キングヘイローへ一年に一度届くファンレターのお話です。
一年に一度だけ、ファンレターをくれる方がいる。
初めてファンレターを受け取ったのは、まだトゥインクル・シリーズへの出走さえ決まっていなかった頃、奇しくも私の誕生日のことだった。
「ファンレターが届くなんて、早くも注目の的だね」
自主トレを終えて帰寮した私に、寮長はウィンクしながらそう言って、一通の手紙を手渡した。私はその手紙を、飛び跳ねそうなほど嬉しい気分が半分、首を傾げる不思議な気分が半分で受け取ったのだった。
寮長によれば、こうしたことは珍しくはあるけど過去に例がない訳じゃないそうだ。学園内の模擬レースや選抜レースの結果は学外へ公開はされていないものの、極秘という訳ではないから学園関係者を通して知ることができるという。中にはそうした人伝の話で早くからウマ娘に目をつける方もいるのだとか。つまりこのファンレターの送り主は、どこからか私の噂を聞きつけて、早速応援してくれたという訳だ。
受け取った手紙は何度も読み返した。才能溢れるウマ娘だと聞いたこと、トゥインクル・シリーズへの出走が楽しみであること、怪我無く楽しんで走ってほしいこと、そうしたことが丁寧な文章で綴られた手紙の最後には、こんなことが書かれていた。
『キングヘイローさんのお誕生日が近いとお聞きしました。ささやかですがお誕生日プレゼントを同封いたします。トレーニングの息抜きに楽しんでいただけますと幸いです』
同封されていたのは、私も知ってる洋菓子店の、ケーキ食べ放題付きティータイムチケットだった。
トゥインクル・シリーズへ出走すると、やはり多くのファンレターが届くようになった。トレーナーは選別しようかと言ってくれたけれど、私は全てに目を通すことにした。一通一通、隅から隅まで読んで、宛名のあるものには返事も書いた。そうやっているうちにふと、初めてファンレターをくれたあの方は、宛名を残していなかったことに思い至った。差出人のサインはあったけれど、送り主の住所などは記されていなかった。それゆえ、返事を書けていなかった。それが不義理な気がして、私はファンレターの山の合間にあの方を探した。次こそは送り主の住所を書いているかもしれない。そうしたら、必ず返事を書こうと思った。「あなたが初めてのファンレターをくれた方でした」と、そうしてお礼を述べたかった。
けれど、待てど暮らせどその方から手紙は届かなかった。何通もファンレターを書いてくれる熱心なファンもいる中で、初めてファンレターをくれたあの方からだけは一向に二通目が来なかった。
ようやく待ちわびたファンレターを見つけたのは、私がジュニア級からクラシック級へ移った年の春、一通目と同じく私の誕生日のことだった。
内容は最初の手紙と似たようなものだった。惜しくも敗れた皐月賞だけれど末脚が素晴らしかったこと、今後のクラシック級での活躍にも大いに期待していること、ウマ娘は体が資本だからとにかく健康に怪我無く一年を過ごして欲しいこと。そうしたことが、質のいい便箋一杯に書かれていた。そして一年前と同じように、誕生日プレゼントが同封されていた。前のお便りと同じ私お気に入りの洋菓子店のケーキ食べ放題チケットと、それから健康祈願のお守りも入っていた。
気遣いに感謝しつつ、早速返事を書こうとペンを取って、そこではたと気づいた。二度目の手紙にもやはり、その方は送り主の住所を書いていなかった。ペン先が便箋の上で空回りして、私は頭を抱えて唸ることになった。
三度目のファンレターは、高松宮記念を勝利で飾った後、やはり狙ったように私の誕生日に届けられた。
クラシック三冠を無冠で走り終えてからのマイル・短距離路線への電撃的な転換を発表した後には、さすがにファンレターの数が減った時期があった。届いたファンレターも、私の決断を心配する声が多かった。そういう反応になるだろうと予想も覚悟もしていたから大してショックは受けなかったけれど、唯一あの方のことだけが気になった。初めてファンレターをくれた方というのはどうしても意識してしまうもので、期待を裏切ってしまっただろうかとか、愛想を尽かされてしまっただろうかとか、そんなことをふと考えて心が痛んだ。
だから、それまでと同じ日に届いたその手紙を見つけた時、ほっと胸を撫で下ろす自分がいた。
手紙の中身はそれまでの二通とさして変わらなかった。クラシック三冠のレースは毎回手に汗握って見ていたこと、路線変更には非常に驚いて心配したこと、けれど高松宮記念でもキングヘイローらしい走りが見れて考えを改めたこと、今後の活躍も益々期待していること。そうしたことが、四葉のクローバーがあしらわれた便箋一杯に丁寧な文字と文章で綴られていた。それから最早お馴染みになってしまったケーキ食べ放題のチケットとお守り。お守りはウマ娘の間では有名な必勝祈願の神社のものだった。
