【IF】Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜【番外】 作:しらなぎ
・自サイトの企画でいただいたリクエストになります
・代々スリザリンに隷属し、ハウスエルフと同程度の扱いを受けているターニャが、シャルルに見出される暗い話です
・すべてにおいて捏造しかありません
嘲笑が耳を離れない。
四六時中だれかに罵られ、嘲笑われ、消費されていく奴隷のような人生がターニャ・レイジーの運命だった。
着古して茶色くなったシャツには無数の皺が寄り、ほつれた糸を治す余裕もなく、長年の垢が固まりついて紺にも茶にも見える薄汚い色に変化した上着を羽織る。せめてもの砦として、最後に緑のローブに腕を通した。
ターニャはスリザリン生ではない。ホグワーツの生徒ですらなかった。
ただ、スリザリンのために身を粉にして働く役割を与えられた、生まれながらの従僕だ。魔法使いに尽くすハウスエルフと、スリザリンに尽くすターニャは同じだ。都合の良い道具、あるいは召使い。ターニャの人生はこの世に生を受けた時から、ターニャのものではなかった。
血の契約。
ターニャを縛る、祖先から続く呪い。
魔法界ではとっくに忘れ去られた、夢物語のような話を、幼い頃から母は夜な夜なターニャに言い聞かせた。わたし達一族、レイジー家は高名な魔法使い、サラザール・スリザリンその人に忠誠を誓った部下の末裔であると。
サラザールがホグワーツを去る時、祖先は残され、血の契約を交わした。たとえ離れていてもサラザール・スリザリンへの忠誠を、この血が絶えるまで誓うことを。
そして信頼を受け、スリザリンの思想をのちのちまで残し、スリザリンの魂に尽くすことを誇りに考えた子孫は、血の契約に基づいて1000年もの間ホグワーツで……スリザリンの守護を担っている。
暗く淀んだ母の瞳を見て、いつもターニャは思ったものだ。バカバカしい。
奴隷であることをどれだけ綺麗な言葉で包み隠しても、レイジー家が魔法界の最下層にあたる存在であることは変わらない。母が縋るように信じるその話が、一体どれだけ事実に基づいているのか。
もし祖先が本当にサラザール・スリザリンに信頼される部下であったなら、今のターニャ・レイジーが奴隷として生きることはなかったはずだ。
何もかもバカバカしくて、恨めしかった。
諦められたら楽だろうに、ターニャの腹の中はいつも怒りと、口惜しさと、絶望、そして恨みでじくじくと煮立っている。
わたしは必ず、この呪縛から逃げ出してみせる……。
かの有名なハリー・ポッターと同時期にスリザリンにメイドして送り出されたターニャは、生徒になることは出来なかった。
入学可能なほどの魔力を発現出来なかったからだ。
先祖から伝わる杖を持ってはいるが、呪文を唱えても、杖を振ってもろくな魔法を使えなかった。せいぜいが、繕いものをするときに針を少し動かすことが出来たりだとか、火傷や切り傷を僅かに癒すことが出来るだとか……。そんな初歩的な生活魔法だけだ。
ターニャは魔女ではなく、魔法界の鼻つまみ者のスクイブだったのだ。
暖炉の灰を這いつくばって掃除していると、談話室に騒々しさが近付いた。授業が終わり生徒たちが帰ってきたと気付き、ターニャは慌てて立ち上がった。汚れた格好で自分たちの空間を歩き回られることを、スリザリンの"高貴"な子息子女様方はお嫌いになる。
「嫌だわ、ドブのような匂いがすると思ったら、また貴方なの?」
1人の女子生徒が嫌そうにジロジロと舐め回した。足元にパラパラと零れている灰を眺め、「さっさと片付けてちょうだい」と鼻を鳴らし、寝室に去っていく。
彼女はたしか5年生の生徒だっただろうか。ターニャは「はい」と機械的な返事をした。彼女の傍にいた何人かがクスクス笑いながら、「本当に使えないスクイブね」「のろまなんだから」と嘲笑を投げつけていった。
スカートを握り締めたくなるのを抑え、ターニャはしゃがみこむ。とっととこの場から消え去らないと、また絡まれてしまう。
