キングが10歳くらい、キングが玉子焼きを作るお話の少し前のお話です。キャラスト内のキングの発言から妄想を膨らませています。
「――それでは奥様。始めて参りましょう」
メイドたちも寝静まった春の夜更け。キッチンにだけ灯した明かりのもと、緊張した面持ちの主人へ私はそう告げました。
「ええ。お願いするわ、メイド長」
お屋敷の主人――奥様はやはり硬い声音でお返事をなさいます。普段見慣れないエプロン姿の奥様は、その裾の向こうで不安げに尻尾を揺らしておりました。邪魔にならないようにと結んだポニーテールの側で、カバーをしたウマ耳がピコピコと落ち着きを無くしております。
珍しい奥様のご様子に、しかし無理からぬことかとも思います。お屋敷の家事全般は、普段私を含めたメイドたちにお任せをいただいております。それは、奥様のお忙しさはもちろんのこと、奥様自身が家事に疎いことも理由でございました。特にお料理の類はてんでダメだと伺っております。
そんな奥様がキッチンへ立ち、これからお料理をなさろうというのですから、緊張もひとしおでございましょう。ましてそれが、大切な方――お嬢様へ振る舞われる、誕生日のケーキともなれば、尚更。
――ことの発端は、幾日か前まで遡ります。早朝、起床したばかりの私を訪ねていらした奥様は、申し訳なさと焦りを多分に含ませたまま、私をキッチンへとお連れになりました。そしてそこには、見るも無残な何かの塊が鎮座しておりました。
事情をお伺いしますと、「キングのためにケーキを作ろうとしたのだけれど……」と困ったように奥様はおっしゃいました。どうにも上手くいかず、その結果出来上がったものが、無残な塊の正体でございました。
普段お料理をされない奥様が、なぜケーキを自作なさろうとしたのか。疑問はあったものの、ともかく私は、日を改めての再挑戦をご提案したのです。もちろん、私も側でお手伝いさせていただく、とも。
お忙しい奥様のご予定の合間を縫い、ようやく再挑戦となりました今夜は、くしくも四月二十七日の夜。時計が十二時を報せれば、お嬢様の誕生日を迎えます。
ポン、と柏手を打ち、私は早速ケーキ作りの開始を告げました。材料はすでに取り揃え、キッチンへ並べております。奥様のご要望で、今宵はお嬢様の大好きなショートケーキを作る予定でした。
事前に調べたレシピと、私の助言のもと、奥様が手を動かします。慣れないからでしょうか、奥様の手つきはどことなくぎこちないものになっております。時折力加減を間違え、材料をエプロンへ飛ばしてしまったりもされます。しかしそれでもなお、根気強く取り組んでいらっしゃいました。
型に流し込んだ生地をオーブンへ入れたところで、一旦の区切りがつきます。ほうっとひと息を吐かれた奥様に、私は紅茶を差し出しました。
「ケーキを作りたい、とおっしゃった時は驚きました」
また、どうして。改まって私が尋ねますと、奥様はしばし目を伏せます。うっすらと、気恥ずかしげな苦笑いが浮かんでおりました。
「キングが喜んでくれるかと思って」
純真無垢な言葉が私の耳朶と心を打ちます。今更ながら、野暮な質問をしてしまったと反省をしました。母が子にケーキを作る理由など、他にはございませんでしょう。
知人から誕生日ケーキを作った話を聞いたのだ、と奥様はさらにおっしゃいました。お菓子作りが趣味だというその方から、手作りのケーキで喜ぶお子様の写真を見せていただいたのだそうです。
「……単純よね、私。彼はお菓子作りが趣味だったから、そういう方法を選んだだけなのに」
奥様はまた微苦笑を零されます。私はそれに「いいえ」と首を振りました。理由もきっかけもどうであれ、母が子に何かをしてあげたいと思うことは、これもまた自然なことでございましょう。私でさえそうなのですから、奥様はお嬢様に対して、一層強くそのようにお考えでしょう。
あるいは、お仕事柄お嬢様と過ごされる時間の少ない分、人並み以上にそうお考えなのかもしれません。
「きっと、お嬢様もお喜びになります」
「……そうね。そうだといいわ」
奥様ははにかんで、残りの紅茶を飲み干されました。ケーキ作りはまだ途上でございます。生地が焼けるまでの間に、少しでも作業を進めてしまおうと、奥様と二人気合いを入れ直しました。
四苦八苦の末、ようやくケーキが完成した頃には、すでに二十八日を迎えておりました。
完成したホールケーキを横へ避けつつ、私は味見用に作った小さなケーキを切り分けます。奥様と私の二人分、淹れ直した紅茶と共にキッチンへ並べました。銀色のフォークをその脇にそっと添えます。
「味見をお願いいたします」
脱いだエプロンを受け取りながら、奥様へそうお願いいたします。解いた髪に手櫛を通した奥様は、珍しく疲労の見えるお顔で頷きました。躊躇いがちな指先が音もなくフォークを取り上げます。三叉の先端がクリームへ沈んでいく様子を、エプロンを畳みながら見守っておりました。
鮮やかな苺の見える断面を一口分すくい取り、奥様はゆっくりとケーキを口にしました。静かに目を閉じ、とても真剣に、吟味し批評するように、たっぷりと時間をかけて味わっております。
エプロンを畳み終わり、私もケーキに手をつけます。フォークの先から伝わる感触が、スポンジの出来を物語りました。柔らかな反発と共に一口分を切り分けます。
口へと運んだ途端、ホイップクリームの甘さが下に絡みつきます。その後に、スポンジのほのかな甘さと、イチゴの瑞々しい甘酸っぱさが鼻腔をくすぐりました。私はそれに納得し、一つ二つと頷きます。初めてとは思えないほど、上出来のショートケーキに仕上がっておりました。
