「疲れた……」
時刻は午後9時を過ぎたころ。
護は自室に入るなり、入り口で靴も脱がないまま、座って突っ伏していた。
有栖の部屋を去った後、護は屋上から始まり、寮の各階、および寮の外周りも含め見回り、楔の設置を行っていた。
そしてたった今、ようやく作業が一段落し自室へと戻ってきたところだった。
(どうにか寮内の感知結界だけは張れたけど……ほんと、監視カメラ邪魔)
カメラの死角を探し、一つ一つ楔を仕掛けていく作業は、体力的、呪力的には問題なくとも、精神的な疲労感を蓄積させた。
更に言うならば、今回張った結界は呪霊のレベルが危険域になった際、すぐに察知できるというだけの物。現在寮内に存在する呪霊の位置まで、詳細にわかるというものではない。
つまるところ、呪霊を祓うための見回りは今後も必要ということであり、これからの仕事が楽になる訳ではないのだ。
故に一段落したといっても、楽観はできない。
(しかしこれだけの数が発生してるくせに、低級しかいないのも、中々おかしな環境だな)
呪霊の発生条件については、未だ未解明な部分もあるが、一般的には狭い範囲に多くの呪いが溜まるほど、強い呪霊が生まれてくるというのが定説だ。
おそらくは長い間、呪術師の手が入らなかったからなのだろう。
この広大な敷地内で、緩やかに呪いが溜まった結果が、低級が広範囲に散らばっている、今の状況なのかもしれない。
(だとするなら、今日明日でいきなり状況が悪化する可能性が少ないのは救いか)
そう考えれば、僅かだが精神的に余裕も生まれてくる。
そうして気が緩んだからだろうか。ふと、護の腹からグゥと音が鳴った。
「腹、減ったな」
他の学生たちが食堂で食事をしているときも、護は黙々と寮内を見回り、作業を遂行していたのだ。
どんな呪術師であろうと、食事をしなければ腹も減るし、眠らなければ疲れも溜まる。
今日はもう休もうと、護は靴を脱いで部屋に上がった。
そして、指で印を組む。
「開門」
そのように呟いた瞬間、目の前には白い壁が出現した。有栖の部屋に張ったような半透明な結界ではなく、その壁の向こうが全く見えない程に、真っ白い壁。
護はそのまま壁に向かって歩を進めると、壁の中へと沈んでいった。
壁を抜けたその向こう。護の前に広がる光景は寮の自室ではなく、ただただ白いだけの空間だった。
壁も床も天井も全てが白。不思議なことに光源もないのに視界がはっきりとしており、部屋そのものに明かりが満ちているようだった。
「我ながら、気持ちが悪い『部屋』だな」
護が「部屋」と呼ぶこの空間は、護の術式によって構築した異空間である。
空間の構築。これを聞くと、それはまるで世界の創造。神のごとき能力にも聞こえるが、実際のところそれほど大げさな物でもない。
この空間の構築には膨大な呪力と精密な呪力操作が必要となり、長い時間をかけてもほんの僅かずつしか広がらないのだ。
それはまるで、マッチで城を建てるかのような緻密で繊細な作業。
護は10歳の頃より毎日の日課として徐々にこの空間を広げていったが、現在に至るまで、せいぜいガレージ2個分程度の広さしか構築できてはいないのが現状だった。
しかし、この空間にはそれだけの時間と労力をかけても、作るだけの価値が存在する。
その価値とは幾つか存在するが、特に護が重用している機能が空間の接続である。
「開門」
この空間は過去に護が呪力によりマーキングしたポイントと、自由に接続することが可能なのだ。
空間転移自体は、護はこの部屋を経由しなくても行えるが、その場合は、自分の呪力を感知できる範囲にしか転移はできない。
しかし、この部屋を中継すれば、距離は関係ない。世界中のどこであろうと飛ぶことが可能になる。
護は先ほどと同じように現れた白い壁を潜り抜けた。
そうして進んだ先、繋がっていたのは一つの部屋。先ほどの学生寮とは違う間取り。開いたカーテンから見えるのは、宝石のようにキラキラと明かりを放つ、東京の景色。
「……ん、やっぱ自室が落ち着く」
そこは、護が入学前から使用していたマンションの一室であった。
護が有栖との買い物で、一度としてポイントを使わなかったのもこれが理由だ。
そもそも、必要な物全てがそろった自室と自在に行き来できる護には、改めて生活用品を揃える必要などないのだから。
「今の時間って出前、頼めたっけ?」
気怠そうにしながら、食事をしてさっさと眠ってしまおうと、護はリビングの扉を開いた。
「あ、おっかえり~。遅かったね?
