「ねえ、どう行動すべきか迷った時って、どうやったら決断できる?」
「え、シルヴィでも迷うことってあるんだ。意外」
茶化すように返した彼女に、そりゃあ人間だし、と少しばつが悪くなる。そうだなあ、と、私が散らかした布を上段に片付けてから、こう答えられた。
「やりたい方に行くよ。私、あまりにもやりたいときは勝手に身体が動いちゃうんだよね」
ーー痛。
そう思ったのは、針が指に刺さって、声にならない声が漏れると同時に針を引き抜いた後だった。刺さり方が甘かったのか、血は出なかった。もはやどこに刺さっていたのかも分からない。
作業は止めていい、と言われたはずだけれど、いても立ってもいられなくて。私を私として留めて置く方法が、縫い物しかない気がして一心不乱に塗っていた。ーーけれど、それも夜が更けるにつれ限界が近くなっていた。昼間は明るい。だからこの部屋に私しかいないのなんて一目瞭然。でも、暗くなると。ランプで照らせるのはこの周りだけだから。そのランプのあかりの向こうに、闇の中に、空色の瞳が、白い額が、金の髪が見える気がして、ふ、と視線を上げてしまう。合いようのない視線が交差した気になってしまう。この気持ちになんて名前がつくのだろうか。ーーでも、そんな馬鹿な。私が、彼女に? 嫌だ、そんなの嫌だ。だって、私はこれまで幾らだって見てきた。恋は冷める。覚める。幻覚なのだ。だから、そう、一過性。燃え上がってしまったら、あとは消えるしかないものになってしまう。愛になる? そんな穏やかなものにはしたくない。私はずっとずっとこのままがいい。愛みたいに穏やかで、友情みたいに分かりあってて、恋みたいに忍びやかで、敵みたいに不信で、味方みたいに信頼している。そんな、私たちだけの関係がいい。この世のどこにだってない、私たちだけの概念がいい。
でも、崩したくなくても、きっと崩れてしまう。彼女は恋をした。誰でもない、「誰か」に。そうしたらーー私に向いてた気持ちが取られてしまうーーもう取られてしまっている? これまで、恋人が出来るとあっさりと友を切り捨てる女を、家族が出来るとあれだけ固く握っていた手を離す女を何人も見てきた。彼女が、太陽が、平等に照らす太陽が、誰かだけのものになってしまう。あの暖かい冷酷さが、消える。
いいじゃないか、結局彼女はそこまでの女だったということ。私が気に止めるまでもなかった。一種の熱病みたいに、ほんの少しの間うなされた。これっきりです、さようなら。
なんて割り切れたら、きっと私はいまこれほど怒ってはいない。やめろ。行くな。どこにも行くな。このまま、小さな、自分では輝けない星々を照らし続ける太陽であれ。どこにでも行ける力を持ちながら、その足を萎えさせた彼女。大きな翼を自分で手折り続けるうちに、自分の力では飛び立てなくなってしまった、それはそれは美しい翼を持つが歪な、彼女。そんな彼女に、私はーー
ーーやっぱりこの気持ちを恋と言わなくて何と言う? 恋。これは恋。恋だ。恋なら、許される気がした。どこかへ行こうとする彼女を縛りつけようとする行為が。いいえ、そんなのじゃなくって、いいでしょう。私が、彼女に、好きと、どこにも行くなと言っても。ーーだって、好きなんだから。恋だから。恋は人を傷つけるものだから。
だからお願い、どこにも行かないで。ずっと一緒にいましょう。
私、あなたのことが。
そう、私は上着も取らずに夜の街へ駆け出した。
夜中、とあってさすがに人影は少なかった。好機。これは神様がくれたチャンスに違いない。「好き」って自分の気持ちを言って。それで、戻りましょうって。私だけがあなたを知っているあの場所へ。
走るのは嫌い。あなたが手を引っ張ってくれない限り、私は走るのが嫌いだ。胸が苦しくなるし、足も疲れる。でも今、胸はもともと苦しい。足は、なんだか動かすのが楽しかった。ヒールの靴では走りづらかった。時々かくんと足首が倒れた。けど、それすらもなんだか、あなたに通じていると思うと、楽しくて。
「ーー待って!」
は、と聞こえたのはあなたの声だった。思わず止まる。けれど、その声で呼び止められたのは、私、ではなく。
坂の向こう。声に呼ばれて小走りになるのは、「誰か」だった。私ではない。決して、私ではない。
だから、「待って」の宛先は私ではないのに。そのまま進んでしまえばいいのに、さっきまで軽かった足が鉛のように動かない。ただ、月明かりを背景に窓から身を乗り出すあなたと、「誰か」を見ていた。
今日の月は大きい。いつもは飲み込んでしまえそうな大きさなのに、なんだか今日は逆に吸い込まれてしまいそうな大きさだった。月が放つ光は白い。優しく冷たい。そんな光を背景に、あなたと「誰か」は相対していた。
