キングヘイローまとめ   作:瑞穂国

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現実に追われる中、自らがどこを目指して歩いていたのか、わからなくなってしまったキングヘイローとお母さま。
二人が目指した勝負服のお話。

※ウマ娘母親合同3に寄稿した作品です。
ビューティー安心沢の会話追加でキングとお母さまに触れられていたので公開です。


私の目指した勝負服

 時々、忘れてしまいそうになる。

 私はどうして、この道を選んだのだろうか。

 私はどうして、今ここに立っているのだろうか。

 ……今目の前にある仕事は、一体何のためなのだろうか。

 暗闇の中へ放り出されたような。突然、目の前にぽっかりと大きな穴が開いてしまったような。

 私という存在を見失わせてしまう、そんな一瞬。

 私にも時々、そんな瞬間が訪れてしまう。

 

 

 

 通話を切り上げて吐いた息が、私以外に人のいないオフィスの中にこだました。普段よりもいくらか長く、重い息。それが、自分の内に溜まった疲労に由来するものだとよく知っている。けれど、それをどうこうすることもできず、私はそのまま背もたれに体重を預け、白い天井を振り仰いだ。電気代がもったいないから、私のデスクの近くと、コーヒーメーカーの上以外は照明も落としてしまっている。

 落とした瞼の上に手の甲を乗せる。人の動きがなくなると、途端にオフィスが静寂に包まれた。カチコチと備え付けた時計の音が響く。それから、時折オフィスの外を通り過ぎる車のエンジン音。それらを敏感な両耳が聞き取っていた。

 数十秒の間そうして、私はようやく手の甲を瞼の上から退け、うっすらと目を開いた。頭上に残った蛍光灯の光が目に染みる。思考はぼんやりとするけれど、とにかく体を動かさなければと、私は身を起こした。

 コーヒーメーカーで温かいコーヒーを一杯淹れ、自席へと戻る。今日も一日働き詰めのパソコンは、世間の時計が八時を回っていることを示した。画面には開いたままのメールアプリ。つい先日の打ち合わせの備忘録が書かれていた。

 さらりと流し見て、瞼を閉じ、自身の中にあるイメージを膨らませる。意を決した私は、目の前のタブレットとタッチペンを手にした。タブレットを立ち上げると、描きかけのイメージボードが現れる。ちょこちょことイメージを描き出してはいるけれど、まだ人様に見せられるような形にはなっていない。

 自分の中にあるいくつかのスイッチを入れて、反対にいくつかのスイッチを切る。私はまさしく描き殴るように、タブレットの上でタッチペンを動かした。描き上げるのは早い。けれどそうして描いたものへ、私はすぐに大きなバツ印をつけてしまう。その繰り返しだ。

 ……競技ウマ娘用の勝負服を作るデザイナーとして、決して短くない時間働いてきた。元々興味はあって、好きな仕事ではあるけれど、自分に特別な才能があると思えたことはない。一流と呼ばれるだけの自負も誇りもあるけれど、それが私に才能があるからだなんて思えたことはない。

 何度目になるかわからない、イメージの描き直し。自分の頭の中には確かにあるはずなのに、それをこの手がきちんと出力できない。思い描く理想と目の前の現実の差をキチンと認識して、私はまた首を振った。

 自分のデザインにバツ印をつけながら、いつかの師匠の姿を思い出す。私に勝負服デザイナーとしてのノウハウを叩き込んでくれたその人は、いつもさらりと自身のイメージを描き起こしていた。細かな意匠に手を加えることはあっても、全体的なイメージまで変えることはなかった。頭の中に思い描いたイメージを、ただの一度で正確に、精密に写し取っていた。

 私はまだ、その領域にはない。……いいえ、今後も辿り着けるのか、わからない。

 積み重ねた経験が違うと言われれば、そうかもしれない。私が師事していた頃の師匠は、すでにデザイナーとして四十年以上のキャリアがあった。今の私は、それなりにキャリアを重ねたと言っても、まだ二十年には手が届いていない。描いてきたイメージの数も、具現化してきたデザインの数も、師匠とは比べるべくもないだろう。

 比べるのも烏滸がましい相手と、自身とを比べても仕方がない。頭ではわかっていても、比べずにはいられない。そしてその度に思い知らされる。私には特別な才能などどこにもない、と。

 全てを「才能」の一言で決めつける気はない。ない、けれど。それは確かにあるということも、事実として認めざるを得ない。例えば、「身長」や「手足のリーチ」、「関節の柔軟性」と読み替えるとわかりやすいかもしれない。生まれながらに授かったものというのは、必ずある。それは「才能」と呼ぶのが一番理解が早くて、しっくりくると思う。そして、不平等であるが故に平等なこの世界には、才能を持つ者と持たざる者がいる。そしてこと、イメージをデザインへと落とし込む作業において、私は才能を持たざる者だった。

 ……だから、才能を持たない私にできたのは、ただ時間を尽くし、鉛筆とペンを走らせ、無数に思えるバツ印を積み重ねることだけだった。

 器用でないことは、自分がよく知っていた。要領がよくないことは、自分がよく知っていた。でも、それ以外のやり方も知らなかった。だからとにかく、描いた。何度も描いた。いくつも、いくらでも描いた。描くたびにバツ印をつけ、何がイメージと違うのかを考え、そしてまた描いた。頭の中にあるイメージと、この手の出力するデザインが一致するまで、何度もバツ印をつけた。

 ……そんなことをしていると、時々わからなくなってしまうのだ。私は今、何のために描いているのだろうか。私は今、何のためにペンを握っているのだろうか。私は今、何のために働いているのだろうか。

 

「……っ」

 

 タブレットの上で滑らせていた右手が止まる。それはあたかも、かつて私が現役だった時に経験した、ターフの上で足が止まる感覚に似ていた。チラリと目に入った時計が、いつの間にか一時間の経過を告げている。傍らのコーヒーは半分以上が飲みかけで、すっかり冷めてしまった。

 あまりおいしくないコーヒーを一息に飲み込む。その間もタブレットの画面を凝視し続けた。思い描いたイメージにはまだ辿り着かない。少しずつ形にはなって来たけれど、求めるものへ近づいている気は全くしなかった。

 

「……私、何してるのかしら」

 

 ポツリとした呟きに答えてくれるものは、どこにもいない。かつては、止まってしまった足の動かし方を教えてくれる人がいた。けれど今、止まったペンの動かし方を誰も教えてはくれない。これは私が自分でどうにかしなければならないことだった。

 ……ああ、その方法がわかっていれば、苦労などしないというのに。

 自分で自分にダメ出しをしなければ、いいものは作れない。けれどそれは、口にするよりも遥かに難しく、そして苦しいことだ。私はいつだって、百点満点のその上を目指してデザインをしている。描き上げたものは、いつだってその時の全力だ。でもそれを、私の中にいるもう一人の私は認めない。

