罅割れ世界のプライムパッセンジャー   作:ZenBlack

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epis51 : I remember that voice -shirushi-

 

<コンラディン視点>

 

 その声を、今も覚えている。

 

『私はね、男の人を愛するのは得意だったんだけど、子供を愛するのは苦手だったんだ』

 

 それは見た目の妖艶さに反して低い、まるで声変わりしたての、少年のような声だった。だから、その時はまだ少年だった俺は、同年代の男共と話してるみたいだな……と思った。

 

『誰にも、得意不得意はあるって話。逃げても、最低に落ちても、案外人生は続くものだったりするって話』

 

 情事の最中は甘く甘え、とろけるような声でトロトロとイツワリの愛を吐露してきたその唇は、その舌は、なにもかもを飲みこんでくれる様な奈落は、こちらが四回目を果て、文字通り精も根も尽きたのだとわかったその瞬間に、根本から何かが切り替わったかのように変貌して、変質して、少年のような声を紡ぎだす只の、だけどとてもキレイな口元へと変わってしまった。

 

『よくするのかって? こんな話? ううん、普通はしない。お客様を慰めるのが娼婦(わたしたち)の仕事で、時にそれには他愛ない会話だったりが含まれるんだけど……その辺りが()()ってモノなのかもしれないけど……アドバイスみたいなのは、あまり求められないから』

 

 その声に、俺は思ったのだ。

 

『特に上から目線は、危険かな。それで激昂する人も、いるからね』

 

 嗚呼、この人はやっぱり娼婦(しょうふ)なんだなと……そう思った。

 

 その想いは、今も変わってない。女というのは、その多くが後戯を疎かにすればムクレテしまうモノだと知ったのは、もっとずっと後になってからのことだ。

 

 娼婦ならばしてもいい……と、俺達頭の悪い男共が思う「扱い」があり、彼女は実際にそのように「扱われて」長い時を過ごし、そういう「扱い」に()れ、()れて、()れていた……今にして思えば、彼女のそれは、おそらくはそういうことであったのではないかと思う。

 

『今日は、いつもとは違って、変?……そっかぁ、さすがに、何十回と会ってれば、わかっちゃうかぁ』

 

 それは、男にはわからない何かだ。

 

『冒険者、やってるって聞いたんだ』

 

 まぁ、理解する必要もないだろう。

 

『私の子供、冒険者をやってるらしいの。久しぶりに聞いたな、あの子の名前』

 

 でも、だからこそ忘れられないナニカでもある。

 

『最初の時にも言ったでしょ? 私はね、男を愛することはできても、子供を愛することはできない女だったんだ』

 

 それが、初めての人であったのなら、なおのことで。

 

『えー? 無理だって。だったらあなたがあの子を愛してあげてよ。年齢ヒトケタは無理? そっかぁ……それじゃあ仕方無いね』

 

 今もその声は、色褪せることなくこの胸にある。

 

 

 

 

 

 

 

 冒険者を始めた頃、俺は自暴自棄になっていた。

 

 生まれた時からあった世界が、正しいと思っていた世界がひっくり返って。

 

 気が付けば俺は「悪役」で、「端役」で、「三下」だった。

 

 大仰(おおぎょう)興行(こうぎょう)が繰り広げられる舞台の、その端の方で。

 

 みすぼらしく、みっともなく、いてもいなくてもいい(にぎ)やかしを繰り広げるクソ雑魚。

 

 気が付けば俺という人間の立ち位置は、そんなものでしかなかった。

 

 そんなモンでしかなかった。

 

 元々……俺は三男だった。

 

 長男でも、そのスペアである次男ですらもない。その命に価値なんてモンは、最初から無かった。

 

 普通の道では、努力して、ものすごい努力をして、王の騎士になる辺りがテッペン。

 

 風見鶏(かざみどり)をしながら楽な方へ、楽な方へと流れてきたクソガキに、そんな努力など、できるハズもなかった。

 

 だからもうそんな命は、早々に無くなってしまえばいいと思った。

 

 であるなら……軍はダメだとも思った。

 

 その頃の王国軍には、仕事など無かったからだ。

 

 危険など無かったからだ。

 

 あの頃は、数百年と続く平和が、この先も続くんだと思っていた。

 

