―――分娩室のベッドで、自身の身体を突き上げるような痛みが隙間なく襲ってくる。その痛みは想像を絶するものであることは聞かされてはいたのだが、まさかこれほどまでの痛みだとは。身体をきつく縛り上げられ、鉄棒で打ち据えられたような…もしかしたらそれ以上の苦痛かもしれない。しばらくするとその痛みは引き、先ほどまでの嵐が嘘であるかのように普通の状態へと戻るのだった。
すると少しして、彼女の身体を痛みが再び襲い掛かってくるのだった。最初のうちは1時間ほどの間隔で痛みが押し寄せてきたのだが、やがてその波は徐々に間隔が短くなり、遂には5分を切るのだった。僅かな時間の間で人生最大の痛みが更新され、何とか肺に空気を取り込んで、切り裂かれそうな身体と意識を懸命に保つのだった。こんな時に母がいたら。きっと自分を生んだときと同じ経験をもとに、この不安と恐怖を取り除いてくれるはずだ。この手を握って、大丈夫だと声を掛けてくれるはずだ。
やがて温かな水が脚部を濡らし、腹部の痛みが明らかに変化した。体内を駆け巡る張り裂けんばかりの痛みから、わが子がこの世界を見ようとする、この身体から出ようとして発する鋭い痛みとなったのだった。しばらくすると、分娩室に小さな、しかし確かにこの世界で、途方もなく広く残酷なこの世界で、小さくもその存在を主張するその泣き声は、この子の小さな人生の船出を示していた。
自身の身体から離れたその赤ん坊は、今まさに独立した1つの生物として、自らの意思で動き、その小さな頭を彼女の胸に預けて生まれて初めての食事を求め、母として最初の大仕事を終えた彼女は、次の仕事としてその子に母乳を与えるのだった。本当は、この子の成長を見守りたい。この子が自分の背を追い抜いて、反抗期なんてものもあるのかもしれない。成人式ではこの子の晴れ姿を見届けて、それで……それで……
やがてしばらくすると、数人の男たちが病室へと入ってくる。どうやら母としてのそのささやかなる願いは、叶いそうにないようだ。この子が自分の足で立ち上がって、言葉を話し、いつか自身の出自に関して疑念を抱くことになったとしても。いつかこの子には窓の外で燦燦と輝く太陽の下に歩んでほしいものだ。この後のことを考えると、孤独になることを、自身の命が尽きること、そして逃れられない運命を考えると恐怖に苛まれそうになるが、自身の腕に眠るこの子のことだけを考えれば、少しも怖くない。穏やかな気持ちでいられるのだ。
どうか、幸せに。
腕に眠るこの子の行く末を願って、彼女は静かに涙をこぼすのだった。
20〇〇年12月29日,日本トレーニングセンター学園にて成人男性の遺体が発見された。彼は仰向けに倒れており、発見されたその場で死亡が確認された。その男性の身元は、服装やDNA、歯形からトレセン学園に勤務するトレーナー、九条巧実であることが判明した。彼の遺体の損傷は極めて激しく、後の検死解剖によって全身の骨がくまなく粉砕骨折しており、その後屋上から転落したことにより死亡したことが判明した。殴打されたような傷に見えるとも考えられたが、その傷は非常に強い力によってつけられたものであり、人智を超えたものであるとされ、その詳細が判明することは遂になかった。最もその日学園は人が出払っており、何故彼が死亡したその日のうちに発見されたのか、それは救急に匿名の電話が入れられたからであり、通報者の正体はいまだに判明していない、とされている。
本件のトレセン学園のトレーナーが不審死したことも大変な事件であることに変わりはないのだが、トレセン学園が、そしてURAはそれよりも重大な問題に頭を抱えており、それによって手が回らなかったことも事情として存在していた……それは業界の大物である桐生院康隆の大スキャンダル。その男が起こした不正取引や、裏社会との繋がり、不法行為の証拠をまとめた資料と、彼の自白がインターネットに拡散されており、その悪事に関わっていたURAの幹部や関係者たちが一斉検挙されたことによってURAにその非難が集中しており、秋川理事長もその対応に目を回していた。もっとも、渦中の人物である桐生院康隆は九条が遺体で発見された同日に自室にて遺体で発見されており、自身が事件について追求される前に自ら命を絶ったものとして、被疑者死亡として処理されたのだった。