 

――「ここが足りていない」

――「ここはもっとこうするべき」

――「ここはこっちの方がよかった」

 

 私が全霊をかけて生み出したものを、当の私自身が批評し、否定する。それはあたかも、自分で自分自身を否定していることのように思えて。バツ印を積み上げる度に、苦しくて苦しくて堪らなくなる。そのうちに、自分では何も生み出せなくなってしまうほどに。

 動かないペン先を苦々しく見つめる。そんなことをしても、動いてくれるわけではなかった。

 その時、マナーモードにしていたスマホが、ぶるりと一つ震えた。誰かからの連絡だろうかと、握り締めていたペンを置き、ポケットからスマホを取り出して画面を見る。自動点灯した画面に、LANEへ一件のメッセージが入ったと通知が表示された。見覚えのあるアイコンに、私は吸い寄せられるように通知をタップした。

 メッセージは娘――キングからだった。キングから連絡を寄越してくるとは、とても珍しい。何事かとメッセージを確認すると、画像が一枚だけ送られてきていた。ポスターらしきものを撮影した写真だ。

 しばらく待っても、それ以上メッセージは送られてこない。私は送られた画像をタップし、写真をぼんやりと眺めた。見覚えのあるデザインのポスターだ。それもそのはずで、そのポスターは今日開催されていたウマ娘向けファッションショーのものだった。ショーのプログラムには勝負服部門というのもあり、私も何着か新作を出している。ただ、今日は急遽勝負服の打ち合わせが必要になったこともあり、会場のことは事務所に所属する後輩デザイナーたちに任せていた。

 どうやらキングも観に来ていたらしい。それをわざわざ報告してきたことが、何とも微笑ましかった。焦燥感と無力感で張り詰めていた心がいくらか弛緩する。我ながら単純で、少し笑えてしまった。

 写真を閉じて、返事でも打とうとメッセージの入力欄をタップする。さてどう返信をしたものだろうかと考えたその時、新しいメッセージが送られてきた。

 

『素敵でした』

 

 短い一文に目を見開く。と同時に、焦燥感が忘れさせていたことを、ようやく思い出すことができた。

 

 

 

――良い母親ではなかったと思う。

 レースを引退しても仕事に追われるばかりで、あまり家のことを顧みることができなかった。まだ幼かったキングはメイドたちに任せ、自分は仕事に向かうことなどしょっちゅうだった。キングに望まれるまま、いつでもその側にいてあげることはできなかった。母親らしいことなんて、何一つしてあげられなかった。

 キングは、幼い頃から物わかりのいい子で、急な呼び出しでピクニックへ行けなくなっても、泣いて駄々を捏ねたりはしなかった。……でも、キングがそういう風に育ったのは、私のせいだとわかっている。寂しい気持ちがない訳ではないことは、私のぬいぐるみを抱く寝顔でわかっていた。会いたい気持ちがない訳ではないことは、メイド長から聞かされた留守中の様子でわかっていた。側にいてほしい気持ちがない訳ではないことは、玄関まで決して離さない小さな手でわかっていた。けれど、それを我慢させていたのは、他ならない私だ。キングは昔から優しい子だったから、私を困らせるとわかっていて、そうした気持ちを押し殺していたのだと思う。

 ……あるいは。もう、諦めていたのかもしれない。呼び止めたところで、私はどうせ仕事を選ぶのだ、と。例えそう思われていたのだとしても、私には返す言葉がない。

 仕方のないことだった。夫を亡くした私は、キングを養うために働かなければならなかった。キングに何不自由ない生活と未来を保証するためには、お金を稼がなければならなかった。……そんなのは言い訳でしかないとわかっている。それは大人の都合であって、子供だったキングには関わりのないことだ。キングを養うことと同じくらい、キングの側にいてあげることも、母親である私の大切な役割だったはずだ。

 だからいつからか、漠然と思うようになったことがある。私が選んだ勝負服デザイナーという仕事を、キングは快く思っていないのではないか、と。

 けれど、私のそんな余計すぎる考えを、キングはいとも簡単に振り払ってしまった。

 

――「おかあさまのショーブフク、とってもキレイでした!」

 

 ある日のレースを観戦して家に帰ると、出迎えたキングが開口一番そう言ったのだ。その日は私が勝負服のデザインを担当した子の晴れの舞台だった。初めてお披露目した勝負服をなびかせ、彼女は見事一着でゴールした。贈ったフラワースタンドの前で、泣き笑いで勝利を喜ぶ彼女の姿を目に焼きつけたばかりだった。

 言葉を失った私の手を引いて、キングはとめどなく感想を口にし続けた。私の勝負服が、そしてそれを着た少女がどれだけ輝いて見えたのか、まだ幼く拙い言葉で一生懸命に伝えてくれた。それを聞いている私は、キラキラしたまあるい栗色の瞳にすっかり心奪われてしまった。そしてそれに気づいた時、私は込み上げるものを堪えて微笑むので精一杯だった。

 たった一着の勝負服。それを作り上げるために、あの時も相当の我慢をキングに強いていた。学生である競技ウマ娘と、その指導者であるトレーナーとの打ち合わせは、どうしても土日が多い。機屋や裁縫師も交えてとなれば尚更で、打ち合わせの予定が数日前や、急であれば当日の朝に決まることもある。折角、キングとお出掛けの予定を立てても、それが延期になったり、私だけが行けなくなることもよくある。あの時も、ピクニックを三回は延期にしていて、いい加減キングが可哀想になってメイド長と行ってもらったこともあった。

 ……だというのに。キングはとても嬉しそうに、誇らしげに、私の勝負服を「綺麗」だと言ったのだ。

 まず、レースを観に来ていることなど知らなかった。私からお願いした訳ではなくて、あとでメイド長に聞くと、キングが観に行きたいと言ったのだそうだ。それがまた、私にとってはこの上なく嬉しかった。

 勝負服デザイナーという仕事を選んだのは、私の意志だ。私はとても幸運なことに、多くの人の手助けと、得難い縁に恵まれて、私が望んだ職に就くことができた。それだけでとても幸せなことなのだから、それ以上など望まなかった。当然、やるからには一流になろうと心に決めていたけれど、それで誰かに称賛されたいと思ったことはない。好きなことを仕事にして、それでお金をもらって生きて行こうというのだから、一流でなければ意味がないと思っていた。

 もしも、私に望むものがあったとすればそれは、私が好きで作った勝負服が、それを着る一人の少女に喜んでもらえること以外にはなかった。

 だからこそ、私の作った勝負服に、そしてそれを着るウマ娘に目を輝かせたキングからの言葉は、私にとっては想定も想像もしていなかった望外の褒賞だった。そして想像だにしなかったからこそ、幼子の純真無垢な言葉が嬉しくて堪らなかった。