 軍に入っても、そこで野垂れ死にできるとは到底思えなかった。

 

 だから俺は冒険者になった。

 

 王都の冒険者、その主戦場は東の森の大迷宮(ダンジョン)、そこには準備と警戒を怠れば人が簡単に死ぬモンスターが闊歩し徘徊している。

 

 その頃の俺は、モンスターに負けてその糞便となるくらいの終わりが、自分には相応しいと思っていた。

 

 だが……そのやけっぱちな想いは、最初のモンスターと邂逅したその日の内に、全てが吹き飛んでしまった。

 

 それはもう見事に蒸発してしまった。火に飛び込んだ虫けらのように。

 

 

 

『あ、あ、あ、ああ……』

『あ゛、あ゛、あ゛、あ゛ぁ゛……』

 

 

 

 それは醜かった。

 

 それは(くさ)かった。

 

 それはとてもとても気持ち悪かった。

 

『ああっ!!』

『ヴァァァぁぁぁ゛!!』

 

 ありていにいえば、それはアンデッドだった。

 

 実際には、腐肉へ入り込んだ寄生虫が、腐った死体を動かしているというモノだったらしいが、その壮絶な悪臭と見た目の気持ち悪さは、こんなのに殺されるくらいなら、豚のケツの穴を舐める方がまだマシだと思えるくらいの強烈なインパクトがあった。……なおこの表現は、いつだったか兄貴が言った、姉貴への罵倒から拝借している。「お前に媚びるくらいなら、豚のケツでも舐める方がまだマシだ」だったか? まぁ、その頃の姉貴はまだ痩せていたのだがな……。

 

 それはともかく、冒険者になって最初の会敵(かいてき)、初めて見たモンスターがアンデッドだった俺は、それはもう、本当にもう、我武者羅(がむしゃら)にソイツから逃げ出した。脱兎の如く逃走した。逐電(ちくでん)遁走(とんそう)した。

 

 戦おうだとか、討伐してやろうだとか、そんなことは思い浮かびもしなかった。

 

 逃げて、帰って、実家のツテで借りていたそこそこ快適なネグラでガクガクブルブル震えて、吐いて。

 

 それを、小間使いの小さなガキが勝手に掃除し、片付けているのを見て。

 

 猛烈に、自分が情けなくなった。

 

 自分という人間が、最下層の更にその先へ、堕ちてしまったのだと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 そうして気が付けば俺は、不夜城(色街)にいた。

 

 たまらなく、女を、抱きたかった。

 

 アンデッドから逃げ、ゲロを吐いて汚臭にまみれた俺は、おそらくはそう遠くない未来に野垂れ死ぬんだと思った。だからその前に、どんな形でもいいから女を抱いてみたかった。最低だからこそ、童貞のまま死にたくはないと思った……のかどうかは……正直もう、どうにもよくわからない。あの時の俺の気持ちは、今の俺でさえわからない。

 

 ただ、とにかく女の肌に触れてみたかった、

 

 柔肉(やわにく)に埋もれてみたかった。

 

 死を思えば想うほど、いまだ知らぬ女体のナニカを想って下半身が()(たぎ)った。血管を、灼熱のようなナニカが走っていた。

 

 金はあった。自分の稼いだものではない、実家の金が。

 

 どこまでも最低な俺は、どこまでも最低だった。

 

『お、そこにいるのは新人君じゃねぇか』

 

『不景気な顔してんな、ここじゃあそういうのが一番嫌われる。良い女を抱きてぇんなら無理してでも笑いな』

 

『無理だって? 良い女じゃなくてもいい? こんなところでそんな幸運に巡りあえるとも思っていない? ブワァーカ、男はな、良い女を抱いてこそ幸せになれるんだよ。悩んでんなら良い女を抱きな、それで全部がプワァーッとすっとんでいくってもんさ。男の悩みなんて、大概そんなもんなんだからよ』

 

『冒険者にしかなれない男がいるように、娼婦にしかなれない女ってのもいる。けどな、どうしようもなくて冒険者になった男でも、向いてりゃあ大成して立派な冒険者になれるんだ。どうしようもなくて娼婦になった女が、最高の女になることだってあらぁな』

 

『いるんだよ、そういう女だって。そういう良い女だってな』

 

『信じられねぇか? なら騙されたと思って俺についてこいよ』

 

