というわけで、いつものキンおかです。駿大祭イベから思いを馳せました。
キングとお母さまが、想いを受け継ぐこと、想いを託すことについて考えるお話。
想いは継ぐもの。想いは繋ぐもの。想いは続くもの。
――故に想う。
師よ。師よ。我が師よ。
弟子よ。弟子よ。我が弟子よ。
受け継がれしその想い。繋ぎ紡ぎしその想い。連綿と続きしその想い。
息吹きたまへ。綴りたまへ。託したまへ。
カワカミさんを送り出してしまうと、いよいよ楽屋には私一人が残るだけとなった。
すっかり静かになった楽屋へ、私が装束へ腕を通す衣擦れの音が微かに響く。烏帽子のあご紐を留め、私は鏡を見た。そこへ映るは、千年の時を越えて芸を紡いできた、熟練の白拍子――に扮した私自身。仕上がりが申し分ないことは、一目見てわかった。不注意で脚を怪我してしまったから舞こそ披露しないものの、神聖で格式高い儀式を奉納する一人の演者であることに変わりはない。であれば自ずと、私のやるべきことも見えてくる。一流はいつだって手を抜いたりはしない。今の私の全力を尽くすだけだ。
楽屋を後にして舞台へ足を向けると、しんと張り詰めた空気が辺りを満たし始めた。一歩を踏み出すたび、形容しがたい静寂と冷気が濃くなる。秋の夜は涼しくなったとはいえ、まだ肌寒いとまではいかない。けれど体を撫でる空気が確かに肌を粟立たせる。それは例えるなら、底の小石が見えるほどに澄んだ川の流れのように思えた。侵しがたく、厳かで、静かで、清らかな雰囲気。この世ならざる世界へと足を踏み入れる感覚。改めて、これが神事――三女神へ奉納するものなのだと実感していた。
しんとした空気を一度深く吸い込み、吐き出す。神聖な雰囲気に体を馴染ませる。そうしてからそっと口を開き、私の演じる白拍子の師という役の台詞を呟いた。
「弟子よ、我が弟子よ。稽古のときである。こちらへ参れ」
自分の台詞に、幼い頃の記憶が重なった。
駿大祭にこれといって特別な思い出はなかった。きっと、誰にでもありふれているようなものばかりだ。賑わう屋台の並びだとか、荘厳な神輿や山車だとか、ウマ娘たちの喧騒だとか。幼い頃、そういうものを目にして、触れて、感じたことはよく憶えている。でもそれだけのこと。特別な思い入れがある訳ではない。同じような思い出は、きっと誰にだってあるはずだ。
ただ……奉納劇の演者に選ばれたことで、鮮明に思い出したことがある。あれは確か、小学校の低学年だった頃。私がまだ、私の手を引くお母さまに「キングちゃん」と呼ばれていた頃のことだ。
――「お母さまもね、奉納劇を演じたことがあるのよ」
その年の奉納劇を観劇した後、お母さまはふとそんなことを私に教えてくれた。伝統的な装いのお母さまを想像して俄然興味の沸いた私は、当時の写真がないかを随分しつこく尋ねた。お母さまは困ったように苦笑いしながら首を横に振って、代わりにその時の話を色々してくれた。演目の内容だとか、後輩たちと一緒だっただとか、先生の稽古が厳しかっただとか、でも稽古合宿は楽しいことばかりだっただとか。今思うと、お母さまがそんな風に学生の頃の思い出を語るのは、本当に珍しいことだった。
お母さまの参加した奉納劇の映像は、偶然にもウマ娘神事継承保存会のアーカイブに残っていた。メイド長がそれを見つけてくれて、私は期待に胸膨らませて映像を再生した。お母さまのことだから、きっと主役だったに違いない、とそんな風にも思っていた。
お母さまたちの奉納した演目は『白拍子』と紹介された。当時の私には、古めかしい言葉の多い奉納劇の内容はまだ難しくて、全てを理解できたわけではなかった。でも、お母さまの演じた役がどういう役だったのかは、一目瞭然だった。
お母さまが演じていたのは、主役の白拍子……ではなく、奇しくも今日の私と同じ白拍子の師だった。
白拍子の師は、『白拍子』という演目の中にあって最も出番の少ない役だ。そも、本来の台本には演者すら設定されていない。白拍子や胡蝶、旅芸人のように具体的な見せ場は用意されていない。台詞も片手で数えるほどしかない。
ただ、お母さまの演じた白拍子の師には、ほんの少しアレンジが加えられていた。
