すぐに僕は退院することになる。
もちろん、まだトレーニングはできないけど、それは後々どうにかするから今は休めとトレーナーに言われた。
杖を突けば歩けるので、僕はトレーナーの目を盗んですぐに行きたい場所に行くことにした。
いや、盗めはしなかったけど、「乙女にはプライベートも必要なんです!」と言ったら許可してくれた。
それは病院だ。
だけど、僕がいた病院じゃない。
プロミス先輩が入院している病院だ。
とはいえ、どこにいるのか公開されているわけでもない。
プロミス先輩の気持ちを考えると、直接聞くというのも気が引けた。
なので、僕は南坂トレーナーを頼ることにした。
カノープスの部屋をノックする。
すると、どうぞと許可されるので、入る。
中には南坂トレーナーとニホンピロウイナーちゃんがいた。
ニホンピロウイナーちゃんの顔は暗い。
それはそうだ。
大好きな先輩が入院どころか、引退してしまうのだから。
僕には、痛いほど気持ちが分かった。
それは僕もだからだ。
「おじゃまします」
「ブラックトレイターさん……どうしました?」
「プロミス先輩のお見舞いに行きたいんです。どこに入院しているのか教えてくれませんか?」
「こんなとこ来ずに病室で大人しくしとけよ」
「ピロウイナーさん! ……そんなことを言ってはダメです」
「……ふん」
ニホンピロウイナーちゃんはそっぽを向く。
その様子に南坂トレーナーは申し訳なさそうにする。
「すみません。少し気が立っていまして」
「いえ、押しかけたのはこっちです」
「そう言ってくれると助かります」
「それで、プロミス先輩はどこに?」
「そうですね……実は今まで治療していたので、私とご両親以外は面会の許可が下りてなかったんです。ちょうど先ほど面会が許されたので、一緒に行きませんか?」
「はあ!? ちょっとトレーナー!! 本気で言ってるの!?」
「本気も何も、いろんな方がお見舞いに来てくれた方がプロミスなら喜びますよ」
「う……ぬぬ」
「駄々をこねてはダメですよ」
「……わかったよ」
ニホンピロウイナーちゃんはむくれながらもその言葉にうなずいた。
南坂トレーナーは僕に言う。
「今日は雨です。それじゃ疲れるでしょうから車を取ってきます」
「いいんですか?」
「いいですよ。雨が降るとは思っていませんでしたから、何で行くのか迷っていたんです」
「そういうことなら、お言葉に甘えます。ありがとうございます」
「はい。それでは取ってきたらピロウイナーさんに連絡するので、それまでここで待っていてください」
「はい」
南坂トレーナーは一礼して急ぎ足で雨の中を駆けていく。
カノープスに残された僕とニホンピロウイナーちゃんは気まずい雰囲気の中で待つことになった。
身の置き場のない僕は立ったまま、部屋を見渡す。
当然だが、まだプロミス先輩のものは残っており、僕はプロミス先輩が引退することを実感できていなかった。
現実と気持ちが乖離している。
そんな気分だった僕にニホンピロウイナーちゃんはため息を吐いて言った。
「……座りなよ。そんな足で立たれてたら、ぼくがトレーナーに怒られるから」
「あ、うん。ありがとう」
「だから、きみのためじゃないって」
「そっか」
僕は近くにあった椅子に座り、目の前の机をぼんやり眺める。
そして、意外にもまたニホンピロウイナーちゃんが声をかけてくる。
「菊花賞、2着おめでとう」
「……ありがとう」
それが皮肉かどうかわからなかったが、僕は一応お礼を言っておく。
「それで? 距離転向したりするの?」
「いや、僕はそのまま中長距離路線で戦うよ」
「……もうミスターシービーには勝てないんでしょ? 下にはシンボリルドルフだっている」
「でも、僕は変えるつもりは今更ないかな」
「勝てない戦いをするっていうの?」
「……僕、結構おしいところまで行ったんだけどなぁ。一応タイム差なしだから僕もワールドレコードだよ?」
「――その結果が、その足じゃんっ!!」
ニホンピロウイナーちゃんは僕を睨んで叫んだ。
なんだか、怒られてばっかりだなぁ。
「それでも勝てなかったじゃん! 無理して、怪我してっ! でも……勝てなかったじゃん……」
「ニホンピロウイナーちゃん……」
ああ、そうか。