『どうせアテなんかないんだろ? ここには初めて訪れましたってぇ顔だ』

 

『そんなんじゃ、いずれ俺じゃない誰かに騙される。そうなる前にせめて最低限、どこの誰だかはわかってる俺に、騙されてみろよ?』

 

『紹介してやんよ、最高の女ってヤツを』

 

 ギルド長は。

 

 後にギルド長になる、当時は三十くらいだったオッサンは、そんな俺に声をかけ、馴染みの店を紹介してくれた。

 

 あのオッサンは、ホントどうしようもねぇなと、今でも思う。

 

 だが、それよりもどうしようもなかった俺は、それに、それへ、ある種の大博打に、もうどうにでもなれと身を預け。

 

 その先に、天国を見た。

 

 

 

 

 

 

 

『ふふっ、好きよ、好き』

 

 その声を、今も覚えている。

 

 最低のクソガキだった俺の、痛いだけだろう荒々しい動きに、事前に洗ってはもらったが、おそらくはまだ(くさ)かっただろう身体に、イツワリであろう喜色を見せ、オスが萎えるようなことは何も言わず甘く、ただ甘く()き、イツワリなのであろう、だけどなぜか心に沁みるチープな言葉で愛を囁いてくれた、その声を覚えている。

 

『愛してるよ、愛しているの』

 

 その声を、今も覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

 そうして夢のような夜は明けて。

 

 妙にキレイだった朝焼けの、その空の色を見て。

 

 俺はもう、なにもかもが可笑(おか)しくなり、笑った。

 

 理由なく笑った。

 

 あるいは(わら)った。

 

 悪役で、端役で、三下で、だけどそれでも世界の中心にある自分自身を、クソ雑魚はひどく朗らかに嗤った。

 

 嗚呼、なんだったんだ、俺の悩みは。

 

 自分が最低?

 

 自分がどうしようもないクズだから死ぬしかない?

 

 当然だ。

 

 そんなのは嗚呼、当然だ。

 

 それは真実だ、当たり前のことだ。

 

 だが真実なんてモンに価値はない。それは「人は生まれながらに死ぬ運命を背負う」であるとか、「人はクソをするしゲロも吐く」であるとか、「どんな人間でも金さえ持っていればそれなりにいい夢が見れる」であるとか、そういうことを改めて確認するくらいに、意味がない。

 

 おぞましいものを見て逃げ、吐いて、自己嫌悪して泣きじゃくったところで何が変わる? 泣いて何かが変わるのは深窓のご令嬢様であるとか、重臣に慕われた老い先短い老王であるとか、なんかそういう、俺なんかとは生まれた時から持っているモノが違う誰かだ、ナニカだ。

 

 ああ、俺は最低だ。

 

 死ぬ気で冒険者をやってやるさとイキがって、だが初めて見たモンスターに怯え、逃走して遁走して、自分の力で借りたわけでもないまあまあいいネグラで、自分よりももっと幼いガキに、汚物の処理をしてもらいながら泣いて、自分を憐れんで。

 

 イツワリの愛に溺れて。

 

 ああ、本当に最低だ。

 

 だが。

 

 最低だから、最低のまま死にたくはないと思った。

 

 それはおそらくは童貞のまま死にたくないという想いよりも確かに、確実に、明確に強くそう思った。願った。心がそちらの方を見て嗤っていた。

 

 ならばもう、することはひとつしかなかった。

 

 あのモンスターに、出会って逃げたアンデッドに、勝つしかない。克つしかない。

 

『そう、いってらっしゃい。頑張って』

 

 イツワリかもしれない、だけどなぜか心に沁みたその笑顔と、チープな見送りの言葉へ、今度は自分の稼いだ金でここに来ると誓いながら、俺はだが笑いながら朝の王都へと戻った。天国を見ても、地上で生きるしかない自分自身を嗤いながら帰った。

 

 

 

 

 

 

 

『な、言った通りだったろ?』

 

 そうして、冒険者ギルドへと辿り着いた俺は、調べた。

 

『うっせぇ、オッサン』

 

 後にギルド長となるオッサンの、ニヤケ顔にイラつきながら、調べた。

 

 あのモンスター、俺が出会い、逃げてしまったアンデッドがどういった敵で、何をすれば、どうすれば自分の身を危険に晒すことなく、討伐せしめることが可能なのかということを調べた。