以上の事柄が、一連の出来事であり、世間が認知している事柄の顛末であった。表向きの報告書を取りまとめながら、シンボリルドルフはため息をつきながら窓の外を見つめた。……果たして九条巧実とは一体何者だったのか。今や本人が死亡してしまった以上、残された私達にできることは、数少ない証拠や証言から生前の彼のことを調査し、九条トレーナーとの死闘で瀕死の重傷を負った東方トレーナーの証言、それらを繋ぎ合わせて推測するしかその手立ては残されていなかった。重傷を負った東方トレーナーだったが、何やら大きな財団の息がかかった病院へと運び込まれたことによって、彼が九条トレーナーの不審死について重要参考人になることはなく、周囲からそのケガと状況について不審に思われることはなかった。何故一介のトレーナーに過ぎない彼が、それほどまでに強大な力を有する財団とかかわりがあるのか…そのことを入院中の彼に尋ねたところ、どうやら彼の一族代々、その財団と協力してきたことに由来しているらしい。またその際に東方トレーナーの口から、九条は母の仇を討つために、父に復讐するために生きてきたと話していた、と教えられた。同日に起きたスキャンダルと勘案すると、ひょっとすると彼の本当の父親は桐生院康隆ではないのだろうか。調べを進めていくうちに、康隆には数年だけではあったが前妻がいたようで、その女性は現在行方不明となっているらしい。もしかしたら、その女性との間にできた子が……また桐生院康隆とつながっているとされた反社会勢力の組員の一人が、以前校舎内にて不審者として発見された一ノ瀬だったことがわかると、自ずと彼が九条に手を貸していた理由も想像がつく。
…彼はただ、運命に抗いたかったのだろう。今となってはそう想像するしかないが、彼は絶望と憤怒にまみれた人生の中で、少しでも自身の人生を意味あるものと肯定したかったのかもしれない。最もその軌跡として人々を傷つけたことはまったくもって是認できることではないが。結局のところ、彼は全ての真実を抱えてその身を学園の屋上から投げてしまった以上、その動機や経緯を完全に理解することは、最早今となってはできないだろう。
これからトレセン学園は、世間の非難の目に晒されながらその日常を送ることになるだろう。桐生院康隆という男がしでかした悪事はそれほどまでに大きく、その波及はここまで及んでくることは避けられない。そしてそれが、それこそが九条が望んだ復讐劇といったところだろう。彼の運命を形作った男と、その男がのさばるURAもトレセン学園も全て壊しつくす。自身の人生の全てを投げうって完遂させたことに流石の私も舌を巻かざるを得ない。
だが、必ずトレセン学園は立ち直ってみせる。「全てのウマ娘の幸福」のため、そして彼が愛したこの学園のために。ルドルフは室内に目を戻すと、机の上に立てかけている写真へと目を向けるのだった。この写真を見れば、少しだって辛いなんて思わない。心に勇気という春風が吹き込んでくるのを感じるのだ。きっとその春の訪れは、トレセン学園の冬をきっと乗り越えさせてくれるはずだ。
「………っていうのが、今回の事件の顛末っす」
「……それは災難だったな。仗助」
本当はマーベラスサンデーの能力を用いてしまえばすぐにその傷は癒すことができるが、今回の戦闘で負った傷はあまりにも重く、多少傷を癒さなければ入れ替わる側もたまったものではないだろうと少しの間療養することにしたのだった。仗助はベッドから頭をあげて、遥々アメリカから見舞いに来た来客…195センチもの立派な体格を有し、特徴的なデザインのロングコートと帽子がシンボルの、自身の年が離れた……もっとも、彼の場合は10以上も年上の甥という、なんとも奇妙な血縁関係のその男を見つめながら、彼の言葉に続くのだった。