ニホンピロウイナーちゃんは僕に言ってるんじゃない。
プロミス先輩に言っているんだ。
『君はわたしと同じなんだね』
プロミス先輩が僕に言ったものだ。
プロミス先輩はすでにわかっていたのかもしれないな。
そういう性質なウマ娘なんだってことを。
「さっさと、おまえはやめちまえばよかったんだ。クラシックなんて捨てて、こっちに来ればよかったんだ。辛いはずなのに、どうして走っちゃうんだ、お前は……」
悲しそうな顔をしてニホンピロウイナーちゃんは言う。
一体何度似たような言葉を聞いたのだろう。
一体何度その言葉で自問したのだろう。
答えはまだ出ない。
走るという過程だけがあるだけだ。
それきり、ニホンピロウイナーちゃんは黙った。
それからすぐに南坂トレーナーが迎えにやってきた。
僕たちは病院に向かった。
大きな病院だった。
病院の広さが怪我の大きさだとは思わないけど、それは僕の不安を大きくするには十分だった。
清潔な白い廊下を僕たち3人は無言で歩く。
聞こえるのは外からの雨音だけだった。
その病室は個室だった。
きっと南坂トレーナーが気を遣ったのだろう。少し大きめのところだった。
南坂トレーナーがノックをするとすぐに「どうぞー」という声が聞こえた。
一緒に入ると、プロミス先輩は少し驚いた顔をする。
そして、笑顔で迎えてくれた。
「やあ、来てくれたんだね」
「先輩っ! 大丈夫ですか?」
「うん、ピロウイナー。大丈夫……とは言い難いけど、死ぬわけじゃないしね」
ニホンピロウイナーちゃんは目に涙を浮かべて、プロミス先輩に駆け寄る。
プロミス先輩はギプスをして、ベッドに寝ている。
少し前の僕を見ているようだった。
寝れていないのか、目には隈を浮かべている。
「ラックくんも、来てくれてありがとう」
「いえ……あ、これ、お見舞いのです」
「いいのに。でも、ありがとう」
僕はベッドの横の小さな机にフルーツを置く。
「先輩、本当に、引退しちゃうんですか……?」
ニホンピロウイナーちゃんが泣きながら聞く。
その涙をぬぐいながらプロミス先輩は頷いた。
「うん。トレーナーと相談した上のことだ」
「な、なんでですか……! まだ、きっと先輩ならできますよ、走れるはずです!」
そのニホンピロウイナーちゃんの様子に苦笑いをしながらプロミス先輩は首を振る。
「靭帯が完全に切れちゃったんだ。だから、もう走れないんだ」
「そんな……!」
いやいやとニホンピロウイナーちゃんは駄々をこねるようにプロミス先輩に縋りつく。
その頭を撫でながら、プロミス先輩は僕の方を向く。
「ラックくん、菊花賞おめでとう」
「その言い方だと、優勝したみたいですね。でも、ありがとうございます。先輩もジャパンカップ、おめでとうございます」
「あはは、ありがと」
僕たちは敗者だ。
どうあっても。
勝てなかったんだ。
僕とプロミス先輩の違いは頑丈だったか、そうじゃなかったかの違いだ。
きっともう少し丈夫じゃなかったら、僕もプロミス先輩と仲良くベッドに寝ていただろう。
……なんだか、最近は泣いてばかりだ。
プロミス先輩は涙を流す僕たちを見て、淡く微笑んだ。
そして、ニホンピロウイナーちゃんの顔を上げさせる。
僕とニホンピロウイナーちゃんを見て、プロミス先輩は力強く言う。
「わたしは、夢に破れた。全力どころか、全身全霊の競技人生を賭けて戦って、夢破れたんだ。悔しい。すごく悔しい。こんなところで終わりたくない」
でも、とプロミス先輩は言う。
「でも、もう走れない。奇跡が起きたってもう、レースじゃ走れない」
「先輩……」
「じゃあ、わたしは憐れなの? わたしがしてきたことは無駄だった?」
「そんなこと……そんなことないっ!」
「うん。わたしは終わったけど、その悲しさも苦しさも悔しさも、全部わたしのものだ。だから、泣くな。わたしの後輩たちはそんなに弱くないはずだ」
プロミス先輩はニホンピロウイナーちゃんを立たせる。
「ピロウイナー。これから、カノープスは君だけになる。だから、チームを頼んだよ。わたしが誇れるチームにしてほしい」
「っ、はいっ!」
「ラックくん。君は、やっぱりわたしと同じだ。きっとまた君は走る。わたしはそのことを誇りに思ってるよ」
「――はい」
プロミス先輩は満足げに笑った。
