはいけない。私だけの秘密の時間だ。
しばらくベッドを堪能した私は、名残惜しく思いながらも体を起こして這い出る。きっちりと原状回復を行って証拠を隠滅し、最後に足を向けたのはクローゼットの前だ。お母さまの部屋にあるのは二つのクローゼット。そのうちの右の方を迷わずに開ける。目当てのものはすぐに見つかった。
スーツや流行の服とは一線を画するデザイン。一目見れば、それが一体誰のためにデザインされたものなのかがわかる。多くの人のためではなく、世界でただ一人を輝かせるために用意された衣装。気高さと優雅さ、そこに可憐さと愛らしさを雑妙に編み込んだ、世界にただ一着の衣装。あの日のターフで誰よりも輝いて見えた、お母さまの勝負服。
何着か勝負服を持っていたらしいお母さまだけれど、手元に残しているのはこの一着だけだった。どうして残しているのかは知らない。前に訊いてみたことがあるけれど、照れくさそうにはにかむばかりで「キングには内緒」と教えてくれなかった。何か特別な思い入れでもあるのだろうか。
クローゼットからハンガーごと勝負服を取り出して、よく見えるように手前へかけ直す。ここ十年ほど、誰も着たことのない勝負服。年に数回クリーニングへ出されるものの、私が時折こうして眺める以外ずっとクローゼットに仕舞われている勝負服。けれどその輝きは、決して色褪せていないもののように思えた。生地がいいからなのか、仕立て方が上手いのか、あるいは大事に手入れしているからか。何が理由なのかはわからないけれど、ともかく私の瞳に映るお母さまの勝負服は今でもその鮮やかさを失わない。
一歩、二歩と下がって勝負服全体を視界に入れる。そのまま床に座り込んで目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、レース場のターフの上に流れる穏やかな風が勝負服をなびかせる光景。ひらりとスカートがはためく。ふわりとフリルが揺れる。ゆるりとリボンが舞い踊る。強くしなやかで逞しい二本の脚でターフに立つウマ娘の後ろ姿を一際輝かせるように。私はそれにただ魅入って、息を呑んで見つめ続けている。
やがてウマ娘がこちらを振り返る。艶やかな鹿毛の髪を、一瞬だけ吹いた強い風の中に躍らせて、ゆっくりと。光の加減かその表情を窺い知ることはできない。その口元は優しげにも、挑戦的にも思えた。その目元は和やかにも、力強くも思えた。その顔立ちはお母さまのようにも、そして鏡に映る私自身のようにも思えた。
ゆっくりと瞼を上げる。レース場の光景は消え失せ、ターフを行く風も吹き止んで、部屋の中には夕焼け茜色を受ける勝負服だけが残された。ほんの少し、その色が褪せたような気がする。それは、この勝負服を着ていたウマ娘が――あの日眩い笑顔で手を振ったお母さまが、ここにいないからだろうか。
「……よしっ」
立ち上がり、勝負服へと歩み寄る。元あった通りにクローゼットへ仕舞おうとハンガーへ手を伸ばしかけて、ふと思い留まった。引っ込めた手を今度は勝負服の袖へ伸ばす。指先で触れると不思議な感触がした。ウマ娘の勝負服用の特殊な生地を使っているからだろう。普段着る機会のあるどんな服とも違った手触りだ。けれどどういう訳か不思議と懐かしい感じがした。なんでだろうと考えて、でもすぐにそれもそうかと納得する。だって、子供の頃から何度もこの勝負服を引っ張り出しては眺めているのだ。慣れ親しんだ感触に懐かしくもなるだろう。
「……いつか、私も。――いいえ、きっとすぐに」
いつもと同じように呟いて、クローゼットを閉じた。静かに部屋を出て階下を目指す。もうそろそろ夕食の支度が終わっている頃合いだろう。階段を数段下れば、食欲をそそるいい香りが漂ってきた。早速お腹の虫がはしたなく鳴き始める。それを りつけながら階段を降り切って、ダイニングからキッチンを覗き、見つけたメイド長の背中に問いかけた。