 

 幸い。

 

 冒険者ギルドには、先人達によって築かれてきた知見があった、知識があった。

 

 おそらくはひとつひとつが(10)人分、それ以上の血と犠牲によって積み重ねられてきたそれは、求め、読み解こうとするなら、研究され尽くしたモンスターに対しては十二分(じゅうにぶん)に無敗を約束してくれる……自分自身が弱ければ勝てないまでも、負けて命を失うことがない……(すこぶ)る頼りになる蓄積が、そこにはあった。

 

 耳に残る、甘く哭くその声に、泣くのをやめた俺は、冒険者ギルドに入り浸り、そうして積み上げられてきたアンデッドに関する知識の全てを、効率を完全に度外視して研究した。

 

 実家の援助などない、その日暮らしの冒険者にはできない、それだけの期間を使って俺は、アンデッドの特徴、特性、警戒すべきポイント、弱点、傾向と対策、そうしたモノを残らず頭の中へ叩き込んでいった。

 

 そうして、普通の冒険者にはやはりできない、実家の権力と資金力を縦横無尽に使いまくって充分な「準備」を整え……俺は再び、森へと入っていった。

 

 

 

 そうして俺は克った。

 

 

 

 アンデッドに勝った。

 

 

 

 終わってみれば、なんて呆気無いんだろうと思った。膨大な準備期間に比べそれは一瞬で、一瞬過ぎて、感動も感慨も何も起きずに、ああ、終わったのかと……それだけのことしか思えなかった。当然のことが、当然に推移したのだとしか思えなかった。

 

 なにかもう、イツワリの愛でも、それを交し合うことの方が、まだ風情があるじゃないかと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 何度か、そういうことを繰り返した。

 

 

 

 王都は数百年、東の大迷宮(ダンジョン)と共生してきた。

 

 そこで取れる素材は食材から、生活雑貨、建築用材まで、幅広く使われている。

 

 (ドラゴン)の素材は肉皮爪鱗骨、どこもかしこも有益で、丸々一匹の値段が王都の高級官僚、その生涯年収に相当するとさえ言われている。つまりそれは、広い家に嫁さんを三人でも四人でも貰うことができる、それだけの金が手に入るってことでもある。

 

 コカトリスの肉なんかは高級食材だし、毛は羽毛布団の充填材(なかみ)にもなる。バジリスクの革は高級鞄にも使われる上質なモノだ。そういやぁ、三年前に死んだ女にも生前、ねだられていたもんだから、戦後に買って、墓に入れてやったっけ。よく憶えてないが金貨十枚以上はしたな、アレ。

 

 まぁ、そこまで高値で取引される獲物は珍しいが、熊型モンスターのように、とにかくでかいヤツが獲れれば、ひと単位あたりが安くとも、量で十分稼げてしまう。

 

 珍しいところだとユニコーンの毛はブラシに、角は薬に、狼型モンスターや一角黒兎(アルミラージ)の体液は獣害避けになるらしく、農村部では血だの小便だのが重宝されているそうだ。

 

 王都の冒険者とはつまり、つまるところまぁ便利屋で、狩猟人(ハンター)だ。

 

 その部分は、山村における猟師(マタギ)と大差はない。

 

 違うのは、狙う獲物の種類が段違いに多いことと、それから通常、個人では手に負えないような獲物であっても、その危険度に応じて適切な規模のパーティを組んで、時には犠牲者を覚悟してでもそれを討伐するということくらいだ。

 

 この辺りのことを、理解していない若者は多い。

 

 冒険者になりたがる若者というのは、つまりは腕っ節以外なんの取り得のない若造(わかぞう)であったりもする。もっとあからさまな言い方をすれば、それは暴力を介してしか、社会と関われない(あら)くれ(もの)であったりもする。

 

 十代の中盤から後半をずっと冒険者として過ごして。

 

 そういう連中とも、多少なりとも関わったり、接したりして。

 

 時に大規模なパーティに参加して、()()()()()()色々な人と会ったりもして。

 

 こんなことで死ぬくらいなら俺に生きる価値は無い、だから俺は逃げない、戦う……そんなことを言った若者が、若造が、荒くれ者が、当然の実力不足から呆気なく死んでいく姿を何度か見たりもして。