「……何でオレが入院したってわかったんすか~~…承太郎さん」
空条承太郎…自身の血縁者にして頼りになるその男。わずかではあるが時を止めるというとんでもない能力を持った強力なスタンド・スタープラチナを持ち、数年前のトレセン学園の事件の解決に動いた当事者だった。彼にはトレセン学園の事件について話していなかったはずだが、一体何処から聞きつけたというのか。仗助の疑念に応えるかのように、承太郎は口を開くのだった。
「……SPW財団の力を使ったとなれば、いずれオレの耳にも入るってもんだ」
「た、確かにそうっすね~…」
承太郎は雑誌に目を通しながらその受け答えを淡々と聞き流している。恐らく彼のことだから何も言ってはこないが、自身に何も報告しなかったことについて思うところがあるのだろう。仗助はそんな様子の承太郎を見据えながら徐に口を開くのだった。
「承太郎さん…これはトレセン学園の事件です。杜王町で起きたことじゃあないっす…ここで夢を駆けるウマ娘たちが自分たちで解決するのが、当事者たちがその誇りに賭けて解決しようって言うんなら、それに従ったまでっす……」
しばらくの間、張り詰めたような沈黙が室内を満たしていく。その沈黙の封を切ったのは、意外にも承太郎からだった。
「……何か勘違いしているようだが、オレは別に怒ってるわけじゃあねーんだ、仗助。テメーはもう大人だ。子供じゃあない。決めた選択に対して、オレがとやかく言うつもりはない」
「……よくやったな。仗助」
その言葉に、あの承太郎から賛辞の言葉を賜ったという事実に仗助の顔も思わずほころんでしまう。承太郎はその様子を静かに見つめていたが、やがてすくっとベッドの隣に付けられていた椅子から立ち上がると、言葉を続けるのだった。
「……少しの間、オレもここに留まる。せっかく日本に戻ってきたんだ。今回は娘も連れていけと駄々をこねてな……遊びに連れて行ってやらないと。それに仗助のやっているトレーナーに、ウマ娘たちに少し興味がある」
「そうなんすね!因みに誰のファンなんすか?……って」
そう言葉を続けようとした仗助だったが、送った視線の先に承太郎の手には雑誌が握られており、その表紙には自身の担当ウマ娘…キングヘイローの洗練された一流の競技者としての凛々しい姿を飾っていた。衝撃の事実に仗助が顔を驚愕の表情に染め上げて承太郎の顔と雑誌を交互に見比べていると、承太郎は言葉を続けるのだった。
「……それはそうと、仗助のことを話したらこいつらもすっ飛んできたぜ」
承太郎は自身の帽子を深くかぶることによって表情を隠し、空いている手で後ろの病室の扉を指さす。するとそこから杜王町から来た二人の友人…虹村億康と広瀬康一が飛び込んでくるのだった。途端に騒がしくなったことに苦笑しながら、仗助はようやく事件が解決したことを改めて実感するのだった。
樫本理子が病室へと顔をだすと、仗助はちょうど雑誌を眺めている最中だった。彼はこちらに気が付くと、雑誌を枕元に置いてこちらに目をやる。私も九条巧実の悪事について、少しではあるが加担してしまっていた。彼が大けがを負ったことを理事長から聞かされて一目会いたいと思い、そして自身の胸に秘めた覚悟を伝えたいとこうして足を踏み出したのだった。
「………お怪我は大丈夫ですか?」
「ある程度治ったら問題ないっすよ。なんとかなるんで」
彼の言葉の真意に関してはつかみかねたが、どうやら命に別状はないようだ。樫本はしばらく世間話を仗助と交わしていたのだが、やがて意を決したように言葉を切り出すのだった。
「……実は辞表を出したんです」
その言葉に仗助は驚愕の表情を浮かべて樫本の方へと顔を向ける。そして仗助は何とか平静を装いながら言葉を引き継ぐのだった。
「………それで辞めるんすか?」
「辞表は理事長にその場で破り捨てられてしまいました。責任を取るために辞めるのだったら、それは認められない。贖罪がしたいのなら、ウマ娘のためにも今後もトレセン学園で尽力してほしい。そうおっしゃていました」
