よう実×呪術廻戦   作:青春 零

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37話 貫く意地

 

「ふぅん……他に術師が居るって情報は無かったんだけどね」

 

 銀髪の少女を抱えて遠ざかる人影。その姿を視界に収めながら、夏油傑はポツリと呟いた。

 黒いフードを目深に被っていることから外見は判然としないが、下に穿いているスカートのデザインからしてこの学校の生徒だろうことは予想できる。

 

(高専から他にも派遣されていたか……いや、それなら何かしら情報は入っている筈)

 

 あのフードを被った人物の素性は不明だが、偶然野良の術師が居合わせたと考えるよりは、五条護の関係者であると考えた方が自然だろう。

 

(ともあれ、色々予定と違う展開になってきたが、彼にもこちらの狙いは伝わったと見るべきか)

 

 今回の襲撃に当たり、夏油は目標を依頼にあった標的の抹殺と定めはしたが、実際の所それの成否自体はどうでもよかった。

 重要なのは、五条護の実力と行動における優先順位を測ること。

 

 早い段階で、こちらの標的が理事長の娘であるとバレることは織り込み済みだ。

 元々学校警備の任自体が理事長の依頼で成されたもの。ならばこのような襲撃があった時点で、その周辺人物に意識を向けるのも当然の事だ。

 夏油としてもそれを前提とした上で作戦を立てた。むしろ呪霊の配置など、露骨に標的から遠ざけることで自分からヒントを与えてすらいた。

 

 依頼人の娘と無関係な一般人、どちらを優先して動くのかを確認する為だけに。

 

(ふふ、我ながら底意地の悪いことをしている)

 

 自らの行いを顧みて、つい自嘲するような笑みを浮かべてしまう夏油。 

 

 今回の襲撃、身も蓋も無い言い方をしてしまえば単に嫌がらせをしているようなものだ。結果そのものは重要でなく、ただ相手に対して精神的負荷をかけることを目的としているのだから。

 

 本来であれば、夏油としても遊び半分に心を抉るようなやり方は不本意である。

 呪術師の楽園を創ることが目的である夏油にとって、年若い術師は未来を担う宝そのもの。徒に傷つけるような真似はしたくないというのが本音だ。

 

 しかし相手は、自身の知る限り最も理不尽を体現した術師の弟。

 更に付け加えるなら、その理不尽の塊たる本人が後生大事に抱え込んでいる存在でもある。

 

(彼の情報は、あまりにも少なすぎる)

 

 術師界隈において五条護に対する評価は、感知や支援こそ秀でているが、その術式はあまり戦闘には向かないというもの。

 感知能力が高いという前情報があったからこそ、今回夏油は侵入に際して呪力を用いない手段を講じた。まどろっこしく政府関係者からの依頼を受諾したのも、正規ルートの入場パスを手に入れる狙いがあったからだ。

 

 しかし感知能力以外の部分に関して、夏油は噂を鵜呑みにしてはいない。

 

 いずれ来る計画の為に、警戒してしすぎるということは無いのだから。

 

(さて、代理をよこしたということは、本人は他の呪霊を優先するようだが……)

 

「――果たして間に合うかな?」

 

 先程逃げた術師の実力は定かではないが、今(けしか)けているのは1級の呪霊。少なくとも足手纏いを抱えたまま易々と対処できるレベルではない。

 加えて時間稼ぎに撒いた呪霊も後3体残っている。

 

 果たして五条護は、自らの選択により犠牲が生じた時、どのような反応をするのだろうか。

 今後の事を考えるのであれば、そこで心折れる程度の術師であった方が好都合。しかし夏油は、未知の展開を心待ちにする少年のように、高揚とした面持ちで口角を吊り上げた。

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

 護との通話が終了したところで、楓花は腕の中で有栖が心細げにケータイの画面を眺めているのを見て、声を掛けた。

 

「すまんな、勝手ながらこちらの救援は後回しにしてもらった。辛いだろうが今しばらく我慢してもらうぞ」

 

 先程の護との会話は、完全に楓花の独断である。有栖の身の安全を第一に考えるならば、何よりこちらを優先させるべきだったにも関わらず、そうしなかったのだから。

 文句の一つを言われても仕方がない。そう思った楓花だったが、しかし有栖はゆっくりと首を横に振った。

 

「……状況が分からない以上、何が正解かの判断は私には出来ません。ただ一つ、いいでしょうか?」

 

 未だに声は小さく弱々しいが、先程よりは大分落ち着いた様子の口調。あるいは護との通話が、気持ちを落ち着かせるのに一役買ったのかもしれない。

 

「なんだ?」

 

