罅割れ世界のプライムパッセンジャー   作:ZenBlack

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epis68 : The Everlasting Guilty Crown

 

<ボユの港町の惨状:三人称>

 

「いやぁあぁぁ……ぃや゛ぁぁぁあ!!」

 

 少女が、左半身の無い少年の身体を抱き、泣き叫んでいる。

 その声は、だが煙にやられたのか、時に濁り、絡んでいる。

 

「どうしてよぉ゛、幸せにしてくれるって、言っだじゃないっ……私を……幸せにしてくれるって言ったじゃないっ」

 

 この日、十六歳のアンネリースは、幼馴染であったひとつ年上の少年から、プロポーズをされた。

 

 だから、アンネリースには、午後よりの記憶がほとんど無い。

 

 看板娘を張っていた店のおかみさんにさえ、今日のあんたは役に立たないわねと、帰されてしまったくらいだ。

 

 輝くような金髪の、顔は十人並みだが胸は豊かで、腰がきゅっとくびれたアンネリースは、二年前から宿屋兼お食事処兼酒場の店で働いていた。

 

 店では人気者だった。

 

 身体を触ろうとする酔客に、容赦なくオーダーを書きとめる用の塗板(ぬりいた)(ロレーヌ商会が専用の筆記具とセットで販売しているもの。それなりに硬い)を「縦にして」叩きつけてさえ、それへ大きな歓声と口笛の(はや)()てがおこるほどには、常連客達からの支持を得ていたのだ。

 

 その自分を追い出すのだから、今日の自分はよほど役立たずだったんだろうなと、アンネリースは店を出る時に妙な納得をしてしまったくらいだ。……実際は、おかみさんは、プロポーズのことを肴に、彼女のいないところで常連客達と一杯やりたかっただけなのだが。

 

「あぁあ゛、あぁぁぁぁぁぁぁ……」

 

 そうして、己が魅力を、今が盛りと自他共に味わっていた絶頂期のアンネリースにとっては、正直、この幼馴染は、男性としては多少……どころかかなり……物足りなさを覚える男だった。

 

 性格は善良だが、お人好しなところがあり少し頼りない。

 

 平凡な容姿。とぼけたような目とよく笑う口元は嫌いではなかったが、そこへ魅力を感じ、目が引き寄せられるといったこともない。

 

 淡く日焼けした肌はつるんとしていたが、アンネリースが女心をくすぐられるのはもう少し潮風に磨かれ、厚くなったなめし革のような肌だ。

 

 親はただの漁師、借金こそないものの、貯蓄だってあまり無い。

 

 他の女に言い寄られたといった浮名も無い。全くない。黙っているだけで女の方から寄ってくるようなものは何も無いということだ。幼馴染としては気安く付き合えてよかったが、店にやってくる経験豊かなマダム達から、初めての相手が初めてだと色々大変だよと教わっていた耳年増なアンネリースには、それもまた小さくは無い不安材料となっていたことも事実だ。

 

 夫婦になる、彼の子を産む……そうしたことを、ためしに想像してみると、どうにも笑い出したくなってしまうものがある。それは、嬉しくて笑うというよりは、下らない冗談を聞いて思わず噴き出してしまうといった類のそれだ。

 

 キスは、もう既に何度かされていた。少し前に、一度だけ唇を奪われもした。舌の侵入は許していないし、それ以上などもってのほかだったが。

 

 唇への、ただ触れるだけのキスは、不快ではなかったが、そこにぽーっとくるような何かは無く、キスって、こんなモノなのかなぁと首を傾げざるを得ないものだった。アンネリースの(唇への)ファーストキッスは、別の意味でふわふわした、もやもやした気分を味あわされるだけのものとなってしまった。

 

 それでも。

 

 それでも、午前中に(仕事中の店に来られ、されるという、ムードもへったくれも無い)プロポーズをされ、エプロンを脱いで店を出て、なぜだか家へ帰る気にもなれず、ずっと埠頭(ふとう)(たたず)んで海を眺めて……何時間も何時間も眺め続けて、波の(きらめ)きに(あけ)が混じり始めたことに気付いて、潮風に夕暮れの匂いを感じ始めた頃には。

 

 アンネリースの胸には、私は、あの人と結婚するんだろうなぁ……という、確信のようなものがいつの間にか芽生えていた。けれど、何度考えてもどうしてそうなるのかがわからなかった。

 

 わからなかったから、いつまでも埠頭を離れられなかった。

 

 彼女はそのままであれば、陽が落ちて辺りが暗くなるまでそうしていたことだろう。

 

 悲劇は、その時に起こった。

 