 

 若者で、若造で、(すさ)んでいた者であった俺は、段々と()()()()()()自分を目指すようになっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 一年と、半年後くらいだったと思う。

 

 あの人と、再会したのは。

 

『あら、おかえりなさい』

『……覚えていて、くれていたんですか』

『ふふ。一年と、少し? 色々、あったみたいね。前よりもずっと、いい男に見えるわ』

 

 その人は、その時で二十代の半ば頃に見えた。

 

 不夜城(色街)では二十歳の頃をピークに、そこからはどんな娼婦でも段々と人気が落ちていくとされている。

 

 だからその頃を過ぎると多くの娼婦達は、客の中から良さそうな男を見繕い、捕まえて、結婚したり、愛人になったりを狙いだすのだそうだ。そういう事情を、俺はギルド長から聞いて知っていた。

 

 だから、それに期待していなかったと言えば嘘になる。

 

 娼婦としてどうなのかはわからないけれども、女性としては、女としてはまさに今が盛りと咲き誇るその人を前に、この人も結婚したいと思っていないだろうかと、生家はそれなりに裕福な十近く年下の三男坊と、結婚したいと思わないだろうかと、そんな風に、まったく思っていなかったと言えば、嘘になる。

 

『……結婚したりは、しないんですか?』

 

 再会の、最初のヒトトキが終わって、一年半ぶりの、だがその時間分期待した()()以上のものが与えられ、痺れるようなイツワリの幸福に浸って。

 

『ここを辞めて、結婚したいって考えたことは、ないんですか?』

 

 下半身が少しだけ落ち着いた俺は、しかし頭から上は全く落ち着かず、おそらくは青少年の性急さでもって、大それたことを尋ねていた。

 

 このイツワリを、ホンモノにしたいと願っていた。

 

 ホンモノが何かなんて、考えもしないで。

 

『なぁに? あなたがもらってくれるの?』

 

 だが、応じた声はまだ甘く、優しく囁くようだった。

 

 後から考えればそれはつまり、彼女はそれがまだ睦みあいの、その手の戯言であることを……なによりも雄弁に示していたのだ。

 

 俺の身体の、あちこちを優しく撫でながら、イツワリの、だけどだからこそこの世のものとは思えないその声で、甘く(とろ)けるような声で、思い上がった少年(甘ちゃん)(さと)そうとしていたのだ。

 

『お、俺、今は冒険者をやっています。け、けど、元々は財務省の、貴族官僚の家の生まれで……あっ』

『ふぅん、凄いのね。あ、だったらもうフィアンセとかいるんじゃない? 悪い子ね』

 

 優しく(つね)ってくる、その指すらも甘くて、心地良くて。

 

 その柔らかさに、俺は何も()らえられなかった。

 

 彼女の何をも、(とら)えられなかった。

 

『あんなにしたのに、もう元気』

 

 気が付けば俺は、俺こそが()らえられ、(つか)まってしまっていた。

 

『すごいこと、してあげる』

 

 彼女が何年もかけて築いた……もしくは元々持っていたのかもしれない韜晦(とうかい)の、ふわふわとした甘い夢に。

 

 

 

 

 

 

 

 気が付くと俺は、冒険者業界で一目置かれる存在となっていた。

 

 

 

 冒険者もまた、体力や判断力のピークは二十代の前半くらいだと言われている。

 

 もう少しで二十歳になろうかというその頃の俺は、だが既にそうしたピークの真っ最中である高名パーティに招かれ、難易度の高いモンスターを倒したり、その手助けとなったりしていた。

 

 友人と、言える人間もできた。もっともそれは……俺がそう思っていただけかもしれない。時に利害を無視して「準備」を整える俺は、仲間として便利な人間だったからなのかもしれない。俺の実家の、そのコネ欲しさだったってことも、まぁあるのかもしれない。

 

 だが、だとしても、だからなんだという話だ。

 

 食事を共にしたり、仕事の情報交換をしたり、人間関係、時に女関係のトラブルの仲裁に入ったり、入ってもらったり、そうして同じ時代(とき)を過ごした仲間が友人でなくて、なんだというのだ。

 

 もっとも……その多くが三年前に死ぬか、王都を出て行ってしまったが。

 

