ブラックトレイターはおかしくなってしまった。
それがトゥインクルシリーズのファンの見解だった。
菊花賞で敗北したブラックトレイターは魔王と呼ばれた姿からは考えられないほどにボロボロになっていった。
出るはずもないと思われた有馬記念では続けて敗北し、足を引きずって退場した。噂では菊花賞の調子が治り切っていないという話だったのに、ブラックトレイターは出場したとのこと。
ほとんどの観客はその姿に溜飲を下げた。
だが、1ヶ月もせずに再びブラックトレイターは現れる。
足を引きずり、体に明らかに不調をきたしている。
そこまで勝利が欲しいのかと罵倒する観客もいたほどだ。
すでにかつて見た面影はなかった。
京都金杯、日経新春杯を越えたブラックトレイターは見た目だけで言えばどちらかというとアンデッドの部類だった。
誰から見ても異常。
だから、ブラックトレイターを毛嫌いしている人間もここ止まりだろうと思った。そうでなければ何のためのトレーナーだと。
しかし、2月の京都記念。
そこにブラックトレイターはいた。
誰もがなんの間違いだと思った。
もう正常に立っているのが不思議なほどだ。
いつもの挑発もなく、パドックではただ立っているだけだった。バランスを保つことすら難しいのか、走っている時の方が楽そうなまであった。
勝てるわけがない。
誰もがそう思い、願った。
だが、勝ってしまう。
そして、次のレースにコマを進めてしまう。
フェブラリーステークス。
ダートの最上位のレースの一つだ。
もう何もかもがバラバラだ。
ブラックトレイターはおかしくなってしまったんだ。
誰かがそう言った。
あの憎きブラックトレイターに同情の声すら上がった。
だが。
だが、ブラックトレイターは勝った。
何がそんなに彼女を突き動かすのか、誰にもわからなかった。
もう、終わってくれと願うが、すぐに次のレースはやってきた。
鳴尾記念。
足を引きずりさらにボロボロになって現れる。
しかし、その姿とは対照に瞳だけがギラギラと輝いている。
ここまでくると観客はそのウマ娘に別種の恐怖を抱いていた。
悪なんかじゃない。
もっと純粋な暴力的な雰囲気だ。
誰もが負けてくれと願う。
もう、止まってくれと。
そして、それは果たされる。
最終直線、ブラックトレイターは意識を落としたかのように失速した。倒れると思って悲鳴が上がったほどだ。
それをスズカコバンが抜かし、何バ身も差がついた。
終わったと誰もが思った。
だが、その瞬間あのブラックトレイターが吼えた。
異様な走りだった。
走りだけで言うならば理路整然が形になったような走りだったブラックトレイターの走りは野生そのものだった。
だが、速い。
もう追い付けないと誰もが思ったスズカコバンにクビ差まで追いつめた。
もし、後0.5秒早く覚醒していたら、後10m早く覚醒していたら、勝っていたのはブラックトレイターだっただろう。
そして、3月が終わる。
4月になればクラシックが本格的に始まる。国民全員がトゥインクルシリーズに注目していただろう。
だが、シニア級では違う意味での注目が集まっていた。
もちろん、連戦をしているブラックトレイターだ。注目という意味ではミスターシービー以上だ。
大阪杯にブラックトレイターの名前を見つけた時、ファンは悲鳴すら上げそうになった。
また、あの姿を、あの恐怖のレースを観なければならないのかと誰もがそう思った。
だが、その想いは裏切られることになる。
パドックに現れたブラックトレイターを見てどよめきが走る。
クラシックのブラックトレイターだ。
余裕ある笑みを浮かべ、優雅に歩いてくる。
まるで貴族のような優美さがそこにはあった。
そして、観客を見渡すと軽く顎を上げて目を細めた。
「今日は……気分がいい。最高だと……言ってもいいほどだ」
芝居がかった仕草で両手を広げ、観客を見下ろす。
「魔王の凱旋だ。俺が許す。今日の蹂躙を楽しめ」
そう言って、ブラックトレイターは高らかに笑った。
「これから俺は世界を取るために動き出す! 刮目しろ! 世界が俺を恐れるところを! 世界が俺に取られるところを! 世界が俺に、壊されるところを!」
その目には野生と理性が同居していた。
大阪杯が始まろうとしていた。
『各ウマ娘、ゲートインしていきます』
大阪杯。距離2000m、芝。
僕は半月ぶりにレースに出ていた。
調整なんてしていないし、なんだったら本気で走るのでさえ久しぶりだった。
体が疼く。
早く、疾く、速く。
僕はその衝動を心地よく感じていた。
