シービーはそれから部屋で休むようになった。
時たま外に出て軽く走っているようだが、それでも気負っているようではなかった。
いつものシービーに戻った。
沖野トレーナーはシービーに付きっ切りだ。柔軟や軽い運動の考案、食事のメニュー考案。流石に温泉までは来ないけど上がったらいつも待っている。
きっとシービーはもう大丈夫だ。
菊花賞ではいつも以上になる。
そんな予感がしている。
いつもシービーは猫のように日向ぼっこをしているので、それに付き合ったり一緒に遊んだりする時と軽く走る時以外は結構暇だ。
もちろん、僕も休みを入れないといけない。
だが、それは体質的に十分以上取れている。
そこで声をかけてくれるウマ娘がいる。
レッドさんだ。
僕が暇そうにしていると、必ず誘ってくれる。
「一緒にマサルのところに行こうぜ」と。
だが、僕がマサルのためにできることは少ない。
トレーニングに付き合うことができるわけでもないし、トレーナーでもないから最適なアドバイスができるわけではない。
だから見ているだけだ。
でも、それが意外に楽しかったりする。
応援したり、飲み物を渡したり、レッドさんと雑談をしたり。
それにここまでのびのびと誰かの走る姿を見たのは初めてかもしれない。
レースとか一緒に走るウマ娘の走り方などを研究をすることはあるが、その時は集中して見ている。
脚質とか得意な距離、適性。トップスピード、スタミナ、パワー。癖、気性。得意な技、長所。逆に短所、弱点。それを見て、本番ではどう走るのかをシミュレートして、僕にどう対処するのか、僕がどうするべきなのかを考えていく。
だが、マサルに対しては主観的な感想が出るくらいの視点で見ている。
別にマサルに勝たなきゃいけないわけでもないし、一緒に走るわけでもない。
それが僕にとって新鮮だった。
会うウマ娘は全員がライバルだった。
マルゼンスキーもシービーもモンスニーちゃんもカールちゃんもルドルフも、ニホンピロウイナーちゃんもプロミス先輩でさえ勝つ前提で接していた。
いつか戦うかもしれないからだ。
それはマサルも同じだけど、今は考えなくてもいいことだ。その未来は少しだけ遠いから。
とはいえ、人が走っている姿を見ると、自分も走りたくなるのがウマ娘心。
トレーニングにならない程度に走ったりしている。
それが結構楽しい。
速度を出さないから純粋にスキルだけでマサルと併走したり、それが失敗したらレッドさんがアドバイスをしてくれたり。
楽しい時間だ。
普通のウマ娘はこういうところからレースへの想いがスタートするんだろうな、と少し思ったりした。
僕は最初の方から勝つことを前提に走っていた。その前は自分の本能を抑える目的。
「楽しい」を根本に走ることはなかったのだ。
もちろん、シービーに感化されて楽しく走ったりはしたが、それは競うのが楽しいとか勝つのが嬉しいとか二次的な快感だった。
ある時レッドさんが僕に聞いてきたことがある。
昼間からお酒を片手にターフを外から見ていた時のことだ。
「ローヤル、お前はどうして走っているんダ?」
「どうして? 勝ちたいからですけど」
「ンー、もうちょっと深い部分ダ。勝ちたいと思う気持ちは誰にでもあるし、理由があるものでもないかもしれナイ。だが、同時に勝ってどうしたいという気持ちもあるはずダ」
「うーん、僕の目的はトゥインクルシリーズを盛り上げることなんです。だから走ってる。僕が勝てばその分トゥインクルシリーズが盛り上がると信じてますから」
そう言うと、そうカと言って、レッドさんは薄く笑った。
「人間は何故、ハンバーガーを食うのカ」
「え? ハンバーガー?」
「そうダ。ハンバーガーを人間は食ウ。なんでだと思ウ?」
「そりゃ、お腹が減るからじゃないですか?」
「そう、その通リ。だけど、食うのはハンバーガーじゃなくてもイイ。むしろ、ハンバーガーは体にいいとは言えなイ」
「まあ、そうですね」
「人間はハンバーガーを美味いから食うんダ。あの体に悪い食べ物を見ていると腹が減ル。喰いたいと食欲が叫ブ。だからハンバーガーを食うんダ」
言われてみれば確かにその通りの話だ。
だが、急にどうしたのだろうか。
お腹減ったのかな?
