晩夏ウマ娘企画に合わせた作品でもありました。
『ねえ、今から会えないかしら』
夕食終わりの合宿所、唯一のプライベート空間であるボンクの中で、私は三分ほどかけてそんな文面を書き上げた。送信ボタンに指を伸ばしかけて、押す寸前で思い留まる。トーク画面の一番上、今まさにメッセージを贈ろうとしている相手の名前を確認した。アカウント名をわざわざ設定し直した、「トレーナー」の文字がそこにはある。
じゃんけんで負けた末の二階のボンク。下のボンクの子がいないのをいいことに、柵の間から投げ出した足をはしたなく揺らす。パタパタ。落ち着かなくて、しばらくそうしていた。スマホの画面が自動的に明度を落とす。
「……ま、その時はその時よね」
そう自分に言い聞かせて、画面の明度を戻し、送信ボタンを押す。私のメッセージが確かに送信されたことを示して、文面の横に時刻が刻まれた。午後六時。夏も終わりとなればまもなく陽も沈む頃合いだ。
すぐに既読がつかないとわかると、私はスマホの電源を落として、ボンクの端の方へ置いた。投げ出した足をまたパタパタと揺する。やることはなくて、結局私はまたスマホを取り、ロックを解除した。すぐに表示されたトーク画面の右上から、アルバムを開く。二日前の日付と「夏祭り」の文字が打たれたフォルダをタップした。フォルダの中には、トレーナーと二人で撮った写真がずらりと並ぶ。
一枚、一枚と写真をめくっていく。私の撮った写真がしばらく続いた。かき氷、焼きそば、射的に金魚すくい――それからトレーナー。色んな事が思い出されて、愉快で、嬉しくて、思わず笑ってしまった。楽しい夏の思い出だ。
その時、バイブレーションと共に新着メッセージを報せるアラームが鳴った。写真にすっかり見入っていた私は、突然の出来事に肩を跳ねる。その拍子にスマホが手から飛び出して、慌ててお手玉をしてキャッチした。息を一つ吐いて、メッセージを確認する。トレーナーからだった。
『いいけど、何かあった?』
わずかに身構えた文面。それはそうよね。トレーニングも終わった時間に担当から連絡があれば、きっとどんなトレーナーだって身構える。
唇の隙間から息が漏れた。心配性なんだから。そう思いつつ指を動かす。返事はすぐに書けた。
『ただのお散歩よ』
トレーナーからは、安堵した様子の返信がすぐに来た。
三十分後に合宿所の正門で落ち合う約束をして、トーク画面を閉じる。まだしばらく時間はある。そう思って、ふと自分の格好に目を落とした。学園指定の体操着にジャージ。合宿中の部屋着は基本的にこれだ。
柵の間から足を引き抜き、ボンクの中を移動する。梯子を伝って部屋へ降りて、一人が一つ使えるクローゼットを開いた。中には合宿にあたって持って来た荷物と衣類、それと靴。
「どんな時でも、身だしなみは大切よね」
ハンガーにかけておいたワンピースを取り出した。夏祭りには浴衣を借りて繰り出したから、結局出番がなかったのだ。それからサンダル。涼しさと実用性とデザインを兼ね備えた今夏のお気に入りだ。
髪を整えて、ワンピースに着替え、サンダルを持って部屋を出る。丁度その時、同室になっていたスペシャルウィークさんとすれ違った。不思議そうな目をして彼女は首を傾げる。
「キングちゃん? どこか行くの?」
「ええ、少し散歩よ。門限までには戻るわ」
スペシャルウィークさんはそれで納得したらしく、「いってらっしゃい」と笑顔で手を振ってくれた。それに手を振り返し、玄関を目指す。手首の腕時計が、待ち合わせまであと五分だと告げていた。
ヒグラシの鳴く正門前に人影があった。背格好と立ち姿でトレーナーだとすぐにわかる。彼は特に何かをするでもなく、妙にソワソワしながら海の方を眺めていた。
サンダルの音で気が付いたのか、私が近寄るとトレーナーがこちらを振り向く。夕闇の中で、双眸だけがきらりと光った。細くなった瞳に妙な動悸を覚える。夕暮れの中で合宿所から抜け出して、わざわざ待ち合わせをしてからお散歩に行くなんて、なんだか恋人同士の逢引きみたいだ。そう思うと、なんだかイケナイことをしている気分になった。
「こんばんは。キングより先に来てるなんて、殊勝な心掛けね、トレーナー」
「こんばんは。君を待たせるわけにはいかないからね」
彼が真面目腐った顔で言うものだから、思わず笑ってしまった。
行き先を尋ねた彼に、特に決まっていないと答える。お散歩はお散歩だ。気の向くまま、脚の向くまま、特に計画もなく二人並んで歩くのも、たまには悪くないだろう。今日はそういう気分だったから、こうして彼に声を掛けたのだから。