「先程、護君が来れば、どうにかなるような話しぶりでしたが……本当に、アレに対処できるのですか?」

 

 当然と言えば当然の疑問。

 あからさまに理解の埒外にある怪物を目にして、それに人間が対処できるなど到底信じられる話ではない。

 

 弱々しい表情を浮かべる有栖。そこには自らの安全に対する不安もそうだが、護を心配してか、懸念の色も含まれていた。

 

「さてな。私もあいつにどれほどのことができるのかは知らん」

 

 実際、楓花も護の実力に関して詳しくは把握していない。低級の呪霊ならば結界で消し去るのを見たこともあるが、実際に戦闘らしい戦闘をしている所は見たことが無かった。

 大丈夫なのかと問われたならば、確信を持って断言することはできない。だが――

 

「だがまぁ、心配はいらんだろう。あいつがどうこうされる姿など、私には想像できん」

 

 思い出すのは、初対面で護から向けられた威圧感。

 

 確かに今迫っている呪霊は脅威だろう。これまでこの学校で見てきた呪霊とは比較にならない程の重圧。少なくとも今の自分に対処できる等級(レベル)ではないと、見ただけで分かる。

 しかしそれでも、楓花には護があの呪霊に劣っているとは思えなかった。

 

 むしろ大丈夫なのかという不安よりも、これでまた一つ護の実力が明らかになると、好奇心を抱いてすらいるのが、今の楓花の心境だった。

 

「そう、ですか……」

 

 不敵に笑う楓花の表情を見て、それが単なる強がりや気休めでないと分かったのだろう。

 そもそも幾ら心配したとしても、今の有栖には何もできない。不安を抱いたところで無駄に疲弊するだけというもの。

 完全に不安を解消することはできなかったが、しかし有栖はそれ以上問い返すことは無かった。

 

 会話に一区切りついたところで、楓花は思考を切り替えて先程の呪霊へと意識を向ける。

 

(さて、どうするべきか)

 

 敵の方はどうやらすぐに襲いかかってくる気は無いようだが、いつまでもこの状態が続く筈もない。

 まず間違いなく、そう遠くない内に襲撃は掛かる。先ほどの呪霊を見た限り、純粋な走力で振り切ることもまず不可能。

 

 ならば今考えるべきは、どうやって逃げるかではなく、いざ追いつかれた時にどう対処するか。

 

(まず、最低限人気の無い場所へ移動すべきだが……)

 

 周囲への被害、呪術の隠匿、加えて護が合流した時の事を考えるならば、人の目が無い場所へ移動するべきだ。

 幸い、そのような場所を探すこと自体はそう難しくない。

 

 現在の時刻は午後4時半を過ぎた頃。今の時間、人の集まる場所には結構な偏りがある。

 日が沈むまで余裕があるこの時間帯、大抵の学生は部活動に勤しんでいるか、どこかしらで遊んでいる真っ最中。それ以外の生徒は早々に学生寮へと帰宅が済んでいる頃だろう。

 

 今も、ケヤキモールから走ってきた訳だが、その間すれ違った人の数も片手で数えられる程度だった。

 

(問題なのは、敵にとってもその展開が好都合ということ)

 

 現状、敵が積極的に襲ってこない理由として、下手に騒ぎを大きくしたくないというのも理由に含まれているだろう。

 鬼ごっこなどと言ってきたのも、こちらに逃げることを意識させて誘導しやすくするのが狙いではないかと思える。

 

(そうなると、やはりいつまでも抱えていられんな……)

 

 いざ戦闘になったとして、庇護対象を抱えたまま攻撃を避け続けるなど、どう考えても現実的ではない。

 つまり有栖を安全な場所に安置した上で、楓花自身も積極的に応戦する必要が出てくる。

 

 以上を整理すると楓花がやるべきは、まず人目に付かず有栖に近づかれても分かるような見晴らしの良い場所に移動すること。

 そして護が到着するまでの間、呪霊の意識を自らに向けた上で時間稼ぎをすること。

 

 考えれば考える程に、全くもって無茶なミッション。命の保証など無く、あるいは本当に死んでもおかしくないと理解しながら、しかし楓花は笑みを浮かべていた。

 

「……どうかしましたか?」

 

 楓花の表情に気が付いたのか、有栖から疑問の声が飛ぶ。

 

「いやなに、あいつからの頼みなど滅多にないのでな。思いの他浮かれていたらしい」

 

 恐怖が無いわけではない。自分の力を試したいとか、子供染みた冒険心を抱いているわけでもない。

 楓花が笑みを浮かべたのは、この状況に対しての感想ではなく自分自身に対しての事であった。

 

(我ながら、まさかここまで入れ込むことはな……) 

