転生者はファンタジー世界で静かに暮らしたい   作:萬屋久兵衛

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いつかどこかであった話

 人里からほど近いこの小山とその周辺は、普段から軍や雇いの冒険者たちによって治安の保たれた地域のはずだった。その男も、仲間たちとともに軍が募集している巡回依頼をこなしていたのだ。

 その日のねぐらに食事と安酒を一杯ひっかけられる程度の賃金を比較的安全に得られるのだけが取り柄のつまらない仕事。

 そろそろ中堅と呼ばれる実績を持つ男達のパーティは、めぼしい依頼がない時にはこの仕事を請け負って食いつないでいた。

 山奥から餌を求めて迷い込んできた獣やそれとたいして変わらぬ程度の魔獣を適当に倒し追い散らして、そろそろ引き上げようかとパーティで話していた時、それは現れた。

 それは突如として上空に飛来し、自分たちを視認すると、顎を大きく開いた。

 男が無事であったのは幸運以外の何者でもない。

 衝撃に吹き飛ばされるが、なんとか体勢を立て直してそれに目を向ける。

 突然の乱入者は、炎に包まれごろごろと地面をのたうち回る仲間の一人に悠然と近寄り、草を喰む草食動物のようにゆったりとした動きで咥えこんだ。

 頭から尻尾の先までで人の背丈の四、五倍はあるであろう鱗におおわれた巨体。

 今はたたまれているが、広げれば身体よりも大きいであろう翼。

 先ほど火炎を発射した、そして今、ばりばりと仲間を飲み込んでいる強靭な顎門(あぎと)

 飛竜(ワイバーン)と呼ばれる怪物であった。

 

 なんだってこんなところにこんなやつが! 

 

 男は心の中で叫ぶ。

 その言葉が口から漏れて飛竜に聞こえてしまわぬよう、口に手を当てて息を殺す。

 飛竜が生息するのは未だ人の手の入らぬ未開地域の中でもなお険しい山岳地帯だ。

 間違ってもこんな街の近くに現れる存在ではない。

 男は目の動きだけで周囲を確認するが、飛竜の火炎から逃れられたのは彼だけだったようで、辺りには火に包まれた仲間たちが転がっている。既に動く者はほとんどなく、かろうじて息があるものも、肉の焼ける嫌な音をたてながら藁でも掴むように力なく腕を伸ばすばかりだった。

 回復薬は準備していたが、あいにく仲間の魔法師もろとも焼けてしまっている。

 せめてパーティが万全の状態なら、覚悟を決めて戦うなり、逃げるなり、応援を呼ぶなり、成否はともかく選択肢はあったかも知れない。

 それらが叶わぬ以上、飛竜が食事に夢中なうちに逃げ出すのが得策だ。仲間は置いていくしかないが、彼らはもう助からないと男は割り切った。

 男は仲間を貪る飛竜に気付かれぬようじりじりと後退していく。

 

 主よ、どうか私に御加護をお与えください。

 

 生きている中で、これほどまで真摯に祈りを捧げたことは無かったほどに神に縋ったが、付け焼き刃の祈りを主はお許しにならなかった。

 二人目の餌を飲み込んだ時、ふと飛竜が顔を上げた。鋭い双眸が男に対してばっちりと合わさる。

 男が全力で駆け出すのと飛竜が咆哮をあげ、翼を広げるのは同時だった。

「──────!」

 なだらかな山道を転げ落ちるように駆け降りていく。

 背後から聞こえる死神の叫び声に竦んでしまいそうな脚を無理やり動かす。

 飛来する火炎がすぐそばを通り過ぎていくことに背筋が粟立つが、後ろを振り向く暇も余裕もない。

 男はただ自らが生存することだけを考えて脚を動かし続ける。

 

「はっ……はっ……はぁっ……!!」

 

 後先考えない全力疾走に心臓はとっくに限界だと悲鳴をあげているが止まるわけにはいかない。

 ここで脚を止めてしまえば、心臓が破裂するよりも先に死神に命を刈り取られることは明白だ。

 このまま近くの街までたどり着いたとして、飛竜が街で暴れまわったらどれだけの被害が出るかなどということは考えもしない。

 男は、街の中に入り込めれば的が増えて生き残れるかもしれないとすら考えていた。

 しかし、神は男の邪な思考を見通したのか、彼に慈悲を与えることはなかった。

 