――『弟子よ、我が弟子よ。稽古のときである。――こちらへ参れ』
師が白拍子を呼びつけて始まる稽古は、本来白拍子の舞を師が見つめ、未熟な点を指摘するに留まる。しかしお母さまは、そこで白拍子と共に舞を披露したのだ。演目の序盤も序盤、舞の披露は一分と少ししかない。けれどその短い舞で、お母さまは見事に白拍子の師という役を――その存在の意義を表現してみせた。病を患っている故の儚さはあるが、ふと見せる動きのキレ、洗練された指先の所作、しなやかな足捌き、真っ直ぐに揺るがぬ力強い目線……そうした舞の中でピタリと決めなければならない点が完璧に決まっていた。ともすれば、主役である白拍子を飲み込んでしまいそうなほどの凄まじい魅力。おかげで師という存在の偉大さが観る者の脳裏へ鮮烈に刻まれ、その技芸を受け継がんとする白拍子の物語に深みを増していた。
……とまあ、そんな物語上の意義に気づいたのは、実際に私が『白拍子』の稽古をつけ始めてからのことだ。幼かった私は、単にその優雅で可憐な舞姿に見惚れてしまっていた。ひらりと舞う蝶のように、はらりと揺れる花のように、ふわりと羽ばたく鳥のように、お母さまの舞は綺麗だった。
――幼い頃に見たあの舞を、随分久しぶりに思い出した。
『白拍子』という演目を仕上げていくにあたって……そして何より、カワカミさんへアドバイスをするにあたって、改めてお母さまの舞へ想いを馳せた。短くも鮮烈な舞を披露したお母さま――白拍子の師は、何を想っていたのだろうか。舞台演出としての意義とは別に、どのような想いが込められていたのだろうか。
師の想いを継がんとする弟子に、師は何を想い託すのだろうか。
目を閉じて胸に手を当てれば、おのずと答えは見えてきた。とても簡単なことだ。
「……お母さまも、同じだったのかしら」
舞台の袖でポツリと呟く。集まり始めた観客の喧騒によって、私の声は秋の夜長に紛れた。ゆっくりと瞼を上げれば、舞台を見つめるカワカミさんの姿が目に入った。いつもの元気溌溂な横顔が、今宵ばかりは緊張と決意をない交ぜにしている。碧い瞳の揺れるさまを見守るうち、私はふっと唇の端を緩めた。
『白拍子』という演目は、師の想いを継いでいく物語だ。それは同時に、偉大な師の背中をいかに追い駆け、追い越していくかという物語でもあると、私は解釈している。であるならば、師の――託す者の想うことなどわかりきっている。
「――ここへ至ってご覧なさい」
白拍子を試し見定めるような師の――お母さまの視線が思い出される。多分、カワカミさんの稽古を見ていた時の私も、同じような視線を送っていただろう。
想いを継ぐということは、想いを託す者と同じ領域へ至るということだ。偉大な師を追い越すということは、師と同じ場所へ至って初めてスタートラインに立ったことになる。故に、託す者は想うのだ。ここへ至りなさい、と。そのために技を教え、芸を伝え、稽古をつける。それら一つひとつが想いの種となり、水となり、栄養となる。
緊張を解すようにカワカミさんが深呼吸をすると、私の託した髪留めのリボンが揺れた。美しく見せる所作、優雅に映る足捌き、華麗に映える扇の扱い――怪我をする前に、私が白拍子役として意識していたことは、全て彼女に教えた。稽古をつける中で芽生えた奉納劇への情熱も、白拍子役として表現したかった想いも、彼女には全て伝えた。そしてカワカミさんは、私の想定を超える努力と根性でその全てを吸収してくれた。私の想いまで引き継ぐと約束してくれた。その言葉ほど嬉しいものなど無い。私の想いが確かに彼女の中へ根付いたのだと、そう確信した時の喜びは至上のものだ。
今宵、私は舞を披露しない。けれど、それは必ずしも、私が舞わないことを意味しない。カワカミさんが舞う時、私も一緒に舞っている。私の託した想いが、確かに彼女と共に舞う。それは何とも不思議な心地で、けれど一等尊いものに思えた。
「――さあ。それじゃあ、始めましょうか」
私たちに稽古をつけてくれた講師の先生が、音を立てずに柏手を打った。まもなく舞台の幕が上がる。私たちは小さな声で「はい」と返事をした。真っ先に舞台へ上がるカワカミさんが一際大きく深呼吸をする。