お風呂にする? ご飯にする? それともエ・イ・ガ?」
そこにはソファーに座り、映画を見ながらピザをつまんでる、白髪目隠し男、五条悟の姿があった。
「……なんでいんの?」
疲れているからだろうか。聞きなれている筈の、テンションの高い声がやけに頭に響く。
護は眉間に手を当てながら、絞り出すように問いかけを発した。
「ん~、そろそろ護が帰ってくるかと思ってね。
あ、ピザ護の分も頼んどいたよ」
「あ、それはありがとう……って、そうじゃなくて何の用? 疲れてるからさっさと寝たいんだけど」
空腹故に一瞬ピザに気を取られるが、すぐさま我に返って用件を問いただす。
「つれないねぇ。可愛い弟の、楽しい学校生活の様子を聞きに来ただけなんだけどな~」
「そんな、暇な立場でもないでしょ」
「いやいや、たった一人のマイスウィートブラザーのためなら、いくらでも時間なんて割いちゃうって」
無駄に良い発音でそんなことを言われるが、今は全く嬉しいと思えなかった。
「……いやもう、俺本当に疲れてるから。用件があるなら早くして」
「……本当に疲れてるみたいね。どしたの?」
本気で疲れた様子の護を見て、悟は意外に思ったのか、ふざけるのをやめて真面目な様子で聞き返した。
「あの学校マジで面倒くさい。監視カメラ多すぎ。学生寮に楔を打ち込むだけで今日は終わった」
流石に長い付き合いだけあって、護が本気でうんざりしているのが分かったらしい。
悟は同情するように言葉を返した。
「マジか。そりゃ災難だったねぇ」
(
護は内心で毒づいた。
「……で、兄さんの方は、何の用?」
溜まっていた
「いやぁ、高専の方も新一年生が来たからね。護も知っておいた方がいいかなぁ~と、思って」
そう言って、悟は1冊のファイルを差し出した。
護にしても新しい高専術師の詳細は気になる情報である。素直にファイルを受け取りページを開くと、そこには護の見知った顔が映っていた。
「へぇ、真希さんと狗巻さんとこの」
五条家と同じく御三家の一つ、禪院家の
言霊を操る呪言師の家系、
それほど会話をしたことはないが、家の関係上、軽い面識だけはある二人だった。
そして三人目。ページをめくりそのデータを目にした瞬間、護の目は見開かれた。
「は、パンダ?」
三人目のデータに入っていた写真はパンダだった。つぶらな瞳に丸い耳。白黒の体毛。
パンダのような人ではなく、純然たるパンダの写真がそこにあった。
「え、いや、いいの? てか、したの? 入学」
「うん、した」
護の驚きは、別にパンダがそこにいることに対する驚きではない。
そのパンダがただのパンダでないことは、護も知っている。
というか、呪術師をやっていればこんなパンチの効いた存在、噂くらいは耳にする。
呪術高専東京校学長、
「
意思を持った呪骸である。
「別に俺は偏見ないけどさ。よく上が認めたね」
呪骸を呪術師として認めるなんて、伝統だの血統だのにうるさい上層部が認めるとも思えない。
どうやったのかと、大方の予想はつくが、護は兄に視線で問いかけた。
「この程度のこと、僕にとってはカップ麺を作るくらい簡単なことさ」
(どうせゴリ押ししたんでしょ)
得意げに胸を張る悟を見て、護は内心で白けた視線を向けた。
「んで、一応護も改めて3人と顔合わせくらいしとこうと思ったんだけど……無理そうね」
疲れた様子の護を見て、流石に忙しいことを感じ取ったのか、悟は珍しく遠慮するような声を掛けた。
「んー……どうしても必要なら時間くらい作るけど」
「いや、いいよ。別に急ぐ必要もない。そっちの時間ができてから会わせよう」
「そう? 助かる」
護は心底ホッとした。
仕事の方もそうだが、学校のシステムも大分厄介そうである。通常の学生生活でもかなり忙しくなることが予想される以上、自由にできる時間はあまりないだろう。
「で、護の方は? 学校どんな感じ?」
「どんなって、さっき言った通りだけど」
「そうじゃなくて、日本一の高校とやらがどんな学校なのかと思ってね」
「あー……その辺り、学校のことは外に漏らさない契約だから」
「そう硬いこと言わずに、僕だけにこっそ~り、教えてくれればいいから」
「ダメだって。術師にとって契約や約束は重要な意味を持つ。俺にそう教えたのは兄さんだろ?」
「真面目だねぇ」
そう言う悟だが、護が真面目な性格に育ったのは彼が一因である。
幼い頃に家族から見放されていた護を拾い上げ、鍛えてくれた恩人。しかし護は、この人の人間性までは見習っていけないことを、早い段階で理解していた。
五条悟の傲慢なまでに自由人な振る舞いは、彼が最強だからこそ許されていることである。
自分にはその資格がない。護にはそれがわかっている。故に兄のお茶らけっぷりに比例するように、真面目な性格に育ったのだ。
「ちぇー」
と、いい大人のくせして、口を尖らせて拗ねた反応をする悟。
そんな悟の姿を見ているとふと、昼間の有栖との会話を思い出した。
「天才、か」
「ん、何か言った?」
あまりにも小さく呟かれたその声は、どうやら悟には聞こえなかったようだ。
「いや……人間知らないほうがいいこともあるなって、思っただけ」
「どうした、急に?」
(あの娘は天才を格調高く見てるようだけど、今の兄さんを見たらどう思うんだろうな)
そう考えると、なんだか少し笑えてしまった。
はい、今回出した「部屋」の存在が、護君の術式の、ぶっ壊れ要素の一つです。
とはいえ、当面戦闘シーンもないので、活躍するのは、滅茶苦茶後になるかとは思いますが。
それと、五条先生の話し方って、こんなんでよかったでしょうか。
私自身これじゃない感はあるのですが、話術が堪能ではない私には、あの人のテンションを表現するのが難しい。
あ、あとどうでもいいかもしれませんが、気になる方のための設定紹介。
護君が住んでるマンションは、五条先生名義で契約してます。基本実家が嫌いなため、五条先生は忙しいので、ほぼ一人暮らし状態です。