タイシンママの営むお花屋さんに、一年に一度やってくるキングとお母さまのお話。
その親子がやって来たのは、夏も盛りのお盆休みの頃、私の営む小さな花屋が繁忙期を迎えていたある日のことだった。
「ごめんください」
お昼頃から増えてくるお客さんのために店先の花の準備をしていると、そんな私に声がかかった。凛と澄んだ声音は決して強いものではなく、けれど不思議とよく通る音色で、引き寄せられるように顔を上げる。こちらを覗き込むようにして声をかけて来たのは、私とあまり歳の変わらない、一人のウマ娘だった。
やや明るい鹿毛を顔の右側から肩に流し、鮮やかな栗色の瞳で私を見つめるウマ娘の、端整な顔立ちにハッと一瞬目を奪われる。モデルや俳優と言われても納得してしまうその容姿には、どこかで見覚えがあった。はて誰かのそっくりさんだろうか、という思考を一度頭の隅へ押しやって、私は花の前に折っていた膝を伸ばす。ぺこりとお辞儀をして、お客様を出迎えた。
「いらっしゃいませ」
頭を下げた拍子に、そのウマ娘が小さなウマ娘と手を繋いでいることに気づいた。娘さんだろうか、ふわふわの鹿毛とまあるい栗色の瞳をした女の子は、私の方を興味津々と言う様子で見つめている。歳は私の娘――タイシンと同じか少し幼いだろうか。
私が顔を上げると、お母さんがぺこりと会釈を返してくれた。それを見ていた娘さんも、お母さんの真似をしてちょこんと頭を下げる。フリルのついたスカートをふわりと揺らし、ぴょこぴょこと小さなお耳を動かす娘さんを、お母さんは横目で見つめて微笑んでいた。愛らしい仕草に私の方までつい頬を緩めてしまう。
「本日はいかがされましたでしょうか」
日差しの強い店先から店内へと案内しつつ、用件を尋ねる。娘さんの歩幅に合わせて歩くお母さんは、キラキラした目で花を眺める娘さんを見守りながら答えた。
「お墓に供える花束を見繕っていただきたいのです」
季節柄の注文に私はさっと頭の中で考えを巡らせた。花束を予約されたお客様がいらっしゃるのは、今日はお昼前から連続している。そちらはおおむね準備も済んでいるので、まだしばらくは時間に余裕があった。
「かしこまりました。お時間を三十分ほどいただきますが、よろしいでしょうか」
「ええ。よろしくお願いいたします」
それから、予算や供養をされる方、色の好みなどを聞き取っていく。昨年亡くなったご主人のお墓参りなのだと、お母さんは答えた。話を聞きながら、何だか他人のような気がしなくなる。私も三年前に夫が他界して、彼女と同じようにタイシンと二人きりの母子家庭だった。
ひと通り聞いておきたいことを聞き終えて、私は早速花束の作成に取り掛かる。
「三十分ほどお待ちいただきますので、お時間経ちましたらまたこちらへいらしてください」
待っていてもらう間、近くのカフェでも紹介しようと私が考えていると、お母さんはどこか迷う素振りを見せた。チラリと横を向いた目が娘さんの様子を窺う。その娘さんは、さっきから店先の花に夢中なようで、飽きもせず真ん丸の瞳を向けていた。
ふっとお母さんの唇から息が漏れる。
「……こちらで待たせていただいてもよろしいですか? 娘が随分お花を気に入っているようなので」
構いませんよ、と私は笑って頷いた。脳裏によぎるのはタイシンのことだ。お店に連れて来ると、タイシンはいつも飽きもせず花を眺めている。
仲良く並んで鑑賞会を始めた親子に気を配りつつ、花を見繕い花束にしていく。時期も時期なので、墓前に供える用の花は多めに仕入れてある。すぐに十分な量を見繕うことができた。
「おかあさま、みてくださいっ」
手に取った花を確認してもらおうとしたその時、娘さんがはしゃいだ声でお母さんを呼んで手招いた。小さな手が指さす先には、バケツに差さって大きな白い百合が咲いている。タイシンのお気に入りなので、季節になるといつもお店に置いていた。その百合を、娘さんはうっとりとして見つめている。
招かれたお母さんが、娘さんの隣に腰を下ろして目線の高さを合わせ、同じように見惚れていた。
「綺麗な百合のお花ね」
「ゆり、ですか? おにわには、ないおはなです」
「そうだったわね。――キングちゃん、百合のお花が気に入ったの?」
「はいっ」
元気よく返事をして頷いた娘さんに、お母さんは小さく吹き出して笑った。端正な顔立ちの大人な表情が、その一瞬だけは随分と幼く可愛らしいものになる。お母さんは愛おしげに娘さんの頭を撫でた。娘さんの方は照れた様子で、瞼を閉じて頬を緩めながら、お母さんに撫でられている。
……ほんの少し、胸の奥がちくりとした。
一しきり娘さんを撫でた後、お母さんは立ち上がり辺りを見回した。私を探していたらしく、目が合うと「すみません」と呼ばれる。作りかけの花束を手に、私は彼女のもとへと歩み寄った。
「百合も、何本か花束に入れてもらっていいですか」
私が選んだ花の中に百合は入っていなかった。私は頷いて、娘さんに一言断ってから、いくつか見頃の百合を選ぶ。
「お父さまにも見せてあげましょう」
不思議そうな表情の娘さんに、お母さんがそう言った。娘さんの顔がパッと明るくなる。
百合の花を加えて、茎や葉を切って全体を整え、落ち着いた風合いの包装紙で包む。約束した三十分よりやや早く仕上がった花束を手渡すと、親子は揃って笑顔を見せた。顔立ちや髪色もあるのだろうけど、本当によく似た笑顔だった。
「またのご来店、お待ちしております」
ずっと手を振り続ける娘さんと、そんな娘さんの手を引きながら花束を抱えるお母さん。よく似た色合いの尻尾を仲良く揺らして去っていく二人の後ろ姿を、しばらくぼうっと見送っていた。
◇
次の年も、また同じ時期に親子はやって来た。一年という時間の分大きくなった娘さんと、相も変わらずに仲睦まじく手を繋ぐお母さん。お父さんの墓前に供える花束を求めるところも去年と同じだった。
一際暑い日だったので、私は二人に缶ジュースを差し上げた。たまにお店に顔を出すタイシンのために、取り置きしてあるニンジンジュース。扇風機近くの椅子を勧めると、二人で仲良くジュースを傾けていた。花束を作り終わる頃、娘さんが空になった缶をわざわざ持って来てくれて、「ごちそうさまですっ」と真っ白な歯を見せて笑った。親子は楽しげに会話を弾ませながら、お墓参りへ向かって行った。
その次の年も、そのまた次の年も、親子は私のお店にやって来た。周りに何件かある花屋の中で、私のお店を選んでくれていることが嬉しかった。
そのうちに、私は親子とぽつぽつ会話をするようになった。そうは言っても一年に一度だけ会う相手なので、随分他愛もない内容だ。「今日は暑いですね」だとか、「この間の台風は大変でしたね」だとか、「今日はこんなお花がありますよ」だとか、パッとしない話題を振っていた。でも何だかんだと話が続いて、出来上がった花束を手渡してからもしばらく話し込んでしまったりした。
