エジプト時間で午前0時を過ぎた頃。
上空に配置した結界の中で、護とパンダの二人はこれから侵入する博物館を眼下に収めていた。
「で、どうやって侵入するんだ?」
つぶらな瞳を護へと向けながら、パンダが口を開く。
「別に難しい事はしない。昼間の内に、館内に侵入して出土品の保管場所に目星はつけて、視覚情報を誤魔化す結界を配置してある。そこに転移して移動するだけ」
護の部屋を使用する転移に欠点があるとするなら、部屋の内部から扉を開く先の状況を知る術がないということにある。
もし万が一にも開いた先で警備員にも出くわした場合、その時点で隠密行動は失敗だ。
故に護は、昼間の内に一般人には見えない様にする結界を博物館内に配置しておいた。
その内部へと転移をすれば、周りに誰かいる可能性など気にすることもない。
「一応カメラ以外のセンサー類が無いかも調べたけど、転移先の付近には無かったから大丈夫。
移動したら、まずはパンダ君の鼻で警備員がいないかを確認。それが確認でき次第、俺が“帳”を降ろす。そんな感じでどう?」
「……随分手慣れてるな」
僅かに引き気味な様子のパンダの呟き。
普通、警備システムにおける人感センサーや温度センサーといったセンサー類は、監視カメラと違って一見しただけでは分かりにくい。
それらの存在すらも抜かりなく確認できている辺り、護がこういった施設に侵入することに手慣れていることが窺えた。
「まぁ、昔からこの手の仕事は割とやってたから」
得意気になるでもなく、引け目を感じるでもなく、ただその事実に対して淡々と頷く。
これから行う仕事に集中しているからだろうか。その瞳はいつにも増して、機械的で冷たく見えた。
「けど、そこまで侵入できたなら、昼間の内に持ち出してくればよかったんじゃないか?」
昼間であれば、そういった警備上のセンサー類も切られているだろう。
人目の存在があったとしても、視覚を誤魔化せる結界を張れるならば幾らでもやりようはある。
そんなパンダの問いかけに対し、しかし護は首を横に振った。
「いや、俺も遠めにしか見てないけど、あの呪物は少し厄介そうだった。
下手に刺激して他の来場者に被害が出ても困るからな」
「そんなやばい物なのか?」
「……正確には呪物自体の問題じゃなくて、そこに居た呪霊の問題だけど」
「ほーん、呪霊が居たのか。まぁ死人も出てるんならおかしくないわな」
呪物というのは、実のところそれ自体が直接人間に危害を加えるわけではない。
それが過去の呪術師の遺骸であったり、それ自体に何かしらの意思がある場合は別だが、呪物というのはあくまで物。所有者なくして、正しく効果を発揮することはない。
では呪物を放置することの何が危険なのかというと、無作為に呪力を振りまく呪物は他の呪霊を引き寄せる原因になり得るからだ。
「あの呪霊は呪物に引き寄せられたって風じゃなかった。
多分あれは番人だ。大昔の術師が式神に命じたのか、あるいは宝の所有者自身が怨霊になったのか。
どちらにしろ、呪物を回収しようとすれば間違いなく戦闘になる」
(被害状況から見て、何かしらの術式を持っている可能性も考えると、少なく見積もって準1級以上。
等級だけを見るならパンダ君には荷が重いが……)
今回の任務が一応の訓練も兼ねている以上、護としては全て一人で片付けていいのかが悩みどころだった。
だからといって、無謀な突貫をさせる訳にもいかない。
(あとは実際に戦って判断するしかないか)
等級における実力差も絶対ではない。
これ以上は、実際に確かめてみないことには判断できないと、護は思考を切り替えて口を開いた。
「じゃあそろそろ行くけど、準備はいい?」
「おう!」
胸の前で両の拳を打ち合わせながら、やる気十分といった様子でパンダが応える。
その姿を一瞥し、軽く頷く護。
すると次の瞬間、二人の周囲の景色はエジプトの町の夜景ではなく、様々な展示品が並ぶ薄暗い博物館の景色へと変わっていた。
二人が転移したのは広大な展示室のその入り口付近。そこにはロープで柵が作られており、おそらくアラビア語で「立入禁止」もしくは「準備中」を示すのだろう看板が、立てかけられていた。
移動するなり周囲を探るようにスンスンと鼻を鳴らすパンダ。
しばらくして人の気配がないことが確認できたのか、護に向かって手で丸を作って見せた。
それを確認するや、即座に護は“帳”を降ろすための文言を唱える。
「闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
ズズズと、薄暗い闇の中で更に一層暗い暗黒が、天井付近から床へと向かってまるでスライムのように広がり落ちていく。
そして“帳”が完全に降りきったのを確認すると、二人は仕切になってるロープを飛び越えて展示室の中へと入っていった。
「……あれか」
入るなり、パンダはすぐに目当ての呪物がどこにあるか気付いたようだった。
感覚が鋭いから、というだけの理由ではないだろう。幾つもの展示品がガラスケースに入って並ぶ中で、その呪物の存在はあまりにも分かりやすかった。
なにせガラスケースの前に、それを守るかのように呪霊が立ち塞がっていたのだから。
遠目にこそ人型のシルエットだが、その外見は異形そのもの。
本来顔がある筈の頭部は無数の眼球で覆われており、まるでグロテスクな葡萄のよう。
やせ細ったか細い体躯には、ボロボロの包帯が巻き付いており、その包帯の隙間から見えるのは、肌でも骨でもなく、何やらキチキチと蠢く小さな黒い影。
そのおぞましい姿を見ながら、しかし護は一切動じた様子も見せずに思考を巡らせていた。
(……本来なら、まず相手を結界で潰すところだが)
普段の護の戦闘スタイルとしては、初見の敵はまず結界で覆った上で、空間圧縮を試みるのが常套手段だ。
これで祓えるならばそれで良し。祓えなくても、相手の戦力を測る上で一つの目安にはなる。
(けど、今回はパンダ君が居る)
仮にこれで祓えてしまった場合、それこそパンダは何の出番もなしで碌な経験も積めないことになる。
とはいえ、それを意識しすぎて手を抜いた結果、足を掬われるようでは間抜けにも程がある。
「……とりあえず、様子見だな」
僅かに悩んだ結果、護は相手の呪霊を軽く結界で覆ってみた。
空間圧縮まではやらない。ただ分かりやすい攻撃意思を取ることで、相手がどう動くかを見るのが狙いだ。
結界を張った瞬間、相手の変化は如実に表れた。
包帯の隙間から見えた黒い影。それが一斉に噴き出し、結界の中を一瞬にして埋め尽くしてしまう。
術師である護に、結界が内側から押し出されるような感覚が伝わる。
元々、小手調べに張った結界。それほどの力を込めてなかったその結界は、然程時間もかからない内に弾けてしまい、押さえつけられていた黒い影は一斉に津波の如く噴き出した。
(あれは……虫か)
護がその黒い影を注視してみると、それらは液状のものなどではなく、無数の黒い粒が集まって見えるものであることに気が付いた。
スカラベ、百足、蠅、様々な虫が無数に集まった集合体。
結界を破ったそれらは、次に護とパンダへと向けて襲い掛かってきた。
即座、護は近くに居たパンダの腕をひっつかみ、その津波に飲まれる寸前で天井付近へと結界を張り、その結界内へと転移する。
「次、右下から来るぞ!」
「わかってる」
パンダから飛ぶ警告に、しかし護は焦ることもなく更に遠くへと結界を配置し転移を行う。
(襲ってくる虫が多い分、本体周りは薄くなったな。
今出してるのが操れる限界量か? なら次は……)
結界を足場にして走り、時に転移を駆使して逃げ回る二人。
幸い、虫達の移動速度はそれほど速くなく、二人は危な気なく回避を続けていた。
「どうする? このまま本体のとこに跳んでみるか?」
「……いや、もう少し探っておきたい」
パンダからの提案に答えながら、護は右の手の平に呪力を籠めた。
そして次の瞬間、護は足を止めると振り返りざま、今にも襲い掛かろうと迫っていた虫の軍勢へと向けて、腕を振るう。
それと同時に、込められた呪力は放出され、迫っていた虫は一斉に薙ぎ払われた。
「オー」
単なる呪力放出ではあるが、その威力と周囲に余計な被害を出さない繊細なコントロールを見て、感心したようにパンダが拍手する。
が、そんな呑気な空気も束の間、一気に減少したかに思われた虫達であったが、即座に本体の呪霊から更に湧き出てきたのを見て、パンダの表情が固まった。
「まぁ、そんなところだとは思ってたけどな!」
パンダの癖に四足歩行ではなく無駄に良いフォームで腕を振って走るその横で、並走しながら護は黙々と観察を続けていた。
(さっきより、俺の方へプレッシャーが強まった。
周りに被害がいかないよう動いてる辺り、他の展示品も奴にとっては守るべき宝と認識してるのか。
だとしたら、呪霊にしては随分理性的だな。やっぱ禍呪怨霊か?)
