小学校中学年くらいのキングと花火大会の思い出。
うっすらとかぐや様オマージュです。
着信を知らせる画面には「お母さま」の文字が光っております。お嬢様のお母さま――お屋敷の主である奥様からのお電話でした。お嬢様のお許しを得て、私が代わりにお電話を受けます。
「メイド長でございます、奥様」
『あ……メイド長』
携帯の向こうに聞こえる奥様の声は、ひどく沈んで、そして安堵しているご様子でした。
『キングはどうしてるかしら』
「ただいま浴衣をお召しになっているところでございます」
『そう……。かわってもらえるかしら』
「お待ちください。――お嬢様」
メイドの手を借りて帯を結んでいらっしゃるお嬢様をお呼びします。奥様に似せて長くされた髪を、今宵は顔の右で結っておまとめになったお嬢様は、ぴょこぴょこと愛らしくお耳を動かして私を振り向きます。奥様がお呼びです、と伝えると、お嬢様はスピーカーにするようにお答えになりました。
スピーカーにした携帯を、お嬢様の前に置きます。お嬢様は浴衣を早くお披露目したくて仕方がないという様子でニコニコと笑って、お電話に出ました。
「もしもし、お母さま? 今浴衣に着替えてるのよ。帰ってきたら存分に見せてあげるわね。それで、一緒に花火を観ましょう。だから、早く帰って来てね」
浮き立つ心そのままというように告げたお嬢様。けれど、電話口の奥様のお返事は歯切れが悪く、ひどく落ち込んでいるご様子でした。お嬢様もお気づきになったようで、不安げな表情を覗かせて携帯の向こうの奥様へ問われます。
「お母さま? 何かあったのですか?」
『……キング』
随分と長い躊躇いの間がございました。奥様がゆっくりと息を吸う音まで聞こえた気がします。私も、もう一人のメイドも、お嬢様と奥様のやり取りを固唾を飲んで見守っておりました。
『……ごめんなさい、キング。帰れなくなってしまったわ』
「……え」
栗色の瞳がぐらりと揺れる様子がはっきりと見えておりました。
急な衣装デザインの依頼が入ってしまったこと。初めてGⅠを走るウマ娘の勝負服であること。出走が急遽決まったので、急いで製作しなければ間に合わないこと。そのための資料を用意しなければならないこと。事務所の他の方にも手伝ってもらって急いでいるけれど、花火大会には間に合いそうにないこと。一つ一つ事情を丁寧にご説明される奥様は、けれど今にも申し訳なさで消えてしまいそうな声音で、半ばパニックになっていらっしゃるようにもお見受けいたしました。それを、お嬢様の方はただ静かに、時折相槌を打つだけでお聞きになっておりました。
『ごめんなさい、キング。一緒に花火を観る約束、守れなくて』
全てを語り終えたらしく、奥様はそこで言葉を切りました。何も声を発しなくなった携帯の画面を、お嬢様は小さな唇を開かずに見つめております。髪の間に覗く横顔からは、お嬢様のお気持ちを窺い知ることは叶いませんでした。
しばらくした後、お嬢様はゆっくりとお顔を上げました。鏡に映る表情が困ったように眉を八の字にしております。「仕方ないわね」と強がりな溜め息を吐いているように、私には思えました。
薄桃色の唇がゆっくりと開かれます。溜め息を吐き出すように、お嬢様は短い言葉を紡がれました。
「――ええ、わかったわ」
それはとても……とてもとても大きなものを飲み込んだ「わかったわ」のように、私には思えたのです。
『キング――』
「そのウマ娘には、お母さまの勝負服が必要なんでしょう」
何かを言いかけた奥様を遮るように、お嬢様はそうおっしゃいました。携帯の画面を見つめる目は、もう揺れ動くことなく、静かでお強いものになっておいででした。どこか誇らしげでもあります。私はその横顔をただ見つめていることしかできませんでした。
電話の向こう側で奥様は覚悟を決めたご様子です。一つ息を吸った後に聞こえてきた声音は、今を時めく一流デザイナーのものへと様変わりしておりました。