親子はいつも一緒だった。娘さんが小学校へ上がると、さすがに手を繋いだりはしなくなっていたけれど。それでも歩く時はいつも隣同士で、端から見ていてもわかるほど仲良くおしゃべりをして、年々そっくりになっていく笑顔を見せていた。
「できる限り、一緒にいてあげたいんです」
ある年にポツリと、お母さんはそう言った。それが何よりも優先すべき大切な約束だと言うように、店内の花を順に眺めている娘さんを見遣る瞳に強い決意を宿していた。仕事が忙しくてあまり一緒にはいられないのだ、という話は聞いていた。だからこそ、一緒にいられる時間は全て娘さんのために使ってあげたいのだと、お母さんは言った。
「娘の笑顔が一番ですから」
少し恥ずかしそうにしてはにかむ優しい表情を、眩しく見つめていた。
ずっと親近感はあった。初めて会った時に、母娘二人だけの家庭だと知って、それが私自身とタイシンと重なった。でも同時に、羨ましさも確かにあった。親子には、私とタイシンにはない仲の良さがあったからだ。楽しげに笑い合って歩いているところを毎年見てきた。翻って、私はどうだろう。最後に、タイシンとあんな風に笑いながら話ができたのは、いつだっただろう。亡くなったあの人のお墓を、二人で訪れたのは、いつだっただろう。よく冷えた缶のニンジンジュースを、並んで傾けていたのは、いつだっただろう。一緒にいられる時間を、全部タイシンのために使ってあげられたのは、いつだっただろう。そう思うと胸がキュッとなって痛かった。
……悪いのは私だ。忙しさを理由にしていた。亡くなった夫の分まで、母親として、タイシンを養うために働いているのだと、そんな言い訳をして。タイシンが、落ち着きのある、周りよりいくらか大人びた子なのをいいことに、側にいてあげたり、話をしてあげることを大切にしてこなかった。……タイシンが周りよりも大人びているのは、私が忙しくて家にあまりいないせいなのに。
あのお母さんのように、限りあるタイシンとの時間を大切にしていれば。我慢ばかりのタイシンに、せめて母親にくらいはわがままを言わせてあげていれば。あの親子を羨むこともなかったのかもしれない。
今となってはもう、タイシンとどうやって話せばいいのか、それすらわからない。
「レースの世界に行きたい」、そう言ったタイシンがトレセン学園に入学して、私がたった一人での生活に慣れてきた年のお盆。遠くに鳴くセミの声を聞いていると、いつものようにお母さんが現れた。「ごめんください」、と私を呼ぶ彼女の隣に、今年は娘さんの姿がない。
一体どうしたのだろう。少し不安に思いながら、注文の通りに花束を用意する。毎年のものと同じように、立派に咲いた百合の花も選んでおいた。親子が毎年注文するので、二人が尋ねてくる時期になると必ず用意するようになっていた。
「今日は、娘さんはご一緒ではないのですか?」
私が花束を作る間、娘さんと同じように、ニンジンジュース片手に店内の花を眺めていたお母さんへ、私はできるだけ何気ない風に尋ねた。前に聞いた話だと、娘さんは今年中学生になるはずで、もしかしたら部活で忙しくしていたりするのかもしれない。
私の質問にお母さんが何とも言えない表情をするのが見えて、しまったと思った。立ち入ったことを聞いてしまったかもしれない。すぐに謝ろうとしたけれど、私が頭を下げるよりもお母さんが口を開く方が早かった。
「娘は、トレセン学園に入学しました」
「……えっ」
あまりの驚きで目を見開いた私は、随分と間の抜けた声を発してしまう。偶然もここまで来ると、奇跡だとか、神様のイタズラだとか、そういう類のものに近い気がした。ともかく、お母さんの短い返答だけで、私はある程度娘さんが来ていない理由を察することができた。
「学園は寮生活ですので、娘は今も寮に。……お盆は帰ってこないそうです」
淡々と答えたお母さんだったけれど、伏し目がちにぼんやりと花を見つめる横顔に、隠し切れない寂しさが滲み出ていた。幼い娘さんと繋がれていた手は、今日は彼女自身の艶やかな鹿毛を、所在なさげに梳いている。眩い真夏の日差しとは対照的な、光量の小さい店内の照明が照らす姿に、どうしても私自身を重ねずにはいられなかった。
――「トレーニングあるから、お盆は帰らない」
数か月ぶりにLANEへメッセージが届いたのは、お盆も直前になった八月の頭。通知はその短いメッセージの一件だけだった。「二、三日でも家でゆっくりしたら」というメッセージは、さすがに送れなかった。第一、家に帰って来ても、タイシンはゆっくり過ごせないだろう。依頼の多いお盆の時期はずっとお店を開けている訳で、例えタイシンが帰って来たって、私が労わってあげられる訳ではない。それどころか、いつもみたいに家のことはタイシンに任せっきりになってしまう。体も心も休まったりはしないだろう。
結局、私は散々悩んだ末に「わかった」「体には気をつけてね」と、無難でパッとしない返事だけを返した。私とタイシンのやり取りはそれでおしまい。去年も、その前も、同じことを毎年繰り返している。本当は顔くらい見せてほしいけれど……そんな私の本心をメッセージにできるわけもなく、既読から動かないトーク画面をぼんやり眺めるばかりだった。
親子の間でも、タイシンと私と似たようなやり取りがあったのかもしれない。納得できると共に、意外にも思っていた。今まで見てきた――年に一度顔を合わせるだけの間柄ではあるけれど――お母さんと娘さんの仲の良さを思えば、お盆の、それもお父さんのお墓参りくらいは、顔を出しそうな気もしていた。
「うちの娘も、お盆は帰ってこないそうです。トレーニングが忙しいらしくて」
止まってしまっていた手の動きを再開して、ぽつぽつとタイシンの話をすると、お母さんは少し前の私と同じように驚いた表情を見せた。タイシンのことを話題に出すのは初めてのことだ。まして同じトレセン学園に通う競技ウマ娘だったなんて、彼女にとっても思いもよらない偶然だろう。
「……そうでしたか」
お母さんはさらに何かを言いかけたけれど、丁度そこへ予約のお客様がいらして、私たちの会話は途切れてしまう。幼子と手を繋ぐ夫婦から距離を置くように、彼女は店内の一番奥でフラワーアレンジメントを見ていた。接客を終えても、お互いにそれ以上会話が弾むでもなく、店内には私が花束を用意する音だけが響く。それも、十分もせずに終わってしまった。
「――お待たせしました」
「ありがとうございます」
代金と一緒に、空になったニンジンジュースの缶を受け取る。完成した花束とジュースの缶二本を交換するのは、いつもなら娘さんの仕事だった。今日は一人ぼっちの空き缶が一本だけ、並ぶものもなくカラリと乾いた音を鳴らす。