「じゃあ、自分の人生に彩を添えるためにハンバーガーを食う人間と、節制のためにハンバーガーを我慢する人間、どっちが偉いと思ウ?」
「偉い? そりゃ節制している人じゃないですか? 我慢しているんだし」
「確かに一理あル。だが、じゃあ人生に彩は必要ないのカ?」
「……あった方がいいと思いますけど」
「ハンバーガーを食う人間はどちらかと言うと偉くなイ。それはどうしてそう思ったのカ。お前が言ったことの逆だからダ。それは我慢をしていないと思ったからダ」
まじで何が言いたいのかわからない。
首をひねる僕にレッドさんは言う。
「なら、一番偉いのは節制し、自分の人生のためにハンバーガーを食う人間ダ」
「節制しているのにハンバーガーを食う?」
「ああ、何も不思議じゃなイ。その人間は欲を知り、欲を呑み込み、欲の先に行ったんダ。欲だけのためにハンバーガーを食ったわけじゃなイ」
レッドさんは熱に浮かされたように言う。
僕に何かを教えようとしているわけではないことがわかる。
「欲深い人間。勤勉な人間。ワタシが思うに、どっちも力を持ってル。より深い欲……この場合本能だナ。本能を持つ人間は求める力が強ク、勤勉な人間は進む力が強イ。じゃあ、どっちの力も持った方が強いと思わないカ?」
「よくわからないけど、確かにそうですね」
ククとレッドさんは笑う。
「きっと深く理解する時が来ル。お前にはその素質があル。だが、足りなイ。今じゃなイ。本能と理性は敵じゃないのサ。それだけを覚えているとイイ」
わからなかったが、そのなぞかけのような問いを僕はなんだか気に入った。
マサルを指さして言う。
「じゃあ、その理論で言うとマサルはどんなウマ娘?」
「本能で走るウマ娘ダ。あいつは自分こそが最速と疑わなかっタ。それは強い闘争心がそう錯覚させたからダ」
じゃあ、と僕はシービーやルドルフの動画をレッドさんに見せる。
「このウマ娘たちは?」
「このミスターシービーというウマ娘は本能で走っていル。それが至上の喜びだと考え、そうあるべきだと思っていル。そして、それこそがこのウマ娘の才能だろうナ」
「ルドルフは?」
「このウマ娘は理性で戦っていル。鉄の心を持っているのだろうナ。目的と自分を見て、それに到達するにはどうすればいいのか逆算していル。何か大きな目的をもっているんだろウ」
「そっかー」
見せたのはレースだけなのに、占い師のように言い当てるレッドさん。
素直にすごいと思った。
そして、レッドさんは僕のスマホを取り上げ、次の動画を再生する。
「こいつダ。ブラックトレイター」
「あ、ちょっとレッドさん」
「このブラックトレイター、酷く才能がなイ」
ええー!
素質あるって言ってくれたじゃん!
いや、僕は今はホワイトローヤルだけども!
「才能がない『まま』になっていル。だが、ここまで走ル」
「……ないまま?」
「そうサ。こいつは筋金入りのバカさ。だが、そのバカにしかできないことがあル」
「それは?」
「それを知るのは今じゃなイ」
「……ソーデスカ」
レッドさんはそのまま寝てしまう。
僕が旅館に運ぶ羽目になった。
ある日、僕は早くに目を覚ましシービーを探すが部屋にいなかった。
どこももぬけの殻だ。
どこへ行ったのだろうか。
眠い目をこすりながらシービーを探す。
冷気が僕の意識を少しずつ覚醒させていく。
シービーは入り口の外に立っていた。
「シービー」
そう声をかけると、こちらへ振り返る。
微かな笑みを浮かべて、その口から出る息は白くシービーを撫でた。
澄んだ朝の空気は朝日を通してキラキラと輝いている。
自然のライトの真ん中でシービーは僕を見る。
「ラック」
「うん」
「勝つよ、アタシ」
ああ。
僕にはわかる。
ミスターシービーが、覚醒した。
――菊花賞が、来る。