 あの日あの時、キングを抱き締めて誓った言葉を、ずっと胸に刻んでいる。

 

――「見ていなさい、キングちゃん。お母さま、これからたくさん、綺麗な勝負服を作るから」

 

 

 

――喜びのままに決意したことを、今でも憶えている。

 滲んだスマホの画面から一度視線を外し、天井を見た。震える唇からゆっくりと息を吐く。疲労感はある。けれどそれは、つい先程までの暗く淀んだものとは異なっていた。

 キングの短い一言が、私に思い出させてくれた。私がどうして、勝負服デザイナーという仕事を選んだのか。私がどうして、勝負服デザイナーという仕事を続けているのか。私という勝負服デザイナーは、一体何を目指していたのか。とても大切で、けれど非常に抽象的であるが故に忘れてしまいそうになることを、キングの言葉が繋ぎ止めてくれていた。

 綺麗な勝負服を作る。

 見る者の心を奪う――勇気を与え、激励を促し、思慕を抱かせ、憧憬に焦がし、勝利を予感させる勝負服。

 着る者を輝かせる――勇猛を誇り、努力を讃え、華憐を宿し、優美を纏わせ、心を奮い立たせる勝負服。

 たった一人、ウマ娘のための勝負服。

 勝負服は、生涯で数えるほどしか着ることを許されない。長いウマ娘たちの人生においては、三分にも満たないレースの時間など、瞬く合間の煌めきだ。それはあたかも、夜空を一瞬の光で鮮やかに彩る花火のような。目を閉じたほんのわずかな瞬間で見ることの叶わなくなるような、強くも儚い輝きに思える。だからこそ、その限りある一瞬を最高に輝かせる勝負服を作る。泡沫の夢のような一瞬を、永遠に心へ刻むような勝負服を作る。才能と努力を積み上げ、最高の栄誉を手にしたウマ娘へ、敬意を表して。

 そうして、勝負服を作り上げたその先に望むものがあるとすれば、それは二つ。私の作った勝負服を着るウマ娘が、心から喜んでくれること。そして、そんな彼女の走りを目にする誰かが、一瞬のその輝きを「綺麗」だと胸に刻んでくれること。

 

「……約束したものね。綺麗な勝負服を作る、って」

 

 白い天井に向けてぽつりと呟く。忘れてしまっていたことを、再び胸の内へと確かに刻んだ。もう、迷いはない。

 もう一度姿勢を正し、自分の仕事へ向き合う。傍らのタッチペンを手にする前に、自動でスリープしたスマホの画面に触れた。再び灯ったホーム画面をスライドすると、キングとのトーク画面が表示される。淡白な『素敵でした』の文字を、今一度反芻するように見つめて目を細めた。

 短い言葉に主語はない。素敵でした、のその言葉が、一体どこへ向けられたものなのか。ショーそのものを指しているのかもしれない。出演しているモデルさんたちを指しているのかもしれない。私ではない、別のデザイナーの衣装を指しているのかもしれない。

 ……けれど。傲慢で、強引で、自信過剰な考えかもしれないけれど。わざわざ私に送って来たその一言を、今だけは私への言葉と思っていいだろうか。そう思えれば、私はきっとこれからも、自分の道を見失わない。

 メッセージの入力欄をタップする。ペンを握った時には重く鈍かった右手が、するりとリボンでも結ぶように画面の上を滑った。書き上げた文字列を送信する前に、サッと読み返す。それから、送信のアイコンを押した。無事に送られたメッセージが、トーク画面に表示される。

 

『ありがとう』

 

 送ったメッセージには、すぐに既読の文字がつく。思わず苦笑いを零して、私はスマホの画面を落とした。多分、これ以上の返答はない。いつものことだ。

 スマホの横に置いていたタッチペンを手にする。一つ、小さな深呼吸。

 

「――よし」

 

 小声で気合いを入れ直し、私はもう一度自分の仕事と向き直った。やることはそれまでと変わらない。自分の中のイメージを描き出して、違っていれば没にして、また描き直す。決して器用でない、才能に恵まれたわけでもない私が、唯一他のデザイナーたちと渡り合える方法だ。

 途方もない試行錯誤の繰り返し。でも今は不思議と、辿り着くべき場所がはっきりと見えている気がした。

 

 

 

「――さあ、目を開いて」

 

 GⅠレースを目前にした、ウマ娘とトレーナーの控室。備え付けの姿見の前に立つウマ娘は、私が声をかけると恐る恐る目を開いた。不安と動揺で揺れる紫水晶がゆっくりと鏡に映る自分自身の姿を捉える。途端、彼女は目を見開き、ウマ耳をぴょこりと跳ねてその顔に喜色を浮かべた。

 

「わ……わぁ……っ!」

 

 言葉にならない感嘆の声が、うっすら開いた唇より漏れる。私も、隣に立つトレーナーさんも、くるりくるりと身を翻して全身を見回す彼女の様子を、静かに見守っていた。

 やがて、ウマ娘は勢いよくこちらを振り返る。紅潮した頬を隠すこともなく、彼女は興奮気味に口を開いた。

 

「と、トレーナーさんっ! どうですか、私の勝負服っ」

 

 問いかけるウマ娘は、けれどその答えを確信している様子だった。そしてそんな彼女の期待に応えるように、初老のトレーナーさんは眼鏡の奥の目を細めて頷く。

 

「ああ、よく似合っているよ。君にぴったりの勝負服だ」

「えへ、えへへっ。そうですか? そうですよねっ!?」

 

 ウマ娘はすっかり破顔して、照れと興奮で染まり切った頬が今にも落ちてしまいそうだ。そんな彼女が可愛らしくて仕方ないのだろう。トレーナーさんもまた好々爺として微笑み、よく手入れのされた栗毛を苦労の刻まれる手で撫でた。ウマ娘の表情は益々崩れてしまう。

 見慣れた光景に目を細め、私はしばらく二人のやり取りを眺めていた。初めて勝負服に袖を通すウマ娘たちの姿は、今まで何度も――手掛けてきた百着以上の勝負服の数だけ、目にしている。喜びを溢れさせる子、静かに微笑んで頷く子、黙して決意を新たにする子。色々な表情を目にしてきたけれど、やはり何度目だろうと、この光景には心躍らずにいられなかった。

 仕事が報われる瞬間というのは、こういうことを言うのだろう。

 しばらく頭を撫でられていたウマ娘は、私へ顔を向けると改まって姿勢を正した。ぺこりと深々としたお辞儀の拍子に栗毛が揺れる。スカートの向こう側で尻尾がはためいた。

 

「先生、ありがとうございます! とっても素敵な勝負服です!」

 