花束を受け取ったお母さんは、しばらくその出来を確かめるように、両の目を矯めつ眇めつしていた。それからもう一度律儀に頭を下げて、店を後にする。娘さんと並んで揺れていた鹿毛の尻尾が、今日は一人大人しく、夏の陽射しを鬱陶しそうにしながら遠のいていった。
「ごめんください」
あれから数日後、店頭から聞き覚えのある声に呼ばれて、私はハッとして手を止め顔を上げた。日差しを遮る庇の下に立ち、こちらを窺うウマ娘が一人。緩いカールのかかった鹿毛に陽が透けて、逆光で顔がわかりにくくなっていたけれど、一目で娘さんだとわかった。
私と目が合うと、娘さんは律儀に会釈をする。礼儀正しい子という印象は、特に小学生になってからは強くあった。お母さんと話している時は年相応に可愛らしい一面を見せるだけに、ふとした瞬間に大人びた対応をされるとドキリとしてしまう。
お母さんがいないからか、あるいは中等生になったからか、今日の娘さんは一段と大人びた雰囲気に見えた。その姿がどことなくタイシンに重なる。一瞬ぼうっとしかけた私は、慌てて接客モードのスイッチを入れた。
「いらっしゃいませ」
「ご無沙汰をしています」
出迎えた私に娘さんははにかんで答えた。育ちの良さを感じさせる柔らかな口元が、お母さんによく似ている。全体的に落ち着いた雰囲気を纏い、けれど勝気な目元の印象だけが育ち盛りの若々しさを帯びていた。
店内へと招きつつ用件を尋ねた私に、娘さんは迷いなく答える。
「花束を見繕っていただきたいのです。父の墓参りへ行きますので」
数日前とまったく同じオーダーに、私は目を瞬いてしばらく固まってしまった。余程おかしな顔をしていたのか、娘さんが怪訝な表情で私を覗き込む。慌てて接客用の笑顔を取り戻し、娘さんの注文を了承した。
待ち時間を伝えると、いつも通りに店内で待つと答えた娘さんに、今日もニンジンジュースを手渡した。よく冷えた缶ジュースをチビチビと傾けながら店先に並ぶ花たちを眺める娘さん。そんな彼女を視界の端に見ながら、花束を見繕う。折角だから、お母さんへ渡した時とは違った色合いにしてみようと、色違いの品種や別の花を選んだりもした。でも、真っ白な百合だけはいつも通りに、特によく咲いているものを選んで花束に添える。
ある程度形が整ってきたところで、フラワーアレンジメントを眺めていた娘さんへ、私は声をかけた。
「トレセン学園へ入学されたそうですね」
さらりと背中で鹿毛を揺らして振り返った娘さんは、短い返事と共に頷く。特に驚いた様子はなかった。
「ご存知でしたか」
「はい。数日前にお母さまがいらして、その時にお話を窺いました」
「……お母さまが」
ぽつりと呟いただけで、娘さんは難しい表情をして、輝きに満ちた栗色の瞳を伏せた。ある程度察することはできていたけれど、やはり二人の間に何かしら事情があるのは明白だった。そうでなければ、わざわざ日時をずらしてお墓参りになんて行かないだろう。
それ以上踏み込むことは、さすがに憚られた。代わりに、トレセン学園での様子を尋ねる。順調だ、と娘さんははにかみながら学園生活のことを答えてくれた。
他愛もない話をしているうちに、花束を作り終わる。空の缶と交換すると、娘さんはしばらくの間、しげしげと花束を見つめていた。やがて満足そうに微笑んで頷く。
「頑張ってくださいね」
店を後にする娘さんの背中へ声をかけると、軽い会釈のあとにひらりと手を振り返してくれた。いつもお母さんと並んで揺れていた鹿毛が、今日は一人シャンとして、でもどこか背伸びをした様子で歩いて行く。少し前には私を追い越したとはいえ、背格好はまだお母さんの方が大きい気がした。
……頑張って、の一言を、そういえばいまだにタイシンへ言えていないことに、今更ながら思い至った。
◇
「実は……娘とは、喧嘩中なんです」
寂しげな表情が自身を責めるように事情を教えてくれたのは、一年という時間が立ち止まる暇もなく流れ去ったお盆だった。
去年と同じように一人でお店を訪れたお母さんに、私は娘さんも来ていたことを話した。余計なことかとも思ったけれど、人伝でだって娘さんの様子を聞けた方が、お母さんも安心できるんじゃないかという考えの方が勝った。私が、チケットちゃんやハヤヒデちゃんのお母さんから、同じようにタイシンの様子を伝え聞いて安堵しているだけに、尚更。
お母さんは栗色の瞳を潤ませながら真ん丸に見開いた。花を選んでいた私のところまで、彼女が息を呑む音が聞こえてきたほどだ。けれど、すぐに長い睫毛を伏せってしまって、「そうでしたか」とか細く返事をした時にはすっかり困り切った表情をしていた。
「喧嘩中」の一言には、困り果てた彼女の、どうしたらいいのかわからないという感情がありありと滲み出ていた。
「レースの世界へ進むことに、大反対したんです。……どうしても娘が心配で」
ちびりちびり、差し上げたニンジンジュースを口にしながら、ぽろぽろと言葉を零すお母さん。短い相槌を打つたび、これまで以上に力がこもった。目の前で物憂げに話す彼女が、私自身に見えて仕方なかった。どうしても他人には思えなかった。
……心配でたまらない。心配で心配でたまらない。募る一方の心配が、今しも胸を引き裂いてしまいそうなほどに。
タイシンは、決して体の強い子ではなかった。季節の変わり目に体調を崩すことはままあった。周りと比べても明らかに食が細くて、小さい頃は吐き戻したりもした。身長も体重も、同学年の前の方から数えた方が早いくらいで、恵まれた体格とはいかなかった。
そんなタイシンが、レースを走る。ハヤヒデちゃんやチケットちゃんみたいな、あるいはもっとがっちりとしたアスリート体型の子たちと同じ舞台で走る。体格が全てではないけれど、でも体格があったら受けなくてよかったハンデだってある。小さな体でもそのハンデを受け止め、抗って、走り勝とうとするタイシンを想うと、どうしても不安でいっぱいになった。
でも……「大丈夫?」「無理してない?」なんて、訊けなかった。そんな資格、もう私にはなかった。今まで散々タイシンのことを、タイシン自身に任せてしまっていた。母親らしいことは何もできなかった。家で一人過ごすことの多かったタイシンに、声をかけることも、抱き締めてあげることもできなかった。……ほったらかしにしていた、そう思われたって仕方のないことだ。だから、そんな私が今になって心配したって、タイシンにとっては鬱陶しいだけだろう。「今更母親面すんな!」、タイシンだってきっとそう思う。
私にできるせめてものことは、タイシンに知られることのない場所で、タイシンに気づかれないように、タイシンの背中を見つめていることだけだった。
「――……あの?」
呼びかけられて我に返る。いつの間にやら深い思考に沈んでいたらしく、花束を作る手が止まっていた。私の異変に気付いたのか、お母さんが不安げに顔を覗く。容赦ない夏の陽射しが、物憂げな栗色の瞳に煌めいた。
