目を覚ましたその瞬間に、それが夢だと理解できた。
理由の一つは、周りに広がる景色が現実離れしたものだったことだ。温かな陽射しに照らされるのは東京レース場。スタンドに観客の姿は全く見えず、ただ吹くそよ風の音だけが聞こえる芝コースの上に私は立っていた。競技ウマ娘を引退して久しい私が、誰もいないレース場でターフに立つことなどあり得ない。だからこれは、きっと夢だ。
もう一つ理由を挙げれば、私の服装もまた夢だと判断した理由になる。就寝時のルームウェアでも、仕事用のスーツやドレスでもない。かつて一度だけ袖を通したことのある、それは私の勝負服だった。それも、引退レースの時に着ていた一着。私がデザインを手がけたその勝負服は、確かにまだクローゼットに残しているけれど、あれ以来着ていないし、今後も着る予定はない。だからこれは、きっと夢だ。
そして何より、一番に夢だと確信できた理由は、スタンドから私の方へやって来るその人に他ならない。長らく……もう二十年近くの長きにわたって、ずっと会いたいと想い続けてきた人。また逢う日にはもっと驚くと思っていたけれど、今の私は至って冷静で、落ち着いていた。
見慣れた柔和な微笑みを浮かべながら、彼は私の前まで歩み寄る。迎える私はターフの上に立ったまま、同じように頬を緩めて彼がやって来るのを待っていた。
「――久しぶり。元気そうだね」
「――ええ、本当に久しぶりね」
もう思い出すのも難しい記憶と変わらない声で、彼――主人はそう言った。答える私の方が、記憶の頃とは随分変わってしまっている。彼と出会って別れるまでの時間より、もうずっと長い時間を過ごして来た。
私と向かい合った彼は、サッと居住まいを正して口を開く。
「二十歳の誕生日おめでとう。キングもついに成人だね」
私がこの夢から醒めれば、日付は四月二十八日だ。キングの二十回目の誕生日になる。彼はそれを祝いに来たらしかった。
私は苦笑いを零す。
「ありがとう。……でも知ってるかしら。今は十八歳で成人なのよ」
「……らしいね」
知ってはいたらしく、彼は「締まらないなぁ」と頭を掻いた。余程張り切っていたようで、レースの日にいつも着ていた
「あなたらしいわ。でも、嬉しい。お祝いに来てくれて、ありがとう」
そう告げて、もう半歩彼との距離を詰めた。眉を八の字にしてしまった彼の胸元を軽く小突く。指先が触れるネクタイは、いつだか私が彼に贈ったものだった。
「……まったく会いに来てくれないんだから。嫌われたのかと思ったじゃない」
「そんな訳ないよ。……でも、ごめん」
彼は困った風に苦笑いをした。
「君が望むのなら、いつでも会いに来たよ」
「……そう。やっぱり、そうだったのね」
彼の言葉に全てを納得する。
言い訳をするのは私の番だ。胸板を小突いた指で、今度はスーツの襟を摘まむ。無意識の所作が年頃の娘みたいで、いい加減相応の歳を重ねた身からすると少し恥ずかしかった。
「……会いたくなかった訳では、ないのよ」
うん、と彼はその昔と同じように優しく、私の全てを理解し受け入れてくれるように、小さな相槌を打ってくれる。
「むしろ、いつだって会いたかったわ。……だからこそ、会ってはいけないと思ったの」
一つひとつ、胸に刻んだ誓いをなぞりながら、彼の瞳を見つめて言葉を選んでいた。穏やかな双眸が真っ直ぐに私を覗き込み、やはり小さな相槌で続きを促す。
「私は弱い母親だから。あなたに会ってしまえば、きっと縋ってしまっていたわ」
でも、それではダメだとわかっていた。彼を亡くして、そして私のもとには最愛の娘が残された。まだ幼かったキングを立派に育て上げると誓った。キングが、キング自身の幸せを掴めるまで見守り続けると心に決めた。
そのために、いつまでも過去に縋る訳にはいかなかった。
「私は前を見て生きて行くと決めたの。キングと一緒に未来へ歩んで行くと決めたの。……だから、いつまでもあなたを頼りにしていては、ダメだと思ったのよ」