感じる呪力や能力のみならず、その行動傾向も含めて呪霊の脅威度を分析していく。
(……これなら問題ないか)
「パンダ君、ストップ。作戦会議」
「ん?」
パンダが足を止めたのを確認すると、護もその横で止まって印を組み、自分達の周囲に結界を張る。すると次の瞬間、虫の津波が結界を飲み込んだ。
カサカサと結界の表面を這いずり回る虫たち。グロテスクな光景に耐性のある呪術師にしても、あまり気持ちの良い光景ではない。
「……大丈夫なのか?」
先程、護の結界が破られたのを見たためか、心配気に呟くパンダ。
「問題無い。さっきの結界とは訳が違う」
先程呪霊に対して発動した結界はあくまで様子見の小手調べ。今回の結界は余計な空間操作の術式も付与していない、純粋に外部との遮断を重視した結界。
強度に関しては先程の比にならない。それこそ特級呪霊の攻撃にすらも耐え得るという自信が、護にはあった。
「それより聞きたいんだけどパンダ君、あの呪霊と戦いたいか?」
「ん?」
言われた言葉の意図が分からないのか、首を傾げるパンダ。
そんなパンダに対し、護は言葉を続ける。
「祓うだけなら俺一人でどうとでもできる。
さっきは破られたけど、あの程度なら力業で押し込めないこともない。
ただそれをやると、パンダ君には大した経験にならないからな」
今回の任務は、高専生としての実績はつかない内密での任務。
得られるものは経験のみ。その機会すらも奪ってしまっては、パンダにとっては何も得られるものが無くなってしまう。
「俺は兄さんと違って、君の先生でも師匠でもない。
だから強制はしないし、どうしてほしいと望むこともない。
やりたいならアシストはするし、やらないなら俺一人で祓うだけ。選んでくれ」
ただ簡単な事実のみを告げる淡々とした口調。
さんざん相手の能力を探ったりとお膳立てをしていたが、正直護としてはどちらでもよかった。
護が言った通り、パンダは護の教え子という訳ではない。本人が強くなるかどうかなど、護が責任を持つことではないからだ。
担任である五条悟が生徒に期待して無茶ぶりをするのに対し、護の中に期待はない。
パンダがどちらを選ぼうとも気にしないと、本心から関心が無い様子。
「お前……」
一見すると配慮から提言をしているようで、その内心ではどちらでもいいと割り切っている。
その歪さをパンダも感じ取ったのか、何かを口にしようとして、しかしすぐに噤んだ。
その様子を見てしり込みしていると勘違いしたのか、更に護は言葉を続ける。
「俺としても、手の届く範囲で味方を死なせる間抜けになりたくはない。
無理なら無理と言ってくれ。俺は別に構わない」
護は事前に、パンダの戦闘スタイルに関してある程度の話は聞いていた。
相手の呪霊は少なく見積もっても準1級以上。能力の相性的にも、近接型のパンダとは相性が悪い。
それらを考慮した上で勝算ありと判断はしたが、絶対大丈夫と断言する気もない。
あくまで、自分の命は自分で責任を持つしかないのだから。仮にパンダが本当に臆していたとしても、護にそれを責めるつもりはなかった。
その言葉を聞き、パンダは複雑そうな表情を浮かべて呟いた。
「……チヤホヤされるのは好きなんだが、甘やかされるのは何か違うんだよなぁ」
そしてパンダは深くフゥ―と息を吐くと、覇気のない様子から一転して、獰猛な肉食獣の如く牙をむき出しにして声を上げた。
「いいさ。いっちょ、俺が可愛いだけのマスコットじゃないことを教えてやろうか」
普段であれば、自分で可愛いと言うのかと突っ込みを入れるところであるが、仕事に意識を向けている護は、ただパンダがやる気になったという事実のみを受け入れた。
