「あーあ。私もヤキが回ったものだね」
「何バカ言ってるの、お母さん。どうせ明日にはピンピンしてる癖に」
額の濡れ布巾を絞って取り換える。今年の冬は、雪も風も激しくはなかった。
――その代わりに流行したのは、病だった。風邪を一段強めたようなもので、特効薬はない。だから本人の体力勝負。私は村で三番目にかかったのだけれど、まあ若いからかそんなに悪化せずに二日間くらいで治った。身体の弱いお父さんにはうつさないよう用心して、すぐに治ったからこの冬は大丈夫――と思っていたものの、近所に看病の手伝いに言っていたお母さんがもらってきたのだ。しかし、こうして床につく母は久しぶり、いや初めて見たかもしれない。身体の弱いお父さんに代わって宿を切り盛りし、新しい村でもパワフルに働くお母さん。その情熱は床でも衰えず、それなりに高い熱があるはずなのに元気に喋っている。
「まあ、いい機会だしゆっくりしてよ。私も大人だし、家のことは大抵できるよ」
「大人、ねえ。思えば早いもんだ。こんなに小さかったのに」
そう言ってお母さんは親指と人差し指をくっつけて丸をつくる。さすがにそれは嘘でしょ、と笑った。
でもねえ、と不意にお母さんの声が優しくなった。
「どれだけ強くても、どれだけ大きくなっても、どこにいっても、あんたは私の子供だよ」
騒がしかった目が不意に柔らかくなり、驚いて動きが止まる。
「だから、私もダンカンも、ずっとあんたの味方だよ。あんたはやりたいようにすりゃいい。あんたの人生はあんたのためにあるんだ」
「……やだなあ、どうしたの、急に」
そう笑ってごまかすと、お母さんも急に恥ずかしくなったようで、「やめやめ!」と布団に潜り込んだ。
「もう終わり、私は寝るよ。あんたももう休みな」
「はいはい。じゃあ、水差しだけ替えておくね」
そう言って水差しの水を交換して持っていくと、お母さんはもう寝息を立てていた。
*
翌朝、ふと目が覚めた。嫌な夢を見たような、でもそれが思い出せないような、背中に一筋冷たくて粘り気のある液体を垂らされて目覚めたような、そんな何となく不快な目覚め。
まずはお母さんの様子を見に行こう、とぶるりと震えながら寝間着のまま部屋へ向かう。病気のお父さんとお母さんでベッドを使っているから、ここ数日は居間の椅子で寝ていた。気分が悪いのはきっとそのせいだ。そうに違いない。
「おはよう、おかあさん」
返事はなかった。珍しい。この時間はいつも起きているのに。
なんだかんだ言って疲れがたまっていたのかもしれない。熱だけ測っておこう。そう思ってベッドに近づいてお母さんの顔を見たとき、なんとも嫌な感じがまた背筋を走った。
「熱測るね」
早くその感覚を打ち払いたくて、そっと前髪の下を通ってお母さんの額に手を当てる。
ひやり、としたその感覚に思わず声を上げた。――まるで、間違えて石でも触ってしまったかと思うような冷たさ。一晩、ずっと放置されていたような。
「お母さん? ねえ、お母さん起きてよ。ねえ、ちょっと……」
肩を揺さぶっても、私の手の動きと一緒に揺れるだけでお母さんの瞼はぴくりとも動かない。嘘、何かの間違い、いや、きっと悪い夢だ。私はまだ目覚めてなくて、悪い夢の、続き。
「ねえ、起きてってばお母さん、なにやってるの? 朝だよ、起きなきゃ、ほら、早く――」
「どうしたんだい、ビアンカ?」
私の叫びに近くなっている声を聞いて目覚めたのか、お父さんがやってきた。ちがう、何も心配いらない、と私は自分に言い聞かせるように言った。でも、大丈夫じゃないのは目に見えていたらしい。お父さんも枕元へ駆け寄って、そっとお母さんの頬、首筋へ手をやった。
「……脈が」
「ねえ、嘘でしょ」
「……カルバンさんを呼んで来なさい、ビアンカ」
「嘘でしょ、だってお母さん、昨日はあんなに」
そう言って動けなかったのは、認めたくなかったからだった。とうの昔、最初から答えは出ていたけれど認めたくなかった。全身が答えることを拒否していた。それで、足がすくんで動けなかった。
「ビアンカ」
そういって、お父さんの手が私の頭の上へ伸ばされた。
「分かったね。行ってきなさい」
――何が、大人だ。何が、できるだ。
私はまだまだ、無力な子供だった。
暖冬とはいえ、冬は常に厳しい季節だ。にもかかわらず、お母さんの葬式は迅速に、つつがなく行われた。
可哀想に、まだ若いのに、ビアンカちゃんの嫁入り姿を見ないままで、気の毒に、私たちは味方だよ、いつでも頼ってね、一緒に頑張ろう、支え合おう。たくさんの言葉で包まれたけれど、そのどの言葉も私を救いはしなかった。
私自身が、救われたくなかった。
寝ているときに咳をして痰が詰まって、それで窒息死してしまったらしい。あまりにも呆気ない死に方。昨晩まで笑って、最期まで元気だった、いかにもお母さんらしい死に方。
そんな死ぬ間際まで明るかったお母さんの死で私が深く傷ついてしまったら、何だかお母さんの死の最後の最後に泥を塗ってしまう気持ちになるから。笑って、見送りたかった。
そんな私の様子を、周りの人たちは気丈だ、健気だ、しっかりしている――冷淡だ、薄情だ、と囁いた。けれど、みんな遠巻きに言うばかりで、私に面と向かって何か言う人はほとんどいなかった。
冬だったから、花は供えられなかった。春になったら一番に、この山で一番明るい花をかざろう、と思った。
そしてその晩、私は背中の中ほどまであった髪をざっくりと切った。
もう、無力な子供はおしまいだ。