赤い靴は履いたまま   作:巴瑠

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「おはよう。……その顔さては、寝てないね?」

「……ぁあ……? 見ての通り寝てたでしょうが、あんたに起こされたのだけれど」

 軽やかな彼女の声だろうが、眠りから引きずり出されるのは不快だ。半身を起こすと、意識がワンテンポ遅れてついてくる。けれど腐ったみたいに粘っこく糸を引いて、なかなかカウチの上からは離れない。

「ふーん。ちなみにいつ寝たの?」

「……朝日は見た気がする」

「私、朝日と共に家を出たんだけど」

 つまりは二時間も寝ていないということだ。彼女は週末だけ、服作りを手伝いに山を降りてくる。それが今日。だから、キリのいいところまで終わらせておきたかった、おきたかったんだけれど。二時間。その数字が思い浮かぶと、かろうじて上半身を支えていた両の肘がかくん、と折れてしまいそうだった。でも進捗、とどうにか骨をまっすぐに立てる。

「いいよ寝て、私が出来そうなところだけ先にやっとくから。その状態でやっても効率悪いし」

 でも、と無意識のうちに反論を唱える。けれど、気づけばかくんと肘は折れていた。かすむ視界の中で、勝手知ったる他人の家、と言わんばかりに上掛けを持ってくる彼女の姿が見えた。音もなく、かすかな重みが私の肩までを覆う。

「おやすみなさい。目が覚めたら紅茶をいれようか。眠気なんてふっとぶ、濃い紅茶」

 最後に頭に確かな不快ではない重みを、髪の合間を縫って動くかさついた指先を感じながら、私の意識はまた落ちていった。

 

「そういえば、ねえ」

 ティーカップを持つと、何故か小指がぴんと立ってしまう。そんな立った指を折りながら、私は彼女に問いかけた。向かい側に座る彼女は、マフィンをかじりながら、何、と言うように眉を上げる。

「どうしたの、その左耳」

 ああこれ、と言うように彼女は空いていた左手で布が巻かれた左耳に触れた。耳の一番外側――軟骨の部分。マフィンが皿の上に戻されるとともに、こくんと喉が動いた。それを合図に彼女の眉が下がって目が細められ口角が上がる。へへ、と照れくさそうな笑みがそこから漏れた。

「やっぱりバレた? 料理のときにちょっとヘマやっちゃって」

「どんな包丁の使い方したらそうなるのよ。バカにしすぎ」

 ごめんごめん、と彼女は笑って、一度視線をテーブルの脇、板敷の床の上這わせた。睫毛がふと影をおとし、一瞬笑みが消える。

「ダサいからあんまり言いたくなかっただけ。……ピアス、開けるの失敗したの。それでこのザマ!」

 今度は嘘と言うわけではなさそうだった。天を仰いで言う彼女の顎と首、そして襟元が綺麗な曲線を描いている。

「……そういえば、それってピアスなの?」

 自分の耳たぶをさしてそう言うと、そう、と彼女は丸っこい、すこし幼いデザインの緑の石に私と同じように触れた。

「痛かった?」

「昨日のは痛かったけど、こっちはもう覚えてない。シルヴィと会う前くらい昔の話だし」

 ふーん、と紅茶を啜ろうとして、もう空っぽになっていることに気づいて一度ソーサーへ戻した。ティーポットへ手を――というところで、何となく思いついてその手を止める。ちょうどそのとき彼女は食事を終えたようで、人差し指についた欠片をこっそり舐めていた。

「ねえ、私にも開けてよ」

 ん? と彼女が慌てて舌をしまう。

「ピアス穴。私にも」

 

「で、結局開けるの。開けないの」

「……開けるってば」

 そうこうしているうちに、お互い身にまとうのは 寝間着の時間になった。

 あの後、「何で?!」とか彼女に問い詰められる予定だったが、実際は反対。「そっか、開ける?」とさっさと立ち上がり始めたのだ。彼女には思い切りのいいところがあるとは知っていたが、こんな時に出てくるとは。逆に私はそれで踏みとどまってしまい、「午後の作業が終わったら」「夕食を終えたら」などと言っているうちにこの時間帯になってしまった。けれど、これ以上引き延ばしたら私の「思いつき」が鈍ってしまいそうだったから。大きく椅子にもたれて、足を組む。

「……ほら、いいから。好きにしなさい」

「怖いんだったら開けなくてもいいと思うけど」

「はあ? 誰が怖いって言ったのよ、ほら、やって」

 わかりました、と視界の端で彼女が動く。耳に触れた手は、ひんやりと冷たい――間もなく、「行くよ」と声がした。

 い、と思わず声が漏れた。それはそうだ。針が耳たぶを貫通しているのだから。けれど、それ以上声を出してなるものかとよく分からない意地が働いて、その後はただ吐息だけ。

「はい、片方終わり。大丈夫?」

 ――けれど、そんな一瞬の痛みとは反対にあっけなく穴はあいたらしい。大丈夫、と答えて反対側。一度味わって覚悟が出来たからか、もう片方はあっさりと終わった。

「終わったの?」

「うん。あ、あと今つけてるのは穴がふさがらないようにするやつね。一か月くらいしたら、好きなのつけたらいいと思うよ」

 ありがとう、と雑に言ってそのままソファに倒れこむ。なんだか、びっくりしたような拍子抜けしたようなでどっと疲れた。「もう寝ちゃおうか」と彼女が言う。

 ベッドに向かう途中で鏡を見る。なるほど、確かに両の耳には金属の、ちょっと無骨なピアスがくっついていた。ひう、とどこかから吹いてきた隙間風が足元を走っていく。「穴がふさがらないように」と彼女は言っていた。当たり前だけど、このピアスを止める頃には両の耳たぶにひとつづつ小さな穴が開くのだ。彼女の方を見る。そういえば、着替えた時点でピアスは外していた。だから、きっと彼女の耳たぶにも同じように穴が開いている。小さいけど、確かにぽつんと空いた穴。ほっといたらさっさと埋まってしまう穴。それが閉じてしまわないよう、私たちは「私たちじゃないもの」をその穴に通す。

 ――そう、身体に空いた穴に私は何を通したい? 彼女に開けてもらった、小さいけれど確かな痛みと共に空いた穴に。

「大丈夫? かゆかったり痛かったりする?」

 ずっと鏡を見ていたからか、彼女の声が飛んできた。私は昼すぎまで寝ていたが、彼女は朝日とともに一日を始めたのだ。ぱっちりと開いている目は、今はすこし細くなっている、気がする。そう、空色。

「別に大丈夫」

 ならいいや、とまた彼女も自分の世界へ戻っていった。癖のない髪の隙間を櫛の歯が通っていく。

 そう、この穴を埋めてもらいたいのは。あの穴を埋めたいのは――まだまだ、先の話だけれど。

 

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