「じゃあ作戦だけど、結界を解いたらパンダ君は攻撃を搔い潜りながら本体に突っ込んで」
「……え、そんだけ?」
あまりにも端的に伝えられた作戦とも呼べない指示に、パンダがやる気になった相貌を崩し、キョトンとした顔を護へ向けた。
「さっきの攻撃で、あいつは俺の方を脅威と思ってる。二手に分かれれば向こうの戦力も7・3か上手くいけば8・2くらいの比率で分かれる」
(俺が近くまで転移させるってこともできるが、それだと簡単すぎて一人で祓うのと大差ないからな)
「途中で避けられない攻撃が来た場合は、俺が遠くから結界でアシストする」
この作戦において危険に晒されるのは、むしろパンダではなく護の方だ。
護の転移はそれなりに集中力を必要とする技術。ただでさえ攻撃範囲の広い相手に、パンダの防御に意識を割きながら、自身の転移にまで意識を割く余力はない。
しかし、そのことに対し欠片も不安を抱いた様子もなく、ただパンダに対する忠告を続ける。
「注意するべきは二点。まず、他の展示品には触れないこと。少しでも被害が出た場合、あいつのヘイトが一気に向かうと思った方がいい。そしてもう一つだけど――」
と、そこでパンダが手を前に出して護の発言を遮った。
「言っただろ。甘やかされるのは何か違うって。忠告してくれるのはありがたいけど、そんな過保護に心配するな。
お前だって自分は悟とは立場が違うって言ってたろ。なら、もう少し信頼してくれよ。仲間だろ?」
グッとモフモフの手で器用に親指を立てるパンダ。
正直、これまで単独任務が多く、肩を並べて戦うという経験が少ない護にとって、仲間としての信頼などはピンとこない話である。
それでも、本人が言うならば任せようと、護は静かに頷いた。
「……わかった」
「よし……で、まずこの状況をどうするよ? 結界を解いたら、すぐに襲い掛かられるぞ」
頷く護に対して満足気に頷くパンダだったが、すぐに意識を切り替えると、ビッシリと結界に張り付く虫たちを見ながらそんなことを聞いてきた。
「問題ない。結界に籠った呪力を放出して、張り付いてる虫を吹き飛ばす」
護の結界を用いた攻撃方法は、大きく分けて三つ。
一つは空間操作の術式を付与した結界で圧縮。
二つ目は結界そのもののサイズを縮小して物理的に圧縮。
この二つは似ているようで微妙に効果が異なる訳だが、それは今関係ない。重要なのは三つ目。
結界に籠った呪力そのものを放出する攻撃。いわば、結界を疑似的な爆弾として用いる方法だ。
爆弾といっても、無作為に衝撃をまき散らすわけではない。その放出する呪力は、術師である護自身の意思で、ある程度の指向性を持たせることが出来る。
今回であれば、内側から外側へという風に。
(多少、床が割れたり被害が出るかもしれないけど、それは仕方ない。
むしろ少しくらい派手にやった方が、相手もこっちに戦力を向けてくるかもしれないし)
「本体の位置は多分動いてない。分かるな?」
腰を僅かに落とし、駆け出す姿勢を取る護の横で、パンダも走り出す準備を取る。
「ああ」
「じゃあ、行くぞ」
護が合図をしたと同時、二人を覆っていた結界が弾けた。
博物館への被害を抑えるよう、爆発としては小規模な物であったが、なまじビッシリと張り付いていたからか、二人の近くに居た虫達はほぼ全滅し、僅かな間ではあるが虫の存在しない空白地帯が生まれる。
その瞬間、二人は別々の方向へと駆け出した。
同時に、呪霊の身体から新たな虫の群れが溢れ出てくる。
やはり今の爆発が功を奏したらしい。護の読み通り、総数の8割ほどの虫が護へと向かってきた。