声は、聞こえなかった。ざあ、と風が木々を揺らした瞬間ーーあなたと「誰か」ーー彼女、と彼の影が僅かに重なった。それきり。永遠に思える数秒間。さっと二つの影は離れて、やがて、彼は走り出す。ーーさっきまでの私が滑稽に思える速さだった。間もなく私たちはすれ違う。初めて見る彼の顔は、描写するのが億劫になるほど美しくて、そして、あの表情は。
私とは違う顔。私みたいにコーティングをした感情じゃなくて、衝動的で直接的な。
重たい足を動かす。八歩目、つまずいて足首が倒れた。もうそれだけで歩くのが嫌になる。でも、私、決めたのだから、伝える、と。
そう無理やり歩いて、彼女がいる建物の近くへたどり着く。何と言おうか。まずドアをノックして、そう、いきなりは不味いだろうか。だから、何か適当に話して。私が話さなくても、向こうが話してくれるかもしれない。知ってる。誰よりも知っている。きっとあなたは、迷惑そうな顔一つせずに向かいに座って、私が話したくなるまで他愛のない話をしてくれる。そして、私が「温かいものが欲しい」と言ったら、「もちろん」と湯を沸かして温かい、私好みの濃い紅茶を出してくれるに違いない。そしてーーわざわざ「恋だ」なんて言わなくても、私の感情をありのまま話せば、それをきっと受け入れてくれる。「ありがとう」って。
そう。彼女は「どうして」と問わない。ただ受け入れてくれる。私のありのままを。
ーーけれど、私はそれが嫌だった。私だって言われたい。命じられたい。求められたい。ありのままではなく、「あなたを愛する私」を。
中指の骨で乱暴にドアをノックする。三回。瞬き三回分くらいで彼女はドアを開いた。私を見るなり目を丸くしてーーすぐに笑顔に戻って口を開く。
「ねえ」
けれど先手を取ったのは私だ。何、と彼女は返す。違う町なのに、いつもみたいな会話。お互い抱えてるものは一変してしまったのに、何も変わらない会話。
「あんた、いま恋をしてるの?」
面食らったように彼女は一瞬目を見開いた。見逃してしまいそうな、きっと彼女も気づいていない表情。
「そうよ、きっと」
ーー十分な情報だった。すう、と身体中の血が冷えて足元へ降りていく。
「そ」
一音。私が言うことはそれだけで事足りた。
正確に言えば、それ以上は捻り出せなかった。踵を返す。どうしたの、と聞く彼女を背後に。振り返ってなどやるものか。歩く。大股で歩いて、大陸街道のように遠く感じられる宿までの道をどうにか通り抜ける。
自室のドアを冷静に開けて、まずはトルソーに着せかけていたドレスをぐしゃぐしゃにしてベッドの上へ放り投げた。眠れ、ただ今は。
次に、机の上の布と針とハサミが目障りだったから、まとめて床に落とす。ガチャガチャガタンとやかましい。ふ、と窓に自分の顔が映るーー耳ーー銀のベースに空色ーー空色の石! そのピアスが引っかかった耳が、虫にでも噛まれたかのようにじくじくと痒く、痛くなる。――耳ごと引きちぎってしまえばよかった! ようやく外したピアスを手のひらに乗せる。ああ、ああ、あの瞳だ。きっと、いいや絶対に私には向けられない瞳。あの男のためだけに存在し、捧げられる視線!
見たくない。そんなもの見たくはない。
まとめて地面に叩きつける。ヒールで踏みにじると、ごりごり、と嫌な音がした。全部全部潰れてしまえ。孤独。かつて隣で、一緒に「無茶苦茶」を望んでくれた少女はいない。人はみな大人になる。かつて押し付けられていた理不尽を忘れて、理不尽を押し付ける側に回っていく。そんなことしないよって二人で誓い合ったのは、そんなの「つもり」に過ぎない。結局、彼女もつまらない世界のつまらない一ピースだったということだ。他の奴らと同じ、パッとしない、ゴミみたいな。私の美しさにひれ伏すしか能のない。でしょう? だって、こうして踵で踏んだら割れちゃった。そう、そう認めてよ。彼女は「つまらない」んだって。
ぃ、とみっともない声が漏れる。いつの間にか、心臓と肺が絞られたように傷んでいた。つ、と目に溜まっていた水分が頬に零れ落ちる。痛い。怒りも、悲しみも、痛いのだ。
「最低」
そう一言罵って、私はまっさらの机の上に、今度はペンと紙を広げる。何枚も描く。描く。描くーーーー
「ひどい」
そして現れた、ドレスを身に纏う何人もの彼女は美しいのだ。そして、きっとこれから描く彼女も美しい。くすんだ世界の中で、私を照らし続けてくれる太陽。煌めき、光り、時には不安になるような危うさを抱えながら。
「好きよ、ビアンカ。私は、あなたのことが好き。ずっと。あなたが美しくある限り、私はあなたのことが好きよ」
嫌いと言うのは嘘になってしまうから。限りなく本当に近い嘘を、紙上の彼女に囁いたのだ。