もしもあの時、あの記者のことを与太話として切り捨てていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。もしもあの時、あの男の本性を見抜いてプロポーズを受けなかったら。もしもあの時、母と父の愛に気づいていたら。人生とは、選択と後悔の連続だ。履いていた靴はもう何処かで脱げ、足の裏は擦り切れて血がにじみ出ていた。
夫だった男の悪事の証拠を送った私だったが、その翌日私はその男から話があると言われ男と話す時間を作った。その晩、私の顔を見た男は徐に口を開くのだった。
「…飼い犬に手を嚙まれる、とはこのことなんだろうな。君には基本的に不自由させていなかったはずなんだが、小銭目的でこんなバカげたことをしたのか?それとも私のことを気に入らなかったとか?」
「……」
彼女が返事に窮していると、男はそれを意にも介さぬように言葉を続ける。
「……あの記者は今頃、眠りこけているんだろうなぁ。最も、この時期の海は冷えるからなぁ。魚たちの栄養にでもなればいいんだが」
その言葉に彼女は恐怖のあまり、一歩男から遠ざかる。自身が愛し、生涯を共にしたいと思っていた彼はこんな人物だったのか。男はそんな彼女の様子を無表情で見つめると徐に口を開くのだった。
「……3日だけやる。それが数年間ではあるが、ともに連れ添った者に対する私の最後の温情だ。追手はその後に差し向ける。警察にタレこんでも、どうしようもないことはわかるだろう?」
その言葉を聞いた彼女は弾かれたようにその場を立ち去っていく。少しでも遠くに行くために、少しでも運命の手に届かないところへ。少なくともこの時点で、彼女は一生人目に晒されることもなく、静かに暮らそうと決意していた。もっとも、自身のお腹の中に男との子供を身ごもっていることを知るまでは。
桐生院葵は、自身の恋心に関しては少なからず自覚している節はあった。養成学校で彼を見かけたその時から、同じ職場で先輩として第一線で活躍する彼の姿を見たその時から、自身の心の中に小さく燻る恋心は徐々に大きく燃え広がっていくのが実感できたのだった。
だからこそ、彼から「付き合ってほしい」と言われた時、私は一人の女性として嬉しく思った。夏合宿中、生徒たちが寝静まった後に見回りで彼と回っていた時に。彼が私と同じ気持ちだったことに、私の胸の奥底にひた隠しにしていた慕情が実ったことに私は舞い上がったのだった。
「先輩は私のどこを好きになったんですか?」
「なんて言うかな…妹みたいに放っておけないやつとは思っていたんだが、でもその内守ってあげたいって思うようになって…」
そうはにかむ彼の顔を見ると、私は幸せの中にいるということを実感できるのだった。
季節は師走。冬空が頬を鋭く突き刺していく。仗助はまだ覚醒していない肺の中に空気をため込むと、続々と会場に入っていく人々を静かに見つめていた。この会場にいる人たちの一人一人が、自分の想いを走るウマ娘に託し、その刹那を見届けようとしている。仗助は言付けされていた人参ジュースを自販機で買うと、控室に戻っていくのだった。
「買ってきたぜ~、キング」
仗助は控室で静かに時を待つ少女…キングヘイローのことを静かに見つめる。キングはそのペットボトルを受け取ると、そのまま口に流し込んだのだった。この日に備えて、できることは全て行った。長距離レースに再び舞い戻ることができるように。再び彼女が下を向くことがないように。やがて時間を迎えると彼女はゆっくりと勝負の場へと向かっていく。その足取りや瞳には最早悩みなどない。
「勝つぜ、キング」
「当たり前じゃあない。これが私達の一流への道なんだから」
九条は、控室でいつものレース前のルーチンとして精神統一をするグラスを一瞥するのだった。やがて時間になるとグラスは立ち上がり、勝負の場であるターフに向かっていく。その後ろ姿を見送りながら、九条は初めて彼女と出会った時のことを思い出すのだった。正直に言ってしまえば、トレーナーになったのは復讐という私怨のためであり、担当となるウマ娘は誰でもいいというのが本音だった。そんな面持ちの中、初めてグラス会った時にはオレは彼女が心の中に怪物を飼いならしているな、なんてぼんやりと思ったことを今でも覚えている。大人しそうな顔をしてなんだかめんどくさそうなやつだな、なんて思ってはいたのだが、気が付いたら彼女に声を掛けているのだった。
それからオレと彼女の二人三脚の日々が始まった。今まで負の感情によってひたすら突き動かされてきたオレにとって、彼女の想いを側で見届ける日々は、なんだか新鮮で、そしてとても…
憎々しかった。
目の前で、友達と何不自由のない日常を送り、自身の夢に向かって邁進する彼女の姿は愛おしくもあり同時に憎たらしかった。愛憎の渦巻く心の中を俯瞰して覗き込むと、やはり自分は幸せな人には遠く及ばない、失ったものを、こぼれた物を必死にかき集める人生しか歩むことができないことにいら立ちと、自身の狭くて暗い居場所にこもるある種の心地よさを感じるのだった。
…オレには彼女の隣に立ち続ける資格はない。