結界を足場にし、常にパンダと呪霊の位置関係を把握できるよう位置取りしながら、逃げ続ける。
パンダの方は、そのまま呪霊に真っすぐ向かっていくような愚は犯さなかった。
呪霊の本体が虫の発生源でもある以上、虫が新しく供給される直後に真っすぐ向かって行っては、パンダに狙いが移りかねない。
それを理解し、迂回しながらも近づける経路を選び、着実にパンダは本体へと近づいて行く。
(とはいえ、それも限界があるな)
敵の能力は虫の群体を扱うこと。必ずしも一塊に襲ってくるわけではなく、まるで霧の如く周囲に散らすことも可能。
その場合、群体としての攻撃力も薄まるので大した脅威とはならないが、それも空間を広々と使い、虫を分散できればの話。
本体との距離が縮まり経路が限定されてくると、散らばっていた虫の防御も厚みを増す。
パンダと呪霊の距離、およそ20m足らず。その僅かな距離が詰められない。
(もう少し、こっちに戦力を集めさせないとダメか。
気は進まないけど……)
護は移動しつつ、近くにあった展示品の中から小さなバステト像を手に取ると、呪霊へと向かって見せつけるようにそれを掲げた。
ギョロリと、呪霊の顔に付いていた目玉の房が一斉に護へと向く。
パンダに割かれていた全体数の2割の虫。そこから更に半数が護へと向かう。
(もう一押し)
更に護は、手に持ったバステト像を勢いよく放り投げた。
狙う場所はパンダと呪霊の中間地点。パンダの行く手を遮る虫の防御層のど真ん中に。
呪霊は、この展示室にある出土品を自ら守るべき宝と思っている。
そして放り投げた像を受け止めるには、散らしたままの虫では難しい。
必然、残り少ない僅かな虫を、像を受け止めるために固める必要がある。
密集したのを見計らい、護はすかさず結界を張りその虫の群れを閉じ込めた。
(あの程度の量なら、この程度の強度でも十分)
自身とパンダの足場、防衛用に用いる結界のリソースを除けば、大した強度の結界は張れない。
サイズを大きくすれば結界の強度も落ちる。
散らばった虫を下手に大きな結界で丸ごと囲おうとすれば、脆い部分を密集した虫で突き破られる可能性もある。故に、ある程度まで虫を密集させる必要があった。
これで、パンダの行く先を遮る虫は、残り僅か。
その程度の量であれば、強行突破は可能。
懸念すべきことが有るとすれば、後一点。
呪霊までの距離、後3歩といったところで、パンダは勢いよく拳を振りかぶる。
その瞬間、呪霊の身体から更に新しい虫が湧き出て、パンダへと襲い掛かった。
(チッ、やっぱりか……)
護が気にしていたもう一つの懸念。それは今出ている虫の総数が限界ではなく、余剰戦力を隠しているという可能性。
ある程度の知恵がある相手ならば、防衛策を残しておくのは当然のこと。
自身の予想が当たっていたことに内心で舌打ちしつつ、予定を変更し自身の手で即座に呪霊を祓おうと構えた。
焦りはない。パンダの身体は呪骸。例えあの虫の中に毒を持っていた個体があったとしても、人と違って肉を持たないパンダであれば、あの程度で死ぬことはない。
むしろ焦りこそが失敗に繋がることを知っているが故に、冷静にその状況を眺め、そして――気付く。
虫にたかられたその中で、鋭い眼光がギラリと光ったことに。
「残念。これくらいじゃ、死なないんだよなぁ」
瞬間、その虫の山の中から長い腕が伸び、勢いよく振り払われた。
吹き飛ぶ呪霊。細い体躯は折れ曲がり、顔の目玉は幾つかがぐちゃりと潰れた。一目で分かる再起不能の状態。
どうやら見た目通り、本体の耐久力はそれほどでもなかったらしい。
程なくしてその呪霊は消失し、展示室内に居た虫の軍勢も闇に溶けるように消えていった。