大丈夫ですか、問いかける視線に頷き、一度花から手を離す。心を落ち着けようと軽く息を吸い、それがそのまま小さな溜め息として漏れ出た。くすんだ猛暑の空気に、目の前の白い百合だけが妙に鮮やかだ。
「……すみません。私も娘のことを思い出してしまって」
去年に引き続いて、柄にもなく娘のことを話した。私の内にある不安も、それを伝えないようにしていることも。そんな私のあてどない話を、お母さんは小さく相槌を打って、聞いていてくれた。
「心配な気持ち、よくわかります」
「でもきっと、娘にとっては大きなお世話なんです。……やはり、私の胸の内に、しまっておいた方がよかったのでしょう」
「……そう、でしょうか」
後悔の混じるお母さんの言葉には、簡単には頷けなかった。
お母さんは、私がタイシンにしなかったことを……してあげるべきだったことを、彼女の娘さんにしてあげているんじゃないだろうか。それが本来、母親のあるべき姿なんじゃないだろうか。そんな風にも思える。黙って見守る、なんて都合のいい言葉に騙されず、心配も不安もきちんと伝えようとしている。娘になんて声をかけたらいいのか、それすらわからずに何も伝えられなかった私より、余程母親としての責任を果たしているようにも思えた。
「……母親として、何が正しいかなんて……今でも何もわかりませんから」
呟いた言葉に、お母さんは難しい顔をして考え込む。私たちの間に流れる空気は、べたつく夏とは正反対に寒々しいものだった。
話し込んでしまったせいで、花束の完成は随分と遅くなった。頭を下げようとした私に、お母さんは「こちらこそ、話に付き合わせてしまって、申し訳ありません」と言って手で制した。花束を受け取ったその表情からは、すでに物憂げな陰が取り払われている。
「今年もきっと娘が来ますから……今日のことは、どうか秘密にしておいてください」
最後にそれだけ言い置いて、お母さんはお店を後にした。手入れの行き届いた髪と尻尾が、真夏のただ中で揺れる。親近感と羨望が混じる背中へ頭を下げ、「またのご来店をお待ちしております」と私は彼女を送り出した。
お母さんの言った通り、その年も娘さんは数日後に私のお店へやって来た。
◇
花屋を営むようになってから、長らく請け負っている仕事がある。それが、レースに出走するウマ娘への、贈答用の花束やフラワーアレンジメント、フラワースタンドの製作だ。
ウマ娘に花束を贈りたい、という要望は多い。ウマ娘レースを取り仕切るURAでもその辺りは承知しており、混乱を避けるためにある程度のルールを設けていた。具体的には、花束のサイズや値段について、メイクデビューや未勝利、一勝から三勝クラス、OP以上、重賞、GⅠといったレースの格付けごとに規定が存在する。フラワースタンドのように大きなものは、GⅠに出走するウマ娘にのみ贈ることが許可されていた。
私のお店の立地だと、東京や中山、大井の開催日にはこうした贈答用の花束の依頼が多い。反対に、地方での開催となる夏の間は、この手の注文はほとんどない。
ただ、お盆も後半に差し掛かったその日、私は珍しく贈答用のフラワースタンドを用意していた。一年ぶりに娘さんが訪ねて来たのは、丁度その日だった。
「ごめんなさい、お忙しいですよね」
そう言ってお店を後にしようとした娘さんを引き留める。実を言うと、今日あたりにご来店されるのではと思って、フラワースタンド作りの傍らである程度準備を進めておいたのだ。花屋としての勘が、見事に的中した形だ。
一旦フラワースタンドを作る手を止めて、娘さんが注文した花束の用意に取り掛かる。店内で待つ娘さんに例年通り冷えたニンジンジュースを手渡すと、彼女は眉を八の字に下げて苦笑した。
「よく考えたら、きちんと予約の連絡をするべきですよね。……つい、今までの癖で」
申し訳なさそうにする娘さんへ首を振る。
「構いませんよ。トレーニングの御都合もありますでしょう。お供えのお花なら、この時期は充実させていますから、予約なしでも対応できます」
またお好きな時に来てください。私の言葉に、娘さんは「ありがとうございます」と頭を下げた。
選んでおいた花を整え、花束へと仕上げる間、娘さんは店内を見て回っていた。しばらくすると、その興味は私が作っていたフラワースタンドに移ったようだった。作りかけの、人の背丈ほどもあるフラワースタンドを、しげしげと見つめて観察する娘さん。真剣そのものの横顔を見遣りつつ、今年も立派に咲いた百合の花を包んで、花束を完成させた。事前にある程度準備していたからか、十分もかかっていない。
出来上がった花束と空の缶を交換する際に、娘さんが尋ねた。
「あちらのフラワースタンドは、ウマ娘への贈答用ですか?」
やや驚いてパチパチと瞬きをした。作りかけのフラワースタンドには、まだウマ娘の名前などは入っていない。勝負服の色合いをモチーフにして花が彩られているだけだ。
「ええ、そうです。よくおわかりになりましたね」
「レース場ではよく見かけるもので。それに……見覚えのある勝負服のデザインに、よく似ていたものですから」
きっと、娘さんも知っているウマ娘だったのだろう。贈り先のウマ娘はトゥインクル・シリーズの一つ上、ドリーム・トロフィー・リーグで活躍していたウマ娘で、先日現役を引退し、明日が引退ライブになっていた。フラワースタンドの依頼は、そんなウマ娘の勝負服を担当したデザイナーからで、かれこれ十年近く御贔屓にしてくださるお得意さまだ。その辺りの事情を掻い摘んだ私の話を、娘さんは神妙に聞いていた。
私の話を聞いた後、娘さんはもう一度フラワースタンドを見つめる。作りかけの小さな花園を映していた瞳が、やがて私の方を見た。真正面から目にした栗色の瞳に、純真無垢な感動の光が宿っている。
「見事なフラワースタンドですね」
「ありがとうございます。――受け取る方にも、喜んでもらえるとよいのですが」
「きっと喜ばれます。それは、人それぞれ好みはあるでしょうけれど。でも、綺麗なお花をいただけたら、それだけで嬉しいじゃないですか」
娘さんはそれがさも当たり前のことのようにさらりと答えた。けれど聞いていた方の私は、ハッとしてしまう。シャンとして鮮やかに咲くフラワースタンドと、大事そうに抱えた色とりどりの花束。それぞれを交互に見つめた後、娘さんは柔らかに微笑んだ。潤んだ唇が、「やっぱり、綺麗」と呟く。
――「かあさんのおはな、どれもみんなきれいだね!」
遠い昔の情景が、目の前の娘さんに重なって、フラッシュバックした。まだ、お店を開けて、それほど時間が経っていない頃だったと思う。夫を亡くして、タイシンと二人きりの生活にようやく慣れた頃だったと思う。並んだバケツに咲く花園の、その只中で、一際眩しい笑顔を見た。店先に並ぶ花がタイシンのお気に入りで、いつも飽きもせずに眺めていた。胸に焼きついて忘れ得ないはずの記憶を、今更ながらに思い出した。
