小学校卒業間近のキングが、トレセン学園入学のために家出をする話。
タイトルは茅原実里さんの同名曲から。
「爺や、少しいいかしら」
据え付けられた時計の針が十時を回ろうとする使用人用の休憩室に、このような時間に聞こえるはずのない声が響いたものでしたから、一杯の紅茶で休息を入れていた
「これはお嬢様。いかがされましたかな。――ささ、どうぞ中へ」
席を立ちお嬢様を招き入れますと、音を殺すようにして扉を閉じたお嬢様は、ありがとうとやはり小さな声でお告げになります。何やら隠し事であることは察せられましたので、私も極力音をたてないよう頷き、小声でお飲み物の有無を尋ねますとお嬢様は私と同じ紅茶を所望されました。
私が二杯目の紅茶を淹れる間、席へ着かれたお嬢様は窓から暗い庭園をぼんやりと眺めておいででした。まだ幼くあられた頃は、床へ届かない足をパタパタと忙しなく揺らしていらしたものですが、今ではきっちりと揃え落ち着いた佇まいで椅子へ腰かけております。どことなく、同じ年頃であった頃の奥様の雰囲気に似ているような気がいたしました。
私の差し出した紅茶を、就寝用の柔らかな耳カバーを揺らしながら、お嬢様は微笑んでお受け取りになります。
「休憩中にごめんなさい」
「構いませんよ。私としましては、こうしてお嬢様とお茶をできる時間こそ、至福の一時でございますからな」
「……そう」
カップより漂う湯気に息を吹きかけて、お嬢様は目元の力をわずかばかり緩めてくださいました。お嬢様はそのままゆっくりと、私と同じペースで紅茶を嗜まれます。夜ですからさすがにお茶菓子などはなく、しばらく二人で静かにカップを傾けておりました。
中身が半分ほどになったところで、お嬢様はソーサへカップを戻されました。それへ倣い、私もカップを置いて、わずかばかり居住まいを正します。お嬢様はまだ何事かを考え込まれている様子で、小さな眉間へうっすら皺を刻みながら、テーブルの上で目線を彷徨わせておいででした。私はそんなお嬢様が言葉を選ばれるまで、じっと待っておりました。
「……爺やに話があるの。とても大事な話よ」
いつになく深刻なお顔で、お嬢様は私へそう切り出されました。真ん丸をした栗色の瞳に真っ直ぐ見つめられると、自然にこの老体の背筋が伸びる心地がいたします。奥様、そしてお嬢様とお仕えして長い私ですが、これほど緊張する瞬間は片手で数えられるほどしか経験がありません。それほどに張り詰めた空気をお嬢様は醸し出されておりました。
「かしこまりました。この爺やでよければ、お嬢様のお話をお聞かせください」
私が頷いて続きを促しますと、お嬢様はもう一度躊躇うような間を開きかけの唇より零し、ゆっくりと用件をお告げになりました。
「……家出を手伝って欲しいの」
その言葉が決して冗談や一時の迷いでないことは、すぐに理解することができたのです。「家出」と、その短いお言葉をこうして私へ告げるのに、どれほど悩み考えそして決断されたのか。そうしたお嬢様の心の内が、震える声音から余すところなく感じ取れたのです。お屋敷に仕える執事としては、止めてしかるべきかもしれませんが、お嬢様の決心を無碍にすることは、私には大層難しいことでございました。
すぐに返事をできずにいる私を、お嬢様はやはり静かに、けれど決して視線を逸らすことなく見つめておいででした。
「……お屋敷を出て、トレセン学園へ行かれるつもりですかな」
私の確認にお嬢様は無言のままこくりと一つ頷かれました。
トレセン学園――ウマ娘レースの最高峰であるトゥインクル・シリーズへ出走するウマ娘が集う学園からお嬢様への合格通知が届いたのは、つい先日のことでございました。しかし当のお嬢様には、さほど喜んでいるご様子はございませんでした。というのも、学園への入学に奥様が難色を示しておられるからです。お嬢様がトレセン学園へ進学されるか否かが、ここ半年ほどはお屋敷のもっぱらの話題でございました。私も、メイドたちも、お嬢様と奥様のやり取りをハラハラとして見守って参りました。
しかし、ことここに至り、お嬢様はついに奥様の反対を振り切って、学園へ進まれることを決心されたご様子です。家出という手段を用いてでも、ご自身の夢を叶えるおつもりなのでしょう。
――「いつか私も、一流のウマ娘になるのよ!」
思い返せばそれが、お嬢様が努力なさっている時の、いつもの口癖でございました。
「……学園の寮には、三月から入寮できるそうよ。確認したら、栗東寮に空きがある、って。だからここを出て、私はトレセン学園に行く」
お嬢様はもう一度、今度はさらにはっきりと、ご自身の決意を口にされました。胸の前に重ねた手を強く握りしめ、奥様が宝石と評された瞳に並々ならぬ決心を宿して、私を真っ直ぐに見据えておいでです。目を逸らすことなど私にはできませんでした。夢を追いかける者の目、とでも申しましょうか。もう二十年近く前のことですが、同じような目に見つめられたことを、今更ながらに思い出しておりました。
「さようでございますか」
さて、では私も、老骨に鞭打って覚悟を決めると致しましょう。大きくおなりになったとはいえまだまだ幼いお体に、一杯の強さと優しさを詰め込まれたお嬢様が、大きな瞳を震わせてお告げになった覚悟です。
「かしこまりました、お嬢様。この爺や、お嬢様の家出をお手伝いいたしましょう」
私が答えると、お嬢様は困った風に眉を下げて、「ごめんなさい」と首を垂れました。その拍子に、可愛らしいお耳まで、ぺたりと畳んでしまわれます。こんな時にまでお優しいお嬢様です。
お嬢様が私に手伝って欲しいことというのは、お屋敷を出た後に学園まで車で送り届けて欲しいとのことでございました。お屋敷から学園の寮へはさすがに車が必要でございましょう。お屋敷の運転手も任されている私にしかできないお手伝いでございます。
仔細を説明し終えると、お嬢様はもう一度頭をお下げになりました。
「巻き込んでごめんなさい。本当は、私一人でどうにかするべきなのに」
「よいのですよ、お嬢様。むしろ私は嬉しいのです。こうしてお嬢様に頼っていただけるのですから」
「……ありがとう」
顔を上げたお嬢様の微笑みは、どこかたどたどしく、今にも消えてしまいそうに弱く儚いものでございました。