遠巻きにターニャを笑う生徒の声が聞こえてきて、それは毎日のことと言え、胃がよじれるような思いがした。
嘲笑を向けられることも、先程の女生徒のようにただ見下されることもターニャは大嫌いだ。
ふと、足音が近付いてきてターニャは身を固くした。振り返ると杖を構えた女子生徒が立っている。咄嗟に頭を庇おうとするよりも早く、彼女が杖を振った。
「スコージファイ」
みるみるうちに水分が床を綺麗に磨き上げた。目を丸くするターニャにも呪文をかけ、汚れていたターニャの身体を冷たい感触が走り抜けた。
「まぁ、洗っても小汚いのね……」
ぽつりと漏れたような独り言に身体が熱くなる。羞恥か、惨めさか、怒りか分からない。ターニャはただ黙って俯いていた。
「シャルル、何してるの?そんな奴隷にかまうなんて」
避難するような甲高い声に、シャルルと呼ばれた生徒が綺麗な微笑みを浮かべた。
「暖炉のそばでお茶を飲むんでしょう?スクイブがやるより、わたしがやった方が早いじゃない」
「だからって……」
「あなた、もう下がっていいわよ」
顔も見ずにその生徒は手をひらひら動かした。唇を噛み締めすぎて、苦い血の味を感じた。
高貴な家柄の子供たちというのは、まぁ毎日飽きもせずに、パーティーの真似事をしたがる。
暖炉の前で、個人の寝室で、湖の畔で、空き教室で……くだらない大人ごっこで、拙い社交もどきをしては満足している幼稚な蛇のために、ターニャは奔走しなければならなかった。
カップを準備し、場を整え、軽食を用意し、食器を洗い、後片付けをしながら、またどこかで呼ばれれば駆けつける。杖を3回振ると、ターニャの持つ指輪に呼ばれた場所が映し出されるのだ。奴隷の証。小さな緑の石がついたこの指輪がターニャは大嫌いだった。
広いホグワーツ城を駆け回るのは至極非効率だ。少しでも遅くなれば鬼の首を取ったかのように罵られる。来たばかりの頃は要領を掴めずに、自分の足で駆け回っていたターニャだったが、だんだんとやり方が分かってきた。
ホグワーツにはターニャと同じ立場の生き物がいる。ハウスエルフ。彼らはスリザリンに尽くすターニャを自分たちと似たような仲間だと捉え、次第に協力してくれるようになった。
呼ばれれば姿あらわしで連れて行ってくれたし、衣服の洗濯も、繕い物も、軽食の準備も嬉々としてやりたがった。そうして「お嬢様方はとても喜んでおいででしたよ」とありもしないことを伝えてやれば、それだけで彼らは大満足らしい。
彼らのように、惨めさを感じずに役割を受け入れられたら、どんなにか生きるのが楽だろう。
決してそうはなりたくないと思う反面、ターニャはハウスエルフという生き物が羨ましかった。日々の小さなことに幸せを感じて生きていけるほど、ターニャは無垢じゃない。
地下の冷たい廊下に革の音が響く。ペタペタとした間の抜けた音だ。革はとっくに古くなって底が剥がれている。下級生がターニャを見て顔を寄せ合った。何かしらの会話の後に、意地の悪そうな表情を浮かべた。
「おいスクイブ」
「はい、お呼びでしょうか」
返事もせず少年たちは魔法をかけた。どこからか糞爆弾が落ちてきて爆発すると、腹を抱えて楽しそうに笑った。
「本当に爆発したぜ!これってホグズミードでしか買えないんじゃないのか?」
「グリフィンドールの双子が横流ししてるらしい。スリザリンには売らないらしいが、レイブンクローに従兄弟がいるから分けてもらったんだ」
「ぶはっ、これを双子にぶっつけてやろうぜ!」
「あいつらどんな顔するかな。俺たちはホグズミードにはまだ行けない年齢だからな……」
小さい脳みそでくだらない計画を企んでいる。企みとも言えない。バカバカしい。糞爆弾をぶつけられるのは初めてではないが、呻きたくなるような匂いがする。
「これ片付けておけよ」
「聞かれたらなんて答えるか分かってるよな?」
「はい、坊っちゃま」
