赤い靴は履いたまま   作:巴瑠

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「白磁の夫人亭のお使いです。いつものお願いします」

「あー分かったよ、影で少し待ってな。……しっかし、こんな子供に使いさせるかぁ……」

私が突き出したカゴを受け取って、店主は店の奥へ下がっていく。これから店主が取りに行くのは、多分、赤ちゃんが出来ないようにするためのやつだ。それを予め塗るかどうにかしておくと、出来にくくなるらしい。ーー本当は、魔法を使ったもっと確実な方法があるらしいけど、魔法なんて教えてくれる人間がいないここでは夢のまた夢だ。

「ほらよ、持ってけ」

「ありがとうございます。またよろしくと、女将さんが」

礼を言う。「ありがたい」なんて思ったこともないけど、そうすることが礼儀、当然だと教わった。ーーそもそも、「ありがたい」ってどんな気持ちなんだろうか。私はそれを、生まれて一度だって理解したことがないかもしれない。そんなことを考えていると、ばちゃん、と耳元で水が多めの土の音がした。つ、とこめかみ、頬骨にざりざりとした水の伝う感覚がする。

「あっ当たった当たった! 汚ねぇの!」

ヒュー、と気取った口笛。怒る気力も何もなくて、ただ視線だけ左手ーー泥が飛んできた方向へ向けた。他に泥を持った子供が2人。先程命中させた奴がリーダー格らしかった。……大通りで起こっているのに、大人たちは知らんぷり。先程まで会話していた店主でさえも。

でも別に、辛いとか悲しいとかは思わなかった。一度だって、そんなことは期待してなかった。

緩やかに頬を這う泥水を手の甲で拭って、足早に歩いた。もう泥に塗れたくない。あまり服を汚して帰ると女将に殴られる。あと、見ていないようで見ている視線が嫌だった。哀れんでいるようでほくそ笑んでいるような視線が嫌だった。誰かの代理の、卑しい笑みが嫌だった。

「おい逃げるぞ、追いかけろ!」

「待てよー、お前も男と話すのが仕事なんだろ? 俺とも話せよ」

「なあそのカゴのやつ何? エロいやつ? 気色悪ぃ」

走るのは嫌だった。あからさまに逃げているみたいだから。精一杯大股で素早く足を動かす。逃げたいわけじゃないけど、捕まりたいわけでもない。そう、理想の展開を上げるなら、今ここで地面にぱっくり穴空いて、そこに飲み込まれて一生出てきたくない。

「おいこっち見ろよ、俺らが遊んでやっからよ」

「汚ねえ親から生まれてきたからもう汚ねえんだろ?

うちの母ちゃんが言ってたぞ」

 ぐ、と髪を引っ張られて、思わず「痛い」と叫んだ。お腹が空くから声を出したくないのに。反応を与えたくないのに。髪が切れる音といっしょに、目の端から涙が出てきた。

「お前らみたいなのがいるから町の品位が下がるんだ。って!」

太い腕と丸々した手が、細い髪の毛を地面に落とすよう叩かれた。いいなあ、毎日美味しいもん食べてるんだろ。いいなあ、こっちは「まだ太る必要ない」ってパンやら水みたいなスープしか飲めないのに。ーー棒みたいな手が、みすぼらしかった。

「俺の父ちゃん、お前ん所の人にお金上げたせいでうちは貧乏になっちまったんだよ! だからその分、ベンショーしないとな?」

カゴを奪われそうになって、まずい、と慌てて両手で掴んだ。けれど、枯れ枝と丸太。比べたって意味ないなぁ、ぶたれちゃうなぁ。途端、全てが他人事のように思えた。考えてみればそうだ。私の身体含めて、ここに私のものなんて何一つない。痛みも、商品も、髪の毛一本爪一つまで私は他人のものだ。当たり前なのに、実感した瞬間ぞっとした。

強い引きが一回、カゴが私の手元から離れる。

「ねえ。感じ悪いからさあ、この辺でやめにしない?」

少し低い女の子の、聞いたことのない声がした。

「は? てめえに関係ないだろ。誰だよ」

「ビアンカって言います、よろしくね。ところで、私こういうの見てると黙ってられないタイプなの」

「女のくせに偉そうに! やるなら二対一だぞ。今から泣いて詫びるなら許してやってもいいけど?」

「はぁ? 二対二ですけど?」

 ね、と彼女はウインクした。ーー私の方に? 青空みたいな色の瞳に、一つに編まれた金色の髪。太陽が、私の方を見たのかと思った。

「調子乗んなよ、ブス!」

 そう言って、さっき泥団子を投げてきた方が彼女に殴りかかった。

「はい、喧嘩売ってきたのそっちだからね!」

 そう言って、彼女は一歩足を下げるだけで拳を避けた。そのまま、硬そうなブーツで相手の踏み込んでいた足の脛を蹴り上げる。イッ、ともん絶するようにしてそいつは崩れ落ちた。いつの間にか彼女は、私を背にして立っていた。

 背が高い、と思った。さっきの店主よりももしかしたら、と思った。けれどそれはもちろん錯覚。彼女がこの年齢にしては少しだけ高い、というだけ。そして私が、かなり小さい、というだけ。

 ーーでも、そう見えたのはきっとその背筋のせいだ。誰よりもぴんと伸びていて、ちょうど頂点に昇っている太陽から垂らされた糸に引っ張られているように。

「ほら、帰った帰った! あ、告げ口とかはお互いナシだからね。先に手出してきたのそっちだし」

 乾いた音は、彼女がはやし立てるように叩いている手の音だ。正しい、と思ったのは撤回する。かなり好戦的みたいだ。別に、彼女は正しさの体現者ではない。

「は? お前こそ今に後悔するぞ、そいつを庇ったこと」

「弱いのに口だけはよく回るんだね、弱いから仕方ないね! ……でもさあ、私に言うのは別にいいけど、それで彼女を悪く言うのは違うでしょ。あんたに勝ったのは私なんだから」

 そう言ってから、彼女は顔の向きを変えて横で突っ立っていた子分を見た。

「どうする? やる? 二人目にはサービスしてあげる」

 ボッ、と乾いた音と共にいつの間にか彼女の手の上には小さな炎が現れていた。ーー魔法。魔法だ。使える人間が、こんなに近くにいる。

「……フン、覚えてろよ、ブース!!」

「うるさいザーコ!! いやじゃなくて謝りなさいよ、あっちょっと……」

 さっきの私とは違う、目を見張るスピードの逃げ足だった。太い手足だから、ちゃんとご飯を食べているからできることだ。いいなあ。

 もう、と言ってからくるりと彼女が振り返った。揺れる金色の髪。空色の瞳。もう一度私を見る。

 眩しい、と思った。全部。私の知らないものでできていた。正しさ。美しさ。愛。祝福。全て全て、私の正反対。

 私が大嫌いな私の、正反対。

「ね、とりあえず汚れ落としに行こっか」

 だから手を取られるまま、私は歩いていた。

 

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