その後は、またしばらく紅茶を嗜んでおりました。お話を聞いているうちにややぬるくなってしまいましたが、お嬢様は何も言わずにゆっくりとカップを傾けておりました。普段からよく私やメイドたちの世間話に付き合ってくださるお嬢様ですから、こうして改まるとこれといって話題もなく、それゆえ私たちは薄くなってきた湯気を鏡のような夜の窓に写しながら静かに芳醇な香りに心を落ち着けておりました。
「――お嬢様。お一つだけ、爺やのお願いを聞いてくださいますか」
飲み終えたカップをわざわざ下げて、ご寝室へ戻ろうとするお嬢様を、私は呼び止めます。振り返ったお嬢様は、何かしらと首を傾げて、私に続きを促されました。
「……家出をされる前に今一度、奥様とお話ししてはいただけませんか」
誠に勝手なお願いと自覚しつつ、私は深々と頭を下げお嬢様にそう願いました。
お嬢様。私はお嬢様を敬愛しております。勝手ながら、孫とも思いお仕えして参った所存です。ですがお嬢様。私は奥様の執事でもございます。奥様がまだまだ赤子であった頃よりお仕えして参った者でございます。奥様のこともまた、お嬢様と等しく、どちらかなどと決して言うことができないほどに、大切に思っております。
私にとって大切な方たちが。あれほどに仲睦まじいお二人が。お嬢様の家出という形で引き裂かれてしまうのは、私には大変きついものがあるのです。
「身勝手なお願いとは存じております。しかし私は、お嬢様のことが大好きなのと同じくらい、奥様のことも大好きなのです。――ですから、どうか」
執事として、本来こうしたことは口にすべきではないのでしょう。厳しかった私の師匠などが耳にすれば、無言のままお屋敷を追い出されたやも知れません。しかしそれでも、私は言わずにはおれませんでした。
私へ歩み寄っていらしたお嬢様が、その手を私の肩へ置かれて、顔を上げるようにと仰せになりました。
「わかったわ、爺や。もう一度、お母さまと話してみる」
「……ありがとうございます。その際は、私もお嬢様へお力添えを――」
「いいえ」
お嬢様は鹿毛を揺らして首を振り、私の言葉を遮りました。やはり困ったように眉を八の字に下げて、お嬢様は微笑まれます。
「これは私とお母さまの問題だから。私だけで話すわ」
「お嬢様――」
「気持ちだけもらっておくわ。ありがとう」
お嬢様はそれだけ言って、私と指切りをし、必ず奥様とお話するとお約束くださいました。そして「おやすみなさい」といつも通りの笑顔を残されて、休憩室を後にされました。
◇
お嬢様は、私との約束通り、奥様ともう一度だけお話の場を作ってくださいました。丁度、お嬢様が家出の決行日と定めた日曜日の、おやつ時のことでございました。
「爺やさん」
お屋敷の二階から降りて休憩室へと入ってきたメイド長が、珍しく険しいお顔で私をお呼びになりました。仕事をしながらも正直まったく手に付かず、仕方なく休憩がてら紅茶でも飲もうとしていた私は、電気ケトルのスイッチを押しかけたままメイド長を待ちます。
「メイド長、いかがされましたかな」
「……お嬢様の、お荷物の支度が終わりましたので」
家出の計画には、メイド長も加担しておりました。というよりも、お嬢様自ら、家出を計画していると私たち使用人へお話になりました。ひどくショックを受け、引き留めるメイドもおりましたが、お嬢様は「もう決めたことだから」と丁寧にその願いをお断りになりました。
メイド長は、その場ではお嬢様を引き留めることはされませんでした。けれどなにかしら思うところはある様子で――いいえ、このお屋敷に思うところのない者などおりませんが、ともかく彼女の心の内が、今この時だけは表情に露わとなっておりました。
「お二階の様子は、いかがでしたかな」
淹れたばかりの紅茶を差し出しながら尋ねますと、テーブルへついたメイド長が何もわからなかったと首を振りました。お嬢様と奥様は、奥様のお部屋に籠ったまま、中でどのような会話が為されているかはわかりません。しかしいい加減、最初にお出しした紅茶もなくなる頃合いでしょう。取り換えに行かなければと、そんなことをぼんやりと考えておりました。
「……不思議で堪らないのです」
一口だけ紅茶で唇を湿らせると、メイド長はぽつりと呟きました。
「奥様は、お嬢様には好きにさせて欲しいと、私に仰せになりました。お嬢様のやりたいようにやらせて欲しいと、いつもいつも」
「……さようでございましたな」
「お嬢様がトレセン学園へ入学されるとおっしゃった時も、きっと奥様はお許しになるのだろうと思っておりました。きっとお喜びになるだろうと思っておりました。けれど……」
メイド長はそこで言葉を詰まらせ、今一度カップへ口をつけました。その向かいへ腰を落ち着けた私も、彼女と同じように紅茶を含みます。淹れ方を少々失敗しましたでしょうか、いつもよりもいくらかお茶の渋みが強いように感じました。
「奥様は、ことこの件に関してだけ、どうしてお許しにならないのでしょうか」
メイド長の疑問に私は答えを持ち合わせてはおりません。
ただ……このところ思い出すようになったことはございます。お嬢様がお産まれになってからのご様子ですっかり頭から抜け落ちていたことでございましたが。思えばあのような奥様のお姿を存じているのは、このお屋敷には私しかおりませんでした。
「……思うに、奥様はご自身の学生生活に――学園のことも、そしてレースのことも含めて、あまり良い感情をお持ちではないのかもしれません」
余人が聞けば意外に思われるかもしれませんが、私は競技者として現役であられた頃の奥様を、そのように感じておりました。一流と呼ばれるにふさわしい錚々たるタイトルを獲得し、多くのファンがつくほどに世間からも注目された奥様ですが、レースや学園の話をされるところなど私は全く存じ上げません。むしろ明確に、そうした話題を避けているご様子すらありました。私の知る学生時代の奥様というのは、レースにひたむきな夢追う乙女ではなく、勝利を心から喜べない物憂げな少女でございます。
輝かしい経歴をお持ちなのに、なぜ。多くの方はそうお思いになるでしょう。メイド長もそれは同じであるご様子でした。
私は、奥様からたった一度だけ聞かされた学園とレースのお話を、メイド長へすることといたしました。
「メイド長。中央トレセン学園には、毎年どれほどの学生が入学されるか、ご存知ですかな」