その言葉に仗助は胸をなでおろし、安堵した表情を浮かべた。そしてライバルであり、良き友人である樫本に向けて、言葉を手向けにするのだった。
「………退院したら約束のレース、楽しみにしてるっす。絶対キングが勝つんで」
その言葉に樫本の顔も思わずほころんでしまう。その日は面会の終了の時間まで、雑談に花を咲かせるのだった。
ある程度ケガが治った後、マーベラスサンデーと自身の能力を応用して傷を治した仗助は予定より半年以上早く退院の日を迎えるのだった。仗助は凝り固まった身体をストレッチし、節々から小気味よく音を鳴らしながら病院の扉を潜ると、そこには意外な人物が仗助を待ち構えているのだった。
「…葵」
今回の事件に直接的に関わったその人物…桐生院葵は仗助の姿を認めると、こちらに向かって深々と頭をさげるのだった。
「……あれからどうしてたんだ?」
二人は並んで歩きながら、トレセン学園に向かって足を進めていく。ずっと彼女のことは気にかかっていた。九条の計画のキーパーソンであり、彼の腹違いの妹ということになる。康隆の不祥事によって娘である彼女に対しても多少の風当たりはあっても可笑しくないはずだ。葵は儚げな視線を前方に向けながら徐に口を開くのだった。
「……気持ちに整理がつかなくて。ずっと自室にいました。あの日、父から真実を聞かされました。過去に何があったのか。それに、九条先輩が何者だったのかを」
そうか、彼女は知ったのか。九条巧実が自身の腹違いの兄だという事実を。何の罪もない彼女が、九条に体よく利用され、その尊厳を踏みにじられたという事実は、そしてそれのきっかけは今まで良い父親だと信じて疑わなかった男だという真実は一体どれほど彼女の心を蝕んで、どれほど絶望に打ちひしがれたことだろう。
「……これからどうすんだよ」
その問いに葵は伏し目がちに、そして返事に窮するようにその場は沈黙で支配される。きっと彼女もどうするべきか図りかねているのだろう。果たして自身が、彼女が前を向くために気の利いた言葉を掛けることは果たしてできるのだろうか。仗助が口を噤んでいると、葵は言葉を続けるのだった。
「…桐生院家はもう終わりです。父が…康隆が犯した罪はそれほどまでに重いということです。私もトレーナーとして学園に残っていいのか…」
「トレーナーさん!」
するとその時だった。並んで歩いていた二人の背中から声を投げかけられるのだった。振り返るとそこには一人のウマ娘が立っているのだった。白毛のショートヘアに、垂れ目の彼女の顔には見覚えがあった。彼女はハッピーミーク。桐生院葵の担当ウマ娘であった。彼女の姿を認めた葵は驚きながら彼女の名前を口にするのだった。
「ミーク!?一体どうして…」
「………ずっと探していました」
いつになく真剣な様子のミークを見て、葵の顔はさらに辛そうな表情が刻まれる。どうやら彼女に迷惑をかけてしまったことに対して、また新たな罪の意識を抱いているようだった。
「私は本当にダメなトレーナーです…今回だって自分にかまけて貴方のことを見てあげないで…私が弱いばっかりに…」
「………!」
「仗助トレーナーにもご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ございません。」
彼女は完全に自責思考に至り、最早袋小路に陥っている。彼女の責任感の強さが完全に彼女の心を縛り付けてしまっているようだ。彼女がとレーナーとして優秀であり、ウマ娘のことを親身に考える人物だ。そんな彼女を助けるためにはどうすればいいのか。彼女が一人で思い悩んでいるとするならば、一体どうすれば…彼女一人?そうだ、一人でなければ。一人でなければいいんだ。
「それをミークに相談したのかよ?」
その言葉を聞いた葵は驚いたように顔を見上げる。そして言葉詰まりながら口を発するのだった。
「そ、相談ですか?トレーナーである私が、ミークに…したことありません。そんな心配をかけることなんて…」