赤いローブの生徒にやられました。都合の悪いことは全部そう言うことになっている。スリザリンの言いなりの彼女の言を信じる教師がホグワーツにいるものか。
糞爆弾は匂いがなかなか取れないし、泥の汚れもしつこくこびりついている。管理人のフィルチにまた大目玉を喰らうだろう。フィルチは同じスクイブだったが、杖を持ち、僅かに魔法を使えるターニャのことを、魔法使いの生徒たち以上に妬んでいた。
ウンザリする。
何もかもにウンザリする。
死を考えたこともあるが、何故、生まれてきただけのターニャが死ななければならないのか悔しくて死ぬことも出来なかった。
クスクス笑いや嫌悪感の表情が通り過ぎていった。
これの処理は時間がかかりすぎる。ターニャではどうにもならない。ローブから杖を取り出して3度振ると、パチンと軽快な音と共に小汚い生き物が現れた。
廊下という、生徒の目が触れる場所に居心地が悪そうだ。彼らは隠れて働くことを是としている。
「ミードをお呼びになりましたか、ターニャ?」
「うん。悪いけど、ここの片付けを頼みたいの、お願い出来る?」
「もちろんでございます。ミードはここの片付けをお出来になります」
ターニャは「ありがとう」と頷いた。「ついでに、この身体も綺麗にして、匂いを取れたりする?」
指を鳴らすと、もうターニャの身体は元通りだった。その時、指輪が震えた。どこかでまた呼ばれている。舌打ちして呟く。
「お願い、ミード」
姿くらましする瞬間、目を剥いている黒髪のスリザリン生が目に入った。シャルルと呼ばれていたあの生徒だった。
*
ターニャの部屋は、地下の小部屋に与えられている。代々レイジー家の召使いが使っている部屋だ。
レイジー家でも魔力を示した子供なら生徒として入学出来る。もちろん、魔法界での悪評もあり、ほぼ使用人のように扱われるが、魔法使いにはなれるのだ。
母も魔女だった。
父は知らない。一度も母の口から聞いたことがないが、おおかたマグルとまぐわって、その事実は死を以て隠蔽したのだろうと、ターニャは睨んでいる。
代を重ねるにつれ、レイジー家の魔力は弱まっていた。スクイブが生まれるのもターニャが初めてではない。
祖先は、スリザリンの純血主義に賛同しながら、血の契約を残すためにマグルと交わってでも子を残したがった。マトモで正しいスリザリンの魔法使いなら、奴隷に子種を与えるような真似は、とても恥ずかしくて出来ないからだ。
疲れきって泥のように眠る。朝が来なければいい。
*
「ザビニの新しい彼女が……」
「知ってる?スチュアートの従兄弟って……」
「デリックがハッフルパフの女にフラれたらしいわよ……」
「ルシウス・マルフォイがまた……」
「ロジエールは魔法省に入省して……」
「この前制定された法律はあの……」
「またハリー・ポッターが……」
「次のクィディッチでは頭でっかちなレイブンクローに……」
パーティーごっこをしている生徒たちは、ベラベラと色々なことを喋った。ターニャが部屋にいても、その汚さを厭うことはあれ、話を聞かれることに対しては何の警戒心も持たない。
悪口を言うだけでなく、何か、薄暗い計画を立てているときでさえ。
出来る限り気配を消しているターニャの存在感は希薄で、彼らは歯牙にもかけない。だからターニャの元には多岐に渡る情報が集まった。
夜間の規則破りのデートでもターニャは呼ばれるし、入室禁止の部屋でも呼ばれるし、それでもターニャには何かやり返す手段があるわけでもない。秘密にしろと言われれば、ターニャは秘密にするしかなかった。
教師陣はターニャに同情的な人もいた。レイジー家がむかしからホグワーツの住人であることは常識となっていたが、ターニャのように、見る人に悲哀を連想させるレイジー家の人間はあまりいなかったからだ。
良くも悪くもレイジー家はスリザリンに固執していた。
自分たちが縋れるものは、血の契約を交わしたサラザール・スリザリンの元にしかなかった。奉仕を忠誠だと思い込み、喜びを感じることで自分たちの惨めさを肯定しようとしていたのだ。