「よし、いい子たちだ。わたしは君たちのことが大好きだよ」
そして、僕らを抱きしめた。
プロミス先輩はその身一つで、世界に抗った。
もう少しで手が届きそうなところまで行った。
プロミス先輩は、僕にとっての希望だった。
あの合宿の日、僕に見せてくれた走りは、諦めないことを教えてくれた。
だから、僕は今まで走ってこれたのだ。
でも、もうそれも終わりだ。
これから先に先輩はいない。
それでも走らないといけない。
走ることをやめちゃいけないんだ。
だって、僕たちはみんな、そうやって生きていくんだから。
それから、南坂トレーナーと話すことがあるからと言われ、僕たちは先に出ることになった。
南坂トレーナーは僕の足を気にしたようだったけど、邪魔しちゃいけない。
だけど、その足取りはどうしても重かった。
部屋を出て、立ち尽くしていると、中から声が聞こえてくる。
話し声じゃない。
泣き声だ。
くぐもった泣き声だった。
僕とニホンピロウイナーちゃんはその場から足を引きずるようにして離れるのがやっとだった。
僕たちは無言で歩く。
今日は酷く寒い。
雨が僕たちの体温を奪っていくようだった。
それは傘を差していても、変わらなかった。
不意に、ニホンピロウイナーちゃんが立ち止まる。
僕はそれに気づいてどうしたのかと覗き込もうとする。
その瞬間、ニホンピロウイナーちゃんに胸倉をつかまれる。
強い力に、僕は傘を落とす。
僕とニホンピロウイナーちゃんの傘は風にあおられ転がる。
雨が冷たい。
ニホンピロウイナーちゃんは僕を掴んだ両手に頭を当てる。
表情は上からだと見えない。
絞り出すように、言う。
「ぼくじゃ、できないんだ」
泣いている。
ニホンピロウイナーちゃんは泣いている。
「悔しい、悔しいよ。ぼくじゃ、勝てないんだ……!」
「ニホンピロウイナーちゃん……」
「頼む、こんなこと、お前にしか、頼めないんだ。虫が良いことを言うことも、わかってる……! 今更、ぼくが何言ってんだって思うかもしれない! けど、頼む……」
僕を掴んだ手は震えている。
すさまじい握力で掴まれた服は今にもちぎれそうだ。
「ぼくじゃ、ジャパンカップで勝てない……! なあ、ブラックトレイター、頼む。勝ってくれ。ジャパンカップに出て、勝ってくれっ……!! お前がっ、勝ってくれっ!!」
ニホンピロウイナーちゃんは、スプリンターだ。
ジャパンカップじゃ、どうやっても勝てない。
あの世界の強豪集まるレースじゃ、勝てないのだ。
ああ。
そうだよな。
悔しいよな。
わかるさ。
才能で一番苦しんできたのは僕じゃない。
ニホンピロウイナーちゃんだ。
ニホンピロウイナーちゃんが僕のことをわかってくれていたように、僕もニホンピロウイナーちゃんのことがよくわかる。
ニホンピロウイナーちゃんの栄光は、同時に彼女にとって影だ。
本当はもっと長い距離を走りたかったはずだ。
だけど、ニホンピロウイナーちゃんはその苦しみを味わってでも進むことを選んだ。進んで、短距離を開拓することを選んだ。
いつか走る、後の短距離走者たちのために。
短距離の才能しか持たないウマ娘のために。
だけど、その道を選んだニホンピロウイナーちゃんじゃジャパンカップは勝てない。
先輩の夢を引き継いで叶えることはできない。
「ニホンピロウイナーちゃん。あの時の言葉、嬉しかった」
そう言うと、ニホンピロウイナーちゃんは顔を上げる。
涙と雨でぬれた顔だ。
「君は僕の勝利を願ってくれた。本当に、嬉しかったんだ。ニホンピロウイナーちゃん。もう一度、僕の勝利を願ってくれる?」
「……うん。何度だって、願う。だって、お前はすごいウマ娘だ。ずっと……憧れだった」
「ありがとう。僕も、君が憧れだった」
「……ブラックトレイター」
「約束はしないよ。僕が勝ちたいから勝つんだ」
「うん……うん。それでいい。ぼくも勝手にお前の勝利を願うんだから」
勝ってやる。
今度こそ勝ってやる。
くそったれな運命に、勝ってやるんだ。
『他でもないアタシがそうしたいんだ』
そうだ。
他でもない、僕がそうしたいんだ。
こうして、僕らの一つの時代がまた終わったのだった。
ということで、この小説の最終目標はジャパンカップになります。
それまでの間、お付き合いください。