 

 自らの命を賭け皿に乗せた、それも最初から勝ち目のない勝負を引き受けるなど、少し前までの自分であれば考えられないこと。

 そんな自らの変化がおかしくて、楓花は気付けば笑ってしまっていた。

 

 

 実のところ鬼龍院楓花という人間にとって、五条護という存在は当初それほど興味の惹かれる存在ではなかった。未知の能力を扱う、その一点にこそ関心を抱きはしたが人格面においては凡庸という評価。

 自らは目立とうとせず、愛想笑いを浮かべて周囲の顔色を窺うその在り方は、個人主義的な気質を持つ楓花の好む所ではない。

 その認識が間違いだと気付いたのは、初めての対話で呪力をぶつけられた時。

 

 楓花は強がってこそ見せたが、その実内心では死を覚悟していた。

 実際護に殺意は無かったのだろう。しかしそれは、理由が無いから殺す気が無かったというだけの事。

 その時の護の瞳は、まるで「必要があるなら殺してもいいか」とそう物語っているように見えた。

 

 その瞬間、楓花は理解した。目の前の男の尺度は自分達とまるで違うと。

 

 普通の人間にとって法や規則というのはさながら牢獄のようなもの。不自由を強いられはするが、同時に自らを守ってくれる居場所でもある。

 しかし護にとっては違う。そんなものに守ってもらう必要など無いし、まして縛られるなんてことありはしない。

 

 ルールに従い、周囲と足並みを揃えることに抵抗を示さないのも、真に自由であればこそ。いつでも引きちぎれる鎖など、恐れる必要はないのだから。

 

 自分達とは見ている景色が違う。その事実に、楓花は単なる畏怖には収まらぬ憧れを抱いた。

 周囲の雑音に揺るがされることなく個で完結したその在り方は、まさしく楓花にとって理想的と呼べるもの。

 初めて晒された呪力の中で心折れずにすんだのも、その憧れがあったが故のこと。

 

 しかし、憧れを抱くと同時に、楓花には何故か護の姿が儚くも見えていた。

 

 その理由を知ったのは次の邂逅で。

 楓花の部屋で、自身の身の上を話しながら苦笑する護を見た時だ。

 

(ああ……こいつは、自分の幸せなんてまるで考えていないのか)

 

 思えば、この瞬間だったかもしれない。楓花が護のことを放ってはおけないと、そう思ってしまったのは。

 

 

 

 だからこそ、今回護から「任せた」と言われた時、楓花は柄にもなく高揚してしまった。

 並び立てるような強さこそ今の自分には無いが、それでも託されるものはあるのだと、護に対して自分の価値が認められた気がしたから。

  

「……随分と、楽しそうですね」

 

 ふと、腕の中で有栖がどこか不機嫌そうな様子で呟くのが聞こえた。

 

「不謹慎ですまんな。なに、心配せずともお前の身は必ず守ると約束しよう」

 

 何せ自分の意地に付き合わせるような形で巻き込んでしまったのだ。元からそのつもりであるが、有栖の安全は最優先で確保しなくてならない。

 

 もっとも、不機嫌の理由はそんなことではないだろう。

 楓花並みか、それ以上に勘の鋭い娘である。加えてこの学校で最も護と長く接してきた人物。ならば楓花同様に先程の護の変化を感じ取っても不思議ではない。

 ならば有栖としても、何かしら思うところがあるのかもしれない。

 

 そんな子供っぽい有栖の反応がおかしくて、またも笑みを浮かべてしまいそうになった楓花だが、しかし近くに迫ってきた気配を感じ取り、一転して表情を引き締めた。

 

(……来たか)

 

 有栖もまた同様の気配を感じ取ったのか、表情から血の気が引いていく。

 

 もはや、場所を選り好みしている猶予は無いと、現在地から最も近くにある人気の無い場所を脳内でピックアップした。

 

 そうして選んだのは、学生寮から少し離れた場所にある公園。周囲を小さな林に囲まれ、ただ芝が敷き詰められただけのその公園は、学生の間では主にランニングのコースとして使われている。

 だがその手の運動好きな学生は大抵部活に所属しているもの。学校が終わって間もないこの時間帯に走っている生徒は少ないだろうとの判断。

 

 正しい入り口から入るでもなく、木々の間を突っ切って公園内へと駆け込むと、果たして楓花の読み通り、見渡す限り学生の姿は見られなかった。

 

 周囲に人が居ないことを確認すると、楓花は敢えてゆっくりとした動作で公園の中心に向かって歩き出した。

 

(やはり、すぐには襲ってこないか)

 