しかし、ターニャはそんな負の洗脳には染まらなかった。
1度、校長と話したことがある。レイジー家には踏み込まないことがある種の不文律となっていたから、ホグワーツはレイジーに干渉しない。干渉する権利を持たない。
「こんばんは、ターニャ」
ある晩、アルバス・ダンブルドア校長はターニャの部屋を訪れた。知的なブルーアイズが優しそうに煌めいていた。反射的にお茶を淹れようと駆け出した彼女を、深い声でダンブルドアが止める。
「良いのじゃ、ターニャ。今日は君とお喋りをしにやって来たのじゃよ」
「わたしと……?」
ハウスエルフ以外に自分の名前を呼ばれるのは久しぶりで、耳に違和感を感じる。狭苦しい部屋で向かい合うと、ターニャが悪いわけは無いのだが、こんな場所に校長がいる申し訳なさのようなものが浮かぶ。
「君の献身ぶりには目を見張るものがある。幼いのにようく頑張っておるのう。……ホグワーツでの生活はどうじゃね?」
「……はい、不便はありません。城に住まわせていただきありがとうございます」
「礼など言わなくて良い。君の祖先と創設者の取り決めなのじゃから」
深い同情的な視線がターニャを包み込んだ。
「レイジー家は素晴らしい同盟者じゃった。スリザリンが去ったあとも、ホグワーツや魔法界の発展に非常に貢献した……今では、その文献も消え、歴史の中に埋もれてしまったがのう」
悲しみの声。母の妄言が事実だったことにターニャは驚いた。ダンブルドアは眉を垂れ下げていた。
「レイジー家の祖先が素晴らしい人物だったのは間違いないじゃろう。しかし、あまりにも献身的で忠誠心が強かったあまりに、間違いを犯してしまった……。君の困難な呪いのことじゃ」
ドキリと心臓が音を立てる。血の契約をあまり知っている人はいないし、レイジー家はこれ以上ない誉れと教わる。呪いだと考えているターニャは異端だ。母にも言ったことが無い。見抜かれているのか、ダンブルドアも呪いだと考えているのか分からないけれど、同じ考えを持つ人にターニャは初めて出会った。
「血の契約は古の強力な魔法じゃ……。1000年経っても褪せることなく効果が持続しておる。儂も個人的に血の契約を調べたのじゃが、具体的な記述を見つけることは出来なんだ。その名の通り血で縛られる契約じゃが、ターニャ、君が望むなら儂は出来る限りの協力は惜しまないつもりじゃよ」
「それは……」
呪いを解いてくれるということですか。そう言いそうになった。声には出していないはずだったが、ダンブルドアが哀れに見つめながら首を振る。
当然だろう。ターニャは瞳を暗く淀ませた。
「呪いの解呪方法はまだ分からぬが、君のホグワーツでの生活をより良いものとするために、できることはある。儂に望むことはあるかね?何でも言ってみなさい」
なぜそんな申し出をしてくれるのかは分からないが、ターニャは考え込んだ。
罵られることも、奴隷として生きることも、くだらない人間の雑用をさせられることも、スクイブと呼ばれることも、母も、何もかも嫌いだ。
でも、ダンブルドアにできることがあるだなんて希望的な観測は出来なかった。
魔法使いでさえ、マグルから生まれたというだけで蔑まれるのに、マグルの血が混ざり、スクイブであるターニャを彼がどう庇うというのだろうか。
スリザリンの命令を遵守することを血で縛られているターニャに対して……。
「ターニャ。絶望の中にも微かな光はある。心を閉ざして諦めてしまえば、いつか訪れる光を掴むことも出来なくなってしまうのじゃ」
「光……?」
「光じゃ」ダンブルドアは深く頷いた。「犠牲を強いられても良い人間は、この世にはいない。ターニャ、君は望みを抱いて良い、幸せになろうとして良いのじゃよ」
涙が滲んだ。綺麗な言葉だ。綺麗な心だ。
ターニャには、ひどく眩しい。
笑いだしたくなった。
どいつもこいつも、ターニャを自分より下で当然だと思っている。
幸せになるために、結局誰かの下につかなければならないなら、わたしは自分で全てを呪いながら生きる!