知りませんと首を振ったメイド長へ、私は例年七百から八百名ほどだと答えます。この辺りの数字は、奥様の頃から今でも変わっていなかったはずでございます。通常の学校であれば、まず間違いなくマンモス校と呼ばれる人数でございましょう。
「ではメイド長。その内何名が、中等部と高等部を経て学園を卒業されるか、おわかりになりますか」
「……厳しい世界ゆえ、中退者は多いと聞きます。半分ほど、でしょうか」
「……奥様の同級生では、五十名もおりませんでした。編入生や留年した学生を含めても百名と少し、二百名には遠く及びませんでした」
たった八分の一。入学してから最後までトゥインクル・シリーズで走り続ける子は、たったそれだけしかいないのです。ほとんどの少女たちは、理由は様々あるにせよ、夢破れて学園を去ることになるのです。
この数字をどう取るかは、人によりますでしょう。けれど私はどうしても、残酷な数字だとそう思ってしまいます。そしておそらく奥様も、多くの同級生や上級生、下級生が学園を去る姿を目にして、同じように思われたのでしょう。そしてそうした学園を去る学生の中には、奥様のご学友――例えば同じクラスの方であるとか、寮の同室の方であるとか、同じチームに所属する方であるとか、そのような方もいらしたことでしょう。
「とあるレースに、奥様が出走された時のことでございます。同じレースに、奥様のご学友も出走登録をされておりました。そのご学友は、しばらくレースで結果を出せておらず、このレースで入着できなければ引退して学園を中退されることになっていたそうです」
そしてそのレースは奥様が勝利をおさめ、一方でご学友は入着を逃し、学園を中退する運びとなりました。
「奥様が直接、ご学友の夢を奪ってしまったわけではございません。入着を逃したということは、奥様以外にもそのご学友に先着された方がいらしたわけですから。けれど……そういうことが何度もあったのでございます」
奥様がレースで勝利するたびに、誰かが夢破れて学園を去っていくのです。ほんの一握りの才能が夢を叶える一方で、多くの才能は打ち砕かれてしまう。レースに勝ち、学園に残り続けて来た奥様は、同時に涙すら枯れ果てたご学友を何人も見送ってきたのでございましょう。
奥様が私へ聞かせてくれたことは、それだけでございました。
「ご自身の輝かしい成績より、奥様の脳裏にはそちらの記憶の方がずっと強くこびりついているのでしょう。……奥様にとって、レースはウマ娘から夢も希望も笑顔を奪う、忌むべきものなのやもしれません」
そして、そうやって傷ついたウマ娘たちをたくさん見てきたからこそ、奥様はお嬢様の進学を手放しで認めることはできないのでしょう。誰よりも、お嬢様の健やかな成長を望まれているお方です。誰よりも、お嬢様の笑顔を大切に思われているお方です。ご自身の愛娘が、夢破れて深く傷つき、笑顔を奪われてしまうことを見過ごせる親など、果たしてどこにいるというのでしょうか。
すっかりぬるくなってしまった紅茶へ手を伸ばす気分にはなれず、私としたことがつい話し過ぎてしまったと今更思いながら、窓の外へ見える昼下がりの庭園へ目を落としました。もう春だというのに、まだうっすらと冬の気配が残っているような、そんな気がしてなりません。
「……そんなの、嘘です」
それまで静かに私の話を聞いてくださっていたメイド長は、絞り出すようにそう言って首を振りました。瞳に涙を堪えるメイド長は、やはり私と同じように眼下の庭園を眺めておいでです。けれどその目は、私とはまた違うものを見つめているように思われました。
「私は奥様のレースを、一度しか見たことがありません。――あの時の奥様は、それはもう眩いほどでございました。レースが終わるとすぐにお嬢様を抱きかかえられて、大層嬉しそうに笑っておいででした。……私には、奥様がレースを忌み嫌っているだなんて、そんな風には到底思えないのです」
メイド長が一体いつのレースの話をされているのか、私にはすぐに理解できました。お嬢様がまだ保育園にも通われていなかった頃、奥様の引退戦となったレースのことでございます。お屋敷の留守を預かり、テレビにて観戦していた私も、あのレースのことはようく憶えております。
世間をして「一流」と言わしめた現役時代の奥様でございますが、ことあのレースについては否定的な前評判がほとんどでございました。何しろ、出産と育児を経て実に数年ぶりというレースでございました。さすがの「一流ウマ娘」でも勝てるはずはない、それが世間の評価でした。しかし、奥様はそれを見事に覆された。
あの日、奥様がどのような想いで走っておられたのか。私に知る由はございません。それでも――
「そうでございましたな。――あの日の奥様の笑顔は、やはり忘れがたい」
メイド長のおっしゃる通り、あの日の奥様はまさに眩いの一言に尽きるのです。零れるほどに、その身の内にある想いを余すところなく溢れさせるように、誰にも憚らず隠す必要などないように、奥様は笑っておられた。小さなお嬢様をしかと抱きかかえ、無邪気な笑顔に応えるようにして、汗にまみれたお顔をくしゃくしゃにして微笑んでおられた。
あの笑顔こそが、奥様にとってのレースの真実なのだと、私にはそう思えてならないのです。そうでなければ、あの聡明なお嬢様が、「私も一流になるのだ」なんて宣言されるはずがないのですから。
随分冷えてしまったカップの中身を何とか流し込み、私は席を立ちます。お二階の話し合いが終わる気配はありません。いい加減、お茶のおかわりをお持ちしなくては。
目尻を拭ったメイド長も席を立たれます。これより夕食の支度だという彼女を部屋から見送り、私はお茶のおかわりを淹れるべく、電気ケトルのスイッチを押しました。
お嬢様と奥様の話し合いは、結局実を結ぶことはなかったようでございました。
「奥様。夕食の準備が整いましてございます」
太陽が地平線に身を隠そうという頃合い、メイドたちが腕を振るった夕食が完成したのを確認して、私は奥様の部屋を訪ねました。話し合いが終わると一階へ降りて来たお嬢様と違い、奥様はずっと部屋へ籠ったままでございました。
ノックをしながら部屋の中へ呼びかけても、返事は返って来ません。閉じ切った扉の前でしばらく立ったまま待っておりましたが、さてもう一度お呼びしようかと手を伸ばしたタイミングで、中から奥様の声がいたしました。