生まれ落ちてから十数年間、この衝動に抗い続けてきた。要らぬものだと思い、消化してきた。
それはレースの時でさえ無用の長物だと考えていた。
だけど、違った。
強くなる答えは、身近にあったのだ。
『――今、スタートしました!』
僕は弾かれたように走る。
僕にスタートで勝てるウマ娘はいない。謙遜を投げ捨てるのであれば、世界で一人だっていないだろう。
それほどの自信がある。
そして、そのまま風を心地よく感じながら走っていく。
フォームは乱れない。
タイムも正確だ。
『ブラックトレイター、先頭を行きます! しかし、異常な速度! 掛かってしまったのか、ブラックトレイター!』
レース人生の中でそのセリフを何度聞いたことか。
そうでもなければ勝てなかった。
そう勘違いされるくらいじゃなければ勝てなかった。
フォームは乱れない。
だが、それは最適な形を取っていく。
タイムも正確だ。
だが、それは最速を進んでいく。
有馬記念からフェブラリーステークスまで、僕は本能で走ろうとした。
恐怖に耐え、本能のままに走った。
少しずつ僕は変わっていった。
距離もバ場もダートも本能が走り方を教えてくれた。
だが、強くはならなかった。
強さのベクトルが変わっただけで、むしろ不安定さが増しただけだった。
何かが、僕を縛り付けているようだった。
その正体がわかったのは鳴尾記念から少ししてからだった。
ずっとあの時の、スズカコバンちゃんに追い付けないと思った時の領域のことを考えていた。
あの時、何かが僕の中で爆発した。
それは本能だと思っていた。
フォームは乱れていたが速かったからだ。
だが、違った。
鳴尾記念のレースを繰り返し見て気づいた。
あの走り方は、ニホンピロウイナーちゃんの走り方に似ている。
もちろん、フォームはぐちゃぐちゃだが、その中にスプリンターとしての走り方が見え隠れしていたのだ。
レースの後、レッドさんは本能を呼び起こすことに成功したと言った。
それは本能で走れるようになったと考えていた。
だけど、間違いだった。
僕を縛り付けていたのも、本能だったのだ。
ウマ娘は超人的な身体能力をしている。
それは同時に怪我が付きまとうということを意味していた。
僕はずっとその力を使うことが本能の全てだと思っていた。だが、そうじゃなかった。
力を使わせようとするのが本能だったら、体が壊れないようにセーブするのも本能だったのだ。
スプリンターとステイヤーのフォームが違うのは当たり前だ。
そうでなければ体が壊れてしまうのだから。
それは知識ではなく、体が知っていることだ。
だから、あの時僕の中で爆発したのは本能ではなく、理性だったのだ。
理性が、『走らせない本能』が抑えていた『走りたい本能』の背中を押したのだ。
『この体は、それをしても壊れない』と。
そして、本能が解放され僕は距離適性の壁を越えて、スプリンターになった。
僕のは不完全で、この走りを極めてもレッドさんには到底届かないだろう。
だけど、納得した。
レッドさんは……セクレタリアトは本能という力を理性で武装したのだ。そして、フォームを変幻自在に変え、その場の最適解を導き出し、長距離をスプリントしていた。
この走りはまだ感覚的で言葉にするのは難しいけど、一つだけ確かなことがある。
等速ストライドは、全ての
ああ。
ただ、純粋に楽しい。
そう感じたのは、いつぶりだろうか。
もしかしたら、こんな気持ちは初めてなんじゃないかとも思う。
僕は一人でゴールを踏み抜いた。
『は、速い! 速すぎるブラックトレイター1着でゴールイン! 影をも踏ませぬ大差で大阪杯を勝利しました!』
僕は拳を握り込んだ。
観客席を見れば、大半が困惑の表情を浮かべている。
両手を広げて高笑いをすれば、それも収まり罵声が飛び始める。
僕は不完全かもしれない。
この走りでさえ、スタート地点に立っただけだ。
まだまだシービーやルドルフ、マルゼンスキーたちの才覚には太刀打ちできないだろう。
だけど。
だけどこれなら、もう一度戦える。
もう一度、シービーと戦える。
そう遠くない未来に。
僕は久しぶりに勝利の余韻に浸ったのだった。
ウイニングサークルへ行くと記者たちに囲まれる。
こういうのも、久しぶりだ。
いや、今までは余裕がなかっただけか。
「大阪杯優勝おめでとうございます」
「はは、殊勝なことを言うじゃないか。おめでとうございます、なんて初めて言われたぞ?」
「それは……」
「ま、それはいい。それで?」
「今日の勝因はなんでしょう?」
