「私、二時間前に寝ろって言ったよね? 肌のコンディションを整えろ、寝ろ」
「まだ二週間もある。それに、いま私が寝ちゃ間に合わないでしょう。当日、未完成のドレスを着せる気?」
木の机を挟んだランプの向こうを胸元の折り返しを縫うのに没頭する彼女は、返答するのに視線一つよこさない。暗闇の中、黄みがかかった明かりで白い額が照らされる。
「は? 私のプライドにかけてそんなことするとでも? あんたが寝る分、私が寝なきゃいいだけの話でしょうが」
「あんた三徹したらぶっ倒れるわ目覚めてから機嫌悪いわで最悪じゃない。私、子守りはしたくないし。だから私も起きてる。何、ほんの一時間よ。終わったら寝るの。私もあんたも」
……反論のしようがなく押し黙る。まあ、確かに、そうだ。つい三ヶ月ほど前に納期に間に合いそうになく初の四徹をして倒れた所を彼女に発見されてベッドに押し込まれ、それから半日起きられなかったしその後すごーくイライラして……なんか、いろいろ物投げたり、暴言吐いたりしたような。
「今後しばらくあんたのこと見られなくなりそうだから、ちゃんと健康な生活してね? 人って案外あっさり死んじゃうから」
笑って言うけれど、あっさり母を亡くした彼女に言われると少し耳が痛い。当たり前、と思っていたものは基本的に無根拠で、それはあっさりと覆されるのだ。
そう、あなたが私から見えないところに行くなんて、ずっと思ってもいなかった。あなたがどこかに行くなんて。あなたが手を差し出す側でなくて、手を取る側に回るなんて。
どこかに行くなら、二人で、と思っていたのに。
「ねえ、あんたはさぁ……」
けど、ここでぐちぐちと恨み言を述べるのはフェアじゃない。彼女には未だ落ち度がないのだから。
「好きって、言ったの?」
「言ったよ」
こともなげに彼女は返した。針が布にプツンと刺さる音が聞こえる。
「そっか」
なら仕方ないな、と私の心は驚くほど凪いでいた。何と言うか、例のデザインがーー完璧なデザインを描いてからというもの、彼女の裏切りとか何とかがどうでもよくなったのだ。何なら、彼女が恋をしたおかげでこの世に最上の美を顕現させられるというなら、それはそれで僥倖というものだ。私の嫌いな世界にこれでもかと祝福される、私の好きな彼女。その瞬間、私はようやく世界を肯定できる気がする。きっとそれは彼に恋をした彼女にしか出来ない。だって、彼女の恋にはーーううん、やめておこう。これはあくまで下世話な推測の域を出ないし、「恋」に外からとやかく言うのはお門違いだ。ーーだって、「恋」は綺麗な免罪符だもの。
ーーそれに、彼女は「好き」と言ったそうだ。……誰にでも好きと言いがちな彼女の悪癖もあるが、きっと彼女は特別な意味で言った。だったらこちらはお手上げ。
だって、私、彼女に「好き」とも「連れて行って」とも言ってないしね。言わなきゃ分からない。世界のルールにここは則って、私の負け。
「外、雨?」
視線を上げてぽつりと彼女が呟く。耳をすませば、確かにさああ、と雨の走る気配がした。
「朝には止むといいね。フローラさんが来られなくなるかもしれないし」
「あら、そのときはあんたに倍働いてもらうから大丈夫」
勘弁、と彼女は笑った。縫い終わりにきたのか、針を糸の輪っかから引き抜いて玉留めを作った端を、ぱちんとハサミが切った。
雨。雨。闇夜にぽかんと浮かぶランプ一つ。照らされるのは二人の手元。
こんな時に思ってしまうのは。
「私たちだけみたい」
一瞬目を丸くしたのは、きっと私しか分からなかっただろう。だって、ここには誰もいない。ーーまさか、同じことを思っているなんて。
「そうね」
視界を手元に移して、私も編んでいたレース糸の始末をする。終えたものをテーブルの上に静かに置いた。そのまま、ランプの火も消す。
暗闇に慣れていたとは言え、やはり唯一の明かりが消えると視界は真っ暗。もはや視界と呼んでもいいのか。
「私たちだけみたいね」
彼女と同じ言葉を繰り返す。
「そうね」
彼女も同じ言葉を繰り返した。これじゃ同じ。同じ、同じ。何度繰り返しても、都合のいいように。
ーーだから、ここには誰もいないのかもしれない。けれど、その「誰もいない」が何だか冷たくて、柔らかで、愛おしかった。
とにかく、私たちはこの雨の中でひとつ同じことを考えていて。それはもしかしたら、この一生の中で最後の時間かもしれなくて。お互いもちろんそんなことは知っている。生まれた時に別々だった私たちは、当然のように死ぬ時も別々だ。たまたま、人生のある一瞬が重なっただけ。けれど、二人で同じことをかんがえられるって分かったなら、それはーー
とっても意味のある一瞬だった、と私は思いたい。誰かは負け惜しみと笑う? いいの、私にとっては「そうだった」というだけだから。