「爺や、少し話があるの。入って来て」
奥様のお声は随分と力ないものに聞こえました。私は一言断り、閉じたままの扉を開きます。お部屋の中、寂しげに笑って私をお出迎えになった奥様は、大層疲れ切ったご様子でベッドに腰掛けておいででした。
「お呼びでしょうか、奥様」
「……ええ」
頷かれた奥様は、けれどそこで言葉を切り、視線を落とされました。気力も体力も全部使い切ってしまったというようなご様子です。どこかやつれたようにもお見受けします。これほどに疲労困憊した様子の奥様は、どんなレースの後であろうと見たことがございません。
伏せったままの目を、奥様は一瞬だけ隣へ移しました。ぽっかりと空いたベッドの上、奥様の隣には丁度人一人分のスペースが残されております。そこへ残った皺が、少し前までその場所に座っていたであろう方の存在を思い起こさせました。
固く引き結んだ唇を奥様はゆっくりと丁寧に解かれました。
「キング、今夜出て行くのでしょう」
「……やはりご存知でございましたか」
そのような気がしておりました。デザイナーとして多忙な日々を過ごされる関係上、お屋敷にいることの少ない奥様でございますが、その分よくお嬢様のことを気にかけておられます。時に、メイド長や私がご心配が過ぎるのではと思うほどに、よく気にかけております。ですから、此度のお嬢様の企てに関しても、きっとどこかでお気づきになられたのでしょう。ここ数日の奥様を見ていて、私はそのように感じておりました。
「……『入学を認めてくれないなら、家出するから』って。前にそう言われたの。だから……なんとなく、そんな気がしてたわ」
「お止めになりますか」
私が尋ねますと、奥様は何も答えずに伏せっていた目を閉じました。長い長い沈黙でございました。時折開かれる唇が震えておりました。閉じた瞼の長い睫毛が震えておりました。すっかり垂れてしまったお耳の先が震えておりました。何かを飲み込み堪えるようにしていらっしゃる奥様を、私はただじっとその場で直立不動のまま待っておりました。
どれほどの時間がそうして過ぎていったのかはわかりません。もう日も暮れて辺りは夜になろうかとしております。時間の経過は、時計の針を確認しない限り判然としませんでした。
結局、奥様は私の問いかけに答えることはございませんでした。お顔を上げてベッドを立った奥様は、ほとんど物の置かれていない真っ新な机の上から、茶封筒とクリアファイルを私へ手渡されました。中身はトレセン学園への入学時に必要な書類で、奥様の署名が入ったものも見受けられました。
「キングに渡して。必要なものだから」
「かしこまりました」
「それと、ごめんなさい。折角呼びに来てもらったところ悪いけれど……お夕飯はあとでもらうわ」
「奥様、それは――」
私の言葉を遮るように奥様は首を振り、視線を逸らしました。逸らした視線の先、今しがた書類をお取りになった奥様の机に、写真立てが一つ。半年ほど前、奥様とお嬢様が最後にお出掛けになった際にお撮りになった、二人並んでのお写真がそこへ収まっておりました。
奥様の目元がほんの少しお優しくなったようにお見受けいたします。
「キングが屋敷を出て行くまで、私はここで待ってる。私にできることは、それくらいしかないわ」
顔を合わせれば引き留めてしまうから。奥様がぼそりと最後に呟いたお言葉は、私にはそのように聞こえました。
それはつまり、お嬢様を引き留めたくはない、と。このお屋敷を出て、トレセン学園へと入学し、そして奥様と同じ競技ウマ娘として夢を叶えて欲しい、と。私にはそういう意図であるように思われました。それを奥様へ確認しようとして、けれどはたと思い留まります。それを確かめたところで意味はないのです。むしろ今日この日まで多くを悩まれたであろう奥様を、苦しめてしまう問いのように思われました。
黙ったままの私に背を向け、奥様はお部屋の窓の方へと歩み寄られます。昼間であればメイドたちの手入れが行き届いた庭園が見えるところでございますが、生憎と薄暗がりの今では何も見えてはおりません。鏡のようになった窓にはぼんやりと奥様の姿が映るばかりでございます。
見えないはずの庭園を見つめるふりをして、奥様はまたポツンと呟きました。
「……キングのこと、私は何もわかってなかったのかしら」
独り言のような呟きに、私は返す言葉を持ち合わせておりませんでした。
「『お母さまは何もわかってない』、『ずっとレースで勝つのが夢だった』、『お母さまが何を言おうと譲らない』って。……そんな風に思ってたなんて、知らなかった」
訥々と語る声が、ほんの少し嬉しそうに聞こえたのは、私の気のせいでございましょうか。奥様のお背中からは、何も窺い知ることはできません。窓に映るお顔もおぼろげで、私の位置からは感情を読み解くことは叶いませんでした。
「……キングは私とは違う。キングのやりたいこと、私とは違う道を見つけるって思ってた。……私と同じ道を選ぶなんて思わなかった」
「それがお嬢様の選ばれた道でございます。奥様と違う道でなかったとしても、お嬢様の意志であれば、応援して差し上げてもよろしいのでは?」
差し出がましいこととは存じつつも、私は私自身の意見を述べさせていただきました。奥様は少し驚いた様子でチラリと私を振り返りましたが、結局何もおっしゃらずにまた窓の方をご覧になりました。お部屋には再度、初春の静けさを含んだ沈黙が流れます。
「――言えないわ。『頑張って』、『応援してる』、なんて軽々しく言えない。そんな言葉一つで立ち向かっていい場所じゃない。それに、それを言ったら、キングはどこまでも頑張ってしまう。あの子はそういう娘よ。ひたむきで、努力家で……でも、そういう娘から潰れていく世界なのよ、あの場所は。才能があって、努力ができる娘でも、容赦なくすり潰してボロボロにしていく世界よ」
言葉を紡ぐ間に何度も噛み殺すような間がございました。小刻みに震える小さな肩が堪えていらっしゃるのは、奥様の記憶にある恐怖なのでございましょうか。いいえ、それだけには思えません。あたかもご自身の本心まで噛み潰しているかのように私には思えます。