「――あのっ」
それでは、と言って店を後にしようとした娘さんを、私は呼び止める。踵を返しかけた娘さんは、キョトンと不思議そうな顔をして、また私の前に立った。わざわざ引き留めたものの、すぐに言葉が続かなかったせいで、私と娘さんの間に妙な沈黙が流れる。
やっとの思いで言葉を見つけて、じめつく季節になぜか乾いた口を開いた。
「……もしも、疎遠な母親から花束を受け取ったら……それでも嬉しいでしょうか」
栗色の瞳を、娘さんは真ん丸に見開いた。数瞬遅れて、なんてことを尋ねてしまったのだ、と気づいても遅い。娘さんもまた、ここ数年はお母さんと喧嘩中で、距離を置いているのだから。
ごめんなさい、と慌てて取り消そうとした私より先に、娘さんが動揺の表情を穏やかにした。私の事情を察してくれたようにも思える。「そうですね」と呟いて長い睫毛を伏せ、娘さんはしばらく考えるような仕草をした。
「……嬉しい、と思います」
答えはやや歯切れの悪いものになる。娘さん自身もよくわかっていない、という様子だった。戸惑いと申し訳なさをない交ぜにして、眉が下がる。
「実はその……母とは喧嘩中といいますか。今ちょっと微妙な感じで、距離もあって……」
去年のお母さんと同じことを娘さんは言った。伏せった睫毛の間に覗く瞳が、どこか悲しげに映る。でも、娘さんは話すことを辞めなかった。
「今の母が、私に花束をくれるとは、思えません。でも……そうだとしても……」
軽く握った拳を口元に当て、眉間にうっすら皺を寄せる娘さん。誰も解いたことのない難問に挑むように、けれどその難問は必ず自分で解かなければならないのだというように、真剣に考えこむ。やがて一つ納得した様子で、二、三と小さく頷いた。サイドテールとリボンが揺れる。顔を上げた時、娘さんの表情は確信に満ちて、晴れやかだった。
「例え疎遠になっていたとしても。母から花束を受け取ったら、嬉しいです」
それが真実の答えだと、自信たっぷりに娘さんは笑った。チラリと覗いた白い歯が、心の底から嬉しそうに見える。当の私は、胸の前で手を重ねて、娘さんの答えを聞いていた。
「……そう、ですか」
短い返事を精一杯搾り出す。少し、笑えていたと思う。
ありがとうございます、と二つの意味で頭を下げてお礼を述べ、娘さんを送り出す。
「娘さん、きっと喜びますよ」
律儀に軽い会釈をした娘さんは、最後にそう言い残して、真夏日の下を歩いて行った。
数日後のお盆休み最終日、店のメールアドレスに一通のメールが入っていた。フラワースタンドを注文してくださった勝負服デザイナーさんからで、いつも通りに出来栄えの感想と、感謝の言葉が丁寧に綴られていた。今回はその下に、「伝言です」と前置いて、もう一文書き加えられている。
『素敵なフラワースタンドをありがとうございます』
言伝は、フラワースタンドを贈ったウマ娘からだった。添えられた画像データを開くと、勝負服姿のウマ娘がフラワースタンドと並んで笑っていた。満開の花と、満面の笑み。これを限りに一線を退く少女は、目元にうっすらと涙を見せながらも、晴れやかな表情を見せていた。
――「きっと喜びますよ」
娘さんの言葉が頭の中で何度も反芻された。少女の笑顔と、傍らに置いた花束を交互に見遣る。今日はお昼でお店を閉めて、夫のお墓参りに行くつもりだった。
メールを閉じてパソコンの電源を落とす。かけていた眼鏡と交換で花束を手に取った。
「――……よしっ」
シャッターを閉じたところで一つ決心をして、墓前に供える花束を片手に店を後にした。
私の決心が形になったのは、結局年も暮れる頃になってからだった。
◇
再び季節が巡ったお盆の季節は、ここ数年でも一番の暑さになっていた。いつもは涼やかな表情をしているお母さんも、今日ばかりはじっとりと汗をかき、お店に入るなり額をハンカチで拭っていた。店内は冷房が効いているので、この季節は戸を閉じると涼むことができる。
予約のお客様用にフラワーアレンジメントを準備していた私は、店内で待つというお母さんにいつも通りニンジンジュースを差し出す。よく冷えた缶をいつもより勢いよく傾けたお母さんは、店内に据え付けた小さなテレビに目線を向けていた。丁度、夏の甲子園の中継が映っている。
「野球、お好きなんですか」
「ああ、いえ、そういう訳では」
お母さんに尋ねられて、私は首を振った。スポーツにはあまり興味がなかった。野球のルールも随分怪しい。甲子園の中継がついていたのは、少し前にやって来たお客様のお子さんが見たがったからだ。困ったように笑いながら花を選ぶ親御さんには構わず、お子さんは釘付けになって中継を見ていた。
訳を手短に話すと、お母さんは「そうでしたか」と頷いて、またテレビに目を向ける。熱心な様子もなかったけれど、目を離すこともしていなかった。何とはなしに流しっぱなしにしていた私も、時折顔を上げて中継を見る。吹奏楽と応援団による、気合いの入った声援が送られていた。灼熱の盛り上がりを見せるスタンドとは正反対に、相対するピッチャーとバッターの雰囲気はキリキリと張り詰めていく。引き絞られた弦のような空気が画面越しに伝わって来て、思わず固唾を飲み手を握った。
素早いモーションからピッチャーが白球を放る。伸びてくる球を、バッターも迎え撃ち、フルスイング。すわ、ボールは捉えられたように見え、バットから快音が響くかに思えた。けれど白球はそのままキャッチャーの手に吸い込まれる。変化球だろうか。見事空振りを獲ったピッチャーへ、共に守るチームメイトがグローブを叩いて拍手を送る。一方のバッターへも、スタンドから応援が降り注ぎ、ベンチから檄が飛んだ。
一球一球の勝負をお母さんは黙って見つめている。相変わらず、目線に熱心なところはない。見入っている風でもない。ただ、話しかけることもなかったので、私はそのままアレンジメント作りを進めた。
包装紙で飾り付け、依頼された内容のメッセージカードも挿し、できあがったフラワーアレンジメントをテーブルの端に置いておく。受け取りのお客様がいらっしゃるにはまだ時間の余裕があった。私はそのまま、お母さんが注文した花束作りを始める。
指定された色合いに合わせて花を見繕っていく。予算丁度くらいまで花を選び、最後に大きく咲いた百合を手に取る。茎や葉を切り揃え始めたところで、フラワーアレンジメントを受け取りにお客様がいらした。完成した花籠を手渡し、代金を受け取る。ふわりと温和に笑ったお爺さんは、お店を出る前に流れていた甲子園の中継をしばし眺めた。お母さんと目が合うと、お互いに小さく会釈をしていた。
