走ろうと思ったのは、親に運動部に入るように言われたからだ。
それで何かを成そうとは思わなかったし、それを続けて世界を取ろうなんて気持ちは一切なかった。
だけど、僕には走るという才能があって、辞める理由が特になかったから続けたんだ。
それは高校を卒業してからもそうだった。
友人は陸上部の部活仲間だった。
友人は選手じゃなくてマネージャーだったけど。
「聞いてるか?」
「え? ああ……馬の話?」
「そうそう。で、そのミスターシービーとシンボリルドルフが戦ったってわけ。まじで世紀の対決よ。ああ~俺もその時に生まれてればなぁ」
「ふうん。馬の徒競走がそんなに楽しいかね」
「そりゃ楽しいよ。馬にはドラマがあるんだ。一生懸命に走って、馬たちはわからないだろうけど、その姿に俺たちは夢を見るんだ。もちろん、金を賭けるっていう側面もあるけど、そのドラマなしに金は賭けられないよ」
「夢、ねぇ」
「そう。お前だって何かに夢くらい見るだろ?」
「……どうだろ」
カフェで友人と話す。
あんまり興味のない僕は外を見ながら聞き流す。
もう12月だ。
秋も秋。
イチョウが黄色くなって葉が道を染めている。
友人は競馬というものが好きなようで、隙あらば馬の話をするやつだった。
話半分に聞いていても話すことをやめないので、僕はいつもBGM代わりにその話を聞いていた。
そして、その話が終わったら僕が自分の趣味の話をする。友人はそれを話半分に聞くんだ。
なんてことのない、いつも通りで平凡な日常だった。
車を見ながら僕は思う。
そういえば、道路にウマ娘用の道がないなと。
「……あれ」
「? どうかしたか?」
「いや……何か違和感が。今日って会う予定作ったっけ」
「作ってなかったら会ってねえよ」
「うん、そうだよね……」
「夢っていえばその少し後の世代のオグリキャップは時代も相まって、人々に夢を……」
僕があんまり話を聞いていないのがわかったのか、友人は話すのをやめる。
今日の話は終わりなのかな、と思った。
だけど、それは違うようだった。
友人はふっと笑った。
「お前、つまんないって顔してるな」
「……いや、全然? すごい楽しい。ほら見て、車。とっても黒い。黒って楽しいよね」
「適当極まれりじゃねえか。せめて整合性のある言葉は吐け」
「……適当じゃないよ。僕は黒が好きなんだ。で、速いものも好き。好きなものは楽しい。だからあの黒い車は楽しい」
「じゃ、黒い馬も楽しいな?」
「……また馬。ま、いいけど。黒い馬ってどんなのがいるの? 黒王号?」
「そりゃ北斗の拳のラオウの馬だ。……そうだなぁ、黒鹿毛ではナリタブライアンとかスペシャルウィークとか? 漆黒のステイヤーって言われたライスシャワーとかいるかな。黒さだけを求めるなら青毛とか青鹿毛だけど。後は……お前には話したことない馬だけど、カツラギエース」
僕は外を見るのをやめて友人の方を向いた。
「……カツラギエース?」
「そう。そういう馬もいたんだ。すごい馬なんだぜ。でも、お前に話してやらない」
「なんでだよ。いつも楽しそうに話すじゃないか」
「ああ。思い出すだけならいい。だけど、新しく話してやることはできないんだ」
「だからなんでさ。急にケチ?」
「俺はさ、お前が死んだ時、すごい悲しかったんだぜ。お前は努力家で、良い友人だった。それが突然どっかに行っちまって、もう会えない。笑っちまうくらいに泣いた。それからお前が遺してくれたものを見るようになった」
友人は笑っている。
ああ。
そうか。
そうだよな。
「お前の居場所は確かにここにあった。帰って来るなら歓迎するさ。でも、もうお前は帰って来るな」
「……会えてうれしいだろ? そんな冷たいこと言うなよ」
「ダメだ。もうお別れだ。受け入れるんだろ? 自分を。その体を。ならもうお別れだ」
友人は僕の頭の上を指さす。
手を伸ばすと、耳があった。
まるで、馬のような耳。
「ライバルとトレーナーに感謝しろよ。お前に居場所をくれたんだから」
「感謝……してるよ。みんな、僕を受け入れてくれたんだ」
「ふ、まだまだ半分って感じだな。お前は全然理解してない。ま、無理にとは言わねえさ。だけど、こっちはもうお前の居場所じゃない。精々向こうで頑張れよ」
友人は立ち上がる。
もう、お別れなのか?
悲しくなって、僕は友人を引き留めようとする。
「もう行くの? もう少し話そうよ」
「ああ。お前も行けよ。話すことなんて、何もないさ」
「あるでしょ? 僕だって、お前に話したいことがたくさんあるんだ。ほら、ミスターシービーと友人になったんだ。シンボリルドルフも後輩だし、マルゼンスキーは先輩だし、仲いいんだよ。ああ、そうだ、メジロモンスニーとかダイナカールとか知ってる?」
「ああ。でもダメだ」
伝票を取って、それを見ながら友人は言う。
ダメなのか。
もうお別れか。
「あばよ、■■■■」
その名前は何故か僕の耳には届かなかった。
「ここはおごってやる。競馬で勝ったんだ。菊花賞だぜ」
友人は手を振る。
「立って前を向け。前向いて走れ。楽しい人生を送れよ、ブラックトレイター」
その名前はしっかりと僕の耳に届く。
だけど、その瞬間に空間が歪んで、落ちていく感覚を味わうことになる。
友人は消え、僕はどこにいるのかもわからなくなる。
涙があふれる。
それは不安だからだ。
だから、手を伸ばす。
前を向け?
前なんて、どっちにあるかわからなかった。
そんなことを言うなら、教えて行ってくれよ。
お前はいつも不親切だった。
こんな時も不親切じゃなくてもいいじゃないか。
誰か。
誰か教えてくれよ。
「――」
不意に何かが聞こえてきた。
僕は助けを求めるように叫び、そっちに手を伸ばす。
「――ック!」
もう少し。
もう少しで手が届く。
そう思った時、突然手を引かれた。
「――ラック! こっちを見ろ!」
ハッとする。
トレーナーが僕が伸ばした手を掴んでいた。
そして、心配そうに僕を覗き込んでいる。
僕は汗だくで、肩で息をしている。
周りを見ればそこはトレーナー室だった。
「ラック、大丈夫か?」
「……うん、大丈夫……」
夢か。
そうだよな。
あいつとはもう会えるはずないもんな。
この世界であいつを探してもいなかった。
それにもう春だ。
冬じゃない。
「どうした、急にうなされていたぞ」
「……懐かしい夢を見たんだ。もう、大丈夫。ありがとう、トレーナー」
「ああ。気にするな」
心配そうにしながらも、トレーナーは僕の手を放す。
「……トレーナー」
「なんだ?」
「ありがとうね」
「……どうした。怖い夢だったのか?」
「ううん。でも、トレーナーがいたから前がわかった。きっと今までもそうだった。……僕のことを守ってくれてたんだね」
トレーナーは僕の言っている意味がよくわからなかったようで、首を傾げる。
ああ。
お前の言う通りだ。
僕は受け入れるよ。
この体を。
ずっとあった震えが、いつの間にか止まっていた。