『――ええ、そうよ。彼女を輝かせるためには、私のデザインした勝負服が必要なの。彼女はそれを望んでる。その期待を裏切ることはできないわ』
「でしたら、その期待に応えてくださいな。でなければ、このキングとの約束をふいにしたこと、許さないんだから」
『もちろんよ』
奥様の答えに、お嬢様は満足げに頷かれます。端から見ているだけの私からしますと、一体どちらが母で娘なのか、わからないほどです。こういう時のお嬢様は、年齢よりも随分と大人びて、逞しく頼もしくなられます。
話は終わりと、どこか素っ気なくお嬢様は通話を切ろうとされました。
「それじゃ、お母さま。お仕事頑張ってね」
『――なるべく早く帰るから』
奥様の声が最後に元へ戻ります。娘を想う母としての感情が、そこへ全て込められているような気がいたします。お嬢様がそれをどうお受け取りになったかは、横顔からはわかりません。
「ええ、期待して待ってるわ。――間に合わなければ、そっちから花火を観てください」
『……ええ、そうするわ』
お嬢様はそこで通話終了のボタンを押されました。画面はすぐにロック画面へ切り替わります。お嬢様と奥様が笑顔で並んで映っておりました。
しばらく、部屋の誰も言葉を発しませんでした。お嬢様は黙ったまま、色んなものを噛み殺すようにじっと、携帯の画面をご覧になっておいででした。
やがて細い浴衣の肩を竦めて、お嬢様はこちらを振り向きました。眉を八の字に下げて、困ったわとお嬢様は苦笑いをされます。残念そうな様子はどこにもありません。少なくとも私には感じられません。けれど半分に折れてしまったお耳が、お嬢様の心の内を物語っておいでです。
「……一流デザイナーを母親に持つのも、考えものね」
溜め息交じりのお言葉。それに傷ついたような表情を見せたのは、当のお嬢様ではなくメイドの方でした。
「……折角、」
悲しげで寂しげな若いメイドの表情。普段よりお嬢様と親しくしていることもあり、お嬢様の内心を想って感情を抑えきれていない様子でした。お嬢様を見つめる目が、今にも泣き出しそうです。
「折角、お嬢様が浴衣をお召しになったのに、奥様がいらっしゃらないのでは意味が……」
俯き加減で悲しそうにしているメイドを、私は止めようと口を開きかけました。それはお嬢様が口にしない限り、メイドが口にしていいものではございません。今一番その想いを強くされているのは、お嬢様なのですから。
けれど、私が言葉を発するより先に、お嬢様がメイドへ声をお掛けになりました。
「意味がないなんてこと、ないわ。あなたたちと爺やに見せてあげられるじゃない。それに、浴衣を着て、花火を観ることに意味があるのよ」
着付けの終わった浴衣をひらりと舞わせて、お嬢様はその場で一回りしてみせました。髪飾りが踊ります。袖がはためきます。散りばめられた花の柄から、花びらと香りが舞い飛ぶかのような気がいたします。そうして、その花に負けないほど可憐な笑顔をお嬢様は見せるのです。
メイドは一瞬息を呑んで、それからありがとうございますと笑っておりました。それに、お嬢様は安堵した様子で息を吐かれます。メイドを気遣ってのお言葉であることは明白でした。お嬢様のお優しさに免じて、私は開きかけた口を閉じます。
お嬢様は次に、私の方へ目を遣りました。頼みごとをする表情が、やはり奥様とそっくりでございます。
「メイド長。悪いけれど、お夕飯を一人分、残しておいてくれるかしら。お母さま、きっとお腹を空かせて帰ってくるわ」
メイドとしてこのお屋敷へ――いいえ、お嬢様にお仕えして早十年。感情を抑えることをこれほど困難に感じたのは、今日が初めてでございました。
「かしこまりました」
お嬢様の優しさに敬意を表しつつも心が痛み、私は深々と一つお辞儀を致しました。
「……お母さまも、花火を観てるかしら」
花火大会の会場へは足を運ばないことにしたお嬢様は、お屋敷のバルコニーから花火を見つめておいででした。雰囲気だけでもとメイドが用意した即席のチョコバナナを頬張るお嬢様が、やや遠くへ見える花火へ向けてポツリと呟かれます。