 先生、と私を呼ぶウマ娘に苦笑い。憧れた先輩の勝負服を私がデザインしていた、という話は、彼女が最初の打ち合わせで教えてくれたことだ。以来、先輩のようにGⅠレースで活躍すること、そして私に勝負服をデザインしてもらうことが、彼女の夢だったという。

 勝負服の左肩にウマ娘が触れて、照れくさそうに笑う。彼女の要望で取り入れた、憧れの先輩を模した意匠が、そこには施してあった。

 

「お気に召していただけたようで、私も嬉しいです」

「はいっ、すごく気に入りました。最高の勝負服です」

 

 断言するように頷いた彼女は、夢と情熱を詰め込んだ胸を一杯に張って白い歯を見せる。

 

「きっと今日、この場所で一番輝いているのは私です」

 

 自信に満ち溢れて笑うウマ娘に、私はなおも目を細めた。

 第十レースの発走時刻が近いことを、場内のアナウンスが伝える。このレースが終われば、第十一レースのパドック――出走ウマ娘の紹介が始まる予定だ。

 トレーナーさんに促されたウマ娘は「はい」と返事をして頷く。

 

「――それじゃあ、先生。そろそろ行ってきます」

「ええ」

 

 首肯した私は、彼女の前に右手を差し出した。初めて勝負服を身にまとい、レースへ向かわんとするウマ娘への、ささやかな激励を込める。

 

「貴女の勝負服を任せていただいて、光栄でした。――応援しています。頑張ってください」

 

 差し出した私の右手を、彼女はやはり照れ笑いで握り返してくれた。

 控室からパドックへと通じる廊下に出るなり、ウマ娘は小走りに駆け出す。その背中を、ぺこりと会釈をしたトレーナーが早足で追い駆けていった。しばらくすると、ウマ娘がくるりと振り返る。見送る私へ大きく手を振って、満面の笑みを見せてくれた。

 

「レースに勝ったら、フラワースタンドの前でも写真を撮りましょうねっ」

 

 それだけを言い残して、ウマ娘は再びパドックへと向かって行く。タッタッとリズミカルな足音に合わせて、おろしたての勝負服がはためいた。決して装飾の煌びやかな勝負服ではない。快活な彼女のイメージに合わせた明るい色使いを除けば、むしろシンプルでオーソドックスなドレスだ。けれど、トレーナーさんを置き去りにせんばかりの勢いで、歓声響くパドックへ駆けていくその背中は、不思議と輝いて見える。その背中を目で追い駆けずにはいられない、そんな魅力を厳かに放っていた。

 見送った背中がパドックの裏へと消えたところで、私は一つ息を吐き、目を閉じて天を振り仰ぐ。しばらくそうして、誰もいない廊下からレース場の喧騒を窺っていた。詰めかけた観客たちの声は随分遠くに聞こえる。そこへ、今を輝かんとするウマ娘たちの息吹が混じっている気がした。

 ポツリと自然に唇が動く。誰に向ける訳でもない独り言を私は呟いた。

 

「どう見えるかしら、彼女の勝負服」

 

 勇壮に見えるだろうか。華麗に映るだろうか。荘厳を纏うだろうか。優美を宿すだろうか。……綺麗に見えるだろうか。

 あと何回、彼女があの勝負服を着れるのかはわからない。その機会は、人生でただの一度ということも珍しくはない。勝負服が着られたのなら、引退しても良いというウマ娘までいるほどだ。例え複数回着れる機会を得たとしても、その数は大抵の場合両手の指で足りてしまう。

 だからこそ。最後になるかもしれない今日この日を、瞬きにも満たない今日この一瞬を、最高に輝かせる勝負服であってほしい。彼女を目にする誰かの心を鷲掴み、「綺麗」と目を輝かせるような一着であってほしい。

 そんな勝負服を作れていたのなら、この上なく光栄なことだ。

 踵を返し、パドックとは反対方向へと足を向ける。静かな廊下を歩く間、眩い輝きを纏う一人のウマ娘と、その姿に「綺麗」と呟く誰かの表情が頭をよぎった。思わず口元を緩めながら、私はスタンドの観客席を目指す。一生に数度しか巡ってこない晴れ舞台は、もうすぐそこまで迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 時々、忘れてしまいそうになる。

 私はどうして、この道を選んだのだろうか。

 私はどうして、今ここに立っているのだろうか。

 ……私がレースで走るのは、一体何のためなのだろうか。

 暗闇の中へ放り出されたような。突然、目の前にぽっかりと大きな穴が開いてしまったような。

 私という存在を見失わせてしまう、そんな一瞬。

 私にも時々、そんな瞬間が訪れてしまう。

 

 

 

 玉の汗を浮かべて膝に手をつくと、荒くなった息が真っ白い靄になってあたりに漂った。

 日曜日のトレセン学園に人の姿はまばらだ。毎週末はトゥインクル・シリーズの開催日であり、大半のチームはレースへ出走するために、トレーニングの休養日に当てている。いつもは活気溢れるトレーニングコースも、今は私一人を残すばかりだった。

 人がいないのをいいことに、私は走り終えたコースの真ん中で立ち尽くしていた。

 キリキリと引き絞られた肺が痛くて悲鳴を上げている。筋肉に溜まった乳酸が節々を痛めた。今にも力が抜けて倒れ込みそうになるのを必死に堪え、浅く激しい嗚咽のような息を繰り返す。凍てつく冬の空気が痛む肺に染みて、涙と悲鳴が溢れそうになった。

 やっとの思いで上体を起こし、曇天の空を焦点の合わない目で見上げて、なお苦しい息を繰り返す。取り込まれた酸素が、心臓から体中へ巡る気配は一向にない。いくら呼吸を繰り返しても、私の体が疲労を回復する感覚はなかった。

 多少無理やりに深呼吸をする。目を閉じて二度三度。滴る汗が冷気に晒されて、走った直後だというのに寒くて仕方がなかった。

 眉間に皺が寄る。こんなものではダメだと、わかっていた。

 

「――キング」

 

 その時、私を呼び留める声が背中から聞こえてきた。普段の穏やかな口調ではなく、どこか険しく、あたかも叱責するような声音。一向に整わない呼吸を何とか鎮めようとしながら、私は瞼を上げて声の主を振り向いた。

 スーツに厚手のコートを羽織るトレーナーは、タオルとスポーツドリンク、そして私の分のダウンロングコートを携えて、トレーニングコースをこちらへとやって来る。額の汗をジャージの裾で拭って、私はできる限り余裕のある表情を作り、彼を迎えた。

 

「トレーナー、悪いけれどもう一本――」

「ダメだ」

 

 トレーニングの延長を申し出た私に、トレーナーは間髪入れず首を振る。いつも温和な双眸が、今日ばかりは厳しい視線を向けていた。

 

