「ねえ、私しばらく来れなくなるから」
「ああ、お母さんの月命日だっけ。私ももうすぐサラボナの方で作業をするように言われてるから。同じね」
そういう会話が、最後の邂逅の終わりだったか。
与えられた宿屋の一角。カタカタカタカタと、ペダルに合わせてミシンの音。集中すると、それ以外はまっさらになるのだ。今作っているのは花嫁衣装ーーではなく。
とりあえず、と広げるのはくるぶしまでをぴったりと覆う乗馬ズボン。先日織布店が新たに輸入したという、伸縮性と丈夫さが売りの布だ。新しい布を手に入れた時は、いつも彼女の服を作る。実験台代わり? なんて笑いながら、次の週にはぴったりと、私が想像した通りに着こなして現れるのだ。そんな彼女を、私は愛おしいと思う。
そして今回の乗馬服。きっと、これで私たちはもっと遠くに行けるようになるんじゃないか。あの子が手綱を握って、私がその後ろに乗って。遠くに布を買いに行きたいから連れてってって私が言ったのが始まりだったはずなのに、気づいたらどこか、遠いどこかにたどり着いていて。「迷っちゃった」って笑うあなたを、馬鹿って責めて、でも、二人ならいいかなーーなんて夢見すぎ。そうさっと消したけど、相変わらず頭の裏側の隅っこに、きっと意識する前からずっといたその場所へ、その妄想は帰っていく。
そういえば街が少し騒がしい。どうやら、求婚者の一人が”花婿候補”ではなく”花婿”として帰ってきたらしい。だから挙式は目前。そんな昼間にこうして別の服を作っているということは、締切を前にして、優秀な職人は衣装を仕上げたということ。
なんてあるわけがない。正直だいぶピンチである。助っ人を呼びたい。具体的に言うと彼女。ビアンカ。私が仕込んだこともあり、私の補助をさせたら最強の彼女を。しかしその肝心の彼女は、今は山の中だ。どうやら村で何かと物入りの時期らしい。それに、彼女には病気がちの父がいる。彼女は、そんな父を放ってこちらに来られるほど強くはないのだ。
さて、それほどピンチなのにどうしてこうも余裕なのかというと、「花嫁衣装作りを一旦止めて欲しい」という謎の指示があったのだ。この土壇場でキャンセルか、と血が頭に上りそうになったが、そこはさすが大商人。キャンセルするにしろ続けるにしろ代金はきちんと納めてくれるらしい。これこそが上客だ。あれだけ美しい娘に潤沢な予算で服が作れる。職人からすれば崇め奉りたい取引相手。
それで、花嫁衣装が不要になる理由とはなんだろうかと考えてみれば不思議な気もする。その花婿がよっぽどの狂人変人の屑だったとか? ーーだったら、少し勿体ないな、と思う。あのお嬢様は、少しばかり世界に退屈しているように見えた。そこで変な奴と一緒にいれば、毎日は楽しくなるに違いない。なんて、他人だから言えることだけど。結婚相手なんて、マトモであるに越したことはないだろう。多分。
うん、と一度伸びをした。ぱきぱきと背中から骨の鳴る音がする。思ったより長い時間動いていなかったようだ。ーー昼食の調達がてら外へ行こうか、と嫌気半分、期待半分で外へ出た。
昼間、がやがやとやかましい街へ。仕事だろうか?
にしても騒がしい気がする。聞こえる単語は、「どちら」「フローラ様」「金髪」……取り留めがなくてよく分からない。
市場の屋台で買ったのは不味くはなさそうなパン。腹に入れば正直何でも良かった。
「お姉さんはどうだと思う? 花嫁選び」
「…………花嫁選び? 婿ではなく?」
予想していた言葉とは微妙に違う単語、意味は大きく変わる単語に我ながら素っ頓狂な声が出る。そうだよ、と店主はパンに焼き目をつけながら答えた。
「花婿候補が、別の女を連れてきたとか、女が勝手に着いてきたとか……。それで、フローラ様がどちらを妻にしたいか、選ぶように言ったんだとよ。で、今町はどっちが選ばれるかって話題って訳」
何だそれ。原液のまま言葉が出てしまいそうだったので唾液と一緒に無理やり飲み込んだ。
どうにかこの不気味さを説明したかったが無理だった。無理。気持ち悪い。死んでほしい。何に? 知らない。言葉にさえしたくない。
選ぶか。女はそれぞれ、選択肢として。味がしなさそうだ。面白さの欠片もない、ただただ醜悪な気持ち悪さ……ああ、それで賭けだなんだの。気味が悪かった。そんなことに興じられる人びとが気色悪かった。世界は醜い、と思い出させてくれた。
やっぱり、全員殺してやりたい。つまらない世界は、醜い世界はいらない。無理なら黙らせたい。二者択一、だなんてそんな整理された、曇った世界で生きていて楽しいのだろうか。つまらなくはないのだろうか。世界の無意味さに死にたくはならないのだろうか。ならないのなら、そうある方法をぜひ教えて欲しかった。私は、どうにかこの世界に対して絶望しないように毎日ぎりぎりを歩いているのに。
「はい、お待ちどう。……それで、君はどちらが選ばれると思う?」
答えずに帰ろう。そう出来上がったものを受け取ったところで。
「フローラ様か、そのやって来たとかいう女のーーそう、確か名前は、ビアンカ」
は、と思わずその昼食を握りつぶしてしまった。