そして露わになる、パンダの姿。
その姿は先程までの姿よりも筋肉質で、腕のリーチが伸びており、パンダというよりもまるでゴリラのような相貌であった。
「護には言ってなかったな。俺の中には本来一つしかない呪骸の核が三つあって、メインの核を切り替えることでボディを
今の状態がパワー重視の頼れるお兄ちゃん、ゴリラ核。そしてさっきの一撃がこの状態で出せる得意技、防御不能『
「……そういうの、作戦前に話しておいてくれない?」
呪霊が再び湧く気配が無いことを確認しながら、護は先程投げたバステト像を回収しながらパンダへと近づく。
ゴツいゴリラの身体から、丸みを帯びたパンダの身体に変化しつつ、パンダは笑みを浮かべた。
ところどころ虫に噛まれたせいか、穴が開いてはいるが至って元気そうな様子だ。
「悪い悪い、どうせならこういうのって、ここぞって見せ場で出したいじゃん?」
「……そういうとこ、弟の俺よか兄さんに似てるよ」
完全に気を抜いているわけではないが、戦闘が終わったからか先程よりも多少護の声音は柔らかくなっている。
ともあれ、後は呪物を回収するだけである。
おそらくは事件の原因であっただろう呪霊を祓った時点で、ほぼ問題は解決したようにも見えるが、先程の呪霊が呪物を依り代としていた場合、呪物が存在する限りいずれ再発生する可能性もある。
先程呪霊が居た後ろのショーケースを確認すると、中には一つの十字アンクが飾られていた。
呪力の気配から、そのアンクが原因であることは間違いないだろう。
護はガラス越しに、アンクを結界で覆うと、そのまま結界を収縮させて押し潰した。
「よかった。状態保全の縛りとかは結ばれてないみたいだ」
呪物の中には、人に危害を加えないことを縛りとし、破壊されるのを防ぐ効果を持つ呪物も存在する。
実際呪霊に襲われた以上その手の縛りがないとは思っていたが、仮にそういった類の物であった場合、持ち帰って面倒な封印処理をしなければならないところだった。
「じゃあ、これで一件落着だな。ほれ」
そう言いながら、パンダは護へと向かって手を掲げて見せた。
あまり人と共同で任務をこなすことの少ない護だが、そのモーションが何を意味するのかくらいは分かる。
僅かな気恥ずかしさを感じながらも、パンダのように右手を掲げる護。
そして二人は、掲げた手を高い位置で、パンッと小気味良い音を響かせながら打ち合わせた。
はい31話にして、ようやく初戦闘回でした。
ぶっちゃけ、この時点で護君にそこまでガチ戦闘させるつもりもなかったし、いっそ端折ってしまおうかとも思ったのですが、折角引っ張った海外任務。ダイジェストで終わらすのは味気ないなと思ったので結局書くことになりました。
ちなみに、本編で書いた護君の攻撃手段解説。
1.結界に空間操作の術式を付与した空間圧縮。
・威力面では最も強いが、発動時間が掛かる上、強度面では三つの中で最弱。
2.結界を収縮させての物理圧縮。
・1と異なり、空間操作の術式は付与せず、結界そのものの形状を変えているだけなので1より強度は保持できる。
・但し形状変化に意識を割くので、防御用結界よりは強度が落ちるし、殺傷力は1より低い。
3.結界の呪力を炸裂させる。
・威力的には手の平から呪力を放つのと然程変わらない。
・空間操作の術式を籠めているわけでも、形状変化に意識を割いているわけでもないので、強度は一番保持できている。
・護君にとって数少ない範囲攻撃の手段。
初めて書いた戦闘回。ぶっちゃけ敵の能力とかも適当だし、描写も思いつくままに書いただけなので、分かりにくいようでしたら、申し訳ありません。