「七草に来る気はない?」
聞き間違いではない。冗談でもない。真由美のいつになく真剣な眼差しを見れば、本気でそう言っていることが伝わってくる。先ほどまでほど良く感じた夜風も、神経を逆なでするかのように卑しく疎ましいものへと変わった。
「変わった冗談ですね。それは、一体どういう意味ですか?」
「冗談なんかじゃないわ。同じ十師族やその傍系ならまだしも、裏葉の名を持つ貴方は一条君に勝ってしまった。それがどういう事か、わからないはずないでしょ」
最強であるべき集合体の一部に勝利してしまった一個体はどうなるか。答えは大まかに分けて三つに分類できる。
一つは、勝利個体も最強の一部になること。なってしまえば、些細ないざこざは起こるだろうが特に大きな問題は生じない。集合体も一枚岩ではないために、他に付け入る隙をあまり作りたくは無い。
一つは、集合体がまとめて排斥しようとすること。一対多に持ち込めば、数の暴力で高い確率で下す事ができる。
一つは、第三勢力がその個体を取り込むことで開かずの扉をぶち破る力を得ようとすること。誰かを蹴落とし、自らがその座に就こうとする輩は必ず存在する。
「わかっていますよ。だから、どのような理由でそう言ったのかをお聞きしたんです」
発言そのものの意味など始めから問題視していなかった。気になっているのは、どのような考えを持ってその言葉を紡いだかと言うこと。深く考えてのことなのか、思いつきなのか。発言の意図を完全に読み取れるほど親密な関係ではないのだから、眼を使うか直接聞くかをしない限りはわからない。
「まさか、俺が遅れを取るとでも?」
十師族と戦った際に敗色濃厚だと思われるのは、秋水からすれば癪に障ることだった。
「思っていないわ。でも――」
偽っていないことを示すかのように、真由美は秋水の目から視線を逸らすことはなかった。けれど、
「嘘ですね。貴女は、多かれ少なかれ俺が負けると思っている」
続けて言おうとしていたにも関わらず、秋水に遮られてしまう。
「表情や仕草には気を付けているようですが、本当に言葉通りに思っているならば貴女の思考には行き着くはずがない」
勝つと確信しているならば、気に病む必要はどこにもない。負けてしまうかも、負けてしまう、どの程度かは関係なく、少しでも負の要素を孕むからこそ心配する気持ちが芽生える。
真由美は嘘をつき通すことを諦めたように溜息をついた。
「十師族を良く知らないからそんな事が言えるのよ。もう、個人の問題で片が付くレベルではないの」
七草は十師族が結成されてから一度もその枠組みからは外れた事はない。どの家よりも十師族と言う組織に精通し、闇を知っている。長女として生まれた真由美も、全てでは無いにしても、他の家では知りえないような情報を持っていた。
「つまりは、俺のためだと?」
「ええ。貴方が七草に来てくれれば、他家から保護する事ができるわ」
数字付きでも無い、既に天辺から転落した家柄の裏葉と現在
「これが一番平和的な方法なの」
真由美の言い分は理に適っている。後ろ盾がほとんどない状態では、今まで以上に写輪眼を狙う賊が増える事は疑う余地のないこと。それが無くなるならば、悪い話ではない。七草に入る方法としては、真由美か彼女の妹二人のどちらかとの婚約、または養子縁組が妥当なところだろう。未成年ではあるものの十五歳以上であることから、実親の許可の要らない後者の方が成立する確率は高い。
方法はどうあれ、そうすることが一番だと秋水は理解していた。けれど、人は問題の渦中にいるとき少なからず感情が入り込んでしまうもの。深く入り込んでいればいるほどその傾向は強くなり、理解と納得の間に立ちはだかる壁となる。今まさに、理解はできても納得はできていない状態だった。
「確かに、それが最も穏便な解決方法なのかもしれませんね」
真由美の表情に僅かに安堵の色が浮かぶ。
「ですが、お断りします」
「どうして!?」
表情が驚愕へと一転した真由美は、声を張り上げてしまう。
対して秋水は、事務報告でもするかのように淡々と理由を述べ始める。
「まず一つ、俺が裏葉の姓を棄てる事は絶対にありません。貴女が思っている以上に、俺にとって裏葉の名は大切なんです」
楔や鎖のように望まない状態で存在を縛り付けているわけではない。秋水に取って裏葉の名は、最強の代名詞など以上に、なによりも切り離されてしまった大切な存在との最後の繋がりだった。秋水が秋水たらしめる必要不可欠なピースを、彼自らが断つことは決してない。