 注意深く周囲を観察しながら慎重に歩を進める楓花。

 人気が無く、襲ってくるには恰好の状況にも拘わらず、すぐ行動に移さないという呪霊らしからぬ慎重さが、楓花に一つ確信を抱かせる。

 

(試す価値はある。だが、その前に……)

 

 楓花はしばらく歩き、周囲の林から十分に距離を取ったところで足を止めると、丁寧な動作で有栖を芝生の上へと横たえた。

 

「……どうし、ましたか?」

 

 急に地面に降ろされたことで、疑問気な声を上げる有栖。

 先程は少し落ち着いたと思ったが、今の息を切らして胸元を押さえたその様子は、明らかに状態が悪化して見える。

 

(気配が近くなっただけでこれか。まぁ無理もない。私も寒気が抑えられんからな)

 

 僅かな鼓動の乱れすら、今の有栖にとっては大きな負担だろう。 

 そんな有栖を少しでも安心させるように、楓花は落ち着いた口調で言葉を返した。

 

「なに、気にするようなことじゃない。心配せずとも、お前に危険が及ぶことは無いさ」

 

 それだけ言うと、楓花はブルゾンのファスナーを降ろし、懐から一枚の御札を取り出した。

 

 それは護との別れ際に渡された物の一つだった。

 

 

『あと、これを渡しておく』

 

『ふむ、これは?』

 

『俺の術式を籠めた呪符だ。呪力を籠めれば俺以外の術師でも簡単な結界が張れる。

 但し試験的に作った物だからな。強度に関してはあまり期待するな』

 

 

 そんなやり取りを思い出しながら、楓花は取り出した呪符に呪力を籠めると、有栖の胸元へと置いた。

 すると現れたのは、呪符を中心にした、半径3メートル程の半球状の結界。

 

(ふむ、普段あいつが使っている四角い結界とは違うのか……)

 

 しげしげと、興味深げに結界を観察する楓花。しかしすぐに、そう呑気にしている状況でもないかと思い直すと、有栖に背を向けて結界の外側へと向かって歩き出した。

 

「少なくとも、この中ならば安全だ。この騒動もそう長くは続かん。

 お前は空でも眺めながら、ゆっくり呼吸を落ち着けるといい」

 

 それだけ言い残し、楓花は結界の外へと出た。

 一人取り残される有栖も心細かろうが生憎と丁寧に説明している程、余裕もない。

 

(結界の強度も、あまり過信はできないからな)

 

 敵の実力が未知数な以上、どれだけの時間結界が持ちこたえられるのかは不明だ。ならばやはり、時間稼ぎの足止め役は必要である。

 

 そうしてある程度結界から距離を取ったところで、楓花は深く息を吸うと、声を大きく張り上げた。

 

「聞け! こちらの声が届いているなら、一つ話がしたい」

 

 公園に入ってから楓花が敢えてゆっくりとした動作で歩いたのは、こちらにこれ以上逃走の意思が無いことをポーズとして示すため。

 そして案の定、敵はこちらの意図が理解できたのかすぐに襲い掛かってくることは無かった。

 

 このことから察するに、敵の術師はこちらの状況が見えているということ。

 呪霊と意識を共有できるのか、あるいは術師自身がすぐ近くで指示を飛ばしているのか。

 

(相手が人間であるなら、対話の余地はある)

 

 もっとも、楓花は対話による平和的解決を期待している訳ではない。そんなことが不可能なのは百も承知だ。

 重要なのは時間を稼ぐこと。僅かでもこちらの話に興味を示すならば、それだけで儲けもの。

 

 程なくして、木々の間から一つの影が飛び出してきた。地面を弾むかのように、凄まじい勢いで迫るのは、先程見たのと同じ狒々の姿をした呪霊。

 

 そいつは楓花の前方10メートル程の位置で止まると、先程と同じ不気味な声で言葉を発した。

 

――にじゅうかぞえてやる――

 

(その間に話せと。こちらの狙いはお見通しか)

 

 一方的に突き付けられた時間制限。こちらの狙いが時間稼ぎであることはやはり見透かされているらしい。

 しかし楓花は残念に思うよりも、話に耳を貸す気があるという点に着目した。

 

(やはり、こいつには少し遊びが見えるな)

 

 それは奇しくも護が抱いたのと同じ感想。

 

 その気になればいつでも仕留められる状況の中、敢えて泳がされているかのような感覚。まるでこちらの反応を楽しんでいるかのような気配を、楓花はこの相手から感じ取っていた。

 そしてそんな相手だからこそ、このような対話を持ち掛ければ興味を抱くだろうと。

 

 与えられた時間は少ない。だからこそ楓花の方も一方的に言葉を放つことにした。

 