「がぁっ……!」

 

 男は背中に衝撃を受けて吹き飛ばされた。

 全身に痛みを感じるし背中は焼けるようであったが、体に火がついてもいない。

 これまで奇跡的に炎を避け続けた男に業を煮やした飛竜が、急加速して自らの尾を男に叩きつけたのである。

 男はよろめきながらも、無理やり立ち上がりまた駆け出そうとしたが、数歩も進まぬうちに体が動かなくなり、倒れ込んでしまった。

 男の体に限界がきていたこともあるし、男は知らぬことであったが、飛竜の尾についた棘には毒が備わっている。

 

 ああ、俺はここで死ぬのか。

 

 動かない体と、地面に降り立とうとしている飛竜の巨体に男は絶望を通り越して諦めの境地へ至った。

 せめて痛みがないよう楽に死にたいと男のあやふやになりかけている思考の中で考えているとき、山道脇の木陰から人影が立ち上がった。

 育ちの良さそうな少年がぽかんとした表情で男と飛竜を見比べている。籠を背負っているのは野草でも摘みにきたのだろうか。

 そんな事は男にはどうでもよかった。ただ、死に行く自分の道連れができた事への悦びに男は頬を吊り上げる。

 少年はゆっくりと近づいてくる飛竜を見てもぼんやりとした顔のまま、逃げ出す様子もない。

 あまりの事態に思考が追いつかないのかもしれない。

 ついには目の前まで来て首を寄せた飛竜が、その顎門を大きく開き少年に齧りつこうとした時。

 

「───・────」

 

 突然、飛竜の顔が何かに殴りつけられたかのように大きくのけぞった。

 飛竜は想定しなかった衝撃にぱちくりと目を瞬かせる。毒がまわり動けない男はもちろん、目の前の少年にも全く動きはなかった。

 魔法師が助けに入ったのかと男は周囲を窺うが、それらしき人物も見当たらない。

 男が改めて少年を見ると、彼は飛竜の挙動に動揺した様子もない。やはり少年が下手人ということだろうか。

 飛竜も下手人を目の前の人間であると認識したのか、少年に向かって唸り声をあげると、先程とは違い、獲物を狩る機敏さをもって少年に襲いかかった。

 しかし少年は揺らぐことなく、危険など何も無いかのような態度で突っ立っている。

 そしてまたしても飛竜は見えない衝撃に弾かれるのだ。

 男には何が起きているのかわからなかった。魔法にしては発動の兆候がなさすぎる。少年は微動だにしないのに、飛竜は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()衝撃を受けて後退しているのだ。

 少年に接近することはかなわぬと見たのか、飛竜は少年に襲いかかることを断念し、かわりに大きく口を広げて息を吸い込んだ。火炎を吐き出すつもりかと巻き込まれる位置にいた男は焦る。

 

「そういえば、飛竜の外皮はいい値段で売れるんだっけ」

 

 少年はそんなことをつぶやいて、懐から丸い礫のようなものを取り出し、それをひょいと飛竜に投げつけた。

 飛竜に届きもしないようなモーションで投じられたその礫は、とんでもない勢いで飛竜の顎門の奥に飛び込んだ。思わず悲鳴を上げる飛竜。

 そんな飛竜に向けて少年は右腕を持ち上げた。手は何かを握り込むように柔らかく閉じられ、親指だけが空に向けて突き立てられている。

 そして、少年が親指を折り曲げた瞬間───。

 どんっ、という音と共に飛竜の身体が大きく震えた。

 何事かと男が凝視する前で、飛竜は口から黒煙を漏らしながら、ゆっくりと傾いてそのまま地に沈んだ。

 恐らくもう、死んでいる。

 男は目の動きだけで少年と飛竜を見比べる。

 自分と同じ餌にしか見えなかった少年はまるで目の前に飛んできた羽虫を叩き潰したかのような気負いのなさで、飛竜の様子を確認している。

 そして少年は思い出したように男を見てあわてて歩み寄るが、男の目にはもう何も映っていなかった。

 

 ───ああ、神の慈悲はすぐそこにあったのに。俺は掴み損ねた。

 

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