お嬢様をレースの世界へ送り出したくないお気持ちも、一方でお嬢様の夢を応援したいお気持ちも、奥様はそのどちらもお持ちなのでしょう。でなければこれほど悩むことはないのです。苦しみ恐怖することもないのです。こうして、今まさに奥様のもとを飛び出そうとするお嬢様を、引き留めることをしないようにとご自身を部屋へ閉じ込めることもなさらないのです。
「嫌われたっていい。一生、口をきいてもらえなくてもいい。キングが笑っていればそれでいい。走ることが大好きなままのキングでいてくれればそれでいい。ただそれだけでいいのに」
それは奥様の強がりでございました。お嬢様に嫌われてしまったら、きっと誰よりも奥様は悲しいのです。あるいは生きる支えをすべて失ってしまうやもしれぬほどに悲しいのです。けれどそれでも、奥様の願いはたった一つ、お嬢様が笑っていることなのでございます。それ以上の願いなど、奥様の内には存在しえないのでございます。
私には、最早それ以上口にできる言葉はございませんでした。家出をお決めになったお嬢様も、それを黙って見送ろうという奥様も、もうすでに覚悟を決めていらっしゃる。この期に及んで私が言葉を尽くしても、それはお二人の並々ならぬ覚悟を無碍にする行為に他なりません。お二人に仕える執事として、それはできぬ相談でございます。
「――書類は確かに受け取りました。ご夕食の件も、私からメイド長へお伝えしておきます」
「……ありがとう。――爺や」
窓から庭園を見つめ続ける奥様へ深々と一礼をして、私はお部屋を後にしようとしました。しかし扉のノブへ手をかけたところで、奥様は今一度私をお呼び止めになります。髪の隙間から窓の向こうの薄闇に紛れるようにして横顔が覗いておいででした。
「なんでございましょう、奥様」
「その、ね。……あの子のこと、無事に学園まで送り届けて頂戴」
「――かしこまりました」
部屋を辞する直前に窺えた奥様の横顔は、ほんの少し口の端を緩めていらっしゃるようにお見受けいたしました。
お荷物を全て車へ移し終え、お嬢様の家出の支度が整ったのは、夜も七時を回った頃でございました。
お嬢様をお呼びしようと屋敷の二階へ足を運んだ私は、階段を上がった先、閉じられたままの奥様のお部屋の前に立ち尽くすお嬢様の姿を見つけました。軽く握った右の拳で今しも扉をノックしようとしているお嬢様ですが、しかし寸でのところで手が止まり、そのまま扉を叩くことなく半歩下がってしまわれます。開きかけた口から何かしら言葉を発しようとしているようでございますが、それもまた上手くいっておりませんでした。二度、三度と、お嬢様は同じことを繰り返されておりました。
「お嬢様」
堪らず私が声をかけますと、お嬢様は驚いたご様子でこちらを振り向き、そして困ったお顔で微かに笑います。お嬢様は小さく溜め息を吐き出されて、チラリと奥様のお部屋を見遣りながら口を開かれました。
「……最後くらい、挨拶しようと思って。それが一流の礼儀というものでしょう」
「……さようでございましたか」
頷かれたお嬢様は、今一度奥様のお部屋に向き直ります。手が伸びて、握られた拳が扉をノックしようとしております。私はそれをお嬢様の一歩後ろへ立ち、見守っておりました。
……けれどその後も、お嬢様の手が軽やかにノックを鳴らすことは、ついぞなかったのでございます。私が訪ねる前と同じように、二度、三度と躊躇するようにに拳を彷徨わせるお嬢様。力なく握られた小さな手は宙を惑うばかりで、最後には微かに震えながら力なく降ろされてしまいます。
「……なんて、言えばいいのかしら」
ポツリと、お嬢様は心底お困りになった様子で呟きました。
言葉が全く浮かばないのでございましょう。扉をノックしたとて、その後に一体何を奥様へ告げればよいのか。黙認されているとはいえ、家出をしようとしている今、どんな風に挨拶をすればよいのか。その言葉がどうしても見つからず、思い悩み、結局お嬢様は扉をノックできずにいるのでしょう。
そんなお嬢様に、私からできる助言はたった一つでございました。
「――いってきます、でよいのですよお嬢様」
「……本当に? 本当に、それだけでいいの?」
「さようでございます。いつものように、いってきます、とそれだけでよいのです」
旅立つ子が親に告げる言葉に、きっとそれ以上のものなどないのでございます。伝えたいことも、口にしたい想いもあるでしょう。けれどそれらを、上手く言葉にできないというのであれば。その時は無理せず短い言葉でもよいのです。千の言葉を語るより、たった一言の方が想いが伝わるという時もございます。ですからよいのですよ、お嬢様。いってきます、のただその一言で十分なのです。
お嬢様は、私の言葉に全てご納得された訳ではないようでございました。私を振り返った拍子に揺れた鹿毛の合間、細い眉を目一杯に下げておいでです。なおも問いかけるようなお顔に思わず目を細めます。随分と大きく――背も伸びて、しっかりとしたお考えをお持ちで、多くのことをご自身でできるようになられました。爺やは勝手に、すっかり大人になられたものだと、寂しさ半分に思っておりました。けれどこうして間近で窺うお嬢様のお顔は、いまだ幼くあどけない少女のものでございます。期待も不安も、その小さなお体一杯に詰め込まれた、決して特別ではない女の子でございます。それを私はすっかり失念しておりました。
私は半歩前へ出てお嬢様のすぐ側へと立ち、一言断ってそのお背中へ手を添えます。思えば、幼いお嬢様とお庭のブランコで遊ぶ時は、いつもこうしておりました。
「――大丈夫でございます」
爺やがここへおります。いかほど、お嬢様の助けになるかはわかりませんが、それでもこの爺や、いまだお嬢様の背を支えることくらいはできます。
お嬢様は真ん丸の瞳を一しきり揺らした後、意を決したように頷いて、もう一度緊張した面持ちでお部屋へ目を向けました。小さな唇が震えながら息をされます。
コンコン。コツリ。扉からは小気味いいノックオンが響きます。
「……いってきます、お母さま」
掠れてしまいそうなお声で、お嬢様は扉へ向かってそうお告げになりました。お部屋の中よりお返事はございません。けれどお嬢様は扉の前より動かず、眉間のあたりへうっすら皺を作って栗色の瞳を揺すり、根気強く待っておられました。廊下には物音一つなく、ただただ静かな時間が流れておりました。