「今日のお夕飯は何かしら?」
その日の夜は、いつもより早く帰ってきたお母さまと、久しぶりに就寝前のティータイムを楽しむことができた。
◇
観客席の外ラチから一番近いところに眩い笑顔を見つけた途端、私は自分でも信じられないくらい自然に、ありのままに、頬を緩めて手を振ってしまった。随分長く感じられたレース人生の中で、そんなことは初めてだった。
歓声がしている。大喝采がしている。割れんばかりに拍手が鳴り響いている。けれどそのどれも私の耳には入らなかった。いつものように勝った者の責務として観客席へ応えることも忘れ、私はただ一人のもとへ駆け寄った。広いレース場の中でただ一人、今はただあの子の声だけが聴きたかった。レース直後の疲労感もどこかへ忘れ去って、脇目も振らず一目散に彼女のもとへと駆け寄った。
「――キングちゃんっ」
彼女の名前を――愛しい我が子の名前を呼ぶと、ただそれだけで世界が鮮やかに彩られた気がした。春に花が開くように。夏に太陽が輝くように。秋に山が色づくように。冬に大地が白銀を纏うように。私の世界は無数の色彩で溢れていった。そうしてその只中に、娘は大輪の笑顔を咲かせていた。
外ラチを潜って観客席の柵の前に立つ。キングちゃんを抱えるメイド長が驚いた様子で目を見張っていた。無理もない。レースのあとでこんな風に勝手をするところなんて、誰にも見せたことない。私自身驚いているくらいだ。でも今は、身体が私の心のままに動いている。
キングちゃんが無邪気に私へ手を伸ばす。それへ益々破顔して、私は娘に応えようと手を伸ばし、その小さな手を握った。それから今度はキングちゃんを抱きかかえる。手を離したメイド長は一つお辞儀をすると、にこりとして「おめでとうございます」と言った。私はそれに何度も頷いて、「ありがとう」と笑う。
「おかあさま!」
胸の内でキングちゃんが私を呼んだ。小さな手でしっかりと勝負服を握り締め、ぐいぐいと身を乗り出そうとするキングちゃんを、私と目線の高さが合うようにもう一度抱き上げる。栗色の大きくて真ん丸な瞳を宝石みたいにキラキラさせて、キングちゃんは真っ直ぐに私を見ていた。ターフに流れる微かな風が揺らした艶やかな鹿毛の間に、きっとこれ以上に綺麗なものなんてないような笑みを零す。あんまり鮮やかで、輝かしくて、眩くて、私は思わず目を細めた。
「おかあさま、すごいです!」
真っ白な歯をニカッと覗かせて、興奮気味にキングちゃんはそう言った。小さな鼻から力強く息を吐き、お餅みたいな頬を真っ赤に染めて、キングちゃんはまだ拙い言葉をいくつもいくつも叫んだ。まだまだ小さな体の、その内にあるものを全て私へ伝えようとするように、何度も何度も笑った。その一つ一つに頷くたび、私はこれまでの人生で一番の幸せを噛み締めた。この身の内にこれほどの喜びがあったことを初めて知った。
今日この日のたった一つの勝利を、これほどまでに嬉しく思えたことなどなかったのだ。
「キングちゃん。――この勝利はあなたのものよ、キングちゃん」
きっと私の言葉は難しくて、可愛い娘にすべては伝わらない。でもそれでいい。この勝利は、私があなたに捧げるもの。あなたへの感謝。あなたへの祈り。あなたへの願い。
私のもとへ産まれてきてくれたキングちゃんに。私に歓喜と幸福の全てを与えてくれたキングちゃんに。私の愛しいキングちゃんに捧げる勝利。
あなたが二本の脚で歩いていく道が、どうか輝かしく素晴らしいものでありますように。
どれ程の困難が待ち受けようと、それすらも乗り越える眩いものでありますように。
両の手でしっかりとキングちゃんを抱き締める。擦り付けられた頬と、髪を撫でる小さな耳が、無性にくすぐったくて堪らなかった。