「もう、二本も多く走ってるんだ。これ以上は負荷をかけすぎだよ」

「で、でもっ」

 

 なおも言葉を募ろうとした私へ、トレーナーは問答無用にタオルをかけた。有無を言わさず差し出された水筒を受け取ると、そのまま肩からコートをかけられる。ダウンの感触が冷えた体に暖かかった。

 

「クールダウンと柔軟を念入りにやること。それから、シャワーもきちんと浴びて。体を冷やして、風邪を引かないようにね」

「……わかったわ」

 

 渋々頷くと、トレーナーはようやく表情を緩め、タオル越しにポンと私の頭を撫でる。少しずつ落ち着いてきた呼吸を整えながら、私は水筒の蓋を開けた。彼は私の頭から手を退けて、使っていた備品類を片付ける。その背中をぼんやりと眺めながら、水筒を傾けた。

 失った水分を補給して、中身の減った水筒をトレーナーに預ける。言われた通りにクールダウンと柔軟を済ませ、私たちはトレーニングコースを後にした。

 

 

 

 日曜日でも使える学園内のシャワールーム。汗の染みた体操服を体から引っぺがした私は、いつもより熱くしたシャワーを頭の天辺から浴びていた。

 身に染みついたルーティーンで髪と体、尻尾を洗った私は、全身の泡を落としてなお頭から温水を被る。寒さで体が冷えていた、というのもある。でもそれ以上に、焦燥の多分に混じる思考を落ち着け、冷静になりたかった。

 床を打つ水滴の音に、盛大な溜め息が混じる。トレーナーに叱られても仕方のない自覚は、あった。

 

「……おばかね、私」

 

 ぽつりと呟いた唇を、前髪から滴ったシャワーの雫が湿らせる。再び溜め息が漏れて、私は瞼を落として顔を上げ、人口の雨にしばし打たれていた。

 ……焦る気持ちは自覚している。デビュー前から幾度となく経験してきた感覚だ。だからその付き合い方も、ある程度上手くなってきたとは思っている。でも今回は、自分で自分を押さえられていなかった。

 私の走りというのは、元々ムラが多い。展開がハマれば強いけれど、そうならないこともある。どんな状況にも対応できるほどの器用さは持ち合わせていない。どれだけ調子が良くても、それだけで勝てるほどレースは甘くないし、そこまで圧倒的な実力を私は持ち合わせていない。

 だから、勝ちきれないレースが続くことは、ままあることだ。ここのところは特にそうだった。

 全力を出し切ったと胸を張れれば、ある程度気持ちの晴れることもあるだろう。でも、ほとんどのレースにおいて、最善を尽くせた自信はあっても、全力を発揮できた自信なんてない。必ず何かしらの反省すべき点は見つけることができて、あの時もっとああしていればと無意味な「もしも」を考えて、それが一層悔しさを強くする。そして心の内に募り積もった悔しさの分だけ、背中と脚を焦燥感が伝った。

 次、勝つためにどうすればいいのか。次、勝つために何ができるのか。次、勝つために私のやるべきことは何なのか。……そんなもの、私は一つしか知らない。決して器用ではない私が、才能も努力も持ち合わせたライバルたちと戦う方法。それは、彼女たち以上の努力を重ねること――走ること以外になかった。

 走った。走った。走って走って、ひた走った。その度に、私の才能が磨かれていくのがわかった。昨日の自分に勝る実力を手にしているのがわかった。……けれど、背中と脚にとめどなく伝う焦りが、無言のうちに私へ問いかけた。これで十分なのか、と。

 努力など、いくら尽くしても足りない気がした。実際、努力はいくらしても十分と言うことはないのだろう。けれど、ただ我武者羅に積み上げるだけが努力でないことは、私だって知っている。故に私たちは、狂気と冷静に折り合いをつけながら、最大効率の努力を重ねていく。……募った焦燥感は、その絶妙なバランスをいとも簡単に突き崩した。

 走らなければ。走らなければ。走らなければ。走って走って走って、限界のその先まで走って、自分を追い詰めて、汗と泥にまみれてなお脚を動かして、血が滲むほどに奥歯を噛み締めて。そうしなければ勝てない。そうでなければ勝てない。もう、あんな悔しい思いをしたくない。……だから、私は勝たなければならない。

 走れば走るだけ、そんな思考が頭の中を支配していった。薄くなった酸素でぼやけた脳髄の隙間に、そんな考えばかりが入り込んでいった。そうやって、焦燥感が私を塗り潰すほどに、目の前の視界は狭く閉じていった。視界の端から闇に飲まれて行って、気づいた時には周りの何も見えなくなってしまう。一寸先すら見通すことの叶わない、思考のブラックホール。気づけば私は、その只中に落ちていた。

 再び俯いてシャワーを頭の天辺に受け、そっと目を開いた。視界は至ってクリアだ。足元で跳ねる水滴も、前髪からしとしと滴る雫も、少しずつ血色を取り戻す自分の肌もよく見えている。けれど、思考の闇は一向に晴れてくれない。光すらも逃さない暗黒に囚われたままだ。

 

「……何やってるのかしら、私」

 

 私自身「らしくない」と思いながらも、唇から言葉は漏れてしまう。暖まったはずの両手が震えて、思わず胸の前でぎゅっと握り締めた。手を重ねた胸が苦しい。もう呼吸はできるのに、肺の辺りが痛くて堪らなかった。

 

「私……何のために走っているのかしら」

 

 決定的な一言を呟くと、途端に込み上げるものがあった。それが零れる寸前に下唇を噛み締める。もしも溢れさせてしまったら、取り返しがつかなくなる予感があった。

 けれど堪えたせいで、行き場を無くした熱いものが体の内へと逆流し、渦巻いた。こんなに苦しい思いをして。こんなに痛い思いをして。こんなに辛い思いをして。私は一体何のために走っているのだろうか。確かにあったはずの走る理由は、思考の闇に遮られてしまって、思い出すこともできなかった。

 体の中で蠢く熱をごまかせず、私は再び瞼を落として、天を振り仰いだ。降り注ぐシャワーは温かいのに、まるで冬空から滴る雨のように寒々しく感じられた。

 

 

 

「お帰り、キング。もう始まるよ」

 

 長いシャワーからようやく抜け出した私へ、トレーナーは穏やかにそう声を掛けてくれた。

 訪れたトレーナー室は適度に暖房が効いている。備え付けの空調だけでなく、石油ストーブまで焚かれていた。天面に乗ったやかんがお湯を沸かして、シャンシャンと音を立てている。そのやかんからお湯を注いで、トレーナーは紅茶を淹れているらしかった。

 勧められたソファに腰掛ける。すぐ正面には、部屋備え付けの大画面モニターが用意されていた。キャスター付きの架台に据え付けられていて、チームのミーティングで使う時だけ、こうしてソファの近くまで運ばれてくる。普段はトレーナーが作成した資料が映されるけれど、今は別の映像が流れていた。