「――キングさん」
私を呼んだカワカミさんに、「なあに」と答える。彼女はこちらを振り向くことなく、ただ真っ直ぐな瞳で舞台を見つめ続けていた。
「どうかご覧になってください。あなたの想い、しかと受け継いで、舞って参りますわ」
水干の袖を揺らし、カワカミさんはいつものように胸の前で拳を握った。いつもと違ったのは、小指の方からゆっくりと、その手のひらの内へ何かを包み確かめるように拳を作ったこと。その内に彼女が何を握り締めたのか、今更確認するまでもない。
「――いってらっしゃい」
幕開けを告げる拍手の中へカワカミさんが歩み出す。舞台へ上がる白拍子の背中。技を受け継ぎ、芸を受け継ぎ、師の想いをも受け継がんとする背中。その背中を見つめる度、私の頬はどうしようもなく緩む。
師よ。師よ。我が師よ。
とくと御覧じよ。
我が弟子は其処へ至るなり。
我が弟子は其処を越えるなり。
――ああ、その喜びの、なんと大きなことか。
◇
「――先輩」
休憩時間中に少しくらいお腹に何か入れようとしていた私を、ふと懐かしい声が呼び止めた。落ち着いた大人の女性らしい声音になっていたけれど、声の響きは学生の頃から変わっていない。かけていた伊達眼鏡を外しつつ、私は声の主を振り向いた。
私と同じ駿大祭のスタッフの腕章をつけたウマ娘は、私の顔を見るなりぺこりと頭を下げる。腕章の色から、駿大祭の中でも「奉納劇」を担当しているスタッフだとわかった。学園卒業後の彼女が、ウマ娘神事継承保存会に所属し、今年の奉納劇の講師を務めたことは、つい最近に聞いている。
顔を上げた彼女と目が合うと、私たちはどちらからともなく唇の端を緩めた。
「お久しぶりね」
「はい」
頷いた彼女がはにかむ。うっすら見えるえくぼが、学園の後輩だった頃から変わっていなかった。
久方ぶりの対面を果たすと、彼女は打って変わって神妙な面持ちをした。細く整えた眉が八の字に下がる。私が口を開くより前に、彼女はもう一度、今度はより深く頭を下げた。腰から折れる綺麗な礼だった。
「娘さんにお怪我をさせてしまい、申し訳ありませんでした」
律義さも相変わらずな元後輩に、私も小さな息を吐く。娘――キングがどういう状況で脚を怪我したのかは、本人からも、彼女からもすでに聞いている。あの子らしいと言えば、あの子らしい。気持ちが入り過ぎたが故の失敗だ。キングの不注意が招いた事故だったと私は聞いているし、判断している。怪我にしたって、日常生活に支障が出たり、キングの選手生命を絶たれるような大怪我ではない。少しの間安静にしていれば済むようなものだ。
この件に関して、彼女からはすでに電話で謝罪を受けている。彼女が責めを受けるようなことではないし、キングのトレーナーさんも同じように言っていた。だから、話はそこで終わりでもよかったのに。本当に彼女の律義さは変わらない。
「気にしないで」という言葉をかける代わりに、私は手に持っていた小さな紙袋の口を開けた。中から取り出したのは東京レース場名物のGⅠ焼き。駿大祭に合わせて出張出店していたものだ。
「――奉納劇、観たわ。とても素晴らしかった」
私が衣装を担当した奉納舞の準備もあったから、観れるかどうかは今日までわからなかった。でも、一緒に来ていた私の事務所所属デザイナーが気を利かせてくれて、奉納劇を上演する間だけ準備を抜けることができた。おかげ様で、私は娘とその友人たちの晴れ舞台を間近で見ることができた。
「娘も満足そうな表情をしてた。同じ演目、同じ役を演じたから、よくわかるわ。あの子は『白拍子』という演目を、白拍子の師という役を、納得できる形で演じ切れていた」
ようやく頭を上げた彼女の目の前に、一つ手にしたGⅠ焼きを差し出す。出来立てでホカホカとした焼き菓子が包み紙越しに手のひらを温めた。
「お疲れ様。――ありがとう」
あの子は……きっと悔しかっただろう。自分から手を挙げたことを最後までやり切れなくて、悔しかっただろう。一生懸命練習してきたのに、その成果を発揮できずに終わったことが、悔しかっただろう。自分の不注意で周りの友人たちへ迷惑をかけてしまったことが、悔しかっただろう。
