彼との結婚生活は、およそ彼女が思い描いていた理想の結婚生活とは言い難かった。
彼の家で同棲することにはなったのだが、彼はとても仕事が忙しく家に帰ってくることはほとんどなかった。その職業上、どうしてもプライベートの時間を割くことができないのはわかってはいたのだが、時計が12時を回っても、帰ってこない彼の帰りを待ってテーブルの向かいに置いたすっかり冷え切った料理をみつめ、やがてため息をつくとそれをタッパーに詰め込む毎日は非常に心苦しかった。それに彼は名家の出身であったため、休日は付き合いと称して彼と共に如何にも格式の高そうなパーティーや食事会に参加することも多かった。庶民的な生活を送っていた彼女にとっては自身の身の丈に合わない集いや、それによって自身が意図せずしてしまった粗相やマナー違反を蔑むように見つめる周囲の視線が何よりも彼女の心を強く抉り取るのだった。
―――それでも彼女がこの生活を受け入れていたのは、彼の心が自身の元にあると思っていたからであった。そんな彼女と彼の生活を一変させる出来事が襲い掛かろうとしているのだった。
一ノ瀬の遺体は仗助のクレイジー・Dの能力によって修復され、不法侵入者がトレセン学園内に侵入中に運悪く心肺停止によって死亡したものであるとして、事故と処理された。一ノ瀬の遺体を修復する前に調べた際に、奇妙な点が見つかったのだった。それは一ノ瀬の身体はまるで高いところから飛び降りたような傷が付け加えられていた、ということであった。確かに一ノ瀬は仗助の攻撃によって二階から吹っ飛ばされはしたのだが、SPW財団に一ノ瀬の死体の写真を見せたところ、その回答は「それにしてはこの傷は違和感が残るものとなる。少なくとも3~4階から飛び降りていないとこの傷はつかないはずだ」とのことだった。それに首に残された深々とした切り傷―――その傷は一ノ瀬の頸動脈にまで達しており、そこから噴水のように血が噴き出していたのだが、クレイジー・Dの拳の攻撃では、そのような傷はつかない…一ノ瀬の死は仗助達に新たな恐怖と謎を植え付け、真犯人の手がかりは完全に消失したかに思えた。
その翌日、仗助は二人のウマ娘を連れて一ノ瀬の死体が発見された校舎裏に来ていた。連れてこられた二人のウマ娘の内の一人、エアシャカールは辺りの壁や石、生垣などをしきりに触れていたが、やがてゆっくりと首を横に振って仗助に話しかけた。
「無機物達も犯人の顔は見ていないらしい…最も、犯人が顔を出して犯行に及んでいたとしても、オレの能力は詳しい顔や特徴までは分からないンがな…」
「…そうか、何か手がかりになりそうなことはないのか…?」
「うーーん…オレのスタンドが見るその無機物の情報は、その無機物が誕生してからのことまで遡るからな…とンでもねぇ情報量になっちまうンだよ。まぁ、ちょっと調べてみるわ」
シャカールは側にある石をひょいと拾い上げるとポケットに入れるのだった。すると今度は連れてこられたウマ娘の内のもう一人――サイレンススズカがかぶりを振ると、申し訳なさそうな表情を浮かべて仗助に話しかけた。
「―――申し訳ありません。ここら辺の痕跡で特段珍しい、初めて発見したようなものはありません…用務員さんやウマ娘、トレーナーさんたちの痕跡しかありません」
「…そうか。なら手がかりは…ってめちゃくちゃ大事なことじゃあね~か!?とんでもない手がかりだぜ、それよ~~!」
「それは一体どういう…?」
「―――つまりこの場には学園に普段いる人物以外の痕跡はないってことだぜ。つまり
犯人はこの学園にいるってことだ。そして今この場にある痕跡の人物、その中から犯人は絞り込める」
その人物は、2階の窓から3人のやりとりを自身の姿が見られないように注意しながら見届けると踵を返してその場から立ち去った。その場から完全に痕跡は消し去ったはずだったが、どうやら自身の正体にたどり着く可能性が出てきたようだ。しかし既に動き出している計画を今更頓挫させることなど到底出来ない。その人物は少し考える素振りを見せたが、やがてスーツの胸ポケットから携帯電話を取りだすとそれを耳元に充てるのだった。