ふと、扉の向こうより微かですが音が聞こえました。パタリ。キシリ。音はあまりにたどたどしく、けれど確かにこちらへと近づいて参りました。それが、人の歩む気配なのだと少しして気づきました。あまりに力ない歩みでありました。あたかも、両の脚に枷が嵌められているかのような。あたかも、両の脚が鎖で雁字搦めになっているかのような。あたかも、両の脚では支えきれないものを意地でも背負い続けているかのような。そのように私には感じられました。
扉のすぐ向こう、足音は薄い木の板をたった一枚挟んだあちら側でピタリと止まりました。何かの擦れるような音が微かに聞こえて参ります。コツリと小さな音も聞こえて参ります。扉の向こう、すぐそこへ誰かが立っていて、扉へ触れていることは明白でございました。
半歩、お嬢様は前に出ますと、震える小さな手で扉へ触れました。細い指先から段々と、扉の質感を確かめるようにして手のひらを押し当てたお嬢様は、そうしてゆっくり瞼を落とされました。一つ、二つ、三つ。堪らない衝動を我慢するように深呼吸をされるお嬢様。再度目を開かれると、私から隠すように目元を拭って、そして踵を返して扉より離れていかれます。私は未だ開かれない扉へ一礼をして、そして真っ直ぐに階段へ向かわれたお嬢様の、その後を追いかけました。
玄関前に回したお車の後部座席へお身体を収めるまで、お嬢様は終始無言でございました。階段を一段ずつ踏み締めていかれる間も、サッと最後の身だしなみを整える間も、玄関で靴へ足をお入れになる間も、唇は引き結んだままでございます。先程と同じように、懸命に何かを堪えていらっしゃるように、私はお見受けいたしました。
「お嬢様!」
私が運転席のドアを閉めたタイミングで、お屋敷に勤めるメイドが二人、玄関より出て参りました。いずれも、私やメイド長よりお嬢様と歳の近しい、若いメイドでございます。日頃より、お茶やおしゃべりに興じ、仲の良い三人でございます。
それまで無言であったお嬢様は、笑顔を作ると窓を開けて、二人をお迎えになりました。「くれぐれもお体にお気をつけて」「ご活躍をお祈りしています」「何かあればいつでもご連絡ください」とかわるがわるに手を取り涙声でお嬢様に言葉をかけるメイドたち。その一つ一つにしっかりと頷かれ、「ありがとう」と笑顔まで見せて、お嬢様は応えておいででした。
一しきり言葉を交わされたあと、メイドたちは目元を拭いながら車より一歩下がります。
「もう少々お待ちください、お嬢様。まもなくメイド長も参ります。今、奥様を呼びに行かれていますので」
「……そう」
お嬢様はチラリとメイドたちの後ろを見遣りました。諦めを多分に含んだ、ほんの小さな溜め息をお一つ。お嬢様はバックミラー越しに私へ目を向けられると、実に簡単にご命じになりました。
「いいわ、爺や。出して頂戴」
「お嬢様――」
私よりも先に、メイドたちが引き留めようといたしました。けれどお嬢様は首を振ります。それから申し訳なさそうに眉を下げて微笑まれました。
「ごめんなさいね。でも、寮の門限に遅れてしまうから。もう行かないと。それに――あの人は、きっと来ないもの」
小さな嘘を吐いて、お嬢様はもう一度私へ車を出すように命じられました。私は今一度、玄関の方を窺います。お嬢様のおっしゃる通り、確かに厳かな作りの扉が開かれる気配はありませんでした。
――「私はここで待ってる」
奥様の並々ならぬ覚悟を私は目にしております。もしかするとお嬢様も、薄々そうした雰囲気を感じ取っているのでしょうか。
「……かしこまりました」
私はお嬢様のご命令を了承して、サイドブレーキを降ろしました。お車をゆっくりと進めます。メイドたちは一礼して見送ることも忘れ、車に追い縋って手を振っていました。それに、お嬢様はずっと笑顔で答え、手を振り返しておりました。やがてメイドたちを置き去りにし、車は速度を上げます。お嬢様もメイドたちも、車が角を曲がってお互いが見えなくなるまで、ずっと手を振っておりました。
振り終えた手を、お嬢様は名残惜し気に降ろします。窓を閉めた拍子に、お耳を垂らして寂しそうに目を伏せたお嬢様の顔が、そこへ映り込みました。
座る位置を正したお嬢様は目を伏せたまま、再び黙りこくってしまわれます。取り出したスマホを無言で弄る姿がバックミラーから窺えました。
すでに夜闇に覆われて、緩やかに眠りにつこうとしている住宅街を、私はゆっくりと車を進めておりました。家々が密集して道も細いわけですから、法定速度というのも遅く設定されております。時速にして三十キロ弱というスピードは、ともすればウマ娘のジョギングより早い程度。ほんの少し本気を出されてしまえば、おそらく今の車よりもウマ娘の方がずっと早く走れてしまうことでしょう。
……ですから、もしも元競技ウマ娘が本気で追い駆けたのなら、この車にはすぐ追いついてしまうのです。
「キングッ!」
閑静な住宅街には全く似つかわしくない声が、車のエンジン音に混じって響き渡りました。必死に呼びかけるその声は、この爺やの耳にもしかと届いたのです。主人に仕える者として、決してその声を聞き逃したり間違えることなどありえません。
そして、私と同じかそれ以上に敏感に、その声へ気づかれる方もおります。
目線だけでバックミラーを窺うと、住宅街の街灯の明かりがチラリと人影を映しました。翻る鹿毛が季節外れの蛍でも宿ったかのように煌めいております。美しい身のこなしと均整の取れたフォーム……とは程遠い、我武者羅で無我夢中な走りでございました。どこか不格好にも見えるウマ娘の走りに、しかし思わず見惚れてしまわずにはいられません。
後部座席のお嬢様は、窓へへばりつくようにしてその姿を見つめておいででした。
「……停めて」
掠れ声の呟きが車内に漏れます。お嬢様は潤んだ栗色の瞳で私を振り返り、もう一度ご命じになりました。
「爺や、停めてっ。お願いっ」
「かしこまりました」
私はサイドランプとブレーキを同時に操作して、すぐに車を停めました。減速に従い、走ってくるウマ娘――奥様との距離が急速に近づきます。
「キングッ!」
必死の形相でもう一度お嬢様を呼ばれる奥様。それに応えるようにお嬢様は窓を開き、その緩慢な動きがもどかしいかのように隙間へお身体をねじ込むようにして、身を乗り出されました。
「……さま……お母さまっ!」