「こちらが伝えたいことは二点。第一に、あの結界は私の呪力で張られている。私を倒せばあの結界も消える仕組みだ」

 

 これに関しては嘘。厳密な話をするなら、あの呪符は護が楓花の身を守るために渡した物。故に仮に楓花が死ぬようなことが有った後、その結界がどうなるかは聞かされていない。

 

「第二に、もしそちらが私を無視した場合、その瞬間私はこの学校に居るもう一人の術師を呼ぶ。そいつはそちらが結界を壊すより早く駆けつけるだろう」

 

 平たく言うならば、有栖に手を出すならば先に自分を倒せということだ。

 対話と言ってもこれは交渉ではない。なにせ主導権は終始相手が握っているのだ。楓花に出来るのは、相手が取り得る選択肢の中から、せめてこちらに都合がいいものを選ぶよう虚実交えた情報を与えるだけ。

 

 もしもここで、敵が今の話を無視して有栖を狙うというのであれば、その時はいよいよもって護を呼ぶしかないだろう。

 

 毅然とした態度で、しかし内心では緊張感を張り詰めながら相手を睨むように観察する楓花。

 対する返答は、果たしてその行動によって示された。

 

 ジッと睨む楓花の前で、その呪霊は重心を落とすかのように、僅かに膝を曲げた。

 

 楓花にはそれが、まるで力を溜めているかのような構えに見えて、何をする気かと考えるよりも先に、自身の直感に従い大きく横へと飛びのいた。

 

 瞬間、ゴゥッという鈍い風切り音と共に、感じたのは凄まじい風圧。楓花はその風に身を任せるように敢えて力を抜いて地面を転がると、すぐに体勢を立て直し、そして今しがた自分が立っていたその場所を見た。

 するとそこには、腕を薙ぎ払ったような姿勢で立つ呪霊の姿。

 

 ただその身に感じた風圧だけで分かるその威力。そんな一撃が、僅かにでも反応が遅れていたら直撃しただろうその事実に、楓花は冷汗を禁じ得なかった。しかし同時に――

 

(乗ってきたか)

 

 敵が自分に狙いを定めた。自身の目算が上手くいったことに、楓花は冷汗を浮かべながらも口角を吊り上げた。

 

(後は……私が死ななければいいだけだ)

 

 余計な思考はもはや不要。眼前の敵へと意識を集中し自らの生存のみを考えろと、楓花は自身に対して言い聞かせながら、静かに拳を構えた。

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 呪力により強化された楓花の身体能力は、既に人間の枠組みをはみ出して超人と呼べる域に届いていると言える。

 しかしそれは、他の常識から外れた存在と比較してしまえば明らかに未熟。

 

 呪力の扱いを覚えたての楓花と、特級という例外を除けば最上位たる1級の呪霊。

 例えるなら、走り方を覚えたばかりの子どもと、肉体的に成熟した大人が競うようなものだ。

 

 楓花自身も相対する呪霊の等級こそ正確には測れていないが、それほどの差があることは自覚していた。

 

(最初の一撃を躱せたのは偶然だ。こんな一か八かは何度も続けられん)

 

 もしも避ける方向が違っていたなら、もし即座に体勢を直せず追撃を打ち込まれていたなら、勝負はそこで終わっていた。

 

(動きを見てから躱すのでは遅い。必要なのは、次に来る一撃を正確に予想すること)

 

 それはまさに、未来予知の如き芸当。本来なら考えることも馬鹿らしいと思える話だが、しかし楓花は大真面目にそれを為す方法を考えていた。

 

 ジッと、相手の全身を真剣に見つめる楓花。

 次の瞬間、楓花は右方向へと強めにステップを踏んだ。

 

 すると更に次の瞬間、楓花のすぐ横を呪霊の右拳が通り過ぎる。

 

 ――ッ!――

 

 まさか躱されるとは思っていなかったのか、呪霊から僅かに驚いたような気配が伝わる。

 呪霊にも驚く感情はあるのかと、そんな呑気な思考が頭をよぎるが、それも一瞬の事。右へステップを踏んだ楓花は着地した瞬間に姿勢を低くし、前方へと跳び込んだ。

 

 転がるように呪霊の脇を通り抜け後ろへ回ると、しかしそこで隙の生じた呪霊に攻撃を加えるなんて無茶なことはせず、呪霊が振り向くより先にすぐさま距離を取った。

 

(……まずは、上手くいったか)

 

 その表情に冷静な仮面を張り付けつつも、その実跳ねるように脈打つ胸元を押さえながら内心で独り言つ。

 