 画面に映されるのは、レースのテレビ中継。時間的に今日のメインレースが近く、元競技ウマ娘の解説員が注目されるウマ娘の「返し」の様子にコメントをしていた。それに合わせて流されるリプレイ映像では、各ウマ娘が煌びやかな勝負服をはためかせる。期待と緊張をない交ぜにした表情のウマ娘たちが、夕陽を受けるターフに蹄跡を刻んでいた。

 ジュニア級GⅠ、朝日杯フューチュリティステークス。その発走時刻が迫っていた。

 

「注目してる子はいるかな」

 

 少し甘くしたよ、と言いながら紅茶を差し出し、トレーナーはそんなことを尋ねる。二人でレースを観る時の、決まり文句だ。受け取った紅茶からほのかに漂うジャムの香りを感じつつ、私は彼から視線を逸らした。バツの悪い表情になっていることは、自分でもよくわかる。

 

「……出走するウマ娘を、把握していないわ」

「そっか」

 

 トレーナーはそれ以上何かを言い募ったりはしなかった。

 自分が一体、どれだけ余裕を無くしているのか、こういう時に思い知らされる。全レースとは言わずとも、メインレースの出走者くらいは、普段であればきちんと把握している。重賞戦線を主戦場とする私にとっては、今後どこかで競うことになるかもしれない相手だからだ。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。情報収集はレースにおいて基本中の基本だ。でも、今の私はその全く逆。競う相手のことも、走る自分のことも、何もわかっていない。

 零れそうになった溜め息を、口づけた紅茶と共に飲み込んだ。溶け込んだジャムから醸し出される柑橘系の甘さが、トレーニング後の疲労感にはありがたい。

 ソファに二人並んで眺める画面では、なおも実況のアナウンサーと解説員のやり取りが続いている。丁度、アナウンサーが解説員のイチ推しウマ娘を訊いているところだった。

 

『――それではズバリ、今回の注目は?』

『そうですね。私としては五番の――』

 

 解説員が名前を挙げたのは、現在四番人気に推されているウマ娘だった。三着に敗れた前走の重賞レースについてコメントする。その間に、ウマ娘の「返し」の様子が画面に映された。

 思わず息を飲む。GⅠという舞台、煌びやかな勝負服を纏ったウマ娘たち。その中にあってなお、映されたウマ娘から放たれる気配は、こちらの目を惹いた。不思議と視線を奪われてしまう魅力。少しして、それが彼女の身に着ける勝負服のためだと理解した。

 ほとんど確信を抱いて、私はぽつりと呟く。

 

「……お母さまの勝負服だわ」

 

 お母さまが得意とするデザインが随所に見られる。足し算だけでなく、大胆な引き算もデザインの中に取り入れられている。豪奢であるはずなのに、シンプルでスマート、そしてスタイリッシュ。何より、見る者の視線も心も一目で奪ってしまう、身に着ける者の輝きを最大限に引き出すデザインができる勝負服デザイナーなど、数えるほどしかいない。

 

「確かに、キングのお母さまがデザインしているみたいだね」

 

 レース新聞を開いていたトレーナーがそう言って、私に紙面を見せてくれた。GⅠレースの出バ表には、各ウマ娘の所属チームやトレーナー名、出身クラブチームなどと共に勝負服デザイナーの名前も記されている。五番のウマ娘の欄には、確かにお母さまの屋号が書かれていた。

 やっぱり、納得の呟きが唇から漏れたその時、画面の向こうがにわかに騒がしくなった。いよいよ出走時刻となり、コース脇にスターターが現れる。スタンドカーに乗ったその手が赤い旗を振り上げた時、年内最後となる関西GⅠファンファーレが鳴り響いた。手拍子で盛り上がる観客たちとは反対に、ゲート裏に控えるウマ娘たちの緊張は増していく。一人、また一人と、深い息と共にゲートへ収まっていった。

 大外のウマ娘が最後に収まって体勢完了となる。一瞬の静けさを挟んだ後、ゲートが開いてレースが始まった。

 まだレースに慣れていない子が多いからだろう、スタートはややばらついたものとなった。その中で、上手くゲートを出たウマ娘たちが先行争いを始める。積極的に逃げる子はいなかったようで、先行集団の内一人が押し出されるように先頭に立った。

 先行争いが一段落する頃には、阪神外回りコースの第三コーナーに差し掛かる。逃げウマ娘がいないからか、比較的スローペースでレースは進んでいた。隊列に大きな動きは無いから、このまま直線を向いて「よーいドン」のレースにになるだろう。ペースからしても、スタートを決めて前目につけた子たちが有利になりそうだ。

 三コーナーから四コーナーにかけて大きな動きはなく、残り六百メートルを切ったウマ娘たちの集団は、先行勢が一塊となったまま直線へと向かってくる。集団が固まっているので、うちの子たちが抜け出すのは一苦労だ。そうすると、外に位置をつけた子が有利そうに見えるが――

 

「っ!」

 

 目の醒めるような衝撃が私の視線を釘付けにした。一塊になった先行集団の中央ややラチ沿いに位置取っていたウマ娘が、各ウマ娘がラストスパートをかけたことでわずかに開いた隙間へ猛然と突っ込んで行ったのだ。

 隙間、と言葉では簡単に言うけれど、時速六十キロ以上で走り、周囲のライバルたちと駆け引きをしながらの状態で、体一つ分あるかないかの空間を抜けて行くのは針の穴に糸を通すのより難しい。相応の勘と技術を要する走り方であり、それ故にこの走りを得意とするのはシニア級のウマ娘に多かった。

 隙間を抜け出したウマ娘は、見事な末脚でぐんぐん先頭へ迫る。駆け抜ける風にはためき、ターフの上でなびく勝負服。オレンジに染まる日の光を浴びるのは、五番のウマ娘――お母さまの勝負服を着るウマ娘だった。

 言葉もなく、呼吸も忘れて、その姿に見入っていた。我武者羅で、ひたむきで、まだまだ粗削りな走りだ。ただ真っ直ぐに目の前の勝利を掴み取らんとする、あまりに実直で正直で、それ故にどこか泥臭く汗にまみれた走りだ。けれど、西へ傾く夕焼けの色を一身に受けるその姿は――

 

「綺麗――」

 

 呟いて、そしてハッと目を見開いた。心の奥底の、靄がかかったように見通せなかった部分が、急速に晴れていく。一寸先も見渡せない思考の暗闇の中、何も見えずに思い出せなかったことを、ただ一言の感想が確かに繋ぎ止めた。

 

 

 

