赤い靴は履いたまま   作:巴瑠

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「あれ、来たの?」

「……何でよ」

一人になりたい、と訪れた廃墟には、ぼんやりと”彼女”が座っていた。この時期にはまだ寒い服装で。麓ではとうに雪は解けたけれど、山間には雪が積もっているのが見えた。だから、だからまだだ、と思っていたのに。

「降りられるようになったから来ただけ。そっちは?」

そうして彼女が耳にかけた金の髪は、うなじを隠しきらないほどの長さになっていた。さらさらと揺れていた二つのお下げは消えて、大人びたような。

「別に何だっていいでしょう、私は、ここに来たっておかしなことなんて、ないし」

誤魔化そうとするあまり、つっけんどんで早口な答えになってしまう。そうだね、と彼女は笑った。「綺麗」な笑い方だった。目を細めて、口元を伸ばして、歯は見せない。整ってるんだなあ、と実感する笑顔。 あ、嫌いだ、と思った。

「……早く、どこか行かなくていいの? 久々に降りてこられたんだったら、他にあるんじゃないの。やることとか、行くところとか」

「まあね」

そう言ったのに、彼女は立ち上がらずにくるくると髪を弄んだ。いつものようの宙を見ているけれど、焦がれるような、夢中になるような熱はその瞳になかった。

ただ空の青を写し取るみたいに、同じ色の瞳を向けているだけ。

「そうだ、ねえ」 

その、何だか呆けた、静かな彼女が気に食わなくて思わず口を開く。瞳が、少し意志を持ってこちらを見た。

「私、もうここには来ないから」

ぱち、と目が見開かれた。それ、それだ。その感情の揺らぎが好きだ。私は、あなたの。

「嫌な冗談」

「嘘じゃないから、本当」

彼女が目を逸らしかけたものだから、再び言ってその視線をピンで止める。ゆら、と揺れている。静かに揺れている。平静を保って。ーー彼女は、この期間に変わってしまった気がする。今日だけちょっと違う、じゃなくて、何故か「変わった」という実感があった。かつてなら、「どうして?!」とすぐに私に歩み寄ったに違いない。けれど今は静かだ。凪だ。平静を保っている。ーーけれどその実、夏の空のように広く、どこまで快晴、なのにいつ天気が崩れるか分からないという危うさを孕む青。そう思わせる青。人はもしかしたら、その変化を痛ましいと言うのかもしれない。

けれど私にとっては、いっとう美しい青。

最後に見る彼女がこれで良かった、と思いながら言う。言うつもりじゃなかったけど。その揺らぎをうち崩した先にあるものが見られるのなら何でも良かった。

「娼婦。本当はあんたも知ってたでしょ、この街で一番大きな白磁の婦人亭の。娼婦から生まれてきたから。ずっと決まってたの、あんたと出会う前から、私が生まれてきたときから」

凪。

 どうせ醜いものに囲まれて死ぬのだ。最後に、この世でいっとう綺麗なものが、見たい。

「どう? 騙されたって言う? 汚いって言う? 早く言えば? 傷つかないけどね、慣れてるから」

「ねえ」

立ち上がった。けれど、まだ私の見たいものは見せてくれない。

「シルヴィア、あなた言ってなかった? 服職人になるんでしょう」

「ああ、あれ? 適当に話合わせてただけに決まってるでしょ。馬鹿じゃないの?」

思ったより冷たい声が出て、間違って肺に氷水を注いでしまった心地がする。けれど届かないから、彼女は一向に暖めてくれないから、次々に氷を投げてしまう。

「ばかね、なるのよ」

 綺麗な顔のまま彼女が言った。何? あんたは最後まで言うことを聞いてくれないんだ。あなたの美しさが欲しい。それが、私の唯一の望みなのに。

「ーーあなたが作ったワンピース着てたら、レヴェナンの女将さんに聞かれたよ。『そのドレス、どこで作ったの?』って」

レヴェナンの夫人と言えば、この町の仕立て屋の頭取だ。彼女の店で作る服は、どこよりも素敵だって。娼婦には手が届かないけれど。「娼婦のドレスなんて、下品なものはうちでは作らない」と掲げているけど。

「友達が、って言ったら『もし就職していないのならウチに来て』って」

「……お世辞に決まってるじゃない、そんなこと」

「商売人なのに?」

思わず舌打ちを一つする。美しさをくれないことより、そのお花畑具合に苛立った。甘ちゃんで渡る世間は天使ばかり、みたいな楽観主義者に見えてこういう所がある。腹が立つ。むかつく。

 やめだ、やめ。別に彼女の美しさなんていらない。どうせ最後だ。ーー不幸においては、私の方がよっぽど強い。「不幸」でこいつの横っ面を引っぱたいてやる。あんたの想像の絶する地獄がこの世にはたくさんあるって教えてやる。

「勝手なことしないでよ」

 さあ、何から言ってやろうか。愚かな母親のこと? 薄情な父親のこと? 望まれない子だったこと? 生まれるはずじゃなかったこと? 生まれてからずっと「誰かのもの」だったこと? 商品になること?