 相手の動きを正確に先読みする。これだけ言えば超能力染みた芸当に聞こえるが、実際これは技術的に不可能な話ではない。

 

 生物が行動を起こす際、動く直前には肉体に僅かな力みや重心の偏りが存在する。それらを注意深く観察さえすれば、動作の“起こり”を察知することそれ自体はさほど難しくない。

 

 問題は、動き出すタイミングが掴めたとして、どのように動くのかという点だが――

 

(呪霊といえど、あんな(なり)をしている以上、関節の駆動域は人と大差ないと思ったが、正解だったな)

 

 敵呪霊の外見は言ってしまえば巨大な猿だ。人に近い外見をしている以上、その攻撃手段も人間とそう大差はない。

 例えば拳を打つ瞬間、敵は2メートルを超える巨体の為、体格差のある楓花に打ち込む際には僅かに重心が下がる。逆に上から下へ振り下ろすような攻撃の際は、重心が下がる事は無い。

 

 それに加え、楓花は敢えて自身の姿勢を低く保つことで、それら重心の変化による落差を大きくし、読みの精度を底上げしていた。

 

(こういうのを確か、“観の目”というんだったか……)

 

 それは、武術においてある種の極意と言われることもある技術の一つ。

 

 “見る”のではなく“観る”。

 

 平たく言うならば、相手の手や足の動きを局所的に捉えるのではなく、全体像を景色を観るように俯瞰的に眺め、細かな動作の予兆を捉えるというもの。

 

 やろうと思ってできることではない。本人の感覚に左右されるところが大きい技術。

 だが、地道な鍛錬よりもセンスが重視される技術だからこそ、この危機的状況下に於いて図抜けた運動センスを持つ楓花はそれを成して見せた。

 

 が、所詮は付け焼刃。僅かでも集中力が緩むことが有れば即座に破綻は見えている。

 楓花もその点は自覚しているため、攻撃を躱した事実に浮かれることなく相手を油断なく見据えた。

 

(……来るか)

 

 瞬間、その場で屈む楓花の頭上を横薙ぎに振るわれた右腕が通り過ぎた。

 

 実のところ、この回避術にはもう一つ欠点がある。それは、初撃にしか対応できないということ。

 相手の全体像から動きの予兆を把握するという性質上、この体格差で距離を詰められてしまえば視界は塞がり全体を観るなんて事はできなくなる。 

 

 故に、回避した瞬間に追撃を加えられればそれに対処することはできない。

 

 

 ――本来であれば。

 

 

 躱されたことを認識した呪霊は、屈んだ楓花に対し、即座に残った左腕を振り下ろす。

 しかしそれよりも早く、楓花はまるでその攻撃が来ることをわかっていたかのように、既に回避行動をとっていた。

 先に振り払われた右腕、その脇を潜るように跳び込み、またも楓花は呪霊の背後へと回り込んだ。 

 

 今、連撃に対応してみせた要因。それは偏に、楓花があらかじめその動きを計算していたからだ。

 楓花が確実に先読みできるのは初撃だけ。だが、初撃の回避の段階で、二撃目をある程度誘導して絞り込むことなら可能である。

 

(右の拳を打ち込まれた場合、次に繋げる攻撃はそのまま振り払うか、左での拳打。後方に下がるのはどのような攻撃パターンでもタックルを誘発しかねないから避けた方が良い。腕の攻撃から蹴りに繋がる場合は体幹の捻りに注意すれば見てからの対処は可能…………)

 

 構えゼロの状態から様々な攻撃手段が考えられる初撃と異なり、一度攻撃を加えて体勢が崩れた状態からの二撃目はある程度攻撃パターンが限られてくる。

 

 楓花はそれら考え得る可能性を列挙し、予め行動パターンを組み立てた上で実行に移していた。

 

 鬼龍院楓花は、確かに呪術師としては未熟もいい所なのだろう。

 しかしその頭脳、観察力、運動センス。それらは間違いなく常人の域を超える物がある。

 

 それら、人として備えた当たり前の能力に関して言うならば、彼女は間違いなく“天才”だった。

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 そうして楓花が呪霊との攻防を重ねる一方で、公園を囲う木々の隙間からその光景を眺めつつ、夏油傑は感心したような声を上げた。

 

「へぇ、中々やるじゃないか」

 

 夏油にとって楓花の存在は名も素性も知らぬ術師であるが、先程の逃走時と現在の攻防における呪力強化の粗さから、呪術師として素人であることはすぐに見てとれた。

 

(術師の等級に換算するなら、3級の下ってところかな)

 

 少なくとも呪力強化のみの判断にはなるが、本来であれば2級の呪霊すら手に余るレベルだろう。それが今、加減しているとはいえ1級の呪霊を相手に足止めを成しているという事実に、夏油は本来の目的も忘れてついつい感心してしまった。