 ボユの港町を襲った紅蓮(ぐれん)の矢は、主に街の方へ降り注いだ。アンネリースが佇んでいた、眼下に岩打つ波が覗き込めるほどの波止場周辺は、その被害をほとんど受けなかったと言っていい。

 

 だから彼女は生き残った。

 

 だから、彼女は地獄の業火を対岸に見た。

 

 彼女が生まれ育った街である対岸を、彼女の住む家がある対岸を、彼女が看板娘を務める店のある対岸を、彼女へ冗談のようなプロポーズをした幼馴染の居る対岸を、現実とは思えないままに、呆気に取られたような表情で見た。

 

 それから。

 

 彼女は自分が、何をどうしたのか、よくわからない。覚えていない。

 

 叫び声を、咳き込むまであげたような気がするし、その後には走ると物理的にも痛む胸を片手で押さえながら、それでも全力で走っていたような気がする。

 

 店のお使いで出向き、会うたびに「でかっ、負けたわ……」と思わされたロレーヌ商会の偉い人……ラナ何とかさんは、だけどこんな風に走ることはないんだろうなと、どうでもいいことを考えながら走った……そんな気がする。

 

 やがて喉が痛むことに気付いた。どこで煙を吸ったのだろうと思った。

 

 それを気にしていると、走れなくなる気がしたから、そこからはもう幼馴染のことだけを考えながら走った。ぜぇぜぇと絡んでくる(たん)を飲み込みながら走った。

 

「いやよぉぉぉ……こんなのはいやぁぁぁ……」

 

 彼には、反抗期と呼べるような時期がなかった。アンネリースと出会った頃にはもう、漁師である両親の仕事を手伝っていたように思う。今では……アンネリースから見れば……一人前と言っていい漁師となっている。

 

 海の男は、朝も夜も早い。まだ空が暗い頃に起きだし、夕暮れが終わる頃にはもう床についていたりする。彼もその例には洩れなかった。若い分、多少は、親達よりも遅く起きていることはある。けれど暗くなれば大抵は家にいて身体を休めている。

 

 だからと、アンネリースが最初に足を向けたのは、普通に彼の家だった。

 

「いやぁ……」

 

 そしてそこに、彼は居た。全く普通ではない、変わり果てた姿で。

 

 まだ暖かかったが、胸に耳をあてても心臓の音はしなかった。

 

 キスするように顔をくっつけても、その鼻や口元から呼気は感じられなかった。

 

 そうして、真っ白になった頭で、アンネリースは気付いてしまった。

 

 埠頭から、海を眺めているだけでは得られなかった答えに、そこで辿り着いた。

 

 自分はただ、この人と共に一生を過ごしてみたかったんだと思い至った。

 

 ずっと、同じものを見て喜び、同じものを見て悲しいと思いたかったんだと結論付けた。

 

 そうして彼は、アンネリースにとって、そういう存在であったと、気付いてしまったのだ。

 

 恋も、愛もよくわからない。だけどそれは、ふたりにはどうでもいいことだったのだ。

 

 ただ、一緒に居ることが当たり前のふたりで、だからキスをしても、おそらくはそれ以上をしても特にどうということもない関係で、ふたりはそれで良くて。

 

 ふたりは、自分の食べかけを相手に渡し、渡されたら躊躇せずそれを口に含み、味わうような関係だった。海産物の、干物の中には、ある程度噛んだ状態から味が変わるものもあり、ふたりはそうした瞬間を楽しむため、幼い頃からそうしたことをいくらでもしていた。ならば舌を入れるキスなど、そんなのはもう、今更過ぎて笑うしかないではないか。

 

 同じ海を見て育った。

 

 いったい、何歳まで生まれたままの姿で海を泳ぎ、浜に上がって過ごしたことだろう。あちらが自分の平らな胸を覚えているように、こちらもあちらのちんまいブツを覚えている。成長したそれらを改めて見せ合うのは、最初は違和感が凄いかもしれない。でも、それは別に嫌な気持ちにもならない想像だ。噴き出してしまうような笑いの中に、少しだけ喜びが混じる妄想だ。

 

 自分の人生において、そんな風に思える相手は彼だけだった。幼い頃からの、異性の知り合いは他にもいたけれど、自分が自分のまま、生きていけるのは彼の隣だけだったのだろうと思った。

 

 それはもう、今からでは絶対に手に入らないものだった。

 

 だから気付いた。自分の人生が、ここで壊れてしまったことに。

 

「嘘吐き……一生、愛してくれるって言ったのに」

 

 ここより先の自分は、色んなことを嘘で固めながら生きていくしかないのだと思った。

 