だけどそんな悔しさは、今日のあの子のどこにも無かった。そういうの、自分の内に仕舞い込んでしまう子だし、表に出すことを良しとしない子だから、今日も多少隠しているところはあるだろうけれど。でもそんなこと微塵も感じさせない表情をしていた。
そこには色々な要因があるだろうけれど、演技指導を担当した彼女の気遣いも一つ大切な要素だ。白拍子役に新しい子を選び、キングと入れ替えるという手だって選べた。けれどそうはせず、台本と登場する役を変えてまでキングを残した。種々の事情を鑑みての判断だけれど、おかげでキングは最後までやり切れた。
彼女が残してくれた。彼女が繋いでくれた。キングの想いをこの『白拍子』に、他のメンバーに、そして何より、役を引き継いだプリンちゃんに。
私とGⅠ焼きへ交互に視線を遣った彼女は、ようやく表情を柔らかくして、私からGⅠ焼きを受け取った。
「こちらこそ、ありがとうございます。――娘さんには、たくさん助けてもらいました」
「そう」
誇らしい気持ちが顔に出てしまっただろうか、私を見つめる彼女はどこか可笑しそうに笑う。気恥ずかしさから視線を逸らし、私は咳払いを一つした。
「……それにしても。演目が『白拍子』と聞いた時は、驚いたわ」
「ええ、私もです。こんな偶然、あるものなのですね」
秋の夜長に照らされる瞳が、懐古の色を宿す。『白拍子』は、私にとっても、彼女にとっても、思い入れのある演目だ。だからこそ、あまりにもでき過ぎた偶然に驚いている。私の娘が演者に選ばれ、そして彼女が演技指導を担当した年に、私たちの演じた『白拍子』が演目に選ばれる。そんな偶然、そうそうあるだろうか。
「まさかとは思うけれど、あなたの差し金かしら?」
「まさか。そのような権限、私にはありません。……ただまあ、大好きな演目ですから。毎年必ず、奉納劇の演目として推挙はしています」
「ああ、そういうこと」
苦笑いで小さく舌を出す彼女に私も釣られてしまう。どうやら今回の偶然は、彼女の情熱と執念がもたらしたものらしかった。
一しきり肩を震わせたあと、彼女はほんの少し遠くを見るように目を細める。暖かい橙色をした提灯が揺れる瞳に、今ここにいる私と、それから幾ばくか懐かしい頃合いの私が重なって映るのに気づいた。同じように私も、パンツスーツ姿の彼女に、水干へ袖を通したウマ娘を重ねていた。
「稽古をつけている時に、何度も思い出しました。私たちが演じた『白拍子』のこと」
「……そう」
もう、二十年は前の話だ。けれどいまだに、この季節になると思い出が甦る。どうやらそれは、私だけではないらしかった。
ふと目を閉じれば、二十年前と同じ空気が感じられる。懐かしい雰囲気を思い出したからか、彼女はクスリと小さく笑っていた。
「先輩の舞が、久しぶりに見たくなりました」
「あら。それじゃあ一指し、舞ってあげようかしら?」
「いいですね。でも、今は私の方が上手いですよ、
「今更なに言ってるの。当たり前でしょう」
おどけた様子の彼女に、私の方も軽口を混ぜ込んで答える。学生の頃ならいざ知らず、今となっては彼女の方が実力が上だ。当時からセンスはあったし、その上で稽古と研究を重ねていれば当然のことだった。もっとも……いざ舞うとなれば、一度や二度くらいは驚かせてみたいとも思う。
「……舞と言えば、」
舞の話が出たことで、私は観劇中に感じたことをふと思い出した。
「最後のカワカミさんの舞。あれもあなたが指導をしたのかしら」
私の質問に対して、彼女は「半分」と答える。それで私は納得した。プリンちゃんの舞に感じた既視感の正体は、種を明かしてしまえば簡単な理由だった。
「舞に限らず、カワカミさん――白拍子の役は、先輩の娘さんが積極的に面倒を見てくれました。全体の大きな動きや台詞回しから、一つ一つの所作まで。熱心で……よく研究もされていました」
「……道理で、ね」
どういう反応をしたものかわからず、結局妙に静かな息を一つ吐く。そんな私を、彼女は微笑ましいものでも見るように、穏やかな表情のまま見つめていた。