 

(立ち回り方が上手いな。よく相手を見ている)

 

 先程、楓花の申し出に対して呪霊を嗾けたのはほんの興味本位だった。年若い術師が健気にも自分の身を囮に時間稼ぎを図っていたので、その意を汲んでみただけの事。

 加えて、五条護の関係者であるならば、親しい人間が窮地になった時の反応を見るという目的にも合致する。

 

 相手がまだ子どもであるため最低限の手加減こそしているが、夏油としてはそれなりに真面目に戦わせているつもりだった。

 

(呪力操作の拙さも、伸びしろがあると考えれば悪くない。というか、むしろあの程度の身体能力でここまでできているのが凄いな)

 

 どう見ても、相手の動きを目で追うのがやっとというレベル。

 その上で動きを先読みする観察力と分析力もそうだが、そんな綱渡りのような状況に身を投じて、成功させる胆力と集中力は見事としか言いようがない。 

 

 それも、呪力操作の拙さから見て呪術について知ったのも最近だろうと考えるなら、なおさらだ。

 

(とはいえ、これ以上見るべきものは無いか。足止めに撒いた呪霊もあと2体残ってはいるが、どうも祓われるペースが落ちたのが気になる)

 

「そろそろ、終わりにしようか」

 

 そう言って、夏油はパチンと指を鳴らした。

 

 

 

◆◇◆ 

 

 

 

「……ふっ……ふっ」

 

 楓花の口元から、断続的な呼気が漏れる。

 戦闘が開始されてまだ間もないというのに、楓花はかなりの消耗を強いられていた。

 それも無理のない話。たった一度、ほんの僅かな応手の間違いですら致命的になり得るような極限の駆け引きを行っているのだ。体力以上に、精神力の損耗は大きい。

 

 しかしそんな疲労感の中に在って、楓花は確かな充足感を感じていた。

 

 それは実戦を経て得られる、確かな成長の手応え。

 

 最初は目で追うのがやっとだった動きは、徐々に捉えられるようになってきている。

 相手の攻撃を躱すたびに、段々と読みの精度も上がっている。

 

 この調子ならば問題なく時間を稼げるか、そんな僅かな楽観が首をもたげた瞬間、しかし異変は起きた。

 

 ピクリと、今まさに攻撃を加えようとしていた呪霊の動きが止まる。

 

(……なんだ?)

 

 急な動作の停止に、訝し気な表情を浮かべる楓花。すると呪霊は、一層大きく歪んだ笑みを浮かべたかと思うと、途端にその呪霊を覆う黒い体毛が大きく波打った。

 

(ッ、体毛の変化、術式か!?)

 

 その変化に、何が起こるか分からずとも瞬時にマズイと判断した楓花。咄嗟に距離を取ろうと足に力を籠めるが、しかし何故か、その足は地面に縫い付けられたかのように動くことは無かった。

 

「なっ……」

 

 一体何が、そう思い足に視線を送ると、そこには呪霊の黒く細い体毛が、まるで地面から伸びる根のように足に絡みついていた。

 全く動こうとしない足に、楓花の中で焦りが生まれる。しかし当然呪霊が待ってくれる筈もない。

 

 波打つ呪霊の体毛は、うねりながら右の腕へと収束し、まるで膨張したかの如き巨大な腕を形成する。

 瞬間、その巨大な腕が、楓花めがけて振り払われた。

 

 咄嗟に、腕を横にガードするような体勢を取る楓花だが、体の全面を叩けるような巨大な面積の一撃。

 当然防ぎきれるはずもなく、当たった瞬間左肩から腕にかけて、ボギリと鈍い音が響いたかと思うと、次の瞬間には大きく真横に吹き飛ばされていた。

 

「――ッグ、ァ!」

 

 まるで大型トラックにでも撥ねられたかの如き勢いで、楓花の身体が宙を舞う。

 受け身など取れるはずもなく、その身体は地面へと落ちた後もすぐに勢いは消えず、芝生を抉りながら2度バウンドしたところで、ようやく静止に至った。

 

 俯せになったまま、楓花の口元からヒュー、ヒューとか細い息が漏れる。

 

(一、撃で……この様か……)

 

 何が起こったか、一瞬分からなくなるほどの痛烈な一撃。しかし、今の自分の状態だけは正しく把握していた。

 

 もう、動けないと。

 

 左腕はおかしな方向に曲がっており、全身からは痛み以外の感覚が無い。

 かろうじて意識は繋いでいるが、それもいつまで持つか分かったものではない。

 