お嬢様の叫びへ呼応してか、奥様はさらに速度を上げて、こちらへと駆け寄ります。現役であられた頃の切れ味はどこへも残っておりません。けれどアスファルトを踏み締めて駆けるその姿は、ともすれば稲妻のようで、あるいは風のようで、レース場を駆けていらした頃のお姿を重ねずにはいられません。その脚は、ただお嬢様のためだけに、大地を蹴っております。
奥様はやがて緩やかに減速し、息を整えながら車のすぐ側へ立たれました。その様子を確認されたお嬢様は、乗り出されたお身体を車内へと戻し、奥様の呼吸が落ち着くのを待っておりました。
春の夜の寒い空気が車内へ入ることなど一向に気にも留めず、開け放たれた窓を挟んでお二人は対面しておいででした。どちらかが声を発することはありません。奥様もお嬢様も一生懸命に言葉を探しているご様子で、よく似た栗色の瞳が街灯の光を受けながらお互いを見つめ、揺れておりました。アイドリング中のエンジンの音だけが、妙に小気味よく辺りへ響いております。
先に声を発したのは、奥様の方でございました。意を決したように一つ息を吸われて、震える唇で言葉を紡がれます。
「――キング」
奥様はたった一言、お嬢様のお名前を呼ばれました。大変短いその言葉に、様々な想いが込められているように思われました。
奥様の手が伸びます。窓の縁に乗せられていた手がゆっくりと、車中のお嬢様の方へ。細い指先が震えているのは、走った直後故なのか、はたまた別の理由からか。
指先がお嬢様の髪に触れます。震える瞳で奥様を見つめておいでだったお嬢様は、全てを委ねるようにして目を瞑ります。奥様が頭を撫でる時には、いつもそうされておりました。いつも照れくさそうに頬を染めながら、瞳を閉じて優しい手つきに髪を任せておいででした。
お嬢様の艶やかな鹿毛を、奥様はそれはそれは丁寧な手つきで撫でておりました。ここ最近の険しい表情が嘘のように、先程お部屋で窺った疲れ切ったご様子が嘘のように、ただただ穏やかな表情でお嬢様を撫でておいでです。時折、きらりと光るものを瞳の端で堪えるようにしながら、カバーをしたお嬢様のお耳も撫でておいででした。愛しさと慈しみの限りを尽くしていらっしゃるように私はお見受けいたしました。
一分ほどそうした後、奥様はお嬢様から手を離されました。目を閉じて、奥様のされるがままになさっていたお嬢様がゆっくりと目を開き、再び奥様を見つめます。開きかけた唇がどこか名残惜し気でございました。
「――いってらっしゃい」
奥様はとても静かにそうおっしゃいました。お嬢様の目を真っ直ぐに見つめて告げた言葉は、先刻お嬢様が奥様へとお掛けになった言葉への返答でございましょうか。それはきっと、お嬢様が一番欲しかったお言葉に違いないのです。
「――いってきます」
お嬢様はもう一度、奥様へそうおっしゃいました。様々訊きたいことはございますでしょう。しかしお嬢様はそれ以上何も言わずに、やはり真っ直ぐに奥様を見つめておいででした。これ以上言葉を交わすことを恐れているようにも思えます。
……本当に、よく似た母娘でございます。そう思うのは私だけでございましょうか。伝えたいことも、口にしたいことも確かにあるのでございます。それこそ、言葉にすれば尽きぬほどあるのでございます。けれどお二人とも、それを形にするのが苦手なのです。それはお二人揃っての不器用さゆえでしょうか。あるいはお二人のお優しさとお強さゆえなのでしょうか。ともかくお二人とも、特に奥様が強く言葉足らずを自覚されているがために、言葉を尽くされることをされないのです。この頃は、殊更に。
お嬢様に見つめられた奥様は微かに目を細め、もう一度開いた唇から申し添えられました。
「……いつでも帰っていらっしゃい」
短い言葉に込められた想いは、端から見れば明らかなのでございます。ああ、けれど奥様。やはり此度も、言葉が足りません。周囲の者からすれば明確なことも、当事者には全く伝わらぬことというのも、多ございます。
お嬢様はひどく傷ついたお顔をされました。唇を噛み締め、瞳の光を強くされます。奥様の言葉をどう受け取ったものか、図りかねるようにただじっとして黙っておりました。
「いいえ……帰りません。何があろうと、決して」
決意を込めてお嬢様はそうおっしゃいました。言い切った時、その目はもう奥様を見てはおりませんでした。
「もういいわ。出して、爺や」
珍しく強い口調でお嬢様は私に向けそうおっしゃいました。バックミラー越しに私を見る瞳が、薄暗い夜の中で微かに揺れております。
「……よろしいのですか」
「ええ、いいの。もう話すことはないわ」
お嬢様は奥様へ目を向けることなくもう一度そうおっしゃいました。そんなお嬢様を、奥様は何とも言えない表情で静かに見つめておりました。やがて、奥様もまた私の方へ目を向けます。
「行って頂戴、爺や」
震える唇から紡がれた言葉は、今宵一番力強い響きでございました。
「……かしこまりました」
奥様が後部ドアより離れるのを待って、私は車を再び走らせました。お嬢様も奥様も、お互いに手を振ったりなどはされませんでした。サイドミラーに映る奥様はお嬢様と言葉を交わされた場所から動かず、夜風に束ねた鹿毛を揺らしながら車を見送っておりました。バックミラーに映るお嬢様は奥様と言葉を交わされた窓を見ることなく、背もたれに寄り掛かって反対の窓を見つめておりました。
静かな、とても静かな春の夜を車は走り抜けていきます。時折現れる灯りの下を通るたび、冷たく白い光が車内を流れていきます。その度に後部座席のお嬢様の姿が照らし出されました。お嬢様は、先程のようにスマホを弄ることもなく、どこかぼうっとして窓の外を眺めておりました。流れていく光が栗色の瞳に反射する度、宝石のような輝きを見せております。
光がリズムを刻む合間に、お嬢様は薄い唇をほんの少しだけ開かれました。
「……爺や」
「はい、お嬢様」
「ラジオか何か、かけてくれるかしら」
私は頷いて、ラジオのスイッチを入れました。一体どこのチャンネルであるかは把握しておりませんが、どうやら歌のリクエストコーナーであるようでした。パーソナリティーは耳に心地の良い玲瓏な声でリスナーからのお便りを読み上げ、そしてリクエスト曲を紹介していました。私は存じ上げない曲名でしたから、きっと最近の曲なのでしょう。
そうして、一曲、二曲と曲がかかります。曲の合間のトークも小気味よく、リズミカルに番組は進んでいきます。お嬢様は、聞き入っている様子はございませんでしたが、窓の外を見遣りながら時折耳を澄ます素振りを見せておりました。