会いたい気持ちがない訳ではなかった。片時たりとも彼を忘れたことなどなかった。でも、夢でだって会ってはいけないと、そう心に決めて今まで生きてきた。キングが立派なウマ娘になる、その日までは。
気づけば、彼と過ごした年月よりも、キングと歩んだ時間の方が長くなっていた。
私の言葉を彼は肯定も否定もしなかった。ただ柔らかく微笑み頷いて、「そうだったんだね」と答える。その視線が私から外れて、別の場所を向いた。彼の視線の向かう先を私も追いかける。彼が見ていたのは東京レース場の大きなターフビジョン。普段はレースの映像を映し出す画面へ、今は別のものが映っている。
ふっと彼が小さな吐息と共に笑ったのがわかった。
「――素敵なウマ娘になったね。僕たちのキングは」
ターフビジョンに流れていたのは、他ならぬキングの姿だった。いつの頃、という特定の姿ではなく、産まれてから今に至るまで、いくつもの姿が重なるように画面いっぱいへ映し出される。
初めて抱いた腕の中で元気一杯に泣き声を上げる姿。
トテトテと拙い足取りで駆け寄ってくる姿。
遊び疲れて私の膝枕で眠ってしまった姿。
上手にできたお絵描きを満開の笑みで見せびらかした姿。
雪のお庭を妖精みたいにはしゃいで回る姿。
嫌いなピーマンを苦い顔をしながらも食べきった姿。
まだ大きいランドセルでウキウキと駆け出した姿。
授業参観で一生懸命に手を挙げて答える姿。
遠足の思い出をキラキラした言葉で語って聞かせる姿。
友人たちに囲まれて眩しい汗を流した運動会での姿。
浴衣の袖を揺らして私の手を引く無邪気な姿。
競技ウマ娘になりたいと屋敷を飛び出したあの夜の姿。
自信に満ちながらもどこか不安定さを感じずたインタビューの姿。
意気込みを語る表情に曇りと意固地が満ちていたレース場での姿。
新たな王道を堂々と語って誇り結果で示して見せた高松宮記念の姿。
目一杯の一流のパフォーマンスで会場を沸かせるライブでの姿。
ライバルたちと競い合う中でいつかのように楽しそうにしていた姿。
良いトレーナーさんに恵まれ固い絆で結ばれて信頼し合っている姿。
友人たちの写真を宝物のように丁寧に見せてくれる姿。
後輩たちにお弁当を作ろうと悪戦苦闘している姿。
私の見立てた服を澄ました表情で着こなす姿。
私に服を見立てて何だか楽しそうに頬を緩める姿。
また私にも見せてくれるようになった笑顔の姿。
一人の、素敵なウマ娘に成長した姿。
自然と唇の端が綻んで、私は微笑んでいた。どんな姿も微笑ましい。どんな姿も誇らしい。どんなキングも愛おしい。ただただ、そう思った。
「――ええ、そうね。とても素敵なウマ娘に育ったわ」
心からそう思う。この世に産まれて来たその瞬間から、私も彼も願ってやまなかった素敵なウマ娘に――いいえ、きっとそれ以上に、キングは育った。
ターフビジョンから視線を外して、彼は再び私を見る。ふわりと笑ったその顔に、年甲斐もなく胸の奥がキュンとした。ああ、その笑顔が好きだったなと、久しぶりに思い出す。
「君のおかげだね」
少しばかり惚けていた私は、けれど彼の言葉には首を振った。
「たくさんの人に助けてもらったわ。だから、私のおかげではないと思うの」
とにかく、いつだって必死だった。人としても、母としても未熟だった私にできたことは、いつでもできることを精一杯にやることだけだった。及ばないことばかりで、たくさんの人に助けてもらった。
私の答えに、「そうかもしれないね」と頷きながらも、彼はさらに言葉を続ける。
「でもそれは、君が一生懸命キングを愛していたからだよ。だから色んな人が、君を助けてくれたんだ」
全部見ていた僕が言うのだから、間違いない。彼は優しく断言して、そっと私の頭を撫でた。髪をそっと梳かした指先が、カバーをした耳も撫ぜる。大きな手に触れられるのは、一体いつぶりだろうか。あまりに久しぶりのことで、思わず顔が熱くなる。いい歳をしてこんな反応をする自分が、やはり少し恥ずかしい。
頬の熱をごまかそうと、私は苦し紛れに口を開いた。
「もう、私の方があなたより年上になったのよ。いつまでも子供扱いで、頭を撫でないで頂戴」