結局、奥様は花火が打ち上がるまでには、お屋敷へお戻りにはなりませんでした。一時間ほど前に二度目の電話があり、帰宅は間に合わないこと、お嬢様だけでも花火大会を楽しんでほしいこと、奥様も事務所から花火を観ることをお告げになりました。お嬢様はその一つ一つに「わかったわ」と頷かれて、けれど結局こうしてお屋敷に残っております。
――「折角なら、皆で観た方が楽しいじゃない、花火!」
そうおっしゃったお嬢様のご提案で、バルコニーには今、私を含めお屋敷に務める五人のメイドと執事が全員集っております。執事の爺やさんが最近ハマっていらっしゃるというフルーツティーを披露されておいでです。香り豊かなお茶を嗜むメイドたちを背に、お嬢様はバルコニーの手すりへもたれるようにして花火をご覧になっておりました。
「きっとご覧になっておりますよ」
お嬢様のお隣に控え、私はそうお答えします。お屋敷から奥様のデザイナー事務所は離れておりますが、むしろ花火大会の会場へは近いはずでございます。
お嬢様はふっと力が抜けたように笑われました。月の光を受ける鹿毛が、夜風に流されてキラキラとしております。
「だといいけど。……こんなに綺麗なんだから、観ないと損よね」
お嬢様の言葉は、決して花火のことだけを指しているわけではないように、私には思えました。
花火が開いてから、随分と遅れて音が届きます。お腹の底へと響くような、花火特有の力強さは、さすがにこのお屋敷までは届いては参りません。せいぜいが耳朶に余韻を残す程度でございます。お嬢様は、その音一つ一つにまで聞き入るように、お耳をピンと立てておいででした。
「……お母さまは」
花火を見つめるお嬢様は、再びポツリと、やはり隣の私にしか聞こえないようなお声で呟かれます。先程とは違って、独り言のような響きを、私は何も言わずに聞いておりました。
「お母さまは誰かの夢を叶えるお仕事をしてる。とても大切なお仕事よ。とてもとても素敵なお仕事よ」
誇らしげなセリフは、お嬢様が折につけて語っていることです。まるで我がことのように、胸を張って嬉しそうに、お嬢様はいつもおっしゃいます。その言葉をお聞きになる時、奥様はいつも気恥ずかしそうに笑って、「ありがとう」とお嬢様の髪を撫でるのです。
けれど今宵、お嬢様の髪に触れる優しい手は、ここにはございません。お嬢様の声は、見上げるほどに遠く暗い夜空へと吸い込まれていきます。
お嬢様はなお、遠い花火を瞳に宿したまま、お口を開きます。
「私も一流のウマ娘になるの。だからわがままなんて言わないわ。お母さまがいなくたって、キングは大丈夫よ。……でも、」
声はどんどんと萎んでいきました。澄んだ声音は、最後には蚊の鳴くほど小さくなってしまいます。お嬢様の隣にいても、そのお声は花火の音に紛れてしまうほどか細いものでございました。
でも、のその先を口にされるのを、お嬢様は随分と長い間躊躇っておいででした。開きかけの唇からは息が漏れるばかり。まるでいけないことを口にするように、お嬢様は殊更ゆっくりと言葉を零されました。
「でも……でも、ほんとのほんとに少しだけ……寂しいわ」
霞んだ声で語る瞳に、涙はございません。遠くで咲き誇る大輪の花火を見つめる目は、微笑んですらおいでです。
……ああ、けれど。折角着付けた浴衣を、皺になるほど握り締めて震える小さなお手を、隠せてはいないのです。バルコニーへ今にも崩れそうな二本のおみ足を、隠せてはいないのです。
「お嬢様――」
居ても立ってもいられず、私はお嬢様を抱き寄せました。きっと、お嬢様が本当にそうして欲しい方の、代わりにはならないのです。お嬢様の大好きな奥様の代わりには、ならないのです。けれど、まだ幼く小さな体に、こんなにも強さと優しさを抱えたお嬢様を、放っておくことはできませんでした。