「無理なんだから、さあ」

だったはずなのに、思わず潤んだ声が出たことに驚く。肺の氷水が声まで湿らせてしまったようで。けれど、とめどなく言葉は溢れる。

善し悪しも幸不幸も比べなければ生まれない。だから私は、「今」が悪くならないよう消した。忘れた。選択肢を見ないようにした。「今」しかなければ比べようがない。そこには「今」というただ一つしかない。だから私は耐えられた。耐えられた、のに。

「知ってるでしょ、この世界ではお金が一番大事。私が背負わされてるのはそれ。生まれた時から私は人間じゃない。道具。誰かに売り買いされる商品。あんたにはそんな生き方なんて想像すら出来ないでしょう? 優しいお父さんとお母さんがいるから。ずーっと守られてきたから。私が女将に、機嫌の悪い姉たちに殴られてる間ずっと。飢えを忘れられるようずっと縮こまって寝てたことも! それも、寝台のある部屋の衣裳箱で!」

 吐き出すように言う。あれ以上黙っていたら、言うはずじゃなかったことを言ってしまいそうだった。

語気が強まったからか。一瞬、彼女の空がぐらりと歪んだ気がした。唇を噛んでから、向こうが喋る。

「じゃあ買えばいいじゃない、優しいお父さんでもお母さんでも自分でも。あなたーーあんたは金さえあったら買えるんでしょう?」

「ええそうね! 自分を買うのに十二万! 十二万あったら買えるのよ私のこと! やっすい自由でしょう?」

苛立って声が高くなってしまう。ぽつ、と雪になり損ねた雨が額に落ちた。ぽた、ぽたと私と彼女の間にも。

 笑ってやった。勝ち誇ってやった。幸せでも優しい両親でも何でも持ってる彼女には、一つできないことがある。それは、私を理解することだ。絶対にそんなことさせてやんない。私がどんな絶望感の中で生きてきたか、相続すらさせてやんない。

「だから買えばいいでしょう?」

 なのに返す彼女は静かだ。何でよ、傷つけよ、泣けよ。私はいい人ですって、同情して可哀想がって、私のことなんてとっとと忘れてしまえ。お前さえ居なければ、私がどうなろうと悲しむ人も悼む人もいなくなる。

「どこから出てくるのよ、そんなお金は! 知ってる? お金はね、何かを売らないと貰えないの」

ーー同じことばかり繰り返す彼女に、本格的に腹が立った。もう美しさとかどうでもよくなった。

ただ目の前の、小生意気なこいつを、現実を知らない、きっといつか誰かと恋をして幸せになる彼女に泥玉を浴びせてやりたくなっただけだ。フン、と鼻で笑ってやる。雨が降り荒むものだから、足元が泥だらけになっているのはどうでもよかった。

「何笑ってんの? まだ早いよ。笑うのは楽しいときにすることだよ」

「……は? 何? 楽しくて楽しくて仕方がないけど? 嫌いだったよ、あんたのこと。何でも持っててさあ」

「うん、持ってた。持ってたね」

 そう言って、彼女は濡れた神を耳にかけて立ち上がり、私のほうへ一歩踏み出した。

「私ね、5年前まで別の村にいたの。村で一番大きな宿屋で、優しいお父さんとお母さんに愛されて育った。友達もいた。冒険もした。すごく、すごく幸せで、明日は、一年後は今日より幸せに違いないって信じてた」

びょう、と風が吹く。その時彼女の顔に覆いかぶさった短い髪が、そのまま頬に貼り付いた。せっかく整えたばっかりだったのに。

「けれど、友達とはもう会えなくなった。お父さんは病気になった。お父さんが元気になるために引っ越さないといけなくなった。宿屋を売った。引っ越した先は、先は、変わらなかった。何も変わらなかった。何も変わらない、毎日同じ毎日だった」

唐突に現れた不幸。こっちからすれば何様かわからないけれど。別にいいじゃない、売女と差別されることもなく、毎日美味しいご飯が食べられて柔らかい布団で眠れるなら。商品じゃなくてなんて人間なら。

「何その顔? 別に不幸自慢とかじゃないから。私よりひどい境遇の人はごまんといる。そう、あんたも含めてね。何より、私を不幸扱いするやつがいたら私がぶん殴ってやる。私は不幸じゃない。決めつけるな。ーーでも、ただただ退屈なの。退屈、余裕があるから言える言葉だよね。でも、ただただ退屈で仕方がないの、今は」

退屈。それはどんな感覚だろうか。良いものではなさそうだった。でももう退屈はしないよ。彼女は続ける。

「ーーこの冬、お母さんが死んだ。流行病だって。前の日まで元気だったのに。お父さんは相変わらず病気。可哀想にねって、みんな言ってくれた。いい子だね。泣いてもいいんだよ。お父さんと支え合わなきゃね。まるで、可哀想な女の子と世界で一番優しい大人たちみたいに」

私に口を挟む間も与えず、にっ、と歯が見えるくらい彼女は口角を上げた。けれど眉は下がっているし、髪とまつ毛は十分に水を吸って重たげだ。

「70万は、私のものだ。何をどうしようと、私のもの。だから買えよ、自分の人生。ほら」

 そう言って、ぎゅっと私の手は握りしめられた。絶対に離してやるもんか、と雄弁に。

馬鹿げている。おかしい。いかれてる。ーーでも、最高だと思った。美しい彼女も、傷付いた彼女ももういらない。私はその選択肢に魅了されていた。

 分かる、私には分かる。生きてる世界が狭い私たちは、どこにも行けない私達は、もうその世界がぶち壊されることでしか逃げようがない。ぶち壊したら不幸になる? 知るか。

私たちは同じだ。望まない不幸より、望んだ絶望を。……それに、クソッタレなこの世界がひっくり返される。粉々になる。それって、最高に楽しいに決まってる。そうしたら、絶対、望まない「今」より、選びとった未来は楽しい。幸せかどうかは知らないけど。そんなの、知らなくても壊すことはできる。

「勘違いしないでよ、あげるんじゃなくて、貸すんだから。返してよ、ちゃんと」

それでも尚、笑いながら言う彼女は、文句の付けようがないくらい美しかった。

 笑顔じゃ彼女には勝てないと思い知らされた。だから私は、もう笑うのはやめようと思った。

 

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