 俺の十代の後半はそんな風にして、野垂れ死ぬとは、まるで正反対の方へと進んでいった。

 

『あら……おかえりなさい。ふふっ』

 

 時に甘い夢を見ながら、イツワリの幸福に溺れながらも。

 

 

 

 

 

 

 

 おかしな話だった。

 

 

 

 生まれた時からあった世界が、正しいと思っていた世界が、全てひっくり返って。

 

 自分にはもう何もないと思い、命を捨てる気で冒険者になった俺が。

 

 実家の力をフルに利用して、いつも生き延びるための方策を万全に整え、結果を出して。

 

 同期が、後輩が、自分には何がなくとも未来があると自身満々で、だが本当に金も時間も余裕もないがゆえの明らかな無策で、無謀に、大迷宮(ダンジョン)へと赴き、散っていくのを、どうしようもなく横目に眺めながら。

 

 成り上がっていた。

 

 成り上がっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 そうしていく中で、そうして過ごしていった中で、(つちか)われていったモノがある。

 

 それは別に、特別なモノじゃあない。

 

 熟練の冒険者ともなれば、多かれ少なかれ誰もが持っているモノだ。

 

 だが俺のは、それよりも少しだけ「特別」だったようだ。

 

 それこそが俺を、冒険者業界の中で一目置かれる存在にしたともいえる。

 

 そういうモノ。

 

 

 

 それは危険に対する理由なき察し、察知の能力だ。

 

 自分の身に、あるいは仲間の身に、何かしらの危険が迫っている時、俺はそれを、なんとなく察することができてしまう。

 

 体調を崩す直前には、そのことが鼻や喉の調子でそれとわかるように。

 

 平穏が崩れるその直前には、どこか身体のいち部位に違和感が走る。

 

 そこに理屈などない。自分でも理由はよくわからない。

 

 だが、どうも俺は、危険を感じると鼻や喉がヒリヒリしたり、首筋やケツの辺りがムズムズしてしまうらしい。

 

 俺は冒険者業界において、飛び抜けて生存能力に長けている人間であると評価されている。

 

 危険を冒す者達、つまりは冒険者であるのならば、それは最も重要な能力であるとも言われている。

 

 だが、それもこの勘、この感覚、あってのものだと思う。

 

 いつぞや、ラナちゃんの剣士、レオと最初に会った時も、剣の冴えそのものには驚いたが、それを脅威とは、「危険」とは感じなかった。

 

 だからこそ「教育」を施そうと思ったのだし、引き際を誤ることも無かった。

 

 なんだかんだで、今ではラナちゃん、レオ君とも、いい距離感で付き合えている……そう思う。

 

 鍛えた肉体、頼れる仲間、それと同じくらいに、俺はこの「感覚」を信じている、誇っている。

 

 

 

「ばぅん!!」

「わ、な、なんだ、オマエ。突然どうしたよ?」

 

 だからその犬……マイラという名前だったか……を見た時、俺はすぐにそこから逃げ出すべきだと思った。

 

 ケツの辺りがムズムズした。

 

 これはヤバイ……理由などなくそう思った。

 

 急に、こんな俺を愛してくれた女の中で、コイツならどうしょうもない俺の子供でも、まともに育ててくれそうだなって思ったその女性(ヒト)の顔が、脳裏へと浮かんだ。二年くらい前からは、もうソイツしか抱いていない。

 

 結婚の約束もした。

 

 喘ぎ、甘える……その時の顔が浮かんだ。

 

 この男を独占した……それを確信し、それに法悦を感じている(オンナ)の顔が浮かんだ。

 

 それは俺を、こんな俺なんかを私だけのモノと言いながら絡みついていた。

 

 髪の色も、瞳の色も、身体の具合も、男に求めるものも、男に与えられると自信を持っているモノも……あの声の人とは、まるで違っていたけれど。

 

 それは心地良い束縛だった。入ってもいいと思わせる墓場だった。

 

 

 

「お前……お、おいっ!」

 

 死にたくない。

 

 ああ本当に、死にたくない。

 

「ばぅぅぅん!!」

「おいやめろ! 袖を引っ張るな!」

 

 予感がある。

 

 この犬についていっては、ダメだ。

 

 その先にはどうしようもない危険が待ち構えている。

 

