ずっと目を逸らし続けてきた。
ウマ娘は純粋で、スポーツマンシップに則って走り、学園とURAはそのウマ娘を護る組織だと考えていた。
だが、そんなこと欺瞞だと突きつけられた。
黒沼トレーナー。
先代の理事長の時代からいるトレーナー。
若くしてトレーナーを志し、ウマ娘をとても大切に想っていた男。
私が彼を初めて見たのは、先代の理事長からトレセン学園を案内してもらっていた時だった。教師としての立場ではなかったが、私も昔は学園に所属していたので必要ないと思っていた。実際、トレーナーの顔ぶれもそんなに変わっていなかった。新しい顔は本当に彼くらいだった。
その時は目つきこそ悪かったものの、威圧感はほとんどなかった。表情は柔らかく、厳しくも優しくウマ娘を導いていた。
「質問、君の名前はなんという?」
私は彼に質問した。
新しいものには飛びつくタイプの私からしたら当たり前のことだった。
彼はウマ娘から目を離さずに、端的に言う。
「……黒沼です」
「そうか、良い腕だな」
「恐縮です」
「私は秋川やよいという! もう少ししたら新しい理事長として就任することになっている!」
そう言うと、トレーナーはちらりと私を見てすぐに視線を戻した。
失礼だとは思わない。
それだけ彼はウマ娘を大切に想っているのだと伝わってきたのだから。
「そうですか。これからよろしくお願いします、理事長」
「うむ! よろしく頼むぞ!」
そんな彼が変わったのはURAが海外に目を向け始め、国内でもスターが生まれ始めた時だった。私が理事長補佐だった時の話だ。
その時代はトゥインクルシリーズの誰もが夢を見て、観客はウマ娘に夢中になっていたと思う。
黒沼トレーナーも、きっとそのうちの一人だったはずだ。
小雨のような雪が降るレースだった。
彼が制止を振り切り、ターフに駆けていく姿を私は忘れることができない。転倒したウマ娘を抱きかかえ、ただ「大丈夫だ、俺がなんとかしてやるからな」と不安にさせないように声をかける。顔面は蒼白だが、無理に笑顔を作っている。
誰が見ても助からない怪我だった。
告白するならば、それは私の所為だった。
そのウマ娘は天真爛漫で、夢を見せてくれるウマ娘だった。だから、海外に行く前に走る姿を見てみたかった。そして、それをそのまま伝えた。
その子は嬉しそうにしながら、「じゃあ、走るよ」と言ってくれた。
そういう声は多かったと聞く。
実際、私とは関係なくURAが彼女が海外に行く前に走れるようにとレースを用意した。
だが、それが犯した罪が軽くなる理由にはならない。
最後まで止めていたのは黒沼トレーナーだけだった。
それから彼は変わってしまった。
URAを憎み、学園を憎み、観客を憎んだ。
私は彼に戻ってほしかった。
だから、ブラックトレイターと彼が出会い、彼の中で迷いが生まれたことに気づいた時には、嬉しかった。
だけど、そう思った時にはもう手遅れだった。
いや、手遅れだと気づいた、と言った方が正確だろうか。手遅れになったのはもっと早くだったのだから。
ブラックトレイターは悪役として走っていた。
変えようと思った。
だが、それはURAの決定だった。
未だに純血主義を掲げるURAにとってはブラックトレイターは目の上のたんこぶのような存在で、そうでもなければ走れない立場になってしまっていた。
出来る限りのサポートはしたと思う。
だが、それが足りているわけではなかった。
黒沼トレーナーはトレーナーを辞めることになったのだから。
事前に相談され、ブラックトレイターの悪評を払拭したいと言われた。
相談、という話だったが、それは半ば決定事項だった。
「……なので、理事長にはその場を設けてもらいたいのです。わがままを言っていることはわかっています。理事長の信用を落とす行為だということも。しかし、それでもお願いしたいのです」
そう言って、彼は私に頭を下げた。
「……君は、私を恨んでいるのではないのか」
「恨んでいないと言えば、嘘になります。俺はトゥインクルシリーズに関わる全てが憎かった」
「それならどうして私に頭を下げられる。私は君の愛バを……」
「理事長、でも俺は今、感謝しているのです」
私はその言葉に言葉を止めた。
彼は真剣に、嘘のない言葉で言う。
「あなたがラック……ブラックトレイターを受け入れなければ俺はまだあのままだった。あなたがウマ娘を想ってくれなければ、俺は彼女に出会えなかった。――理事長、本当は最初に言うべきでした。俺をここにおいてくださり、俺たちに便宜を図ってくださり、そして今もこうして話を聞いてくださり、本当にありがとうございます。今までの数々のご無礼を謝罪いたします」
どうして。
どうして今なんだ。
どうしてこうなったんだ。
「……どうしても、やらなければならないのか?」
「どうしてもやらなければならないのです」
「他に方法はないのか?」
「ないでしょう」
「そうか……」
私に選択肢はない。
彼が頭を下げなくても、URAから通達が来ていただろうから。
でも、言わなければならない。
それが私の責任なのだから。
「わかった。その場を用意しよう」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけします」
「いいや、私こそすまない。ずっと謝りたかったんだ。君に醒めない悪夢を見続けさせたのは私だ。本当に、申し訳ない」
「いいんです。あなたは悪くない」
それから少し話をして彼は帰っていった。
「……たづな」
「はい」
「私は、無能だな」
「そんなことありません」
「いいや、ずっと言いなりだった。URAに言われた通りのことしかしてこなかった。その結果がこれだ。今もURAの決定に従うだけだ。私は誰も守れない」
「いいえ、あなたは私たちを守ってくれています。ほら、見てください」
そう言って、たづなはカーテンを引く。
ウマ娘たちが真剣に、あるいは楽しそうに走っている。
いつもと変わらない風景だ。
いつもここから見ている風景。
ずっとこうあってほしかった。
ウマ娘もトレーナーも平和にただ競技に全力を注げる場所であってほしかった。
そうあるように努力は惜しまなかった。
それは嘘ではない。
だが、それだけでは十分じゃなかった。
私は夢を押し付け、そうあれという目標を押し付けていただけだ。
ここは私の箱庭だ。
私が創り上げた楽園だ。
そう思い込んで、他のことに目を向けなかった。
「彼女たちはあなたのおかげで走れているのですよ」
「……平和だな」
「ええ」
「たづな」
「はい」
「その平和を壊したら、私は恨まれるだろうか」
「恨まれるでしょうね」
「たづな」
「はい」
「一緒に恨まれてくれるか」
「喜んで、秋川理事長」
決めた。
私はもう逃げない。
たとえ何年かかろうとも、URAを変える。
その結果、このトゥインクルシリーズや学園が荒れようとも、私は未来のためにやらなければならない。