キングヘイローまとめ   作:瑞穂国

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三十話目。
後輩たちに送り出されてレースへ向かうキングと、彼女を見送るトレーナーのお話。


震えるこの手に触れていて

 歴戦の王の手が、小さく震えていた。

 

 

 

「――それじゃあ、キングさん。頑張ってください」

「スタンドから応援してますっ」

 

 控室の扉が閉じる寸前、思い思いに激励する後輩たちへ、キングは不敵に笑いながら手を振っていた。

 

「ありがとう。しかと見ていなさい、このキングの走りを!」

 

 堂々たる宣言に、日頃からキングを慕う後輩たちの目が輝く。すっかり先輩としての振る舞いが板についた担当ウマ娘の背中を、俺は微笑ましく見守っていた。

 しばしの別れを惜しむように扉が閉まると、途端に控室は静寂に包まれる。GⅠレース前の、ピンと張り詰めた緊張感が辺りを満たしていく。その只中に、出走ウマ娘であるキングと、トレーナーである俺だけが取り残される。

 もう、慣れた感覚だ。これまで幾度となく経験している。息を吸うだけでも肺が張り裂けそうな空気。ジトリと背中を伝う汗。その中にあっても、身じろぎ一つ許されない、そんな感覚だ。

 ほうっとキングが一つ息を吐く。勝負服のスカートをふわりと翻して、彼女は華麗なターンを披露した。勝気な栗色の瞳が、その内に眩い星を宿してこちらを見つめる。

 時間だ。

 

「――さ、トレーナー。そろそろ行きましょう」

 

 自信と矜持の笑みを浮かべてキングがそう告げる。この後は、最終確認となる軽いミーティングをして、そうしてパドックへ向かうのがいつものルーティンだ。彼女もそのつもりで俺の言葉を待っている。

 ただ、当の俺はすぐに声を発せなかった。

 キングの左手を見遣る。後輩たちを見送る間、そちらの手はずっと背中側にあった。スカートの影に隠した手が微かに震えていたことを、俺だけは知っている。

 今もその手は震えている。キング自身も気づいて、堪えているのだろう。ぱっと見ではわかりづらいけれど、それでも俺が気づくには十分すぎる変化だった。

 ほとんど無意識のうちに手が伸びる。キングの反応が鈍いうちに、俺の手が彼女の手に触れた。

 

「っ! と、トレーナー!?」

 

 数瞬遅れてキングが驚いた声を上げる。けれどそれには構わず、俺はそっと彼女の手を包み、手前に引き寄せた。俺とキングの間で、彼女はその手を俺に預ける。いつもは頼もしいその手が、今はどこかか細く感じられた。まるでガラス細工でも扱っているような感覚だ。

 俺の右手に繋がれてなお、キングの左手は意地を張っている。

 改めてキングの顔を見る。ほんのり頬が上気している以外、普段のレース前と変わりはない。ただ、「どうしたの」と問いかける瞳が、いつもよりほんの少し頑なだ。

 数瞬言葉選びをして、けれど結局、俺は事実をそのまま告げることにした。

 

「手が震えてるよ、キング」

「っ!」

 

 返事はない。キングは驚いたように目を見開き、けれどすぐに眉尻を下げて苦笑いした。手の内でキングの左手が意地を張るのをやめる。ほんの少し、握り締める手の力を強くした。

 

「緊張してる?」

 

 尋ねると短い相槌がある。栗色の瞳がその視線を伏せた。途端、彼女の表情に影が差す。整った長い睫毛が震えていた。

 

「ええ……少し」

 

 キングには珍しく自嘲気味な笑みが漏れる。

 

「しようがないわね。GⅠなんて、もう何度目になるかわからないのに」

 

 そこまで言って、キングは唇を噛み、それ以上の言葉を拒んだ。ただ、重ねた手だけがキュッと力を入れて、俺の手を掴む。彼女に合わせて沈黙を選び、俺は静かに震える手の甲を撫ぜていた。

 しばらくの後、キングは躊躇いがちに唇を開く。

 

「……不安、だわ。あの子たちに期待される私でいられるのか、不安で堪らない。勝たなきゃいけないと思うほど、不安で堪らなくなるわ」

 