静かに首を振ったターニャにダンブルドアはそれ以上何も言わなかった。可哀想な子を見る目で見るな。ターニャの胃は煮えくり返っていた。
申し訳なさを感じる必要は、ダンブルドアにはどこにも無いのに、彼はターニャに謝罪をした。帰り際、「いつでも儂は君の幸せを願っておる。その協力も惜しむつもりはないよ」と声をかけた。
彼が帰ったあと、ターニャは自分の醜さに泣いた。
差し出された手すら振り払って、自分のありもしないプライドを守ろうとする醜さが惨めで仕方なかった。ダンブルドアは綺麗な人なんだろう。与えることに慣れている。それが妬ましくて仕方がない。
ターニャは自由に生きたい。
そして、自分を見下した全ての人間に、苦痛に悶える死が舞い降りることを望んだ。
*
閉鎖的な環境では人間の優劣が明確に現れることが多いが、スリザリンのカーストの苛烈さは他寮の比ではなかった。
この寮では常にひっそりとした緊迫感が漂っている。
良家の子息子女はこの世の王かのように振る舞い、下の人間は媚びた笑顔を常に浮かべている。それが剥がれるのはターニャの前でだけだ。
ターニャは彼ら、彼女らにとって日頃の不満を晴らすちょうどよい道具だった。
「授業の予習」だと呪いをかけられ、憂さ晴らしに痛め付けられ、ターニャの骨の浮いた細い身体は傷だらけだ。酷くぬらついた瞳でターニャを見下ろして、醜悪な笑みを浮かべるスリザリン生は吐き気を催すほど醜い。
彼らが大嫌いだ。
けれど、ターニャはこの環境がある意味で居心地が良いことを認めないわけにはいかなかった。他人より下の人間に優越感を覚える感覚が、ターニャにはよく分かる。
自分を仕事仲間だと扱いながらも、何か命じられると嬉しそうな様子を隠さないハウスエルフを見ると、ターニャの心は僅かに慰められるのだ。
彼らが自分より惨めだとは思わないが、彼らが自分に逆らわないことも知っている。何かを動かすというのは気持ちがいい。
人生の転機はある日、唐突に訪れた。
癇癪を起こして用意した紅茶を掛けられ、床を拭き、新しくお茶を淹れ直し、顔も見たくないと追い払われて割れたカップを持って廊下に出ると、その後ろから誰かが追い掛けてきた。
「ねえ」
ターニャは俯きがちに振り向いて、敬虔な態度で命令を待った。廊下は冷たく静まっていて、石壁に鈴のような声が反響していた。
「あなた、この前ハウスエルフと一緒にいたわよね?」
「はい」
目を真っ直ぐ見ると生意気だと小突かれるので、ターニャはローブからちらりと見える白魚のような美しい指を見つめながら返事をした。皮が剥がれ血が滲んだターニャの手とは全く違う手のひら。
「そうすると、あなたは厨房の場所が分かるの?」
「はい」
「そうよね、いつも食べ物を運んでるのに──どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのかしら!」
嬉しさの滲む声で生徒が呟いた。そんなの簡単なことじゃないか?ターニャを気にする生徒が誰もいないからだ。考えるまでもなく簡単なクイズ。浮かれたように「ハウスエルフを探していたのよ。紹介してちょうだい」と命じられ、ターニャはやはり、「はい」と頷いた。
厨房も地下にある。大ホールの真下で、石造りの壁に囲まれているのは変わらないが、ハッフルパフの寮に向かうにつれて明るく廊下が照らされていく。
食べ物の絵画が並べられた暖かい雰囲気の廊下の前で立ち止まり、出来るだけ見えやすいように洋梨の絵を擽った。梨は笑い声を上げ、大きな緑色のドアに変わった。
「まぁ!こんなところに入口があったのね。同じ地下だったのに気づかなかったわ……。絵に触れるだけでいいの?」
「はい。擽ってください」
ドアを開けると食器用品が至る所に飾られただだっ広い空間が広がっている。ハウスエルフの寝室の役割も果たしていた。
「ようこそお嬢様!よくおいでくださりました!」
「ご用事めはなんでしょう!」
「お菓子をご準備なさいましょうか?」