「勝因? ああ、地力の差だろうな。スタミナとスピードどちらも上回れないと逃げウマには勝てないからな」
「走り方が少し変わっていたように思えましたが」
その質問に僕は目を瞬かせる。
最初にバレるとは思わなかった。
記者を見ると乙名史記者だった。
げ、と思うと同時に確かに彼女なら最初に「おめでとうございます」と言うだろうなと思った。
しかし、乙名史記者、目もいいらしい。
皐月賞に来れるように誰かしらに掛け合えないかな。絶対にルドルフの力になってくれる。
「なんだ? 俺の走り方に文句でも? 不快なので次の質問だ。ほら、そこのお前」
「は、はい! トレセン学園ではシンボリルドルフさんを怪我をさせて生徒会長になっていると聞きましたが、本当なのでしょうか!?」
その質問に思わず失笑してしまう。
その記者はあの時に案内した記者じゃないし、まだ記事も出ていないはずだがどこで知ったんだか。まあ、横のつながりがあるんだろうな。
しかし、レースの優勝者インタビューで二つ目にその話題を出すとは……。
「生徒会長をしているのは、本当だ。シンボリルドルフについては……好きに解釈していい」
「し、シンボリルドルフさんは三冠が取れるかもしれないと思われているウマ娘なんですよ!?」
「だからどうしたよ。そう言われてるやつが減って清々するね」
「これは問題になるぞ、わかってるのか!?」
「わかんねーなあ? 好きに解釈しろと言ったが、それが事実とは言ってないぞ? シンボリルドルフがどこで何をしてるのか、そもそも怪我をしているのか、それについて俺が関与してるのか、事実も証拠もあがってねえもんな? もし、適当書いてそれが外れてたらどうなると思う?」
「それは……」
「つまらねえこと聞くな。次」
僕は適当に切り上げて次の質問に移る。
「パドックでは世界を取るとの発言をしていましたが、それはどういう意味なのでしょうか!?」
「日本にはおあつらえ向きなレースがあるじゃねえか。名立たる海外のビッグレースが終わった時期に開催して、賞金も世界最大級なレース。それをエサに強豪たちを呼んでいるんだろう?」
僕は仰々しい仕草で宣言する。
「ジャパンカップだ。俺はジャパンカップで優勝する」
その宣言にざわめきが起こる。
ジャパンカップ、その記憶はまだ新しい。
キョウエイプロミスが2着だったレース。
だが、それはほとんどの人達が着順とは逆のことを考えている。
『一人のウマ娘が競技人生を捧げても勝てないレース』だと思われているのだ。
僕も勝てるとは思われていないだろう。
それだけ日本は世界に絶望しているのだ。
「そうだなぁ、その前にG1レースを1つか2つくらい取っておこう。俺と当たったら自分の運のなさを恨むんだな」
僕はそう挑発して締めくくった。
控室へ帰る。
これからウイニングライブだ。
だけど、僕はトレーナーと少しだけ話したかった。
「トレーナー?」
「なんだ?」
「どうだったかな、レース」
「ああ、最終コーナーですでに余裕があった。もう少し抑えて走れ」
「ちぇー。気持ち良かったんだもん」
そう言って拗ねたふりをすると、トレーナーはふっと笑った。
「だが、良いレースだった。お前にしかできないレースだ」
「え、ほんと!? やったぁ!」
「これからも、走法の完成度を高めていこう」
「うん!」
トレーナーはあれから……いや、夏からずっと隈を作って働いている。
それは僕のためだ。
レース研究にライバルの解析、用具整備やメディアコントロールの全てをした。一番していたのは僕のトレーニングだけど。
だから、僕は休んでほしくて北海道にトレーナーを連れて行った。
誰もできなかった走法。
それを教えるということは難しい。いや、難しいどころの話じゃない。ほぼ前人未踏の場所だ。
トレーナーは僕をそこへ連れて行ってくれる。
だからせめて僕はトレーナーのために勝とう。
「トレーナー」
「なんだ?」
「ちょっとかがんで?」
「?」
僕はかがんだトレーナーの頭を撫でる。
「ありがとね、トレーナー」
そう言うと、トレーナーは僕の額にデコピンをした。
「いった!」
「礼はいらない。俺は俺のためにしたことだ」
「なんだよもう!」
「だから、逆だ。ありがとうな、ラック」
「……なんだよ、もう。僕ライブ行くから!」
「ああ」
「先帰んないでよ、トレーナー」
「ああ、観ているからな」
僕は逃げるようにしてウイニングライブへ走っていった。
等速ストライドは結構オリジナル設定盛り込んでます。
ウマ娘に当てはめるのは難しかったのです。