「おいしいです、奥様」
率直な感想を申し上げ、隣の奥様へと目を向けます。しかしながら、私とは正反対に、奥様は難しい顔をされておりました。整った眉根を寄せ、深い皺を刻みます。軽く握った拳が考え事をするように唇へ添えられておりました。
やがて、奥様はそっとフォークを置かれます。奥様の出された結論を察した私は、何か申し上げようかと考えを巡らせますが、それよりも先に奥様が口を開きました。
唇の合間より、小さきな溜め息が漏れ出ます。
「……ダメね。てんでダメ」
そのようなことは。私の言葉は、納得する様子無く首を振る奥様には届いておりませんでした。
「やっぱり、付け焼刃じゃプロには敵わないわね」
もう一度ケーキを口にし、そしてホールケーキの方も見遣った奥様が、冷静に現実をお告げになります。
飾り気のないスポンジ。不揃いな苺。その甘さを引き立てるには至らないホイップクリーム。そしてどこか不格好な飾りつけと、チョコレートのメッセージプレート。確かに、普段奥様が買っていらっしゃる洋菓子店のケーキとは、雲泥の差です。一目で素人が作ったものとわかります。どれほどおいしくとも、プロの作ったものには敵わないでしょう。
けれど、それだけではないはずです。こと誕生日ケーキであれば、見た目や味が全てではございません。少なくとも一点、奥様がお嬢様を想う気持ちだけは、どのようなプロの作ったケーキにも勝っているのですから。
「ですが、きっとお嬢様はお喜びになります。奥様が、お嬢様に喜んでほしいと、お作りになったのですから」
「そうね。私もそう思うわ」
けれど、だからこそダメなのよ。奥様はそう固辞されました。伏し目がちな横顔に、一瞬だけ残念そうな表情が浮かびます。ですがそれもひと時のこと、奥様は吹っ切れたようにお顔を上げました。
「ありがとう、メイド長。それから、ごめんなさい。やっぱり、ケーキは今日買って帰ってくることにするわ」
余ったケーキは隠しておいて、後で二人で食べましょう。奥様のご指示に私は渋々ながらも了承の意を示します。それが顔に出ていたのでしょう、奥様はとても優しく――お嬢様の頭を撫でる時のように優しく微笑んで、さらに言葉を続けてくださいました。
「あの子には、一番おいしいケーキを食べてほしいの」
◇
「――ねえ、メイド長」
アフタヌーンティーの準備をしておりますと、小学校よりお戻りになったお嬢様がキッチンを覗かれて、私をお呼びになりました。お茶菓子の準備を進めていた私は、一旦その手を止めてお嬢様へと向き直ります。カウンター越しにこちらを窺う栗色の瞳が、ほんの少し揺れておりました。
「ケーキはまだあるかしら」
お嬢様は妙なことをお尋ねになります。
奥様が買っていらしたお嬢様の誕生日ケーキは、昨晩の御夕食の後にすべて食べてしまっております。ホールケーキを六等分ずつ、私を含めたメイドたちもその時ばかりは席につき、いただきました。残りがないことは、お嬢様もご存じのはずです。
「お嬢様、ケーキは――」
そこでふと、私は言葉を留めました。
……ケーキは、まだあるにはあるのです。存在しないことになっているケーキ。私と奥様しか知らないケーキでございます。
きっと、お嬢様も気づいていらしたのです。広いお屋敷ではございますが、隠し事ができるほどに広くはございません。まして聡明なお嬢様に対してなど。それこそ、鍵でもかけてしまわなければ、隠し通すことは難しいでしょう。
ふっ、と私は力を抜いてしまいます。やはり私は、そのケーキの存在をお嬢様に知っていただきたかったのでしょう。
そっと人差し指を唇に添えて、私はお嬢様にお願いをいたします。
「……奥様には、内緒でございますよ」
パッと明るくなった表情で頷かれるお嬢様に、私もつい頬を綻ばせてしまいました。
奥様のケーキは、キッチンの冷蔵庫ではなく、使用人用の休憩室にある冷蔵庫へ隠しております。すでに二切れを取り分けたケーキからさらに一切れを取り分け、淹れたての紅茶を携えてダイニングへ。ソワソワと落ち着かない様子で席へ着いていらしたお嬢様の、その前にケーキと紅茶を並べました。銀色のフォークもそっと添え置きます。
「どうぞ、お召し上がりください」
私が勧めましても、お嬢様はすぐには召し上がらず、しばらくジッとケーキを見つめておいででした。フォークを手にすることもなく、ただ静かにまあるい栗色の瞳へ写し取っております。微かに唇から苦笑いを漏らし、「確かに少し不格好かも」と呟かれました。
ようやくフォークを手に取られたお嬢様が、ケーキを一口分切り取り、ツっと三叉で突かれます。甘いクリームの香りをまとったスポンジが、ゆっくりと小さな唇へ吸い込まれました。お嬢様はそっと瞼を落とし、心ゆくまで味わい尽くされます。長い睫毛の整った横顔が、随分と奥様へ似ていらしたと、ぼんやりそんなことを思っておりました。
お嬢様は、たっぷりと時間をかけてケーキを咀嚼し、嚥下されます。開かれた目が再びケーキを見つめます。その眦は蕩けるように緩んで、そして優しく微笑んでいらっしゃいました。
「……もう。ちゃんとおいしいじゃない」
変なお母さま。コロコロと小さな笑みを拳の内へ零し、お嬢様は二口目へ手を伸ばされます。そこからは、普段と何ら変わりのないお茶の時間となりました。ただ、ケーキと紅茶のハーモニーを楽しまれるお嬢様のご様子は、格段に幸せであったようにお見受けいたしました。