「それなら、海を歩こうか」
特に考えた様子もなく彼はそう提案した。彼も今しがたぽっと思いつくままに口にしたみたいだった。日が暮れて、少しずつ星が支配していく水平線を、潮騒を聴きながら歩く。いい気分転換にもなりそうだし、なんだかロマンチックだ。そう思って、私は彼の提案に頷く。
合宿所の前に広がる海と浜辺は、昼の間またとないトレーニングスペースとなる。でも日が暮れると、そこにはまた違った空間が広がっていた。ウマ娘やトレーナーたちの声が響かない、静かな浜辺。こう見るとただのプライベートビーチだ。昼間の喧騒が嘘みたいに、今は打ち寄せる波の音だけが静かな時を支配していた。
風が髪を通り抜ける。少し強いかもしれない。でも寒くはない。夜とは言ってもさすがにまだまだ夏だ。吹く風は生暖かく、髪とワンピースをはためかせる。体を包む夜の気配が心地よい。
「――海に来て、正解だったわ」
明日のトレーニングの打ち合わせが一段落したところで、私はふと呟いた。波打ち際を見遣りながら、素足できめの細かい砂を踏む。お気に入りのサンダルは、もう脱いでしまった。よく考えたら、散歩へ行くのにサンダルというのも、ナンセンスだったかも。
「いい気分転換だよね。俺もたまに、宿舎を抜け出して散歩してる」
「あら、そうだったの。誘ってくれたらよかったのに」
「それだと、キングが門限に引っかかるね」
私たち学生と違って、トレーナーに門限も消灯時間もない。大人だという理由だけでこの扱いは、なんだかずるい気もする。でもその分、彼が遅くまで仕事をしてることも知ってる。だからずるいと思うより、私が同じ立場じゃないことがもどかしい。
「ここへ来て、いつも何を考えてるのよ」
「んー、色々。トレーニングのメニューとか、レースの予定とか、休養にいいところはないかとか」
指折り数えながら彼は言う。思わず笑ってしまった。それだと気分転換というより、思索のお供という感じだ。それに考えてることは、私と後輩二人、彼の担当ウマ娘のことばかりじゃない。
「ふふっ、何よそれ。ほとんど私のことじゃない」
「ああ、確かに。言われてみればそうだ」
言われて気づいたという風に、彼はへにゃりと口元を緩めて苦笑いした。息抜きには全くなっていないという事実に、今更ながら気づいたんだろう。鬼のようにメモを取ることといい、山のように資料を読み漁ることといい、こうしてあらゆる時間を私たちのために費やすことといい、全力で取り組むことしか知らないみたいだ。そういうところが心配でもあり、でもそれ以上に嬉しくて堪らない。この人をトレーナーに選んだこと、この人に担当ウマ娘として選ばれたこと、それが間違いじゃないんだって、そう思える。
「――ま、そういうところ、私は好ましく思ってるけど」
「そっか」
照れ隠しなのか、返事は短くて素っ気なかった。砂の足元を見つめながら、彼は頭の後ろを掻く。満月に一番近い月が照らす頬に、白い光とは別の色が宿っていた。
やや大きな波が寄せると、飛沫が私の足を濡らした。波打ち際はすぐそこだ。崩れた波頭に泡と星光が混じってキラキラとしている。
「えいっ」
不思議な瞬きに誘われるように、砂浜にサンダルを投げ捨てて、波の中へ足を差し入れた。打ち寄せた夜の海が足首をさらっていく。ヒヤリとした水の感触が心地よい。ワンピースの裾を持ちあげながら少しずつ深いところへ。ふくらはぎのあたりまで浸かると、踏み出すたびにパシャリと水が跳ねる。
「濡れるよ」
「足までだから大丈夫よ。トレーナーも来なさいな。気持ちいいわよ」
彼は軽く息を吐きながらも、靴を脱いでズボンの裾をまくった。波へ真っ直ぐに足を踏み入れて、歩み寄ってくる。足元で水滴を飛ばす海を見つめながら、「おおっ」と感嘆の声を上げている。はしゃぐ気持ちがこちらへ伝わってきた。ふっと笑う顔がまるで私と同じ子供みたいだ。
「海なんて久しぶりだ」
「気持ちいいでしょう?」
「そうだね。これはなんだか楽しいな」
そう言って口の端を吊り上げる彼に目を細める。弾む心地で足を遊ばせた。パシャリと持ち上がった海水が飛ぶ。大小の水滴に月光が宿って反射して、花火みたいにキラキラしていた。
しばらくそうやって、波打ち際で海と戯れた。珍しく彼が思い出話をしてくれた。子供の頃、波打ち際で大波に飲まれて溺れかけ、大泣きした話だった。以来つい最近まで、海は苦手だったという。そういえば、クラシック級の頃に遠泳トレーニングをしていた時、なんだか彼の顔色が優れなかった気がする。