白拍子役が最後に披露する舞は、『白拍子』の一番の山場になっている。そんな山場にプリンちゃんが披露した舞は、言ってしまえばまだまだ粗削りなものだった。講師である彼女の舞を知っているだけに、その彼女ほど洗練されたものでないことは容易にわかる。
けれど、粗削りであるがゆえに、光るものがわかりやすかった。それは例えば、ふと見せる動きのキレであったり、洗練された指先の所作であったり、しなやかな足捌きであったり、真っ直ぐに揺るがぬ力強い目線であったり。見る者をハッとさせるほどの、強く美しい魅力を放ち、こちらの視線と声を奪った。師の技と芸と想いを継いでいくに相応しい存在だと納得させるだけの説得力を持っていた。そんな舞を彼女と共に指導したのが、キングだという。
自然と自分の頬が緩んでいることに気づいた。
あの舞は、私の演じた白拍子の師の披露した舞への回答として、キングが用意していたものだろう。「ここへ至ってご覧なさい」、そういう風に舞った私へ、「至り越えていかん」という回答。あるいは、『白拍子』という演目になぞらえるのなら、「その想いを受け継がん」という回答。
結局、キングが舞を披露することはなかった。けれどキングが温め形にした想いは、確かにプリンちゃんへと受け継がれた。そしてプリンちゃんは、そんなキングの想いまで受け継いで、あの舞を披露した。
「……嬉しいものね」
つい正直な感想が漏れる。彼女は特別言葉を募ることもせず、ただ短く「はい」と頷いた。
……嬉しくないものだと思っていた。キングが私と同じ道を――レースの世界を選んでくれても、嬉しくないと思っていた。まして、私の想いを受け継いで走るなどと言われても、嬉しい気持ちなど起こりようはずがないと思っていた。栄光と釣り合わない挫折、歓喜も埋もれてしまう苦悩、笑顔もかき消してしまう滂沱。そういうものばかりの世界へ、たった一人の大切な娘が足を踏み入れたことを、喜ばしいと思えるはずがなかった。むしろ、私の後など追うことはないと、私の想いなど継ぐ必要はないと、そう思っていた。
けれど、今はそれが――全てではないにしても――誤りだったと知っている。知ってしまった。レースで走るキングを見れば、やはり嬉しかった。ウィニング・ライブのセンターで笑顔を見せるキングを見るのが、嬉しかった。かつての私が身を置いた世界で、同じようにキングが歩んでいることが、嬉しかった。
――『いつかあなたを越えてみせます』
真っ直ぐで純粋で無垢な言葉を聞かされた時、涙が出そうなほど堪らなく嬉しかった。
だから、今はわかっている。もしもキングが私の想いを受け継いでいくと口にしたのなら。私はその言葉を、これ以上ない喜びと感じるのだろう。私の想いを受け継いで歩む背中を、この上なく誇らしく感じるのだろう。そういう風に感じてもよいのだと、今は思える。
その時、スマートウォッチがぶるりと震えた。時刻を見ると、そろそろ休憩時間も終わりだった。私を呼ぶメッセージが一緒に来ているデザイナーから入っている。
「そろそろ行くわ」
「はい。奉納舞も楽しみにしてます」
「時間があったら見に来て頂戴。今年の衣装も自信作だから。――それと、これ」
頷いて立ち去ろうとした彼女を引き留め、手にしていた紙袋を手渡した。彼女はぱちくりと瞬きをする。
「あの子たちに差し入れて頂戴。丁度人数分あるはずだから」
元々、他のスタッフも食べるだろうかと余分に買っておいたGⅠ焼きだ。さっき彼女へ手渡したものも含めて六個。奉納劇に参加した子たちで丁度だろう。
「ありがとうございます。いただきます」
はにかんで一礼し、彼女は私の行き先と反対方向の雑踏へ紛れていく。ジャケットの背中が視界から消えるまで、私はその場に留まり見送った。多少なりと名残惜しい気持ちを一旦頭の隅へ押しやり、踵を返す。まもなく始まる奉納舞の準備が私にもある。
……自分の分のGⅠ焼きを食べ損なったことに気づいたのは、仲良く頬張る親子を見かけた時だった。
多分、今回の駿大祭イベのキングは、最初の三年間が終わった後のキングだと思います。