最後となる三曲目をパーソナリティーが紹介して、曲がかかります。伴奏も何もなく、女性歌手の歌声から始まる曲でした。ふと、どこかで聞き覚えのある曲だと、私は思いました。
カタリ。沈黙を保って後部座席へ収まっていらしたお嬢様が、初めて物音を立てて反応いたしました。伏せがちに半分ほど閉じていらした双眸を、今は目一杯に開いてオーディオを見つめております。耳カバーをしたお耳をピンと立てて、食い入るように歌声に聞き入っております。
微かに開いた唇がわなないて、ハッと息を吸いました。
「……お母さまの、子守歌だわ」
背もたれに預けておいでだった体を前のめりにして、お嬢様はそうおっしゃいました。
お嬢様の呟きで、私もようやく合点がいきました。ああそうです、奥様の子守歌でございます。奥様がよく、寝床のお嬢様へ囁いていた子守歌でございます。寝物語の最後に、奥様はいつもこの歌を口ずさんでおりました。
それまでの強張ったお顔を、お嬢様は気の抜けた溜め息とともに柔らかくされました。
「いつも同じ歌ばかり。おかげで憶えちゃったわ」
「聞き覚えがあると思いました。懐かしいですな」
「……他にレパートリーはなかったのかしら」
苦笑いして、お嬢様はまたお身体をシートへお預けになりました。けれどその表情は、いくらかもとの明るさを取り戻したようにお見受けします。ドアへもたれかかるようにして窓から外を眺めるお嬢様は、ラジオから流れる歌に合わせて歌詞を口ずさんでおりました。
「晴れの日も、雨の日にも――あなたを守るために」
お嬢様のささやかな歌声に乗って景色が流れていきます。カーナビを見遣りますと、地図の端の方に「中央トレーニングセンター学園」の文字が見えて参りました。お嬢様の向かわれる栗東寮はその真向かいですから、もう十分というところでしょうか。
まもなく到着いたします。そうお嬢様へお伝えしようとバックミラーを窺いました。丁度その時、差し掛かった街灯の光が車内を照らします。夜だというのに随分と明るく、不躾なほどに眩い光でございました。
「……願いはひとつだけ」
震える声で歌詞を紡ぐお嬢様の頬に、初春の夜露が伝って煌めいておりました。
開きかけた口を、私は閉じました。まだ歌は終わってはおりません。お嬢様も今しばらくは聞き入っていたいご様子。お声をかけるのは、もう少し後にするといたしましょう。
学園の寮に着きますと、寮長だという学生が出迎えてくださいました。寮長さんはお嬢様のお荷物をお部屋へと運び込む指示をあれこれとしてくださいました。ものの数分で、残すところはお嬢様の身一つとなります。
俄かに居住まいを正されたお嬢様は、私を真っ直ぐ見据え、お優しい笑顔を見せてお別れの言葉をくださいます。
「爺や、ありがとう。とても助かったわ。――体には気をつけて、ね」
「お嬢様こそ、どうぞお体を大切に。何かありましたら、いつでもこの爺やにお申し付けください」
「もう、爺やったら。寮に入るんだもの、爺やにあれこれしてもらうわけにはいかないわ」
お嬢様はクスクスと口元へ当てた拳へ笑みを押し殺されました。なるほど、これは然り。私としたことが、余計な一言でございました。
……ああ、そうでございます。お嬢様はこれから、私が何かして差し上げることもできない、手の届かない場所に旅立たれるのですな。ご自身の二本の脚で大地を踏み締め、走って行かれるのですな。
お嬢様はひらりとお手を振って踵を返し、寮の玄関へと向かわれようとしました。やはり大きくなられた、そう思います。幼くはあります。大人と呼ぶにはまだ時間がありましょう。けれどそのお背中は、もう随分と大きくなられた。あたかも育ち盛りの翼を、目一杯に広げて力の限り羽ばたこうとするように、私には感じられました。
「お嬢様――」
私が呼びかけますと、お嬢様はくるりと振り返り首を傾げます。用件を尋ねる瞳に何を伝えたものか、私はしばしの間迷っておりました。
「時々でよいのです。お屋敷にお顔をお出しください。私も、メイドたちも……奥様も、お嬢様にお会いできないのは寂しゅうございます」
私の言葉に、お嬢様は「あっ」と何かにお気づきになられた様子で、真ん丸に目を見開きました。それから困ったように、あるいはどこか自嘲されるように、眉を下げて肩を竦めておいでです。
小さく力の抜けた溜め息を吐かれるとともに、お嬢様は微笑んでお答えになりました。
「ありがとう。でも、ごめんなさい。屋敷には帰らないわ。これは私が決めたことよ」
胸を張って告げられた言葉には、家出のお手伝いをお願いされた際と同じ、確かな決意が宿っておりました。
「私は、私のなりたい私に――一流のキングヘイローになるまで、絶対に帰らない」
真っ直ぐな瞳に見つめ返されてしまっては、私にはもう、「さようでございますか」以上に返す言葉はございませんでした。
お嬢様に向かって深々と頭を下げます。
「いってらっしゃいませ、お嬢様。ご活躍を期待しております」
「いってきます。楽しみにしていて頂戴」
高らかな笑い声を残して、お嬢様は歩んでいかれました。振り返ることはもうございません。私もお呼びたてすることももうございません。停めた車の前にて、寮の玄関へ消えていかれるその時まで、お嬢様を見送っておりました。やがてその背中は、寮の中へと入って、見えなくなりました。
「……楽しみにしております」
厳しい世界でございましょう。辛いことも、苦しいことも……きっと奥様が心配されていた通りにあるのでございましょう。
それでも、お嬢様のことです。努力家のお嬢様のことです。ひたむきに夢を追う嬢様のことです。誰よりも強く優しいお嬢様のことです。必ずやご自身の夢を叶えてくださると、私はそれを信じております。
さて、夢を叶えた――目指すところの一流となられたお嬢様がお屋敷へ戻られた暁には、私も執事としてそれ相応のおもてなしをしなければなりますまい。お茶にお菓子、お料理も……もしかすると、そうした準備の時間はあまり残されていないやもしれません。
私はその日が楽しみで仕方がないのです。
お嬢様と旅立ちのお荷物の分軽くなった車を出して、私はお屋敷への帰路につきます。ラジオを切った車内に、私はふと、歌を口ずさんでおりました。