呆れたようにかぶりを振りながら仗助は葵とミークの間に入る。彼女の背中を押し、未来へと足を向ける糸口をつかめた。あとは適切な言葉をかけるだけだ。
「心配してもらえばいいと思うぜ~……レースだってオレ達一人だけで頑張っているわけじゃあない。そうだろ?」
その言葉に葵はさらにまごつき、自身がその責任を背負うための出口を手探りで求めていく。
「でも……私のことなのに。ミークにそんなことに付き合わせるなんて…」
「………じゃあない」
「…ミーク?」
「ダメなんかじゃあないです……トレーナーと話したい。トレーナーさんが困っているなら、そのにもつも背負いたい。だって、貴方と二人で頑張りたいから」
その言葉に葵の瞳からは安堵からか、緊張から解放されたからか涙があふれ出していく。そして自身の心を絶望の日力救い出してくれたミークの下へと駆け寄っていくと強く抱きしめるのだった。その様子をじっと見つめていた仗助は徐に口を開くのだった。
「また、ゆっくりでいいから、歩き始めればいいのさ。おめー、ウマ娘たちのことが…ハッピーミークのこと好きだろ?」
その言葉に、仗助の言葉に葵の頬には涙がこぼれ落ちていく。憔悴し、絶望のあまりその隙さえなかった彼女の心が、少しずつではあるが動き始めたということだろう。葵はハッピーミークと仗助の顔を交互に見つめながら、やがてためらいがちに首を縦に振るのだった。
「だったら今度はそのために生きればいいのさ。なにも辞める必要なんてない。」
彼女のこれから先には、きっと困難という障壁が、今は亡き父が遺した負の遺産が待ち構え、苦しめられることがきっとあるだろう。だが、彼女ならきっと乗り越えられる。仗助はトレーナーとして再び一歩踏み出した彼女の肩を優しく叩き、どこまでも広がる青空を眺めるのだった。
グラスワンダーはその校舎の片隅…彼が発見されたというその場所に立ち尽くしていた。その場所は、誰からも忘れ去られたような、そんな寂しさを抱かせる、そんな場所だった。
「……トレーナーさん」
彼の本性…彼の正体と彼がしでかしたことについてグラスはシンボリルドルフの口から聞かされていた。これは以前の吉良との戦いで、吉良が死亡したことをライスシャワーに告げなかったことによって発生した悲劇からの反省であり、今回の騒動によって生じたことは既に子細及び知っていた。彼が犯した罪は決して許されることではない。自身の友人や学友たちが彼の目的のために利用され、傷つけられてきた。だが、そんなことをしでかした彼のことを一概にクズだと吐き捨てることは、グラスにはできなかった。彼は自身のことを、どう思っていたのだろうか?ただの目的遂行のための道具に過ぎなかったというのだろうか。だが、時々覗かせる彼の表情には、いつも浮かべている笑顔の隙間に覗かせていたあの表情は、そうではないと思わせるなにかがあった。彼女がその場で答えの出ない質問を投げかけていると、唐突に背後に気配を感じるのだった。振り返ったグラスはそこにいたウマ娘の姿を認めると、口を開くのだった。
「貴方は……」
「よぉ。あンま話したことねーけどよ。ここにいるって聞いたンでちょうどよかったぜ」
確か彼女の名前は、エアシャカールだった。そういえば彼女もトレーナーさんに傷つけられて、しばらく入院していたはずであったが…一体何の用なのだろうか。
「……何の御用ですか?」」
「ここで今回の事件の元凶…九条巧実はくたばってたらしいな。てめーはあいつのこと、どう思ってンだ?」
その言葉を投げかけられたグラスは、返事に窮するように顔を伏せるのだった。だが、彼女を前にして、何も答えないというのも不躾だろうと何とか顔を上げて口を開くのだった。
「…わかりません。どう思っているのか私にも、わかりません……」
その言葉を聞いたシャカールは、聞くや否やつかつかとこちらへと歩み寄ってくる。もしかしたら怒りで殴られてしまうのだろうか。これからの出来事を予想して目を瞑ったグラスだったが、しばらくしても何も起こらない…恐る恐る目を開けると、シャカールは九条が発見された辺りにしゃがみ込んでいるのだった。