いずれにしても、計画にけりがついたら学園からは去るつもりだった。復讐の炎が燃え広がり、すべてを燃やし尽くした後には何も残らない。そこにあるのは、自身の感情のカスと僅かに残留する後悔だけ。沢山の者を傷つけてきた。沢山の人を利用してきた。あの仗助の言う通り、自身がトレセン学園に残っていい理由など何一つとして残っていない。それでもそれが、それこそが自分の選んだ選択なのだ。復讐のために生き、全てを壊し、そして散る。今まで自分がしてきたこと、そしてこれから自分がしようとすることは饐えた匂いのする代物だったが、全ては自身が選んで決めて、歩んできた道なのだ。
「勝ってこい、グラス」
ターフに向かっていくグラスの背中を静かに見つめる九条は、やがて踵を返すとその場を立ち去るのだった、
―――さぁやってまいりました有馬記念!1番人気はこのウマ娘、キングヘイロー!マイラー、スプリンター路線から舞い戻ってきた彼女は、先の天皇賞も制しており、準備も万全かと思われます!」
―――対するは2番人気のグラスワンダー!彼女は有馬記念の2連覇を狙っていますが、果たして今回はどうでしょうか?」
一列にウマ娘たちがゲートに入ると、会場は水を打ったように静まり返る。G1レース用のファンファーレが高らかに中山の空を包み込むと、ゲートが一斉に開き、その年に注目を集め、ファンからその出走を望まれたウマ娘たちが駆け出していく。キングは中団後方に位置すると、その持ち味である末脚を発揮できるポイントを探りながら走っていくのだった。
…やはり長距離でも、彼女の走りができている。
この数か月のトレーニングに、やはり意味はあったのだ。血のにじむような努力と、何度もその膝を地面に着けた屈辱が確実に彼女を強くしていた。何度も夢破れても。何度敗北しても。その誇り高き意思とプライドが彼女を前へと押し進めていく。
「最終カーブに差し掛かり、飛び出してきたのはグラスワンダー、グラスワンダーです!」
九条の担当ウマ娘、グラスワンダーがここで飛び出してくる。やはり彼女も有力候補だ。中団前方からスパートかけるとそのゴールに先頭でたどり着くため、その顔にも普段は奥底に眠る怪物が宿る。
「釣られるなよ~、キング…」
彼女の抜群の末脚を発揮するにはもう少し距離を詰める必要がある。焦って彼女がペースを上げなければいいが。そんな仗助の心の内が当然のことだというように、キングは正に最善の位置でペースを上げると、正に抜群の末脚を発揮すると、後方から次々とウマ娘たちを追い抜いていくのだった。
「ここでキングヘイロー!やはりキングヘイローが来た!グラスワンダーと並び立ちます!果たして勝利をものにするのはどちらか!?」
両者の譲れない想いが純粋に研ぎ澄まされ、ターフの上でぶつかり合っていく。両者の死闘ともいえる競り合いは、キングがクビ差でゴールに先頭でたどり着くことで決着したのだった。
「……優勝はキングヘイロー!有馬記念を征し、一流のウマ娘に輝いたのはキングヘイローです…」
いつまでも鳴りやむことのない祝福が、彼女を温かく包み込む。その鳴りやまぬ歓声を一身に受けながら、キングはターフを後にするのだった。
レースが終わり、ウイニングライブの準備が済むのを待っていると携帯電話が来電を告げる。こんな時に電話をかけてくるであろう人物のことを思い、キングは呆れたように目をぐるりと回しながら携帯電話の応対ボタンを押すのだった。
「……なんでしょう、お母さま?」
「……まさか有馬記念に勝つなんて」
「当然じゃあないの?私達は一流のコンビなんだから、今日の結果もなるべくしてなったものよ」
お互いが本音までは口に出すことができない、そんな関係。それでもそんな関係こそが、今の彼女たちにとってはちょうどいい距離感なのだろう。
「今まで私は「あなたの娘」として認知されていた。けど、これから貴方は「キングヘイローの母」として認知されることになるんだから」
「……私を超えると?」
「当然でしょう?それでこそ一流なんだから」
かつての自身と父親のことを思い出しながらその様子を見守っていると、室内に一人のウマ娘が入ってくる。そのウマ娘は、キングヘイローの友人の一人であるスペシャルウィークだった。スペシャルウィークは室内にはいると、既にライブの準備が整い、あとは主役のキングが登場するだけであることを告げるのだった。
「もうそんな時間?仗助、これを持ってて」
そう言うと、キングは持っていた携帯電話を切らずに仗助の方に放り投げるのだった。両手で仗助がキャッチしたのを一瞥するとキングは微笑みながら控え室を後にするのだった。室内に一人残された仗助と、その手には未だにキングの母に繋がっている携帯電話が握られていた。過去にキングの母に啖呵を切ってしまった手前、気まずい空気が室内に飽和していた。しかししばらくの沈黙ののち、先に口を開いたのはキングの母のほうだった。
「キングはトレーナーにも、友達にも恵まれたんですね」
その声には、いつものような鋭さはない。
「彼女が気づかないように、厳しく言ってきたつもりでしたが、私のしてきたことは余計なことだったみたいですね…貴方ほどキングのことを信じてくれる、才能を伸ばしてくれるトレーナーさんはそうはいないと思います。」
「…ありがとうございます」
「どうかキングのことを、よろしくお願いします」
この親にしてこの子あり、この子にしてこの親ありということだろうか。奇妙な感覚に陥りながらも何処か感じる可笑しさに仗助の頬も緩んだが、すぐにその顔は引き締まるのだった。
…彼と決着を付けなければならない。