 死の気配濃厚な何かが待ち受けている。

 

 これは分岐点だ。

 

 死と生とを分ける大きな分岐点だ。

 

 そう思った。

 

 理由なくそう思った。

 

「なんだ!? ラナちゃん達になにかあったのか!?」

「ばぅっ! ばぅっ! ばぅっ!」

「違う? じゃあなんだ……ん?」

「くぅぅん、くぅぅぅん」

「足……どうかしたのか?……急にへたり込んだりなんかして……足?」

 

 だからまた思った。

 

 嗚呼、()()()()()()()()()()と。

 

「足……まさかユーフォミーちゃん達か!?」

「ばぅっ!!」

 

 それにはだが……ちゃんとした理由がある。

 

 俺が、俺だけが心で理解できる理由がある。

 

 思い出の中に沈め、イツワリだったそれを真実のように墓場まで持っていくと誓った……少年の日の夢がある。

 

『これは、私の人生の話』

 

 今も、忘れられない声を聞く。

 

『最低の、自分の子供を捨てた女の話』

 

 最後の言葉は……甘い声にも、少年のような声にも、ならなかったけれど。

 

『私は十四の時、子供を産んで、だけど育てられないと思ってその子を捨てたの』

 

 震える字は、病がもう死の境地にあることを雄弁に語るもので。

 

『私は、簡単に言えば(めかけ)の子供で。それも、お大尽様の妾なんかじゃなくて、本来なら女ひとりだって養えないような甲斐性無しの妾で。それがどういうものなのか、妾を囲う金が、本妻を“どういう場所で働かせ、得た金”なのか、わかるようになってから、私はもう家にいるのも嫌で』

 

 その手紙は、もう燃やしてしまった。

 

『だから身体が、それを可能にしてくれた頃にはもう、そこら辺に歩いてる男性を誘惑して、その家へ転がり込むような生活をしていて』

 

 必要が無かったから。

 

『今にして思えば、生き延びれたのは、幸運でしかなかったような生活で』

 

 一言一句を、字がどのように乱れ、与太(よた)れ、へたっていたかを、それすらも全て覚えてしまったから。

 

『あの子の父親は口下手で、だけど冒険者になって二年目でもう、ベテランでさえも苦労するモンスターを狩れる戦士で』

 

『生まれつき恵まれた体格を持っていて、年齢の割に落ち着いていて』

 

『惚れちゃった……のかな』

 

『ただ、その時々の宿り木を探していただけの私が、この人となら幸せになれるかもって、夢を見てしまったのかも』

 

『でもね、そんなのは、上手くいくわけがないんだ』

 

『上手くいかなかった』

 

『危険日に、騙して抱かせて、そうしてできた子供をナイショで産んで』

 

『その子に、両足が無かったのを見て』

 

『ああ、バチが当たったんだと思って』

 

『あなたの子供、産んだよ、ホラこんなに可愛い元気な子、だから結婚しよ?……って、そんな風に迫る予定だったのがダメになって』

 

『私は、自分が、母親よりも、父親よりも最低の人間だったんだなってわかって』

 

『逃げたの』

 

『子供を、父親の元に捨てて逃げたの』

 

『育てられるとは思わなかったから』

 

『最低の人間に、両足がない上に魔法使いの徴候を見せている子供なんて、手に負えないと思ったから逃げたの』

 

『私はユーフォミーを捨てて逃げたの』

 

『ナッシュに全てを押し付けて、口下手だけど善良で、立派な男の人で、稼ぎも多いあの人なら、なんとかしてくれると思って、そう自分に言い聞かせて、逃げたの』

 

『ナッシュは、不夜城(色街)に興味がないみたいだったから、そこに逃げ込めば気付かれないって思った。最低で、人として大切なことからも逃げだして、それでも人生は続いて、一時(いっとき)不夜城(色街)の華にもなって』

 

『冒険者のご贔屓さんも出来て、気付かれちゃうのかなって思ったこともあったけど』

 

『ナッシュは口下手で、余計なことを話す人間じゃなかったから……なのかな』

 

『あの子が父親似で、髪の色も、私とは違っていたからかもしれないけど』

 

『気付かれなかった』

 

『ユーフォミーと、目が合ったこともあったの』

 

『父親に背負われて、街を颯爽と進むあの子を見かけて』

 