――良い母親だったと思う。

 それは、まあ。家事は壊滅的にできなくて、料理も掃除も洗濯も全てメイド任せで、そういうことを私のためにしてくれたことはなかった。生粋の仕事人間で、いつも仕事に追われていて、私と遊ぶのもメイド任せにして、自分はずっと誰かの勝負服を作り続けていた。私が望んでいても、ほとんどの場合私の側にはいてくれなくて、だからその代わりをメイドたちが務めてくれた。周りの同級生や世間一般が指すような母親らしいことは、してもらった記憶がない。

 寂しい思いをしていなかったと言えば嘘になる。悲しく思わなかったと言えば嘘になる。触れてくれる温もりのない夜に、ぬいぐるみ相手に泣いてしまったこともあった。いつだって、お母さまに会いたくて堪らなかった。

 けれど、大切にされていないと思ったことはなかった。愛されていないなんて、感じたことはなかった。いつも一緒に入られない分、一緒に過ごせる限られた時間は、たくさん私のことを構ってくれた。楽しそうに私の洋服を選んでくれた。一日中私のおしゃべりに付き合ってくれた。晴れの日にはピクニックへ連れて行ってくれた。長いお休みにはあちこち旅行にも行っていた。誕生日には私の大好きなお店のケーキを買って、いつもより早く仕事から帰って来てくれた。確かに寂しい思いはしていたけれど、それを塗り潰して余りあるほどに、楽しい思い出もたくさんある。だから私は、お母さまから大切にされていないとも、愛されていないとも感じたことはなかった。……お母さまのことが大好きだった。

 そんな、大好きなお母さまが選んだのだから、私が勝負服デザイナーという仕事に興味を持ったのも必然と言えば必然だ。今思うと、幼い心にちょっとした対抗心を抱いていた。大好きなお母さまを私から取り上げる勝負服デザイナーというのは、一体どんな仕事なのだろう、と。……親の職業に嫉妬するなんて、なんとも幼かった。

 お母さまには内緒で、レースに連れて行ってほしいとメイド長にお願いしたのは、まだ小学校にも入っていなかった頃のはずだ。お母さまが勝負服を担当したウマ娘のレースを、私はスタンドからメイド長に抱えられて観ていた。そして、先頭でゴール板を駆け抜けたウマ娘に、私は一瞬で目を奪われた。

 美しかった。華やかだった。眩しいほどに輝いていた。――心の底から、綺麗だと思った。お花も、お洋服も、お星様も綺麗だと思っていたけれど。あの日あの瞬間目にした勝負服は、きっとこれ以上なんてないんじゃないかと思わせるくらい、綺麗に見えた。そして、その勝負服を着て泣き笑いを浮かべるウマ娘もまた、幼く小さな心臓を鷲掴んで離してくれないくらい、綺麗だと思った。

 これが、私のお母さまの仕事なんだ。レースを走るウマ娘を、こんなにも輝かせるのが、お母さまの仕事なんだ。そう思うと、幼いヤキモチなんてどこかへ吹っ飛んでしまうくらい、誇らしかった。

 

――「おかあさまのショーブフク、とってもキレイでした!」

 

 あの日の夜、お屋敷へ帰ってきたお母さまへ、私は拙い言葉で初めて見た勝負服の感想を伝えた。勝負服の知識も、憶えた語彙も全然足りなくて、私の感動を全て伝えきれた自信はなかった。でも、お母さまは私の言葉を静かに最後まで聞いてくれて、そうして最後には笑って抱き締めてくれた。

 

――「見ていなさい、キングちゃん。お母さま、これからたくさん、綺麗な勝負服を作るから」

 

 それはまるで、誓いの言葉みたいで。だから私も、威勢よく「はいっ」と返事をしながら心に誓った。いつか私も、あんな風に綺麗な勝負服を着るのだ、と。

 お母さまへの、ひいてはレースへの憧れは、幼い頃から――記憶も曖昧な、お母さまの引退レースを観た時から、ずっとあった。いつかお母さまのようになりたいと、あの頃もそう思っていた。でもきっと、レースの世界を強く意識するようになったのは、あの勝負服がきっかけだった。私も、あの日のウマ娘のように綺麗な勝負服を着られたら、どんなにか――

 

 

 

――懐かしい思い出を手繰るうち、レースはいよいよ最後の二百メートルを切っていた。

 二百メートルのハロン棒をほとんど同時に通過したのは、四人のウマ娘。ラチ沿いの子が二人と、外から伸びてきた子が二人だ。その内、ラチ沿いの一人はやむなく先頭に立たされた子で、すでにその脚は止まりかけて勢いがない。最終直線の争いは、外を回して抜け出した二人と、ラチ沿いで隙間を縫って飛び出した五番のウマ娘の、三人に絞られた。

 十秒と少ししかない、息の詰まる攻防。ここまで来てしまえば、駆け引きも何もない。ただ己の全力を振り絞る、真っ向勝負だ。

 仁川名物であるゴール前の急坂を、三人のウマ娘が駆け上る。夕陽の光芒に、機関車の蒸気のような白い吐息がたなびいた。飛び散り、置き去りにされた汗が、ダイヤモンドダストのごとく輝く。それらを纏うそれぞれの勝負服が、どこか幻想的に、美しくも儚く輝いた。

 息を飲むようなデッドヒート。互いに譲るまいとする、意地と意地のぶつかり合い。どのウマ娘が勝ってもおかしくない。反対に言えば、どのウマ娘が勝つのかわからない。

 けれど私には、不思議と誰が勝つのかがわかった。

 

「――勝った」

 

 次の瞬間、ラチ沿いのウマ娘が一気に抜け出した。残り百メートルを切り、坂を上り切ったその時、彼女はさらに一段階速度を上げたのだ。たった数歩のうちに外の二人をグンッと突き放す。そして勢いそのままに、彼女はゴール板を駆け抜けた。

 後続を気にしつつゆっくりと速度を落とすウマ娘は、握り締めた右拳を高々と振り上げる。大きく開けた口に真っ白な歯を覗かせて、何某かを叫んでいた。マイクはその声を拾っていなかったけれど、喜びの感情を爆発させているのがわかる。晴れやかな笑顔を浮かべる顔に、汗に混じって別のものが一筋流れていた。

 アナウンサーが興奮混じりの声で勝者の名前を高らかに告げる。ゆるりと立ち止まった彼女の西日に照らされる勝負服をカメラマンは捉えていた。肩で息をする彼女のもとへ同期のウマ娘たちが駆け寄り、拳や手を打ち合わせて互いの健闘を称える。そして、スタンドを振り向いた彼女の「ありがとうございましたっ」という言葉に、観客たちからは惜しみない拍手が贈られた。

 レース後の、ともすれば見慣れたはずのその光景を、画面越しに黙して見つめる。胸の前で重ねた手のひらをキュッと握り締めた。さっきまで痛くて堪らなかった胸が、また痛いほどに疼く。けれどそれは、凍えて震えるほどに寒々しいものではなくて、じりじりと燃え盛るように熱いものだった。