ウキウキした足取りのお爺さんを見送り、花束作りを再開する。鋏の音の合間に、甲子園の応援がBGMとして響く。時折歓声が上がるとやはり気になって、手を止め画面を見たりしていた。
結局、いつも通りに三十分近い時間をかけて花束を完成させた。私が手を止める気配を察知したのか、お母さんは甲子園の中継から目を離す。
「こちらでよろしかったですか?」
「ええ、ありがとうございます。――いつも、素晴らしい出来栄えですね」
完成した花束をしばらく見つめて、お母さんはしみじみとそう言った。ありがとうございます、とはにかんだ私へ、彼女も薄く笑う。
丁度その時、点けっぱなしのテレビから一際大きな歓声が聞こえて来た。反射的に私もお母さんも画面へ目を向ける。試合が大きく動いたようだ。二点を追っていたチームがランナーを溜めて、そしてバッターには強打という触れ込みの三番を迎えている。一打同点、逆転という場面になっていた。当然のことながら、バッターを応援する声が大きくなる。スタンドの吹奏楽と応援団も一段階ギアを上げ、正に轟くような応援を繰り広げた。合間に混じる「頑張れー!」「頼んだぞー!」という声もマイクが拾っている。それに応えるように、バッターはニヤリと自信に満ちて笑った。
「応援の声がすごいですね」
呟いた私の言葉に、お母さんは曖昧に頷くだけで、あまり反応が良くなかった。剛腕ピッチャーに一人相対するバッターを見つめ、彼女は何某かを考え込むように難しい顔をする。険しさを増した目線の先でピッチャーが一球目を投げた。バッターの鋭いスイングは、一点も譲るまいとする渾身の速球を捉えず、審判が「ストライク」をコールした。
張り詰めた息をゆっくり吐くと、お母さんは困ったように眉を下げた。
「自分の期待を、希望を……夢を、誰かに託すのが応援です。……私は時々、それがとても身勝手で無責任なことのように思えてしまって」
だから、声を枯らすほどに一生懸命、誰かを応援できない。心底困った表情を見せてお母さんは苦笑いした。そうして穿ったことを考えてしまう自分が、嫌で嫌で堪らない。そんな風にも見えた。
お母さんの言葉は、私にはあまりピンとこなかった。でも、それを「そんなことありません」と言えるほどの経験も持ち合わせていなかった。目の前のテレビを見つめる。そこに映る三番バッターのように、滝のような声援を背にした経験などない。自分の何十倍、何百倍もの夢を託された経験もない。
ギチリ。バッターがバットを握り直すと、そんな音がした気がした。自信に溢れた表情とは裏腹に、両の手が微かに震えていたように見える。緊張、責任、重圧、そういうものが両の肩に掛かっている。
託された期待、信頼、希望……数多の夢は、一体どれだけの重さがあるのだろうか。
膝元に伸びてきた一球をバットが弾く。これでストライクは二つ。追い込まれた。額に汗を滴らせるバッターへ、ここで声を枯らさんばかりに応援が響く。反対に、両の手を握り締め、祈るようにグランドを見つめる観客の姿もあった。
お母さんはなおもポツリと口を開いた
「私の声が重荷になってしまったら……そう思うと、怖いです」
その言葉には共感できるものがあった。私も同じようなことを、タイシンに対して思っていたからだ。と同時にようやく気づく。きっと今の話は、お母さんにとっては娘さんに対する想いなのだろう。
ただでさえ厳しいレースの世界に挑む娘へ、どんな言葉をかければいいのか。応援も、その反対に心配も、どちらもが娘にとっての重荷になるような気がして。だから私はずっと、タイシンには極力何も言わないことを選んで来た。言葉が娘を曇らせるのなら、初めから何も告げないことを是とした。そして多分お母さんは、反対に言葉をかけることを選んだ。ただし、応援の言葉を除いて。それはきっと、話を聞く限り、応援の言葉の方が娘さんの重荷になると思ったからだろう。
大声援の中、際どいところへ放たれた一球をバッターが見送る。どうだ、そう言わんばかりにキャッチャーがぴたりとミットを止め、ピッチャーもその行方を目で追った。しかし、審判は腕を上げず、ボールと判定する。この土壇場で素晴らしい選球眼をバッターは見せていた。
「……お気持ちは、とてもよくわかります」
私が頷くと、お母さんはテレビから目線を外して、微かに目を細める。ずっと同じことを思ってきた、そう言った私の言葉に長い睫毛を伏せて、鮮やかな栗色の瞳を半分ほど隠す。去年までなら、話はそこで終わっていたかもしれない。でも今年は、それより他にも、伝えたいことがあった。
「ですが今は……伝えてよかったと思っています」
俯いた顔を上げて、お母さんは目を見開く。輝く瞳が揺れていた。私はその目を見つめ返し、去年の暮れのことを思い出す。
去年の年末、私は初めてタイシンのレースを観戦した。今までもテレビの前では見守って来たけれど、レース場へ足を運ぶのは初めてのことだった。そして折角だからと、初めてタイシンのために花束を用意した。タイシンは私がレースを観に来ることを嫌がるから、来ていることがバレないように、タイシンには内緒でトレーナーさんから渡してもらった。でも、タイシンにはバレバレだったみたいで、その日の夜には「花束ありがとう」と短いメッセージが来た。
――「……応援してくれて、ありがと。ちゃんと……嬉しかったから」
年末に帰って来た時も、その時の話をしてくれた。わざわざ食事の手を止めて、照れくさそうに話す表情を思い出す。溢れそうになった涙を懸命に堪えながら、タイシンと二人でご飯を食べたことも。
――「頑張って、タイシン」
学園に戻るタイシンに、初めてそう伝えることができた。心の底から、まるで子供みたいに純粋に、そう思えた。タイシンは少し驚いたみたいだけど、ちょっとだけ笑って「ありがとう」と手を振った。
……私は、やっぱりダメな母親だった。そう思う。私の言葉が重荷になるから、なんて思い上がった決めつけをして。それを、タイシンと連絡を取らない言い訳にしてきた。でも、タイシンは私が思っていたよりずっとずっと、強い子だった。強い子になった、というのが正しいのかもしれないけれど。小さくも逞しい体は、今更私一人の応援を受け止めたくらいで、重荷に感じたりなどしないだろう。
流れかけた沈黙を破って、テレビから一際大きな歓声が響いた。私もお母さんも再び画面に目を遣る。カメラは、鋭く伸びた白球がフェンスの際まで飛んでいく様子を捉えていた。外野手の合間を綺麗に破った打球。どうやら先程のバッターが、ついにピッチャーの投球を捉えたらしかった。
カメラが切り替わり、ホームへ駆け込んでくるランナーの姿を映す。一人、二人、危なげなく帰還して同点。そして三人目も三塁を蹴って走ってくる。そこへ、外野からの送球も返ってきた。土にまみれたユニフォームと、白球が並んでホームへ。ランナーが滑りこむのと、キャッチャーのミットが伸びるのはほとんど同時だった。一瞬のプレー。しかし審判の判断は早かった。両腕を広げるジェスチャーを繰り返す。セーフだ。一挙三得点を挙げる大逆転劇となった。