「お嬢様、紅茶を1杯お飲みになりますか?」
わらわらと群がってきたハウスエルフ達は甲高い声で喚き始めた。分かってはいることだが、ターニャへの態度と明らかに違うことに胃の腑が重くなるような気分になる。
腰の当たりでキーキー喚き続けるハウスエルフに女子生徒は軽く手を上げた。静かに。言葉にしなくても一瞬でハウスエルフ達は黙り込み、期待に満ちるギョロギョロした瞳を見つめた。
上に立ち、しもべを使うことに慣れ切った、気品のある態度に息を飲む。ここまで洗練された仕草の生徒はなかなかいない。
ターニャは初めて顔を上げた。腰まで流れる黒髪と、利発そうな青い瞳。
スリザリンで唯一、ターニャに無害な魔法をかけたシャルル・スチュアートだ。
彼女の声はたいして大きくないのに、ハウスエルフ達が一言も聞き漏らさないように前のめりになっているので、よく通った。
「今日は、そうね……夜食のサンドイッチだけいただくわ。数切れで充分。それから、これから色々お願いしたいことが増えると思うのだけれど、同じハウスエルフに頼みたいの。誰かわたしの専属になってくれる子はいるかしら?」
何人かが前に出て、自分をアピールし始めた。
その中のひとりを適当に選び、「それじゃ、ミロに決めるわ。さっそくサンドイッチをお願いね」と命令すると、小躍りしそうな勢いでサッと奥に消えていった。
満足そうなシャルルが振り返り、「あなたもご苦労だったわね」と労りの言葉をかける。あまりのことに身体が固まって、強ばった顔でターニャは「いいえ、お嬢様」と首を振るしかできなかった。
ハウスエルフに対しても、ターニャに対してもシャルルの態度はスリザリン生だとは思えない。
それから時折、シャルルは気まぐれにターニャを助けた。
虐められて怪我をしているのに気付けば癒しの魔法をかけ、汚れた格好で談話室を歩いていたら汚れを落とし、罵倒されていれば「そんなに嫌なら視界に入れなきゃいいじゃない?」とどうでも良さそうに言った。
始めは喉が焼け付くような屈辱に襲われたが、だんだん、奇妙で複雑な感情になった。シャルルはたぶん、ターニャに同情もしていないだろう。興味もないし憐れんでもいない。
たまたま目に付いたときに、気が向けば、いつもスリザリン内をウロチョロしているスクイブのメイドを、スリザリンにふさわしく整えてやっているだけなんだろう。
なんだか肩の力が抜けた。
シャルルの視線は無機質で、楽だった。
*
「誰にも見つからない隠し部屋ってないのかしら」
「隠し部屋?僕らの会合のためにか?」
「いいえ。ちょっと個人的にいろいろ試してみたいことがあって。呪文の実践とか」
「ああ……。例の」
黒髪の男子生徒が納得したように声を上げた。ここは深夜の談話室で、周りに人は誰もいない。ターニャはブレーズ・ザビニが空き教室で楽しんだ後片付けを終え、彼に眠りのための紅茶──ナイト・ティーを淹れ、寝室に戻るのを見送ったばかりだった。
入れ替わるようにふたりがやって来てヒソヒソ顔を突き合わせている。
「図書室に向かう途中の銅像があるだろ?その隣の絵画の裏に階段がある。それを下りると小部屋があって、滅多に人が来ない」
「そうなの?セオドールがそんな冒険じみたことしてたなんて」
「いや、先輩に教わった。狭いが居心地は悪くないよ」
「そこはぜひ使わせていただくけど、あなたが知っているんじゃ、誰にも見つからない隠し部屋とは言えないわ。おばかさん」
「無茶言うなよ……」
シャルルが軽く彼を小突くと、ほんの少し苦笑いする。
「そう言えばあなたって厨房の場所も知っていたし、ホグワーツの構造に詳しいの?何かいい場所を知らない?」
会話の流れが不自然に途切れ、息潜めていたターニャが顔を上げると、シャルルが真っ直ぐ自分を見つめている。テーブルを拭いていた手を止めて、ターニャはいつも通り短い返事を返そうとした。「いいえ」と。
しかしなぜか脳内が一瞬躊躇した。そして、これはチャンスなのだと気付き、背中がドキッと強ばった。