そしてやはりと言うべきか、送り主の住所はどこにも記されていなかった。もうここまで来ると、何か理由があって返事を求めていないとしか思えなかった。実際、そういう一方通行のファンレターというのも多い。私としては、応援してくれるファンとは積極的に交流したいところなのだけれど。距離感を保っておきたいというファンも中にはいる。この方も、きっとそういう考えの持ち主なのだろうとそう思った。
「……ありがとうございます。いつも励みになります」
私にできるせめてもの感謝は、もらった手紙に向けてそう呟くことだけだった。
一年に一度の奇妙なファンレター。それがキングヘイローの走りを支える一因であることに間違いなんてなかった。
◇
――今年も、あの人からファンレターが届いた。
朝の陽射しも温かな春の一日。身支度を整えた私は自分の机の前に立ち、そこへ置いた開封済みの手紙に手を触れた。丁寧に綴られた宛名書きを指先でなぞる。ふと、背後でもぞもぞと物音がして、驚いて振り向くとお寝坊さんが寝返りを打ったところだった。これはまた起こさないとダメかしらと思いつつ、私はファンレターを手に取る。指で表面を撫でると、なんだか心地の良い感触がした。
封筒を見つけた時、開けるまでもなくあの人の手紙だとわかった。お守りが入っているからだろう、他の方よりほんの少し厚さがあるのだ。それと、封筒の封印のところに、封蝋を模したシールが貼ってある。手に取りひっくり返して封筒の表側を見ると、綺麗な文字で「キングヘイローさん」と私の名前が書かれていた。
封を開け、三つ折りになった便箋を取り出す。手紙の中身は昨夜のうちにもう読んだ。去年一年間のレースの感想、URA特別賞受賞のお祝い、この間お披露目した新しい勝負服のこと。そうしたことが書かれた後に、いつも通り誕生日の祝福とプレゼントを同封した旨が書かれていた。
昨夜読んだ内容を、もう一度なぞっていく。便箋一杯に詰め込まれた想い。その一言一言を最後の一文まで噛み締める。
そして、便箋を一枚、めくった。
一枚目の便箋と違って、そこにはたった一行しか文章はない。びっしりと端整な文字の並ぶ一枚目とのギャップが激しい。まるでその一文だけ、完成した一枚目の便箋に後から書き足したように思える。最後まで迷って、でもどうしても伝えたくて、ただこの一行だけを書き加えたように私には思える。
天使のカーテンが柔らかに便箋の上で揺れていた。
『いつも応援しております』
親指でなぞったその一文に、思わず溜め息が漏れる。そういえば、あの人の手紙には一度も「応援してます」と書いてはなかった。無事これ名ウマ娘と言わんばかりに、ただ私が無事にレースを駆け抜けるようにとだけ書かれていた。……まるで、どこかの誰かがしつこく送ってくる、心配性なメールみたいに。
「……これで気づかれないつもりなのかしら」
もう一度ため息が漏れた。けれどその拍子に口の端が緩んでしまう。手紙を見つめる目元から力が抜けてしまう。それが無性に腹立たしくて、私は頬を張った。想像以上にいい音が響いて、ジンとした痛みが走る。
手紙を封筒に仕舞って、鞄の中に忍ばせる。そうして鞄のチャックを閉めてから、ニンジン抱き枕を抱えてまだ夢の世界で楽しそうにしているウララさんを起こすことにした。
お昼休みにトレーナー室を訪ねると、予想通り部屋にはトレーナーしかいなかった。休憩ぐらいすればいいのに、デスクでインスタントコーヒーをすすりながら相も変わらず資料を読み漁っている。私が入室したことに気づくと、彼は顔を上げてマグカップと資料をデスクに置いた。
「ごきげんよう、トレーナー」
「いらっしゃい、キング。お茶でも淹れようか」
「いえ、遠慮するわ。用件を済ませたら、すぐ寮に戻るから」
そうかい、と立ち上がりかけていたトレーナーはまた腰を落ち着けた。私は彼の正面、少し前に導入された休憩用のソファに腰掛ける。なかなかに良い座り心地で、最近の私のお気に入りだ。
横に置いた鞄のチャックを開く。今朝忍ばせてきたファンレターを取り出して、彼からも見えるよう顔の前に掲げた。彼は瞬きを一つして首を傾げる。
「ファンレター?」
「ええ、そう。ほら、毎年私の誕生日に送ってくれる方よ」
「ああ、ケーキ食べ放題チケットの。今年も届いたんだ」
彼の言葉に一つ頷いて、でもそこで視線を下げた。手紙の封筒で口元を隠す。意地を張っていた分、その先を口にするにはほんの少し勇気が必要だった。
ええい、ままよ。自分の中で踏ん切りをつけ、私は言葉を続ける。
「それで、その……ね。チケットの使い道なのだけれど」
チラリ。目だけで机の方を見遣る。私のぎこちない様子に気づいているのか、彼は普段よりも数段優しい面持ちで私を見つめていた。まるで私のことなどお見通しと言われているようで、なんだか面白くない。
私が言葉を続けるのを待つ彼の厚意に甘えて、ほんの少しゆっくりと息を吸った。
「……ごめんなさい。今年もあなたと行こうと思っていたのだけれど。――どうしても、誘いたい人がいるの」