スタンドと言わず、ベンチと言わず、選手と言わず、観客と言わず、あらゆる場所であらゆる人たちが歓声を上げ、大きな拍手を送る。その真っ只中、二塁まで進出した三番バッターが高々と拳を突き上げた。その顔には真夏の太陽にだって負けない、眩い笑顔が浮かんでいた。
逆転劇を見届けたお母さんは、改めて花束のお礼を述べて、そのまま店を後にしようとした。冷房の効いた店内から出て、酷暑の店先までお母さんを見送る。丁寧に会釈をしたお母さんへ、私はもう一度声をかけた。
「――あの、花束をお渡しになるのは、いかがでしょうか」
私の言葉にお母さんは不思議そうな顔をする。言葉が明らかに足りていなかったので、私は慌てて付け足した。
「応援の気持ちに花束を贈られる方は、たくさんいらっしゃいます。もし、直接お伝えになるのが難しいようでしたら、花束はいかがでしょうか。それでしたら、私もお手伝いが――」
そこではたと気づく。これでは完全にお店の売込みだ。あまりにも後手後手で思い至る自分に嫌気が差しつつ謝る。
「すみません、これではお店の売込みですね……」
「いえ……ふふっ」
首を振ったお母さんは、花束で口元を隠しながら小さな笑い声を零した。そんな風に笑うお母さんを見るのは、思えば随分久しぶりのことだった。
「お心遣い、ありがとうございます。その時には、ぜひあなたに。――あなたのお花は、色んな方を笑顔にしますから」
お母さんはそう言って笑って、ひらりと手を振り店を去っていった。
繁忙期を乗り切り、お盆休みも最終日になった。例年通りに今日は午前で店を閉め、午後は夫のお墓参りに行くことにしていた私は、墓前に供える花束用の花を見繕っていた。
大きな百合の花を手にした時、カラリと軽快な音がした。冷房を効かせるために閉めていた店のドアが、丁寧に開かれる音だった。手元にまとめていた花を一旦置いて、店先を振り返る。
「いらっしゃい――」
お客様を出迎える言葉が、途中で途切れてしまった。驚きの余り開いた目と口が塞がらない。私はその場で固まって、店先を――たった今、開いたドアを律儀に閉めてくれた人影を見つめていた。
肩にかからない、はねっけの強い鹿毛。ピンと張った大きな耳。ツンと吊り上がった勝気な瞳は、私と同じ澄んだ蒼の色。小柄な背丈は、私とさして変わらない。
見間違いようはない。店先に立って、どこかソワソワとしているのは、私の娘――タイシンだった。
「――えっと……ただいま」
タイシンの言葉にハッとして、私はようやく体の自由を取り戻した。ややもつれそうになりながらも、なんとか店先まで駆け寄り、タイシンの前に立った。でも、あんまり突然のことで、すぐに言葉は出てこなかい。
「タイシン、どうして」
「……ちょっと遅めのお盆休み、だから」
トレセン学園は今、夏合宿期間のはずだから、休養日をもらったということだろうか。
気恥ずかしげに髪を梳きながら、タイシンはなおも言葉を続ける。落ち着かない視線が、お店の中と目の前の私を行ったり来たりしていた。
「その……たまには一緒に、父さんのお墓参り、行こうと思って」
いいかな。窺うように尋ねたタイシンへ、一も二もなく頷いた。何度も何度も頷いた。断る理由なんてどこにもない。トレセン学園に入学してからはお墓参りに行けていなかったから、きっとあの人も喜ぶはずだ。
「――おかえりなさい、タイシン」
店の中にタイシンを招き入れる。よく冷えたニンジンジュースが丁度二本残っていて、二人で熱さを紛らわせた。私が花束の用意を再開すると、タイシンはどこかゆったりとした表情でその様子を見つめていた。そして半日だけの営業を終え、二人で店仕舞いをしてお墓参りに向かった。実に六年ぶりの、家族が揃ったお墓参りになった。
◇
「――母さん、お客さん」
店の奥で帳簿の整理をしていた私は、店先から呼ぶタイシンの声に顔を上げ、かけていた眼鏡を取った。お店の方へ出ると、真新しいエプロン姿のタイシンが、暑さ続く外から人影を一人案内している。カンカン照りの真夏日を逆光にして立つのは、やはり一年ぶりに顔を合わせるお母さんだった。
いつも通りにお墓参り用の花束を承り、準備を始める。お母さんは、手渡したニンジンジュースを片手に、お店の中を見て回っていた。その様子を、私を手伝ってくれるタイシンは、時々チラチラと窺う。私のお店に、私とタイシン、そしてお母さんの三人が一堂に会しているのは、なんだか不思議な感覚がした。
「――娘さん、今年は帰っていらしたんですね」
選んだ花を確認して頷いたお母さんが、水替えをしていたタイシンをチラリと見遣ってそう言った。大学部になり、お盆の間は帰って来て店を手伝ってくれていることを話す。お母さんは穏やかに笑って、私の話を聞いていた。
「大学に通いながら、レースも続けていますし……忙しいのは、これまでと変わらないみたいですけれど。でもお盆くらいは、一緒に夫のお墓へ手を合わせたいって、そう言ってくれて」
どうして急に、とは思った。でもタイシンの中で何か思うところがあったのは伝わって来て、そしてそこには特段踏み込まないことにした。照れたように「ちょっと色々考えたっていうか……」と言い淀んだ横顔だけで、十分すぎる気がした。それに、ただ親子揃って過ごせるだけで、私はこれ以上ないほどに嬉しかった。
今も、休んでいればいいのに、店を手伝ってくれている。こうして二人で店にいるのも、思い返せばタイシンが小学生になる前以来だろうか。
そうでしたか。短く答えて頷いたお母さんは、改めてタイシンの方を見つめていた。たまたま目が合うと、タイシンはぎこちなく会釈をする。それに、お母さんは上品に笑って返した。
「……旦那様も、きっとお喜びになるでしょうね。あんなにしっかりされた娘さんをご覧になって」
「はい、きっと喜びます」
穏やかだけれど、時折大袈裟なところがある人だったから。もしかしたら墓石から飛び出るくらい、喜んでくれるかもしれない。多分去年も、それくらい喜んでいたはずだ。
全体を整えながら、選んだ花を花束にしていく。私の手元を静かに見つめていたお母さんは、ふと思い出した様子で、遠慮がちに口を開き尋ねた。
「あの……娘は今も、毎年お墓参りに来ていますか」
「……えっ」
私は驚いて顔を上げた。お母さんは困ったように眉を下げ、瞳を揺らしている。
娘さんの話をお母さんにするのも、また反対にお母さんの話を娘さんにするのも、このところは控えるようにしていた。お母さんも娘さんも、多分お互いが私の店に来ていることは知っていたのだろうけれど、わざわざ尋ねてくるようなこともしなかった。
