ジャパンカップを前に、僕はやりたいことがあった。
理事長がこっそりと教えてくれたことがあったからだ。
しかも、送迎にも気を遣ってくれた。
それは約束とは違ったけど、理事長はジャパンカップを前にした僕を慮ってくれたのだ。
ジャパンカップは今、世界中を見ても最高のメンバーが集まっているレース。僕に悔いが残らないようにしてくれている。
今日のことはあの時からは考えられないけど、僕は単純に嬉しかった。
最近の理事長はなんだか雰囲気が変わったように感じる。
それが僕とトレーナーのことがきっかけだとわからないほどバカではなかった。
だから、理事長には本当に感謝している。
チャイムを鳴らすと、インターホンに出る音がする。僕は帽子を深くかぶり声を低く変える。
「宅急便です」
『……今開ける』
そう声がして、ドアが開く。
「お前……」
「久しぶりだね、トレーナー。いや、元トレーナーかな?」
僕がやってきたのはトレーナーの家だった。
僕は居間にあげられる。
掃除はしっかりしているのか、埃一つない。
だが、生活感はほとんどないという印象を受けた。
必要なものは最低限。部屋を埋めているのはほとんどがトレーナーに必要な資料だ。
ただ一つ、物が少ない場所には若い頃のトレーナーとウマ娘が写っている写真がある。
あれからトレーナーは少しだけやつれたようだった。
だが、いかつい顔は変わらないし、ムキムキな体格も変わっていなかった。
トレーナーはお茶を出してくれる。
僕が昔好きだと言った銘柄だ。
覚えててくれたんだと嬉しくなる僕はちょろいだろうか。
トレーナーはサングラスをかけて、僕の正面に来る。
「……それで何の用だ、ブラックトレイター」
「もうラックって呼んでくれないの?」
「俺はもう、お前のトレーナーじゃない」
「トレーナーじゃなかったら呼んでくれないの?」
「……そういうところは本当に変わらないな、ラック」
「あはは、東条トレーナーにも言われたよ」
トレーナーは少しだけ恰好を崩す。
「それで? またトレーナーになれ、なんて言わないだろうな?」
「……うん。もう言わないよ。言ってもいいなら言うけどね」
「そうか。わかってるんだろう?」
「うん、わかってる。最近学んだよ。譲れないものがあるんだよね」
「ああ、これは俺のけじめだからな」
「そっか、じゃあ、そのけじめ、最後までつけてもらおうか」
「トレーナーという職を辞めろと? ……言われなくても、そうなるさ」
「そうなの?」
「ああ、あんな記者会見をしたんだからな。理事長やシンザンとはそういう契約をしたんだ」
「シンザン会長か。どういう契約?」
「俺が辞める代わりにお前の印象を回復させてくれという契約だ」
「……そっか。でもね、そういうことを望んでるんじゃないんだ」
「じゃあ、何を望む?」
トレーナーは僕を見つめる。
僕はただ知りたいだけだった。
「昔、約束したよね。トレーナーの過去を教えてくれるって」
「……そうだな。だが、今更知って何になる?」
「僕はさ、気持ちよく勝ちたいの。知ってるでしょ? ジャパンカップに出る。目標は一緒に立てたもんね」
そういうと、トレーナーは納得したようにうなずいた。
「……特別面白い話でもないし、不快になるだろうが……」
「関係ないよ。僕が知りたがっている。それで充分でしょ?」
「ああ、十分だ」
トレーナーはつけていたサングラスを外して、机に置く。
そして、押し黙った。
長い沈黙の後にトレーナーは言った。
「……お前と出会って、3年近い」
「そうだね? 記念日だっけ?」
「違う。それはいいんだ」
「そんな、僕との記念日はどうでもいいの?」
「ああいや、どうでもいいわけではないが……お前、からかってるだろ」
「うそうそ! ごめんて。で?」
「話そうと思って、もう2年近い」
「うん」
「シンボリルドルフの言う通りだったな、本来ならもっと早くに話しておくべきだった」
そう前置きをしたトレーナーは自分の両手を握り込んだ。
「俺はテンポイントというウマ娘のトレーナーだった」
「うん」
「あいつ……ポイントは素直で強いウマ娘だった。そして、なによりもファンを大切にするウマ娘だ」
知っている。
そのウマ娘の映像を僕は何度か見たことがあるからだ。
美しいスタートは、僕も参考にしていたほどだ。
強く美しい、流星の貴公子。
それがテンポイントというウマ娘。
「俺はあいつを大切に思っていたし、入れ込んでいた。最愛だったと言ってもいい」
「そっか」
「あいつの夢は『誰かに夢を与えるウマ娘になること』だった。そのために世界一になろうとしていた。あいつらしい夢だった。だから、有馬記念を最後に海外へ行く予定だった」
「うん、聞いたことがある」
「そうか。だが、その前にURAからもう一度レースに出てからにしてほしいという要請があった。ファンのためにもう一度日本で走ってほしいという建前だったが、集金を狙ったのだろうと俺にはわかった」
トレーナーの手が震えている。
怒りか、それとも、その時の自分の不甲斐なさか。
「ポイントはすぐに承諾した。だが俺は反対した」
「どうして?」
「斤量だ」
「斤量?」