「ここにいる、真実を知っている奴らはきっと皆あいつを恨むだろう。オレも恨んでいないかと問われれば、ないとは言い切れない。だけどよ……それだとあまりに気の毒だろう。せめて、せめて知っておきたかったンだ。奴の最期を」
「……オレの能力は、全てを記録している。きっとあの日のことも記録しているだろう」
レディオヘッドの能力によってその場に置かれた石からその情報を読み取る。そこにはすべてが記録されているのだった。彼がその場で息絶えていく様子も、そして携帯電話が偶然留守電のメッセージを開き、死ぬ直前の彼の耳にも届いていたこと、そしてそれを聞いた彼が涙をこぼしたこと、そして彼が息絶える直前、この世からその存在が忘れ去られる直前に自身の担当ウマ娘の名前を譫言のように一言呟いていたことも。
「………そんな。そんな…」
彼の心は、地獄の炎に身を焼かれ続けた罪人は、死ぬ直前にほんの少しだけ救われたようだ。それは紛れもなく、グラスワンダー…彼の担当ウマ娘の存在によって。同様にそれだけでも、それを知れただけでもグラスワンダーの心も救われたと言えるのではないだろうか。彼女の泣き声は、彼との別れを惜しみ、また明日へと足を進めるためのその涙はしばらく辺りを包み込むのだった。
特産品は牛タンのみそ漬けに、町の花はフクジュソウ、人口は58713人――その町の名前は杜王町――その町に一人のウマ娘が降り立つ。その道中、彼女は殆ど話すことはなかったが、時折となりの誰もいない空中に向かって言葉を投げかけていて、それを見かけた人々はその光景を奇異なるものとして認識していた。
「ここが杜王町…!」
そのウマ娘はその興奮を胸に秘め、はやる気持ちを抑えながら駅の中央のロータリーへと足を進めていく。東京とはおよそ様相が異なる町に心躍らせる彼女は辺りを見渡して徐に口を開くのだった。
「ここがお兄様の…」
「あぁ。私の生まれた町、杜王町だ」
そのウマ娘…ライスシャワーは隣にいる吉良へ顔を向ける。今日はライスたっての希望で吉良の故郷である杜王町へと足を踏み入れていた。数年ぶりの空白を埋めるように、ライスはこれからの時間を彼と共有したいと望み、吉良も同じ気持ちであった。学園では幽霊にとりつかれているウマ娘として、「マンハッタンカフェに続いて幽霊が見えるようになったウマ娘」と噂されているというのに、その幸せそうな顔をみればそんな噂が微塵も気にならないほど、今の彼女の心は幸せに包まれているのだろう。
「サンジェルメンのサンドウィッチが絶品なんだ。この時間だったらまだ売り切れていないはずだ」
「うん!行こうお兄様!」
ライスの心はもう寂しさなんてものは微塵も存在していなかった。何故なら大好きな人が隣にいて、その人が見守ってくれているのだから。ライスは隣の吉良に微笑むと、その手を握って足を繰り出すのだった。
どんな者にとっても、例え幸福な者であろうと不幸な者であろうと、そして富ある者であろうと貧しい者であろうと平等に時間は流れていく。やがて時間はながれ、トレセン学園にも春が訪れた。まるで事件のことなど忘れ去られてしまったかのようにその日常はその傷を覆い隠すように、いつものように流れていった。仗助はいつものように誰よりも念入りに髪の手入れを行い、いつものようにトレーナー服に身を包んで、外へと足を繰り出して、いつものように身体を伸ばしながらある場所を目指して足を進めていく。トレセン学園はちょうど入学式から数日が経過しており、地面には桜の花びらが織りなすカーペットを踏みしめながら、ウマ娘たちが学び舎である学園に向かって足を進めている。
「おはようございます。仗助」
突然声をかけられた方向に顔を向けると、そこにいたのは最早馴染みと言っても過言ではないウマ娘…メジロマックイーンであった。
「ようマック。元気か?」
「その呼び方はおやめください!ゴールドシップさんに感化されないでくださいませ!」
「悪かったよ。そういえばずっと気になっていたんだが…」
「…?」