(……せ、めて……あれだけは)

 

 朦朧とする意識の中、楓花はどうにか動く右腕を動かして、胸元から一つのお守りを取り出した。それは以前に護から渡された呪具。これに呪力を流せば、すぐさま護は駆けつけてくるだろう。

 

(やれやれ……結局、こうなるとは……不甲斐ない、な)

 

 お守りを見つめていると、フッと自嘲するような笑みが浮かんでしまう。

 

 これを使うということは、任せると言ってくれた護の期待を裏切ること。

 一度助けを求めてしまえば、果たして次に護が何かを託してくれることが有るだろうかと、そんな不安が楓花に今この瞬間までこれを使わせることを躊躇わせた。

 

 しかし、背に腹は代えられない。流石に自分の意地のために、有栖の命までも危険に晒すわけにはいかないのだから。

 

 お守りを握りこみながら、楓花は生まれて初めてと言っていいほどに無力感を感じていた。

 これ程まで何かに執着することも初めてならば、必死に力を振り絞りながら何も成しえなかったのも初めての事。

 

「無様だな……」

 

 普段から余裕のある態度を崩さぬ毅然とした姿を貫いてきた自分が、今やボロ雑巾の如く泥と血に塗れて打ちひしがれた姿。果たして護が今の自分の姿を見たらどう思うのだろうか。

 

 心配するのだろうか、後悔するのだろうか。あるいは――失望、するのだろうか。

 

 そう思った瞬間、楓花はギリッと歯を嚙み締めた。

 

 自分は護からの信頼に応えられなかった。既にお守りに呪力は流し、程なくして護も駆けつけるだろう。

 なのに自分は、このまま無様な姿を晒しながら待つつもりかと。

 

 そう思うと、自然と自分の身体に力が籠った。

 

 全身を走る激痛。喉元に血がせり上がり、ゴホッゴホッとみっともなくぶちまけてしまう。

 

 それでも、今感じている苦しみよりも、護に倒れたままの姿を晒すことの方が、耐えられなかった。

 

 せめて、現れる瞬間までは自分の足で立って見せろと。決して我が身可愛さに助けを求めたのではないことを示せと、全身に力を籠めた。

 

 悔しさを、自身への憤りを、呪力へ変えて。

 

 そして楓花は、立ち上がった。

 

 ガクガクと、生まれたての小鹿の方がまだしっかりしていると思える程頼りない姿であるが、しかし楓花は自らの二本の足で、立って見せた。

 

 すると、目の前からサクッと誰かが草を踏むような足音が聞こえてきた。

 ゆっくりと顔を上げると、そこにあったのは呪霊の姿。

 

(止めを……刺しに来たのか)

 

 半ば諦めるかのように、そのように思考する楓花。

 しかしその呪霊は、楓花の姿を一瞥すると、すぐに興味を失ったかのように振り返り有栖の居る方向へと歩みを進め始めた。 

 

 こちらが満身創痍であることが分かったのだろう。わざわざ手を下すまでも無いと思ったのか。

 ある意味助かったと言えるわけだが、しかし楓花には、その態度に一層の悔しさを掻き立てられた。

 

「……本当に、情けない」

 

 だというのに、これ以上自分の身体は動いてくれない。

 あまりの無力感に、楓花の口から呟きが漏れる。

 

「そうでもない。おかげで間に合った」

 

 しかしその瞬間、楓花の耳に声が届いた。

 

 同時に、脇を吹き抜ける一陣の風。

 俯きそうになっていた顔をハッと上げると、そこには呪霊の下へと迫る見慣れた一人の男の姿。

 

 近づく気配に気付いたのか、瞬時に振り返る呪霊。しかし男は既に拳を構えており、敵が何か行動を起こすよりも先に、その拳は呪霊の腹へと突き刺さった。

 

 瞬間、楓花の視界で――

 

 

 ――黒い火花が、散った――

 

 

 

 





 昨日の夜の時点で、文字数7千字程。後は楓花さんの戦闘シーンを2千字くらいで適当に入れればいいやと思ったら……はい、気付けば何故か徹夜して、あちこち修正してるうちに6千字くらい増えてました。

 いや、ホントこんな命がけの戦闘するとか、楓花さんのキャラじゃないだろと思いながら、言い訳をするかのように護君に対する楓花さんの心情を記入。
 なんか、当初の想定よりガチで想われてる感じになってしまったんだが。

 というか、本来有栖さんの好感度を稼ぐための今章で、何故か全部楓花さんに持ってかれた感。


 深夜テンションで書いたので、ちょっといつもより突っ込みどころの多い内容になっているかもしれないです。
 違和感があったら申し訳ありません。

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