…このプランは計画の第2段階として用意していたものであり、本来であれば樫本を唆した計画が成就した後に始めるつもりだったものだ。しかし最早東方仗助が自身への足掛かりをつかんだ以上、そこまで悠長に事を構えることはできないだろう。電話の相手が出たことを確認すると、その人物はほくそ笑むのだった。
「…あぁ、わかった。報告ありがとう。こちらも何か分かったら随時連絡をしよう」
シンボリルドルフは東方仗助からの報告の電話を切ると、窓に近づいてため息をついた。先日トレセン学園の一角で発見された遺体は、やはり一連の事件に紐づいたものであったようだ。このトレセン学園であってはならない、再び危機が迫っていることは明らかであった。ルドルフは机に向き直ると、落ち着かない様子でいつものように目にもとまらぬ速さで積み上げられている書類を捌いていくのだった。するととある資料の内容がふと目に留まるーーー危うくいつものように捌いてしまうところだったが、その資料の上に記載された題名の違和感に後ろ髪を引かれたルドルフは、じっくりとそれに目を通した。資料に記載された衝撃の内容に彼女が目を見開くと、後ろから唐突に声を掛けられるのだった。
「会長…」
聞き覚えのある、自身の懐刀の声。しかしその声の調子はいつものような凛とした様子は感じられず、どこか霧掛かった山中を充てもなくさまようような、芯のない声…ゆっくりと振り向いたルドルフは、自身が既に犯人の毒牙に掛かってしまったことを悟るのだった。
エアシャカールは、先ほどの出来事を思い出しながらぼりぼりと頭を掻きながら廊下を歩いていた。目の前で、トレセン学園という自身や友人たちが生活を送るこの場で起こっている、空恐ろしい犯行。エアシャカールに関係のない話と言ってしまえばそうだが、最早この居心地の悪さを抱えたままで今まで通りの生活を送ることができるのかと問われれば、その答えには首を縦に振ることはできなかった。シャカールは隣の寡黙なウマ娘、サイレンススズカを見やると、彼女は一体何の用だと言わんばかりにキョトンとした顔つきで首を横に傾けるのだった。
「スズカよ~…犯人捕まえられっかな…」
「……それは分からない…でも」
「このトレセン学園で、また誰かが傷ついて、その尊厳が踏みにじられようとしている…そして、それに立ち向かおうとする人たちがいる…だったらするべきことは決まっているんじゃあないかしら…?」
―――どうやら彼女には、スズカにはとっくに覚悟が備わっていたようだ。
シャカールは僅かに口角を上に引き上げると再び廊下を突き進む…すると、廊下の先のとある部屋の扉が開いたままになっているのが視界に飛び込んできた。普段であれば、そんな光景を目の当たりにしても気にすることなどないだろう…しかしその部屋が、生徒会室の扉が開いたままになっているという事実はシャカールやスズカにとって見たことのない光景であり、二人に何やら不穏な予感を掻き立てさせる何かがあった。
「なっ……」
生徒会室の中の様子は、およそ二人の予想通り異常ともいえる光景が広がっていた。机や床には資料、プリントやバインダーが散乱し、その中で埋もれるようにシンボリルドルフが力なく倒れこんでいるのだった。
そしてその倒れこむ彼女の側には、一人のウマ娘が立っているのだった。黒髪のショートボブヘアーに、その吊り上がった目には僅かにアイラインがひかれている。そのウマ娘はこちらを見つめると、口角を歪ませながら声を投げかけるのだった。
「やぁ、エアシャカールにスズカか。こっちは今用が済んだところだ」
そのウマ娘は、シンボリルドルフの右腕であり生徒会副会長であるエアグルーヴだった。