シャルル・スチュアートは他のスリザリン生と違う。イル・テローゼを見るに興味が無い人間には徹底的に興味がなく、今までターニャもその対象だったが、ハウスエルフを紹介したことで僅かに視界に入れることになった。
彼女は、自分の視界に入る人間に対して、無駄に罵倒したり虐げたりはしない。
今、彼女がターニャを忘れる前に恩を売れるチャンスだ──。
「……それならば、必要の部屋が適当かと思います」
「必要の部屋?」
彼女は目をくりっとさせて食いついた。
「はい。本人が望む通りの部屋が現れます。必要だと願ったものが揃い、必要だと想像した通りの部屋が具現化される部屋です」
「すごい!それこそ求めていたものだわ!それってプライバシーはどうなっているの?」
「願いが同じなら同じ部屋が開かれます」
「つまり、バレないような部屋をイメージすればいいわけね……」
すぐにそのことに思い至り、ワクワクと思考する表情をしている。
「そんな都合のいい部屋が本当にあるのか?聞いたことないが」
「ホグワーツにならなんでもあるわよ」
「創設者を信仰するのは勝手だが……」
何かモゴモゴ言って、セオドール・ノットが黙る。
「それにしても……。あなた、ホグワーツに詳しいわね?」
検分するような目でシャルルはターニャを初めてまじまじと眺めた。
「先祖代々ホグワーツで勤めておりますので、大体の構造は幼少から話を聞いています」
「なるほどね。ふぅん……」
目を細めたシャルルが、友好的にニコッと微笑んだ。その笑顔になぜかゾクッと背筋に冷たいものが走り、俯いているターニャの口元がほんのりと笑みの形をかたどった。
必要の部屋の価値に大喜びしたシャルルは、それからターニャのことを庇うようになった。
いや、庇うというのは正しくないかもしれない。
自分の専属のように扱い出したのだ。
談話室でもかまわず呼び出し、お茶を飲んでいるときは用事がなくても後ろに立たせ、他の人からの呼び出して抜けなければならないときは、呼び出した生徒に「わたしが彼女を使っていたところだったのよ?」と微笑んだ。それだけでスリザリン生にはじゅうぶんだった。
彼女はスリザリンに君臨する有力な子女なのだから。
ターニャの生活は劇的に上向いた。細かな怪我がなくなり、罵倒は相変わらずいつでも投げつけられるが、シャルルの前ではあまり言われないし、仕事量も減った。
ターニャもさらに気に入られようと、彼女が雑談に興じている時、こっそりと情報を与えるようになった。
スリザリン生の弱みを、それも陥れられる弱みをターニャは数多く握っていたのに、今までは誰かに密告することがかなわなかった。しかし彼女なら情報を上手く扱う事が出来るだろう。
誰かに利用されることは吐き気がするほど嫌いだし、シャルルのことも嫌いだ。でも彼女には利用される価値がある。
「あなたって名前はなんて言うの?」
最近図書室傍の小部屋で闇の魔術の本を読み漁っている彼女が、本から視線を上げずに尋ねる。シャルルのティータイムの準備はターニャが全て担っている。ハウスエルフのミロは見かけない。たぶん違う目的のために使われているのだとターニャは睨んでいた。魔法の実践のために必要の部屋を求めたことと闇の魔術とハウスエルフ。馬鹿でもイコールで結べるというものだ。
「ターニャ・レイジーと申します」
「ふぅん。レイジー、あなたのその服、もっとマシなのを着たらどう?それともハウスエルフのようにボロを纏うのが誇りなのかしら」
スリザリン生から名前を呼ばれるのは、この城に来てから初めてのことだった。
「いいえ……しかし……新しいものを着てもすぐに汚れたり破けてしまいますし……。常に新調出来るほど、その……」
家が貧しいことを、金に困ったことがないであろう彼女に言うのは羞恥に襲われ、言葉が先細りになる。それに母はターニャのために服を買うより、スリザリンのためにティーカップや掃除用具を揃えるような女だった。