「そしてもう一つ、この話はほぼ間違いなく貴女の独断であること。以前にも言ったはずですが、七草は裏葉との関係改善を望んでいない。求めているのは裏葉の力だけだ」
闇夜に怪しく輝く深紅の環。三界を見通し、写すことで輪廻へと至る神眼。欲しているのはそれだけだと、秋水は改めて真由美に告げた。
刀の様に鋭く、氷の様に冷たい魔眼を前にして、真由美は先ほどのように感情に任せて物を言うことができなかった。
「なぜ、そう言い切れるの?」
「そうですね。では、少し昔話をしましょう」
景色が一転する。
今までは自然に囲まれていたが、今では建造物の中にいるかのような風景。明るい色にに彩られた空間には、身なりを整えた少年少女達が多くいる。顔立ちは皆アジア系統のもの。彼らは秋水たちの存在が見えないかのように、気づく素振りさえみせない。
「三十年ほど前、国際魔法教会のアジア支部によって、
一人の少女が呆然としている真由美の身体をすり抜ける。現代の技術を持ってしても不可能な現実そっくりな偽りの世界。幻術の中にいるとわかるのに、少しばかりの時間が必要だった。気持ちを落ち着けるのは、更に時間を要した。
子供たちの中には、秋水とよく似た少年の姿があった。軽く言葉を交わし、少し打ち解けては次の人物と接している。
「交流会には、俺の父親である裏葉幻冬が出席していました。単に親睦を深めるのではなく、他国の魔法師の情報を得るためです。彼は何人にも声をかけていく中で、ある一人の少女と出会いました」
幻冬は一人の少女と会話をしている。非常に可愛らしい容姿をしている少女の仕草などを見て、幻冬はその度に頬が紅潮している。少なからず気があるのは誰の目から見ても明らかだった。
真由美は異性を惹きつける少女を見て、どこかで見たことがあるような気がしていた。
「少女の名前は四葉真夜、現在の四葉家当主です。幻冬はいつの間にか、彼女に心を奪われていました。ですが、その恋が実る事は決してありませんでした。彼が恋い焦がれた少女には、既に婚約者がいたからです」
――真夜さん
少女の名が呼ばれる。
真由美は少女が誰なのかに気が付くが、それを上塗りするかのような幻が目の前にあった。声も容姿も若いが、紛れも無く父親のものだとわかったためだ。
「それが、貴女の父親である七草弘一です。彼らは、この場で初めて出会いました。この時点で嫉妬に近い感情を幻冬は抱いていましたが、完全に仲違いするほどではありませんでした」
仲睦まじくその場から去っていく弘一と真夜の姿を、幻冬はただ黙って見送っている。完全に姿が他の子供達に隠れて見えなくなるまで、視線は全く動くことは無かった。
「決定的なものとなったのは、これからすぐのことです」
室内を灯していたシャンデリアの灯が消え、ガラスが砕ける音がした。慌ただしく駆ける足音と、悲鳴が混じり合う。
「大亜細亜連合や日本と敵対していた、大漢の
大亜細亜連合は、ビルマ北部、ベトナム北部、ラオス北部、朝鮮半島を征服した事で領土を拡大した中国主体の国家の名称。対して大漢は、第三次世界大戦勃発後に中国の南半分が独立したことで作られた国家。同じ国によって作られていても、二つの国家は敵対関係にあった。
幻冬は負傷や、身を寄せ合っている少年少女たちには目もくれず、どこにいるのかわからない人物を探して宛てなく彷徨っていた。焦りのあまり多くの子供達にぶつかっているが、全く眼中にないようだった。
幻冬の足が止まると、真由美は息を呑んだ。幻と言う事を理解している以上に抵抗がある程度あると言っても、肉親が手傷を負っている状態を見て小さな悲鳴の一つも上げなかったのはさすがと言うべきだろう。
右手と右足からは裂傷によって大量の血が出ており、骨が折れていることもわかる。左手に隠された右目からも血が垂れており、苦悶の表情を浮かべている。
「当時は戦争中、敵対国の若き魔法師たちが標的にされる事になんら不思議はありません。中でも四葉の名を持つ彼女は、格好の獲物だったのでしょう」
幻冬は弘一へと掴みかかる。二三言会話をした後に立ち上がり、ガラスの割れた窓から外へと飛び出た。
「当然、幻冬は彼女の救出に向かいました。ですが――」