彼は笑って、でも頭を撫でる手を止めることはしない。それまでにも増して丁寧に私の髪に触れた。愛おしさに溢れた温もりがジワリと私の中へ流れてくる。この、満たされていく感覚が、堪らなく好きだった。
「いくつになったって、僕にとって君は可愛い担当ウマ娘で、愛おしい奥さんだよ」
あまりにズルい言い方をするものだから、私はせめてもの抗議で彼の胸元を軽く小突いた。
しばらくして、彼が手を引く。離れた手を名残惜しく思いながらも、半歩下がった彼と向かい合った。ほんの少し寂しさを滲ませる彼の表情。その瞳に映り込む私もどこか切ない顔をしていた。
「……そろそろ、行くよ」
「……ええ」
それじゃあ、また。口を開いた彼がそう言いかける前に、私は自慢の脚で前に飛ぶ。驚いた表情の彼へ両の手を伸ばした。
顔を埋めた肩から、ふわりと微かな花の香りが漂って鼻腔をくすぐる。そういえば、彼は花束を贈るのが好きで、よく私にも贈ってくれた。懐かしい香りを肺一杯に吸い込みながら、彼の背中へ回した腕の力を強くする。彼もまた、ゆっくりと私の背に触れて、抱き締めてくれた。
「……時々でいいから、会いに来て頂戴」
「うん。そうするよ」
「でも、時々にして頂戴。あまり会ってしまうと、そちらに行きたくなってしまうわ」
「君はそんなことしないよ。でも、うん、わかった」
わがままな私のお願いを聞きながら、彼はポンポンと子供でもあやすみたいに私の背を叩いた。たったそれだけのことで目尻から溢れそうになるものをグッと堪える。
最後に一際強く彼を抱き締めた。花の香りが少し強くなる。彼は小さな口づけを私の髪に落とした。
温もりの感触が薄れていく。夢から醒めるその時まで、彼は私を抱いていてくれた。
◇
「おはよう、お母さま」
身支度を整えて朝のダイニングは顔を出すと、先に起きていたキングが私を出迎えてくれた。
トレセン学園を卒業して、一般大学に通いながらレースを続けているキングは、卒業を期に学園の寮を引き払って屋敷へと戻って来ていた。一人暮らしも選択肢としては考えたようだけれど、都内の大学に通う以上積極的な理由を見出せなかったようで、卒業前に「屋敷へ戻りたい」と相談があった。私としても一人娘をいきなり一人暮らしさせるというのは心配であるし、それにキングが戻ってくればメイドたちや爺やも喜ぶので、すぐに了承した。以来、キングは屋敷から大学に通い、またレースのトレーニングにも行っている。
「おはよう、キング。今日も早いわね」
「春天(春の天皇賞)を観る前に、大学の課題をやってしまいたくて」
朝の挨拶を返して、キングの向かいに腰掛けた。キッチンで紅茶を淹れていたメイド長へ、私の分も淹れるようお願いする。程なく、二人分の紅茶をメイド長が運んでくれた。
寝ている間に失った水分を、アーリーティーの一杯で補給して体を潤す。こうしてキングと二人で嗜む紅茶の時間にも慣れてきた。
「今日はあなたの後輩も京都で走るのでしょう」
紅茶で唇を湿らせてから、私はキングに尋ねる。大学進学を機に購入したパソコンで課題に取り組むキングがチラリと私を窺った。ええ、と短い返事と共に彼女は頷く。
「チームの子と、あとは仲良くしてる後輩が走るわ」
それも、仲良くしている後輩の方は、春の天皇賞を走るという。最近知ったことだけれど、キングの言う仲の良い後輩というのは、実は私が勝負服を担当した子だった。こし餡の大福餅を差し入れると喜ぶ、真面目で頑張り屋な青鹿毛のウマ娘だ。
「応援に行きたかったのではないかしら」
「最初はそのつもりだったわよ」
けれど、トレーナーさんに止められたのだという。やや不満げで拗ねた表情をキングは見せた。
「今日くらいはお母さまといなさい、って。……ほんと、お節介なんだから」
「……そう」
トレーナーさんがどうしてそんな風に言ったのか。私も、それにキングも、わからないではなかった。
「――お誕生日おめでとう、キング。もう二十歳になるのね」
改まって口にすると、自然と背筋が伸びた。一年に一度の日。一年が過ぎればまた必ず巡って来る日。ともすれば当たり前のその日を、けれど特別でないと思わなかったことはなかった。