「じゃ、わたしのお古をあげるわ。そんな小汚い格好で近くをうろつかれると気になるもの」
「ありがとうございます」
じっと俯く。じくじくする怒りをそっと抑える。
「でも、ダンブルドアはよくあなたを雇っているわね。あなたがそれを望んでいようが、ダンブルドアのような偽善者が、虐げられると分かっていて子供の奴隷をそのままにさせているなんて」
「ホグワーツはレイジー家に干渉する権利を持ちません」
「……どういうこと?」
シャルルが怪訝そうに顔を上げた。ブルーの瞳の奥に好奇心がちらりと見える。
「レイジー家は1000年前からスリザリンの奴隷ですから」
自嘲の響きが籠るのは抑えられなかった。「1000年……?創設者の時代から、レイジー家はホグワーツに勤めていると?」
まさか、と目を見開くシャルルに頷く。「はい」
彼女の顔にゆっくりと興奮が広がっていった。それが移ったようにターニャの身体もドキドキと緊張が波打っていた。彼女は創設者を信仰している。ターニャは乾燥した唇を舐めた。
「じゃ、あなたの家は相当歴史があるじゃないの……。もしかして、スリザリンについて何か伝承が残っていたり……?」
「サラザールはホグワーツを去ることになっても、過去の友情と自分達の結晶に執着していました。自分が去った後は自分の思想を正しく扱う人間がいないことも知っていました。だから彼は遺志を託した人間を城に残した」
ブラウンの瞳とサファイアブルーの瞳が絡んだ。シャルルが愕然として、小声で囁いた。
「遺志を託されたのが……レイジー家の祖先だと?」
「はい」
「そんな……まさか……」
それきり彼女は黙り込んだ。どこかを見つめて考え込んでいる。
「証明出来るの?」
「はい」
「どうやって?」
「わたしには血の契約が掛けられています」
「血の契約?」
ターニャは語った。祖先とサラザール・スリザリンが交わした古の魔法。忠誠を捧げ、スリザリンとスリザリンの思想を守るために末裔に至るまで奉仕を誓った魔法。
だからターニャはスリザリン生に逆らえない。命令に背くと血を吐き、蛇に締め付けられたように喉が締まり、心臓の上に禍々しい赤黒い模様が浮き出した。血管が浮き上がるようなおぞましい模様。それが繰り返されると死に至るのだ。文字通り血に呪いが流れている。
「レイジー家がホグワーツにいるのは、それがスリザリンとの契約だからです。彼の去ったのち、スリザリンを守護し、導くこと。わたし達はホグワーツに雇われているのではない。だからダンブルドアとはいえ、レイジー家に干渉することは出来ないのです。仮に彼がどんな魔法をかけても、わたし達はいつでも望んだとき、好きなように城に来ることができます。1000年前からレイジー家の居るべき場所はスリザリンだと定められています」
長い間シャルルは黙っていた。
永遠にも感じられた沈黙の中、喜びと憤りの綯い交ぜになった表情のシャルルが、告発するように言った。
「それが事実なら……レイジー家の扱いは不当なものだわ」
「……」
「サラザールの信を受ける、創設者時代からの血筋がこんな……こんな立場においやられているなんて……」
「……世代を重ねるにつれ、歴史は埋もれ、ただ血の契約だけが残りました。命令に絶対に逆らわない人間を、人間がどう扱うかは知っているはずです」
「…………」
青ざめた顔で唇を震わせながら、シャルルは決然として言った。
「レイジー……。あなたのような血筋が尊重されないのは間違っているわ。ええ。絶対に許されるべきじゃない。わたしが必ず、サラザール様の大切な部下の子孫を、ふさわしい立場にまで戻してみせる」
「……どうやって?」
諦めと嘲笑を浮かべるターニャに、シャルルは悪魔のような美しい笑顔を浮かべた。
「歴史を証明するの。大丈夫よ。わたしは必ず魔法界を掌握するから」
サラザールに心を掴まれた子孫は、こういう気持ちだったのかもしれない。ターニャは光を纏うような悪魔を見て、そう思った。
*