「ああ、ポイントは強いウマ娘だったから、普通のレースだと相手になるウマ娘がいなかったんだ。だから、ハンディキャップをつけようとしたんだ。簡単に言うと重りを付けて走ることになった」
「それは……」
危険なんじゃないか。
きっと、僕ならいける。だが、そんなことをすれば怪我をする危険性がある。
「ああ、だから反対したんだ。走るのはいい、だからせめて斤量を減らしてほしい、あの重さは危険だと。だが、URAは『それじゃ相手に逃げられる』と突っぱねた。学園にも頼ったが、その時の理事長も止めなかった。そして、ポイントは雪が降る中、レースに出ることになった。出走が勝手に受理されていたんだ」
僕はデビュー戦を思い出していた。
あの時、トレーナーは僕を心配した。
確か、雪のような小雨だったはずだ。
その時を思い出したのかもしれない。
「結果、あいつは最高速で転倒した」
それは僕の予想とはそう変わらないものだった。
だから、テンポイントというウマ娘はもうこの世にはいない。
「俺は恨んだ。見たいと言ったファンを。斤量を課したURAを。……怪我の懸念があったレースに自分のウマ娘を無理にでも止めなかった自分を」
「トレーナー……」
「正直、怒りで頭がどうにかなりそうだった。だから、復讐しようと思った。URAの椅子にふんぞり返っているやつらを追放してやると誓った。そのためにウマ娘を道具として扱うようになった。そんな時に出会ったのがお前だ、ラック」
あの時のトレーナーを思い出す。
道具として扱ってもいいウマ娘を探していると言ったのはトレーナーとしての最後の抵抗だったのだろう。
「お前と一緒にやっていくようになって、俺は自分がわからなくなった。自分が何をしているのか、何が正しいのか」
「……トレーナーとして考え直すようになったの?」
「そうだが、少し違う」
「じゃあ、なに?」
「気づいたんだ。俺はお前を大切に思うようになってしまった」
トレーナーはまるでそれが罪のように言う。
まるでそれが罰のように言う。
「俺は、菊花賞の時、お前の勝利を信じられなかった。いつだってお前は勝つために走ってきたのに、俺はその結果を信じられなかった。おハナに殴られてようやく思い出したよ。俺は……そんなことのためにトレーナーになったんじゃない」
「トレーナー……」
「俺は、自分の育てたウマ娘が夢を掴む瞬間を望んでトレーナーになったのに、お前にずっと無理を強いてきた。お前が望むものを俺はやることができなかった……。俺は……俺が恨んだやつらよりも、無能だ……っ!」
トレーナーの頬を涙が伝い、落ちる。
この人は、ずっと苦悩していた。
本当にやりたいことと、自分の目的の板挟みになって、苦しんでいた。
「すまない、ラック。あの時、お前を勝たせられなかったのは、俺の所為だ」
トレーナーはそう言って頭を下げた。
そっか。
そうだったんだね。
きっと僕も気づいていた。
だけど、それを聞かないことが信頼だと思っていたんだ。
そして、それ以上に聞くことから逃げていたんだ。
「トレーナー」
「なんだ」
「確かに、その通りだ。僕たちは一蓮托生だったからね」
「ああ」
「だけどね、僕を勝たせてくれたのも、トレーナーだ。僕の負けも、勝ちも、僕ら二人のものだ」
「……ラック」
僕は笑って言う。
「僕はトレーナーを恨んでる」
「そうだろうな」
「だって、トレーナーは僕の居場所で理由だった。それを僕が背負わないといけないものごと消えちゃったんだもん」
「……」
「でも、最近はそれでもトレーナーに感謝するようになったんだ」
「……何故だ、俺は……」
「天皇賞、見た?」
「……ああ」
「すっごい不甲斐なかったでしょ?」
「そんなことない。お前は全力だった」
「あはは、ありがと。でも、負けた。あの時ね、戸惑ったんだ」
「戸惑った?」
「そう、観客席がね、僕に罵倒じゃなくて歓声をくれたんだ」
僕はあの日を夢想する。
今でも、思い出せる。
天皇賞の大舞台。
応援は僕に向けられる。
「ターフがまぶしかった。歓声が大きくてさ、全然集中できなかったよ」
だが、全く悪い気はしなかった。
手のひら返しだったとしても、僕を応援してくれた。
こんな情けない僕を応援してくれる人たちがいた。
「ようやく本当の意味で理解したんだ。トレーナーが僕にくれたのは、その居場所なんだって。その心地よさを教えてくれたんだって」
モンスニーちゃんが言っていたことを理解できたのは最近だ。
トレーナーは僕に終わりをくれたんだ。
終わりに納得できる場所をくれたんだ。
でも、その前にだからこそやらなきゃいけないことを知った。
「僕は君にずっと頼ってきた。レースも、それ以外も」
「ラック……」
「トレーナー、話してくれてありがとう。僕はやらなきゃいけないことと、やりたいことがわかったよ」
僕はトレーナーの手に自分の手を添える。
「もう、トレーナーになってくれ、なんて言わない」
「……ああ」
「だけど、恩返しをしないといけない」
「恩返し?」
「うん。ジャパンカップ、見てて。君が育てたウマ娘が世界一になる。その証明をするんだ。それが今の僕の夢だ。だからトレーナー、僕の欲しい言葉を言ってほしい」
そういうと、トレーナーは少しだけ微笑んだ。
「ああ、勝ってこい、ラック」
「うん、勝ってくる、トレーナー」