空間が歪み、風景ががらりと変わる。交流会が開かれていた場所から少し離れた位置には、二人の男がいた。一人は地べたに這いつくばりながらも睨み付け、もう一人は品定めでもしているかのように見下ろしている。既に真夜の姿はどこにもなかった。
「仮にも四葉と七草を相手にし、拉致することができるほどの相手に勝てるはずもありません。眼を持っていなかった幻冬は、手傷を負わせる事もできずに一方的な敗北を余儀なくされました」
幻が煙のように揺らいでは薄れ、
「その後すぐに、幻冬は彼の父によって救出されました。俺の祖父はそれ以上のことができたようですが、あえてそれをすることはありませんでした」
すべては裏葉の未来のために。
二〇四六年時において、既に裏葉は四葉と同等かそれ以下にみられており、四葉の力を少しでも削ぐことができるならばと誘拐犯を見逃した。この時の秋水の祖父の決断は、後に大きな結果をもたらした。
「その結果、四葉真夜が救出されたのは、事件の日から三日後のことです。彼女の身に起こった悲劇は、言うまでもないでしょう。この事が原因で、四葉と七草の婚約の話しは無くなりました。そして、弘一は無力だった自分と、助ける事が可能だったにも関わらず助けなかった裏葉を恨むようになり、幻冬もまた己の力の無さと婚約を即座に取り消した七草を憎むようになりました」
四葉真夜の生殖機能の永久的な損失、同じ十師族である七草と結ばれる事で得られたはずの強大な権力の回避。当時四葉家当主だった元造と、分家の優秀な魔法師を合わせた約三十名の死亡による力の大幅な削減である。
「だから、あいつの血を半分持つ俺を七草が友好的に迎え入れるはずは無いんですよ」
関係の修復はまず無理。
真由美の頭が導き出した答えはそれだった。互いが互いを恨み、憎しみ合っている。時が経つにつれて風化されることもなく、愛した者が居続けるがためにますます濃度は濃くなっていく。それぞれの家の当主が代わりでもしない限り、延々と続くことになるだろう。
ただ、真由美は秋水がこの話をした理由がなんとなくだがわかった気がしていた。
「なら……貴方はどうするつもりなの?」
「なにも」
問いに対する秋水の答えは、実にシンプルなものだった。
「俺は別に、十師族が眼を狙ってこようと構いません。叩き潰せばそれだけ、裏葉が如何に優れているのかを知らしめる良いプロパガンダになる」
普通の人間ならば、例え思ったとしても関係者がいる前では口に出すことはない。出すとしても、本気ではないこと伝えるために冗談めかすぐらいのことはするだろう。だがこの言葉が、真由美の中で疑念が確信へと変えるものとなった。
「そしてそのためには、手段を選ぶつもりもない――」
秋水の眼つきが鋭いものへと変わる。袖口からクナイを取りだし、真由美の首筋へと切りつける。一連の動作は実に手慣れたもので、無駄が全くといって良い程なかった。
殺気を孕んだ鈍色の刃が月の光を受け、淡く怪しく光った。
「……なぜ、避けようとしなかったんですか?」
紙一重の位置で、クナイは真由美の首には触れてはいない。初めから止める事でも解っていたかのように、彼女の顔色は全く変わっていなかった。
「だって、はじめから止めるつもりだったじゃない」
「ギリギリのところまで殺すつもりでやりました。普通ならば防衛しようと動くはずです」
わかっていなければ、身体は勝手に動いてしまう。特に一般人よりも戦闘経験が多い魔法師ならば、防衛本能は尚機敏にはたらくものだ。
「もし殺すつもりだったなら、今である必要は無いわ。名前を上げたいのなら、こんな暗殺染みた方法はしないでしょ」
「なるほど、そういうことですか」
諦めたかのように首元からクナイを離し、袖の中へと戻す。
それに、と続けた真由美の言葉に、秋水は耳を傾けた。
「そもそもこんなことはしないってことは、普段の生活を見ていればわかるわ」
「学校生活が偽りで、今が本当の俺かも知れませんよ」
「それこそないわ。こう見えても七草の長女よ、人の嘘がわからないほどぬるま湯に浸かっていないわ」
七草の立場もあってか、良い顔をして近づいてい来る輩はこれまで数多くいた。純粋だった初めのころはおべっかも素直に受け止めていたが、社交パーティーや見合いをこなしていく内に本心で言っているのか嘘なのかがわかる様になっていった。十七にもなれば、その嘘をついた理由も、多少親しい間柄ならば検討くらいならば付けられた。
「だから、秋水くんが私のためを思って言ってくれていることも、なんとなくだけとわかる」