「キングヘイロー」というウマ娘の(ころも)を脱いだ一人の少女が、そこにはいた。多くのファンに愛される一流ウマ娘でも、後輩たちに尊敬されるチーム最年長の先輩でも、俺が一番頼りにしている担当ウマ娘(パートナー)でもない。どこにでもいる普通の少女だ。

 完璧超人ではない。人並みに笑い、人並みに泣き、人並みに喜び、人並みに落ち込む。当然、人並みに緊張だってするし、不安にだってなる。ただ少しだけ、キングはその付き合い方に慣れているだけだ。それは多分、彼女の出自と、そしてこれまでレースの中で培った経験故だろう。

 だから、こういう時に何と声をかければよいのか、俺にはよくわかる。俺はただ、キングに思い出させてあげればよいのだ。期待の背負い方も、緊張との折り合い方も、不安との付き合い方も、彼女は知っている。走るために必要なものは全部、キングは持っているのだから。

 

「キング」

 

 そっと、彼女の名前を呼ぶ。俯いたままのキングと顔を合わせたくて、俺は片膝をついた。図らずも、御伽話にあるような、王様に(かしず)く騎士のような格好になる。さすがに、忠誠の口づけは落とさなかったが。

 キングの顔を覗き込む。彼女は拒まなかった。見られたくなければ顔を反らしただろう。けれどそうはせず、こちらをジッと見つめ返した。眉尻の下がった表情が不安を物語る。ただ栗色の双眸だけは、いまだ闘志の炎を宿していた。

 ああ、大丈夫だ。そう確信して、俺は口を開く。

 

「――君の名前は?」

 

 闘志の炎が揺らめく。

 

「……キング」

「誰よりも強い?」

 

 瞳に星の輝きが宿る。

 

「……勝者」

「その未来は?」

 

 背筋が、ピンと、伸びる。

 

「……輝かしく、誰もが憧れるウマ娘」

「そう。一流のウマ娘と言えば――」

「――この私、キングヘイローよ」

 

――王が一人、そこには立っていた。

 ただの少女はもうどこにもいない。「キングヘイロー」という名の衣を纏い、手ずから作り上げた王冠を戴く、堂々たる王が一人。前を見据え、胸を張り、両の脚を踏み締めて、たっぷりの自信で笑う一流ウマ娘だ。

 手の震えはすっかり収まっている。さっきまで俺の手がキングの手を支えていたはずなのに。今では俺の方が彼女に引っ張られていた。

 何か言うことは。そう告げるような視線に応え、俺はさらに口を開く。

 

「やることは変わらない。君はいつも通りに走るだけだ」

 

 そうだろう。確認する俺の問いかけには、「ええ」と小さく短い、けれどはっきりとした相槌が返ってきた。

 才能も、努力も、栄光も、挫折も、期待も、不安も、応援も、嘲笑も、憧憬も、憐憫も、全て走るための力にしてきた。どんな視線も言葉も感情も関係なく、すべからく末脚の糧にしてきた。

 その事実を、誰よりもキング自身がよく知っている。故に、彼女はただいつも通りに走るだけでいい。

 俺の言葉に、キングは不敵に笑う。しかし、吊り上がった口角とは裏腹に、彼女は手入れの行き届いた鹿毛を揺らしてかぶりを振った。

 

「一つ訂正よ」

 

 何か間違ったことを言っただろうか。そんなことを考える暇もなく、重ねた手のひらの感触が強くなった。

 

「『私たち』でしょう」

「……ああ」

 

 思わず苦笑いが零れる。キングの言う通りだった。

 キングに引き上げられるようにして、折っていた膝を伸ばす。見上げていた彼女の顔が、やや見下ろすいつもの位置へ戻った。覗き込まなければ見えなかった表情が、今ははっきりと見て取れる。栗色をした宝石が俺の顔を写し取っていた。

 そっと穏やかに、けれど明朗にキングは言葉を続ける。

 

「……走るのはいつだって私一人よ。だけど、私はこれっぽっちも、一人だなんて思てない。いつもあなたと一緒に走ってる。――こうして、あなたと手を繋いでいるみたいに」

 