 ……ああ、私はやっぱり、焦がれている。レースの世界を志した、あの日と同じように。暗闇の中で忘れてしまいそうだった走る理由を、画面の向こうで眩く輝くウマ娘が、そして彼女の身に着けるキラキラと綺麗な勝負服が、私に思い出させてくれた。

 あそこに立ちたい。あの舞台で走りたい。あのターフの上で勝ちたい。――もちろん、私を一番綺麗に見せてくれる、勝負服を着て。

 

「……ねえ、トレーナー」

「うん?」

 

 早速レースの分析を始めていたトレーナーは、私が呼びかけるとすぐに顔を上げる。こちらを見つめる双眸に対して、私はいつも通り不敵に笑ってみせた。

 

「急だけれど、今からトレーニングプランを練り直しましょう。私の勝利のために」

 

 目を見開いたトレーナーは、けれどすぐに先程と同じような険しい顔をする。

 

「……構わないけれど。キング、これ以上の無理は――」

「大丈夫。わかっているわ」

 

 私を諫める言葉は、敢えてその途中で留めた。できる限り穏やかに、トレーナーを安心させるように微笑む。彼の心配が杞憂であると、そう伝えたかった。

 

「もう焦ったりしない。――ちゃんと思い出したもの」

 

 私が告げると、トレーナーはしばらくこちらをじっと見つめる。やがて険しかった表情を解き、いつも通り温和に笑った。「そっか」と言った唇があまりにも嬉しそうで、私まで釣られて頬を緩めてしまう。私の言葉を信頼してくれているのがよくわかった。

 そうと決まれば、善は急げだ。次のレースまで、それほど時間に余裕がある訳ではない。やれることは迅速に、一分一秒も無駄にはできなかった。決して器用でない私が、才能も努力も積み上げたライバルたちと戦う方法は、誰よりも努力することしかない。それも、誰よりも効率的で、濃密な努力を、だ。それが、信頼する私のトレーナーとなら成し遂げられると、私は知っている。

 ソファの上で身を寄せ合い、明日からのトレーニングプランを二人で練り始める。幸い、思索のお供になる紅茶は、まだカップに残っていた。優しい甘さで暖を取りながら、一つひとつ話を纏めていく。きっと、こうして積み上げていく時間も、私と私の勝負服を輝かせる糧になるのだと、そう思えた。

 

 

 

 見つめる地下バ道の先からは、熱気に包まれるスタンドの歓声が聞こえていた。

 ガランとした空間には、ターフを目指すウマ娘たちの吐息と足音だけが木霊している。鍛え抜いた肢体、磨き上げた技術、研ぎ澄ました精神。いずれも一流の、GⅠという舞台へ立つのに相応しいウマ娘たちの息吹が、この空間には充満していた。その只中に私も身を置いている。

 生涯に数えるほどしか訪れない晴れ舞台へと向かうウマ娘たちは、それぞれに想いを込めた勝負服へ袖を通す。ある者は勇壮に。ある者は華麗に。ある者は荘厳に。ある者は優美に。千差万別なウマ娘たちの個性を輝かせる、世界にただ一着の綺麗な勝負服を身に纏う。

 私もまた、私だけの勝負服と共にこの舞台へ立つ。気品と、勇気と、誇りと、情熱と――私の想いの全てを込めた勝負服をはためかせ、レースへと向かう。たった一つの栄冠を、この手に掴むために。

 ……トレセン学園に入学して、そして実際にレースを走るようになって、ようやく理解したことがある。どうしてGⅠという舞台に、勝負服という特別な衣装が用意されるのか、ということだ。

 勝負服とは、いわばウマ娘の想いを受け止める、器のようなものだ。そしてGⅠへの出走を許されるようなウマ娘は、レースへ挑む想いも一際大きく強い。それは多分、レースを走るウマ娘一人分の想いだけがそこにある訳ではないからだろう。共に歩むトレーナー、切磋琢磨するチームメイト、競い合ってきたライバル、応援してくれるファン、どこかで見守る家族。そして、数えきれないほどの挫折と努力と才能を積み上げてきた、これまでの自分自身。たくさんの想いが、一人のウマ娘と共にある。その想いに応えようとするウマ娘の想いもまた、人一倍強くなる。その想いを受け止めようというのなら、並大抵の衣装では務まらない。それこそ、ウマ娘一人ひとりの輝きを昇華し具現化したような、世界にただ一着の特別な衣装でなければ。

 ああ、それは確かに、勝負服デザイナーというのは大変な職業だ。何しろ、それだけ強く大きく、何者にも勝る輝かしい想いと真正面から相対さなければならないのだから。想いに応えられるものは、同じだけの想い以外にはない。ウマ娘がありったけの想いをぶつける勝負服だからこそ、それを作り上げようとする者は同じかそれ以上の想いをもって応える他ない。文字通り、自身の持ち得るありとあらゆるものを捧げて。

 込めた想いと、それに応えた想いの分だけ、勝負服とそれを着るウマ娘は輝くのだから。

 地下バ道を抜ける直前、脚を止める。軽く握った拳を胸元に当て、ゆっくりと息を吸い、同じ時間をかけて吐いた。瞼を落として天を振り仰ぐ。しばらくそうして、もう間近に迫ったレースの熱狂を窺っていた。

 ポツリと自然に唇が動く。ここにいない誰かへ――けれど確かに見守る誰かへ、私は問いかけた。

 

「どう? 私の勝負服、綺麗でしょう」

 

 私だけの想いを込めた勝負服。積み上げてきた時間と、重ねてきた努力と、噛み締めてきた挫折と、託されてきた信頼と、ほのかに届いた憧れと、その全てを込めた私の勝負服。世界でただ一着、私というウマ娘を輝かせるために作られた、私だけの勝負服。

 あと何回、この勝負服を着れるのかはわからない。まだしばらくレースを辞めるつもりなんてないけれど、私の意志とは別にどうしようもない事情が私の選手生命を絶つかもしれない。これからも走り続けるつもりで、けれどこれが最後になってもいいという、矛盾した決意と覚悟を抱えている。だから、この一回に、この一走に、この一瞬に、全身全霊を賭けて挑む。それがきっと、私も私の勝負服も最高に綺麗に見せてくれるのだから。

 閉じた瞼を開いて、一歩を踏み出す。はためく勝負服を誇りに。託された想いを矜持に。それらを纏う私自身を誉に。ふと、そんな私と勝負服へ「綺麗」と微笑む誰かの顔がよぎった。思わず口元を緩めながら、熱狂渦巻くターフを目指す。一生に数度しか巡ってこない晴れ舞台は、もうすぐそこまで迫っていた。

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