向かい合うキングもシャンと居住まいを正した。
「ありがとうございます。お母さまのおかげです」
そんなことない、という言葉が出かける。でもそれを寸でのところで飲み込んだ。それは、夢の中の彼が否定したからであり、そして目の前のキングが照れながらも眩く微笑んでいたからだった。
飲み込んだ言葉の代わりに、私も薄く微笑む。どちらからともなく二口目の紅茶へ手を伸ばした。
「――そういえば」
カップを置いたキングが、ふと思い出した様子で口を開く。目線だけで傾聴していることを示し、私は続きを促した。
「昨日の夜、お父さまの夢を見たわ」
「……え」
置きかけだった右手のカップがカタリと音を立てる。キングはなおもゆっくりと話を続けた。
「成人祝いに、って花束を持って来てくれたわ」
くすぐったそうにキングは笑う。花束を渡すなんてあの人らしい、そう思うと同時にほんの少し違和感があった。彼がよく花束を渡してくれたなんて、キングに話して聞かせた覚えがない。
まさか、ね。どう考えてもあり得ない想像を確かめるように、私はキングに尋ねた。
「……スーツを着ていなかったかしら。スリーピースの」
「ええ、そうね。そうだったわ」
よくわかったわね、とキングは栗色の瞳を真ん丸にする。私は黙ったまま頷いた。奥歯を必死に噛み締める。せっかく紅茶で補った水分が、今しも零れてしまいそうなのを堪えていた。
再びカップを手にしたキングが、ほうっと息を吹きかけながら、反対に尋ねる。
「お父さま、よくスーツを着てたの?」
こくり、小さく頷いて答えた。喉の奥に詰まっていた熱いものを飲み込む。紅茶で唇を湿らすと、ようやくまともに口を開くことができた。
「職業柄、ね。特にスリーピースは、『僕の勝負服だ』って」
大事な時にはいつも着ていた。GⅠレースやドリーム・トロフィーの時はもちろん。誕生日祝いのディナーや、プロポーズの時にも。そういえば、私の成人祝いの時も、彼はスリーピース姿で寿いでくれた。
「きっと今回も、張り切っていたのね。あなたの誕生日だから」
私の言葉に、キングはまたくすぐったそうに笑う。思い当たる節があったみたいだ。
ほんのり桜色に染まるキングの表情を見つめながら、懐かしい思い出を手繰って唇を開く。
「あなたの成長を楽しみにしていたわ」
どんな子に育つかな。いつも楽しそうに呟く彼へ、私は気が早いと苦笑いをしていた。あれこれととめどなく未来へ思いを馳せる時、彼はいつも愛おしそうにキングを抱いて撫でていた。「君は絶対幸せになるよ」と幼いキングへ囁き語り聞かせる声が、いつも穏やかで優しかった。亡くなるその時まで、ずっとそうだった。
誰よりも……もしかしたら私よりも、彼はキングの成長を楽しみにしていた。だからよっぽど、キングが二十歳を迎えたことが嬉しかったのだろう。はるばる夢の中まで会いに来るほどに。
「そう」と穏やかに頬を緩めたキングへ、彼の姿が重なったように見えた。
「――ねえ、お母さま」
カップの紅茶を空にしたキングが、居住まいを正して真剣な表情を見せる。
「なにかしら」
「お父さまのお話、もっと聞きたいわ」
あまりよく憶えていないもの。そう言ってキングは、どこか寂しそうに胸元へ手を重ねた。彼が亡くなったのは、キングが三歳にもならない頃だ。憶えていないのも無理はない。
思えば、これまで彼のことをゆっくり話して聞かせる機会もなかった。毎年お盆にはお墓参りをしていたし、その時にぽつぽつと思い出話を聞かせたりはしたけれど、それだけだ。私が彼の話を避けていた、と言われてしまえば返す言葉もない。
今日は良い機会だと思う。
「わかったわ。――ディナーの後にゆっくりと話しましょう。私も色々と思い出しておくわ」
「ええ、楽しみにしてるわ」
ニコリとキングが微笑んだ。
カップを下げに来たメイド長が、朝食の準備ができたことを告げる。いそいそとパソコンを片付けるキングと、テキパキ朝食を運ぶメイド長を見つめながら、さてどこから話したものだろうと考えていた。