『立派に、なったんだなって思った』

 

『立派に、なったんだなって思いながら見ていた』

 

『でも、そんな私をチラと見たあの子は、興味が無さそうにすぐに目を逸らして、父親に何かを耳打ちして、すぐに去って行ったの』

 

『ああ、あの子にとって私は、何者でもないんだなって思った』

 

『それはひどく当たり前のことで、罪に対する当然の罰で、言い訳のしようがなくて』

 

『それでも悲しいと思っている自分が、酷く酷い人間だって思った』

 

『あの子に母親は必要なかった。あの子に母親はいなかった。それでよかったのなら、それがよかったんだと思った。自分勝手に、そんな風に、最低に』

 

『だからユーフォミーのことを知っているのは、あなただけ』

 

 

 

『お願い』

 

 

 

『でも、それでも、私には何も言う権利がなくても、あなたに言うしかなくて』

 

『つまり、今はあなたの近くにいる背負子(しょいこ)のユーフォミーを、私の娘を、ユーフォミーを、それとなく気にかけてやってほしいの』

 

『私は母親にはなれなかった女で、捨てた子を気にかける資格なんてないのかもしれないけど』

 

『でも、それでも、もうすぐ死ぬこの身で思うのは、あの子のことだけ』

 

『なんなら、娶ってくれてもいいから。年齢ヒトケタは無理って言っていたけど、あの子だって成長するから。私の娘だから、あなたと身体の相性は良いハズだから』

 

『無理にとは、言わない。それは、それで幸せになれるならでいいから。あなたが望まないなら、あの子がそれを望まないなら、それなら、ただ、ほんの少しだけ、できる範囲で、私があなたに、時折対価以上にしてあげた、それくらいの分だけでいいから、あの子を思いやってください』

 

『あなたの良い所を、あなたの優しさを、私は沢山知っているから、その一部分だけでいいから、欠片ほどでいいから』

 

『あの子を、見てあげてください』

 

『それだけで私はあなたに感謝する。あの世から、恨んで化けて出ることはないと約束するから』

 

『だから、お願い』

 

『あの子が不幸せにならないよう、見てあげてやって』

 

 

 

 

 

 

 

「嗚呼、チクショウ」

 

『愛してるよ、愛しているの』

 

 今も覚えている、その声を聞く。

 

「わぅ……」

「……それにしても、すっげぇな……コイツ……。()()()()()()()()()……、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……」

「ばぅん?」

 

 なにが、「私があなたに、時折対価以上にしてあげた、それくらいの分だけでいいから、あの子を思いやってください」だ。

 

「……嗚呼チクショウ、あんたが俺に、対価以上にしてくれたことは、俺が一生をかけても払いきれないっつーの」

 

 そこに、どうしようもない危険が待ち構えていようとも。

 

 その先に、死の気配濃厚な何かが待ち受けていようとも。

 

 それでも、見捨ててはいけない、見捨てられない何かというのもある。

 

「ユーフォミーちゃんを俺達の事情に巻き込んだのは……俺だ。今回、自分から巻き込まれにやってきたのはアイツら自身だが、そもそも三年前に、軍へ行ってしまったアイツらをもっと近くで見ていたいからと、近くへ引き込んでしまったのは俺だ」

「ぼぅん?」

「灼熱のフリードを調べ、ジュベミューワを調べ、ノアステリアを調べ、アイツらなら問題はなかろうと任せたのも……俺だ。つまりヤツらには、俺の知る(よし)もない隠し玉があったってことだ。俺の()()()()だ。つまり責任は俺にあるってことだ」

 

 いつか、イツワリの夢を見た。

 

 どうしようもない最低の少年が、どうしようもなかった最低女のイツワリに、天国を見た。

 

 だから今も、その声を覚えている。

 

「なぁマイラ? オマエは俺の運命か?」

「ばぅ?」

「逃げ続けた俺に、もう逃げるなって告げる、運命の使者なのか?」

「わぅ?」

 

 与えてもらった夢を覚えている。

 

 イツワリは今も、美しいままそこにある。

 

「嗚呼チクショウ、結婚を、約束した女に、なんて言えばいいってんだっ」

「ばぅん!!」

 

 今も最低な俺は、大人になってもその(イツワリ)を、忘れられない。

 

 

 

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