お嬢様は驚かれた様子で、ほんの少し浴衣の肩を跳ねました。けれどそのまま何も言わず、私の肩に頭を乗せております。可愛らしいお耳が垂れて、私の肩を撫ぜておりました。
「お嬢様。よいのですよ、お嬢様。寂しいと言ってもよいのです。お嬢様の強さも優しさも、私はようく知っております。けれど寂しい時は、寂しいと言ってもよいのです。泣いてもよいのです。お嬢様は――お嬢様はまだ、子供でいらっしゃるのですから」
心配をかけてもよいのです。甘えてしまってもよいのです。たくさんたくさん、駄々を捏ねてもよいのです。けれどお嬢様は、決してそれをなさりません。私たちにも、奥様に対してでさえも。それが、奥様や私たちが大好きだからだと知っております。大切に想ってくれているからだと知っております。大人の真似をした背伸びではなく、お嬢様の強さと優しさが為せる業なのだと、存じております。
それでも、どうかお嬢様。こんな時はわがままを言ってもよいのです。寂しいと訴えてよいのです。袖が絞れてしまうほどに泣いてもよいのです。全て全て、その幼いお身体で抱え込まなくてもよいのです。
お嬢様はなおも夜空を見つめておいででした。小さな唇から、むせ返る夏よりもずっと熱い息を吐かれます。けれどお声だけは、凛と張っておられました。
「ああもう、なんでかしら。花火がよく観えないわ」
バルコニーの手すりに、夜露が雫を作っておりました。
灯りの落とされたお嬢様の寝室を訪ねると、二つの寝息が聞こえて参りました。
一つはベッドで眠るお嬢様のもの。着付けていた浴衣を脱ぎ、寝間着へとお着替えになったお嬢様は、掛布団の中へお行儀良く収まっておいでです。その手には珍しくぬいぐるみが一つ握られております。ウマ娘を模したぬいぐるみで、昔から大人気のシリーズでございます。お嬢様が今お抱きになっているのは、現役時代の奥様をモデルにされたぬいぐるみでございました。四年ほど前に復刻した際、お嬢様と二人でレース場へ足を運び、入手したものでございます。奥様は随分と恥ずかしがっておいででしたが、お嬢様は大層大切に飾っておいででした。そのぬいぐるみを、まるでそこにはいない誰かの分を埋めるように、お嬢様は抱き締めて眠っております。
もう一つの寝息は奥様のもの。ぬいぐるみを抱いて眠る我が子を守るように右手を添え、ご自身は床へ膝をついてベッドへ突っ伏すように眠っておいでです。お嬢様がご就寝なさって一時間ほど後にお戻りになった奥様は、花火セットを私へ預けるなり、靴を揃えることも、ジャケットを脱ぐことも忘れて、お嬢様の寝室へと向かわれたのです。なかなかお戻りにならないので、私はこうして見に来た次第でございます。きっと、お嬢様の寝顔をご覧になって安心されたのでしょう。あるいは、何事かを語りかけたり、子守歌を歌ったりなどされたのかもしれません。一流デザイナーとしてのお姿はどこにもなく、娘を守る母の姿がそこにはございました。
ともに眠るお嬢様と奥様を、しばらく見つめておりました。ようやく意を決して、お部屋へと足を踏み入れます。奥様をこのままにしていては、お体に障ります。メイド長として、起こして差し上げなければなりません。
「奥様――」
「キングちゃん――」
肩を揺すろうとしたその時、奥様がぽつりと呟かれました。お目覚めになられたのかとそう思いましたが、どうやらそうではなく、奥様は寝言にてお嬢様を呼ばれたようでした。その証拠に、お嬢様の訴えでここ一年ほど使わなくなった「キングちゃん」という呼び方をされています。
肩にかけようとした手が止まります。それは奥様がお嬢様を呼ばれたからではございません。奥様の目頭から、小さな水滴が零れて、お嬢様のベッドへと落ちていったからでございます。
奥様はなおも囁かれました。
「ごめんね、キングちゃん。へっぽこなお母さまで、ごめんね」
零れた寝言が、きっと奥様の本音なのでございます。
今度こそ肩を揺すって、奥様を起こします。居間へと戻られた奥様のために、私は一人分残していたお夕飯を温め直して、お出し致しました。