「ライスシャワーとはもう仲直りできたのか?」
あの日の晩、彼女は九条の計画によってチームのライスシャワーと戦うことを余儀なくされたと聞いていた。その言葉にマックイーンの顔は真剣な表情が戻り、彼女は静かに言葉を切り出すのだった。
「えぇ…あのあと彼女にお会いして、許して頂きました」
「だからそれはおめーが気にすることじゃあ…」
そこまで言いかけた仗助だったが、その言葉にマックイーンはかぶりを振るのだった。
「いえ、私の心が救われるためにはあの日にライスさんに許されることが必要でした。あれでよかったんです…」
「そうかよ、まぁおめーがそう言うんだったらそうするべきだって思うけどよ〜…」
「ようマック!朝練遅れるぜ!今日はライスとの併走だろ!?」
2人の会話は突然声をかけてきたゴールドシップによって中断されることになった。ゴルシに担ぎ上げられて小さくなっていく彼女のことを見送っていると、後ろから唐突に声をかけられるのだった。
「――仗助」
彼女と会ったのは偶然であった。仗助は自身の担当ウマ娘の顔を見据えながら、彼女の名前を発するために徐に口を開くのだった。
「よぉキング」
自身の担当ウマ娘・キングヘイローは今や一流の競技者としてトレセン学園で知らぬ者はいないほどのウマ娘へと成長した。今でも時折学園内外を問わず彼女のファンだという人々から声を掛けられ、彼女はその度にファンサービスを欠かさず行っている。
「この間のレースは惜しかったな」
「えぇ。今回はグラスさんに一着を譲ったけど、次は負けないわ。負けても勝つまで首を下げない。それが一流たるウマ娘ってものじゃあない?」
その言葉に仗助の口角は自然と上がる。やはりキングはこの数年間で競技者として見違えるほど成長した。彼女のおかげで気付かされることも多い。これからも彼女の隣で、一流のトレーナーとして在り続けるために尽力しようと心の中で誓うのだった。
「………そういえばお袋さんとはどうなんだ?」
「相変わらずうるさく言ってくるわよ。まぁ、前ほどじゃあないけど…そういえば今度彼女のブランドのファッションショーに出ないかって言われたわ」
「出んのか?」
「当然断ったわよ。「ファッションショーの目玉を飾る立場じゃあなかったら、結構です」ってね」
やはりこの娘にしてこの母ありというところだろう。彼女たちがもう少し近い距離で寄り添うことができるようになるには、まだ少し時を要するだろう。彼女はこちらを振り向くと、いつものように言葉を投げかけるのだった。
「さぁ仗助!これからの練習に付き合う権利をあげるわ!」
「おう!今日もビシバシ行くからな~、キング!」
二人はいつものように、普通でありながらも何処か奇妙な日常のワンシーンを刻み付けるように、会話を弾ませながらターフに向かって足を繰り出していくのだった。
こうしてトレセン学園の日常は、ほとんどの人と同じように、当たり前に過ぎていった。
「トレセン学園での奇妙な日常 完」
[
あとがき
これにて「トレセン学園での奇妙な日常」は完結です。
本作は元々、前作の「吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい」の最終回あたりを書いている途中に考え付いたものですが、思いの外話が長引いてしまいました。このままだと40話以上になってしまうため、なんとか短縮しながら3クールぶんということで39話で区切りとなるようにした次第です
途中である程度加えた要素もありましたが、その筋書きは大方決まっていたため書いていて非常に楽しかったです。最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました。
今のところ特に続編の予定はありません。もしかしたら別の時間軸か何かで書く可能性はありますが、どうするか考えようと思います。アイデア頂いたら何か書くかもしれません。
コメント等がありましたらこちらの方でより追記いたしますので、よろしくお願いいたします。