はたと考えたけれど、私は頷いた。娘さんから特に口止めはされていなかったし、お店に来ていることくらいは伝えてもいいだろうと思った。
お母さんは「そうですか」と小さく呟いて、目を閉じた。瞼を落として、しばらく何も言わずに考え込む。私は静かにその端整な顔立ちを見つめていた。
やがて、お母さんはゆっくりと瞼を上げた。整った睫毛の間に見えた瞳は、もう惑ってはいない。ただ、どこか緊張した雰囲気は残っていた。それはまるで、想い人に告白することを決意した年頃の少女のような、久しくお目にかかっていない表情だった。でもとても強い決意――丁度、私がタイシンへ花束を渡そうと思った時のような決意を、心の内へ宿したように見えた。
花束を包み終わり、空になったニンジンジュースの缶と交換する。店先まで見送った私を振り返り、お母さんは照れくさそうにはにかんで言った。
「来年は……娘と一緒に来れるように、頑張ってみます」
娘がいいと言ってくれるか、わかりませんけど。自信なさげに眉を下げた表情へ私は一も二もなく頷いた。何度も何度も頷いた。例え喧嘩中で離れていても、お母さんも娘さんも、確かにお互いのことを想っていた。
「いつでもお待ちしています。――きっと旦那様もお喜びになりますよ」
仲睦まじかった二人を知る者として、心の底からそう思えた。それが、決して叶わない願いだとも思わなかった。
一礼して店を後にするお母さんへ、私も深々と頭を下げる。むせ返る風にそよぐ艶やかな鹿毛を、店先に並んだ花たちも見送っていた。
◇
一年なんて、あっという間に過ぎていく。
今更、私の生活が大きく変わることなんてない。朝は早く起きて、朝食もそこそこに家を後にし、自分の店へと向かう。週に何度かは市場へ花を仕入れに行って、そこから店に戻り、開店前の準備。店を開ければ、あとは一日中接客と花の手入れ。お昼も軽く摘まむだけで済ませて、基本はずっと立ったまま。店を閉めると一日の収支を確認して、明日の予約を確認してと、しばらく雑務が続く。アルバイトの子も入ってはくれているけれど、一日の半分以上は私一人で切り盛りしている。タイシンが産まれるより前から続けて来た、私の生活だ。
今更変わったりしない。でも……ほんの少し、それこそ小さな花がたった一輪開く程度の変化はある。
時々――月に数回の頻度だけれど、タイシンとお互いの近況を報せるようになった。夏と冬には、必ずタイシンが家に帰ってくるようになった。頻繁ではないけれど、タイシンが私の前でも笑うようになった。
多分その多くはタイシンの成長の証で、私が何か変わったわけではないのだと思う。でも一つ、タイシンを心の底から応援できるようになったこと。これだけは、私の中で変わったことかもしれない。
今でも心配はある。レースを見るたびハラハラしている。無理だけはしないで、といつも思っている。でもそういう感情とは別に、一度レースが始まれば、研ぎ澄まされた末脚で食らいついていく姿に、両の手を握り締めて「頑張れ」と声援を送ることができた。
変わらない日々と、ほんの少し変わっていく日常。それを繰り返しているうちに、一年なんてあっという間に過ぎていく。
そして――それはきっと、私だけに限ったことではないはずだ。
「ごめんください」
その親子がやって来たのは、夏も盛りのお盆休みの頃、私の営む小さな花屋が繁忙期を迎えていたある日のことだった。
遠くにセミの声が響く中で、店先から聞こえて来た明朗な声は、凛と澄んだ真っ直ぐな響きをしていた。花の手入れをしていた私は、並んだバケツの前から顔を上げ、店先に目を向ける。眩い真夏の光を背景にして、よく似た雰囲気のウマ娘が二人、そこには立っていた。
「いらっしゃいませ。――お待ちしていました」
お母さんと娘さん、私の待ち望んでいたお客様を笑顔で迎える。並んで立つ二人は、まるで示し合わせたように揃って会釈をし、淑やかな笑みで答えた。
墓前に供える花束の注文を承って、三十分ほど待ち時間があることを伝える。親子はチラリとだけ顔を見合わせ、そして「お店で待たせてください」と娘さんが答えた。私は冷えたニンジンジュースを二人分手渡し、花束用の花を選び始める。
私が花を見繕う間、二人はいつかのように、並んで花を見ていた。あの頃と比べて、娘さんの背丈はすっかりお母さんを追い越してしまっている。静かに肩を並べていると、二人の間にわずかな距離感と、ほんの少しのぎこちなさも感じられた。でも、一度話し始めると、それもすっかり払拭されてしまう。私の目に映るのは、相も変わらずに仲睦まじい、一組の親子の姿だった。
……少し前まで、その姿を羨ましいと思っていた。私とタイシンにはないものを持っているのだと。でも、今はそうは思わない。私に見えていなかっただけで、親子にだってそれぞれの苦悩や葛藤があったことを、ほんのその片鱗だけだけれどわかってきた。私と同じような想いをお母さんが抱えていたことも、きっと少しではあるけれど感じてきた。
それでも、親子は懸命にお互いのことを想っていた。大切にしたい、そう思う気持ちだけは、ずっと同じだったのだと思う。私が気づかず忘れていただけで、同じことをずっとタイシンに想い続けていたのと同じように。
同じ場所に咲いていても、種が違えば花は違う。育て方も、見頃も、その美しさも違う。多分、それと同じことだったのだと思う。私とタイシンには、私とタイシンなりの想いがある。それを見つけていければいいのだと、そう思う。
「――母さん、お昼ご飯持ってきた。――あっ」
昼食を持って店に戻ってきたタイシンと、親子が顔を合わせる。慣れていない営業スマイルで「いらっしゃいませ」と言ったタイシンに、親子は板についた笑顔で会釈をした。そこから、タイシンと娘さんが話し始める。二人が学園で顔見知りだった、というのは去年発覚した新事実だった。
何やら熱心にレースの話をしているらしい娘二人を残し、私とお母さんで他愛のない世間話をする。私の手元を見つめながら話すお母さんは、ここ数年で一番楽しげだった。花束を作りながら話す私も、きっと見たことないくらいに明るかったはずだ。
三十分よりも随分余裕を持って花束の用意が終わっても、私たちはしばらく話していた。お店の時計が十二時を告げて、そこでようやくすっかり話し込んでいたことに気がついた。お互いに苦笑しながら代金を受け取り、花束を手渡す。空になったニンジンジュースの缶が、二つ並んでテーブルに置かれた。
「またのご来店をお待ちしています」
タイシンと並んで、店先まで親子を見送る。親子は二人仲良く会釈をし、微笑んで手を振った。よく似た艶やかな鹿毛の髪と尻尾が、真夏の風に吹かれてなびく。二人の間には、今年も大きく華憐な純白の百合の花。世界に一つだけの親子が、そこには咲いていた。