 いまだ繋がれた俺たちの手をキングは見遣った。

 ウマ娘とトレーナーは一心同体。一蓮托生。思えばキングとの道行きは、そんな先輩トレーナーたちの言葉を、身をもって知ることでもあった。いつだって共に歩み、共に立ち止まり、そして共に駆けた。ターフにこそ立たないけれど、俺はいつだって彼女と共にレースへ挑んでいるつもりだった。そして彼女も同じように思ってくれている。

 それが俺たちのいつも通りだ。

 キングの手を握り返す。強く、けれど壊さぬように優しく、それでもしかとこちらの存在感が伝わるように。そうすると、彼女は満足そうに目を細めた。薄く紅を引いた唇が緩む。

 

「いつだって君の側にいる。いつまでも君の手を取るよ」

 

 俺の宣言を聞き届けると、キングはいよいよ破顔して白い歯を見せた。

 

「なら、そうして頂戴」

 

 

 

 群衆の熱狂は否応なく高まっていた。一陣の風が吹くたびに喝采が起こり、檄が飛ぶ。見慣れた光景と言えど、やはり何度目でも高揚感を覚える瞬間だ。

 一人、またひとりとバ場へ現れるウマ娘を見送っていると、ゆったりとこちらへ歩み寄る足音が聞こえた。聞き慣れたリズムがどんなファンファーレよりも俺の心を奮い立たせる。振り向いた俺が声を発する前に、両隣から声が上がった。

 

「キングさーんっ!」

「キングせんぱーいっ!」

 

 応援に来ていたチームの後輩たちへ、キングはひらりと優雅に手を振る。そんな彼女の足取りを、俺は半ば職業病でしばらく観察していた。歩くリズムはいつも通り。両の脚は力強くターフを踏み締める。何より、その脚運びが実に洗練されていて、高貴さすら醸し出していた。御伽話の王女のように。あるいは絨毯を征く女優のように。見る者を惹きつけて止まない足取りだ。

 担当ウマ娘が最高の状態にあることを確認し、俺は改めてキングと目を合わせる。外ラチをくぐり、彼女は俺の目の前までやって来た。

 眉間の辺りを険しくして、キングが唇を開く。

 

「……随分とまあ、熱心に他の子を観察していたじゃない」

 

 ああいうのが好みなの。たった今「返し」に向かったウマ娘をチラリと見遣り、キングはそんなことを言った。それに、俺は苦笑を浮かべつつかぶりを振る。

 

「それが俺の仕事だからね」

「……ふーん?」

「それに、やっぱりキングが一番いいなと思ってね」

 

 率直なところを答えると、キングはパチクリと両の目を瞬いて固まった。けれどそれも束の間、彼女はいつものように、自信と気高さに溢れた高笑いを披露する。すぐ後ろから「今日もキングは調子良さそうだな」という観客の声が聞こえた。

 

「ふふっ。つまり私は、あなた好みの好バ体というわけね」

 

 ……言い回しに若干危ないところがあるものの、概ね事実なので肯定する。キングは益々上機嫌に笑った。

 

「――それで、トレーナー。これからレースへ向かうキングに、最後のアドバイスをする権利をあげるわ」

 

 そう言ってキングが俺の助言を求める。これがレース前のルーティンだ。俺はいつもと変わらずに答える。彼女と同じく、自信たっぷりに口角を持ち上げた。

 

「今更言うことは何もないよ。――君らしい走りをしておいで、キング」

 

 差し出した俺の右拳へ、キングの右拳がそっと合わさる。真っ直ぐな視線がぶつかり、束の間静かな時間が流れた。改めて交わす言葉は何もない。ただ黙したまま、俺の内で燃え盛るものだけが彼女へと伝わっていく。

 どちらからともなく拳が離れた。いってきます、と笑ってキングは踵を返す。ふわりとエメラルドのスカートを翻し、後輩や観客の激励に軽く手を挙げて、彼女は駆け出した。

 

「――いってらっしゃい」

 

 王の脚が大地を踏み締め、鮮やかな青を風に蹴り上げた。

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