「波が怖かったなんて、トレーナーも子供の頃があったのね」
「それはもちろん。今だって、大人かどうかはよくわからない」
「ふーん」
でも、私には十分大人に見える。
「ねえ――」
「キングッ!」
私が彼を呼ぼうとしたその時、切迫した声で彼が私を呼んだ。鬼気迫る表情で彼が波を掻き分け、私へ駆け寄る。伸びてきた両腕に何が何だかわからず、頭が真っ白になった。身体を固くしたまま、ぎゅっと思いっきり目を瞑る。
腿の辺りを抱えて、背中に手を添え、そのまま垂直に私の体を水面より抱え上げる彼。ふわりと、私の体は軽々宙に浮いた。お姫様抱っこされた時とはまた違った感覚。何が何だかわからずに、私はただ彼にされるがままだった。
間髪を置かずに、私の脚を冷たいものが濡らした。散った飛沫が微かに顔にもかかる。潮の香り。少しして、波がかかったのだと理解した。
ゆっくりと目を開く。見降ろす位置に彼の顔があった。月光だけでもわかるくらい、その体が濡れている。湿ったワイシャツが彼の体にへばりついていた。
「トレーナー……」
「……濡れちゃうよ、キング」
私を見上げるようにしながら彼はそう言った。
きっと大きな波が来ていたんだろう。それこそ、昔彼がさらわれたような波が。だから彼はこうして私を抱き上げて、庇ってくれたのだ。自分がびしょ濡れになるのも構わずに。
レースが終わった時みたいに心臓が鳴っている。ゴール板を駆け抜けて、外ラチのところに立つ彼へ歩み寄る時みたいに、バクバクと激しい鼓動がする。堪らなくて、痛いくらいに。
「……あなたが濡れていたら、仕方ないじゃない」
飛沫のかかった彼の前髪に指で触れる。塩を含んだ水滴が私の指を濡らした。彼は「そうだね」と優しく苦笑いして、私を降ろしてくれた。
夏の夜はまだ温かい。風も冷たくなくて、空気もぬるま湯みたいだ。でも、濡れたままでいたら風邪を引いてしまう。夜のお散歩は切り上げて、彼を宿舎に帰してあげないと。
「キング――」
申し訳なさそうな顔で彼が私を呼ぶ。「悪いけど、散歩はここまでにしよう」って、そう切り出すんだろう。
だから、その前に。
私は思いっきり、後ろに向かって倒れこんだ。
「キング!?」
驚いた彼の声が聞こえるより前に、私の体は海の中へと吸い込まれる。盛大に水飛沫が上がって、夜風の代わりに宵海が私の体を包み込んだ。ふかふかとした砂底にしりもちをつく頃には、全身がびしょ濡れになっている。お気に入りのワンピースも、お洒落をした耳カバーも、整えてきた髪も、容赦なく海水を被った。跳ねた水飛沫が唇にかかってしょっぱい。普段なら絶対に嫌なのに、今は笑いが止まらなかった。
「キング……わぷっ!?」
慌てて駆け寄ってくるトレーナーに、思いっきり水を跳ねかける。まるで遊び方を覚えたばかりの子供みたいに、ただ手ですくった海水を跳ねかける。でもそれも長くは続かなかった。あんまり可笑しくって耐え切れなくて、その場でお腹を抱えた。背中に波が当たって砕ける。
「あーあ、おっかしい」
「キング、どうして……」
困惑した顔で彼が手を差し伸べた。今度は素直にその手を取る。でも、まだ可笑しさは収まらない。ふつふつと湧き起こる笑みを拳の内で噛み殺しながら、私は答えた。
「理由なんてないわ。――あなたが濡れるなら、私も一緒に濡れたかっただけよ」
それ以上の理由なんて、ほんとに無かったのよ。
二人で砂浜に上がり、履いてきたものを手に取る。私のハンカチはびしょ濡れで、辛うじて無事だった彼のハンカチを二人で使った。でもそれも、すぐに濡れて使い物にならなくなる。
「びしょ濡れね。――悪いけどトレーナー、お散歩はここで終わりにさせてもらうわ。早く帰って服を替えないと、風邪を引きそうだもの」
私がそう提案すると、彼はまた困った風に笑って、わかったと一つだけ頷いた。
濡れた服からお揃いで水滴を垂らして、二人で合宿所を目指す。砂まみれの足でサンダルを履くと、変な感触がして気持ち悪い。でも不思議と嫌な気はしなかった。彼も同じ思いをしているのだと思うと可笑しくて堪らない。
宿舎の前で「おやすみなさい」と言って別れた。時計を確認すると、まだお風呂の使用時間には間に合う。急いで部屋に戻って、着替えとタオルを取ってきた。スペシャルウィークさんの真ん丸に見開かれた目を、それっぽいことを言って何とかごまかす