僅かに秋水の指先が動いた。
「安心して。貴方が思っているほど、私は弱くはないわ」
自衛手段は持ち合わせている。常にCADは待機状態で携行し、魔法を使わない護身術も多少の心得はある。魔法をただ使えるだけの魔法師や、四月に攻めてきたテロリスト数人程度ならば、一人で鎮圧することも難しくない。
「わざわざ一人になろうとする必要はないのよ」
それまで真っ直ぐに目を見ていた秋水の眼が、初めて逸れる。
また一つ、真由美の中で立てられていた仮説が実証された。秋水は他人と一定の距離をおいてきた。基本的には君やさんなどの敬称で呼び、少し踏み込めばそれが外れる。だが、そこまでしかいくことはない。休日に遊びに行く事も、家に招くことも無い。何かを恐れるかのように、決して親しい間柄を作らない。
再び秋水と目を合わせる。
「なら、何があってもこちら側に付くと断言できますか?」
何かを覚悟したような眼だった。
「いずれ十師族と、七草と事を構えることもあるでしょう。その時、貴女は俺のために七草に対して引き鉄を引けますか?」
家族と対立する。全く考えていなかったわけではないが、面と向かって言われるとやはり考えてしまう。裏葉に付くと口上だけでも言う事はできるが、嘘だと見抜かれてしまうおそれがる。かと言って七草に付くと言っても事態が好転する事はないと考えていた。何が最善の答えなのか、間違いの無いように選んでいくことで時間がかかってしまう。
「即答できないのは、貴女の言葉が所詮は上辺だけのものだと言う何よりの証拠だ。俺のことをわかっているかのような口ぶりだが、大切な者を誰一人として失っていない貴女に、俺のことなどわかるはずもない」
伝わってくるのは、明確な拒絶の意志。
瞳に浮かぶ三つの勾玉がゆっくりと動き出す。一つにまとまり、新たな形を作り上げていく。
「俺の進む道に、貴女は必要ない」
視界がぼやけ、意識が虚ろになっていく。手を伸ばしていくも、煙のように消失するのに時間はそうかからなかった。
ベンチに横たわる真由美を、秋水は黒い目で見下ろしていた。
これで良かったのだと、自らに言い聞かせる。これ以上深入りすれば、底なし沼のように抜け出せなくなってしまう。ここから先は戦闘が絶えることの無い戦場へと通じる道。対話で歩み寄ってくれた彼女を、最後まで味方であろうとしてくれた彼女を、巻き込むわけにはいかなかった。
愛を覚えてしまえば、憎しみが生まれる。憎しみは新たな争いの火種となり、争いはまた新たな憎しみを作り出す。終わりの無い永遠と続く負の連鎖によって、いずれは滅びを迎える。現に西暦前より人々は争いを続け、二〇九五年となった現代でも途切れることなく続いている。むしろ、産業革命以降の機械文明の発達により戦いの規模は世界規模へと拡大し、魔法の発達によって人間そのものが兵器の様に扱われるようになってしまった。何が間違っている訳ではない。過ぎた力をどう扱えばいいのか、皆わからないだけなのだ。だからこそ、誰かが正しい道へと導く必要がある。
「ありがとう」
そのためには、今間違った方向へと導いている主導者たちを引きずり降ろさなければならない。
最善と言えるのは対話による解決。格下と相手と対等な関係を敢えて結ぼうと思う人間はどこにもいない以上、手始めに同じ土台に上がる必要があった。全国放送される九校戦は、これ以上なく適している場と言える。無事に同じ目線になったことで、ようやくイーブンの関係が築けるようになった。だが、相手も人間。知恵があり、感情があり、思惑がある。思い通りにことが運ばないことはこれまでの歴史を振り返れば火を見るよりも明らか。めげずに鋭意努力することである程度の先導はできるが、範囲を拡大していくには人間の寿命は短すぎる。かつて何度も現れた優れた指導者たちが尚も一つにまとめることができなかったのは、ひとえに時間が足りなかったためだろう。
秋水は過去の偉人と比べて、他者を導くカリスマ性が圧倒的に足りない。だが、そんなものは瞳力を用いればどうとでもなる。最大の問題である寿命も、解決策は賭けに近いが存在している。後は、引き返すことができなくなる位置まで歩を進めること。一度流れ出せば、自然と覚悟も決まるというもの。
抗うならば武力で痛みを訴えることも辞さない。世間から疎まれテロリストだと罵られようとも、やらなければならない。
「さようなら」