毎年あの人から届いたチケットは、トレーナーと使っていた。ある意味恒例行事のようになっていた。だから今年も、チケットが届いたらまた彼と行こうと、最初はそう考えていた。
……でも、今は無性に、会いたい人がいる。このお店のケーキを一緒に食べたい人がいる。今この時だけは、彼以上にそう思ってしまう人がいる。
彼は特に驚いた様子もなく、変わらずに優しい面持ちのまま、一つ頷いた。
「行っておいでよ」
答えが真っ直ぐ過ぎて、私の方が動揺してしまう。顔の前に掲げた手紙に唇が触れた。伏せた瞳が自分でもわかるくらい宙を泳ぐ。手紙の端を摘まむ指にいらぬ力が籠った。
「でも……忙しい人だから、断られてしまうかも」
言ってからしまったと思った。何とも私らしくない。あの人の忙しさを理由に逃げ道を作るような言い回しだ。でもどうしても、いつもの私ではいられない。弱気で幼い自分が顔を出す。子供っぽい考えや言動や行動をしてしまう。それがどうしてかはわからない。
そんな私に、一も二もなく彼から答えが返ってきた。
「それはないよ。キングに誘われたら、絶対に断ったりしないって」
断言する言い方だった。視線だけ上げて窺うと、彼と目が合う。どうする、と問いかけるみたいに静かに私を見つめる目は、私が誰を誘おうとしているのか、気づいている様子だった。……いいえ、もしかしたら、一年に一度のファンレターの送り主の正体も、彼は気づいているのかもしれない。
彼に気づかれないよう、小さく溜め息を一つ。決心はついた。大きく一つ頷いて、今度はしっかりと顔を上げる。ソファに預けていた背筋がシャンと伸びるのを感じた。
「そうね。――そうよね」
「ああ」
彼もまた頷く。ふと、私に兄がいたらこんな感じなのだろうかと、そんなことを思った。
手紙と鞄を手に取って、ソファを立つ。用件はこれで終わりだ。でもその前にと、私は彼のデスクへ歩み寄る。彼は不思議そうな目で私のことを見つめていた。
「なら、あなたにはこのチケットとは別に、私とケーキを食べる権利をあげるわ。――もちろん、あなたの奢りでね」
いつもの調子で笑って見せると、彼も普段通りに苦笑いして、でもすぐに同意してくれた。「楽しみにしてる」と言う彼のおでこに軽くデコピンをお見舞いして、そうして踵を返し部屋を後にした。すぐにスマホを取り出して、通話アプリを立ち上げる。電話をかけたい相手の番号は、履歴を追えばすぐ一番上に見つけることができた。
発信ボタンを押しかけて、ふと手にした手紙を見た。丁寧な筆致の「キングヘイロー」という文字が目に入る。
……きっかけは、それとよく似た筆跡を最近見たことだった。URAから贈られる新しい勝負服の製作打ち合わせの中で受け取ったメモ。勝負服デザイナーが描き上げたラフスケッチに書き込まれた文字の癖と跳ねや止めの形がよく似ていたのだ。
もしかして。そう思ってしまえばあとは簡単だった。もしかしたら、心のどこかで薄々気づいていたのかもしれない。
送り仮名の脱字が同じ箇所にある。文書の封印に封蝋シールを使っている。挙げだしたらキリがない。でも何より決定的だったのは、毎年同封されていたケーキ食べ放題のチケットだった。
私のお気に入りのお店。そのお店のケーキが子供の頃から大好きだった。イチゴがたっぷりのショートケーキ。濃厚でちょっと大人な味のチョコレートケーキ。秋には美しい仕上がりのモンブラン。季節ごとのタルトでは、シャインマスカットのやつが一等好きだった。お店のロゴが入ったケーキボックスを手にして帰ってきたお母さまを見ると、恥ずかしいほどに飛び上がって喜んだ。
毎年の誕生日も、お母さまがそのお店でケーキを買って来てくれていた。思えば、どんなに忙しい時でも、私の誕生日にだけは必ず一緒にいてくれた。玄関で出迎えるとケーキボックスを見せて微笑んで、メイド長が腕によりをかけたお夕飯を一緒に食べて、お屋敷の皆で誕生日の歌を歌って、そして私がケーキを食べるところをいつも穏やかに見つめていた。そういう人だった。
一度として、私の誕生日を祝ってくれなかったことなんてなかった。
「……やり方が回りくどいんだから。いつもいつも」
ああでも……それは私も同じか。
溜め息を吐きつつ発信ボタンをタップする。電話はすぐに相手の呼び出しを始めた。でも、お母さまが電話に出るのにはいつも少し時間がかかる。私の番号だけ着信音を変えてるくせに。かかってきた瞬間に電話に気づく仕事人間のくせに。どういうつもりか、私の電話にだけはすぐに出てくれない。この私がこうしてわざわざ電話をかけているというのに、一体何を考えているんだか。まあどうせ、しょうもないことを考えてるんだろうけど。
いつもよりワンコール分早く、相手は電話に出た。間髪を入れずに私は口を開く。
「もしもし、お母さま?」
午後のトレーニングに遅刻した私を、トレーナーは何も言わずに許してくれた。