 アンネリースは泣いた。悲しくて泣いた。声をあげて泣いた。痛む喉を震わせ泣いた。

 

 失われた左半身から、内臓の一部が覗く、グロテスクな死体を、けれど慈しむように抱きしめて泣いた。

 

 

 

 

 

 それは、半生を暴力の世界に生きた十九歳のビンセンバッハであっても、その生涯の中で一度も味わったことの無い痛みと苦しみだった。

 

 太い柱が、腹を潰している。細い柱が、複雑に肩や手に絡んで身動きがとれない。

 

 最初に聞いたのは、この世の終わりのような爆発音だった。それから、いくつもの人々の悲鳴、肉が焼ける臭い、熱風。

 

 そうして気が付けば、ビンセンバッハはこの状態になっていた。

 

 全身を炎に包まれ、死の舞を踊る人々の姿を思い出す。

 

 倒壊した建物の、倒れた柱に身体を縫い付けられたまま、ビンセンバッハはつい先ほど地獄の光景を見た。炎に包まれ絶叫する人々の、絶望に彩られた死の舞踏会を見た。

 

 獣のような叫びをあげながら、走ったり、手足をばたつかせたり、転げまわったり、身体を地面に叩きつけたり。

 

 そうしても消えぬ炎に身を焼かれながら、全身でその激痛を表現し舞う、踊り子となった先輩方の断末魔を「見た」。

 

 それにしても……ビンセンバッハは思う。

 

 それにしても、事切れた人々の……焼死体が、まるで天に導かれるかのように浮かび、消えて行ったのはなぜだろうか。ここはやはりもう地獄なのではないか、自分はもう、本当は死んでいるのではないか。

 

 死の舞を踊った者達は、それによって罪を許され、天に召されていったのではないか。

 

 周辺に、生きている者が完全に消えてしまった今となっては、彼のその疑問へ答えてくれる者はどこにもない。生きている者を探そうにも、彼は動けない。

 

 柱から逃れようと、身じろぎをすれば、痛みと苦しみと、身体の軋む音だけが返ってくる。何度もそれを思い知らされ、今はもう同じことをする気力も残っていない。

 

 息をすれば、いまだ人の焼けた(にお)いが呼吸器に入ってくる。

 

 それはあまりにも酷い、この世の終わりのような(にお)いだと思った。

 

 自分は、このような地獄に落とされるほどの、何をしたのだろうかと思った。

 

 もちろん……自分が、ロクでもない人間であることはわかっている。

 

 小さい頃はガキ大将と乱暴者の、その境目がわからないような存在だった。息をするように人を殴ったし、他人の物を奪ったし、小さな世界に君臨していた。

 

 長じてはチンピラ集団の、どこにでもいる不良のひとりだった。十三だか四の時に、初めて喧嘩で完膚なきまでに叩きのめされ、それまで自分のいた世界は、なんと狭いものであったのだろうと思い知らされた。そうしてアニキ達の舎弟となり、数年を過ごした。

 

 盗みをして、盗んだ酒を飲み、食い、気が付くと誰かをボコボコにしていたり、自分がボコボコになって地面に横たわっていたりした。

 

 アニキ達が(さら)ってきた女をみんなでマワしたり、自分が、そうする目的で女を攫ってきたこともある。殺したことはないが、あとで自殺した女はいたと聞いている。

 

 その頃のビンセンバッハは、絵に描いたような不良だった。それもかなり質が悪い方の。

 

 だが、それももう卒業した過去だ……彼はそう思っている。

 

 四年も五年もそうした生活をやっていれば暴力に、荒んだ生活に嫌気がさしてくる。少なくとも彼はそうだった。そうして一年前にグループを抜けたのだ。

 

 仕事もしてる。同じく既に「卒業」していたアニキ達の、ひとりが紹介してくれた仕事だ。土木作業員だ。

 

 彼を押し潰しているこの柱は、建てていた家の大黒柱となるはずのモノだった。

 

 だから……どうして「今」なんだと思った。

 

 滅茶苦茶をしていた頃でなく、どうして「今」なのかと。

 

 人を殴り、傷付けたのは悪いと思っている。女を攫い、犯し、マワしたのも悪いと思っている。けど、それが悪いならどうしてその時に言ってくれないのか、どうして真面目に働き、いつかは自分も一家の大黒柱となりたいと思っていた矢先に、こんなことになるのか。

 

 どうして。

 

 どうして。

 

 どうして。

 

 苦しみの中で、ビンセンバッハは何度も何度もそう思った。

 

 気が付くと、腹の、ほとんどぺちゃんこと言っていい状態になったその部分には痛みを感じなくなってしまっていた。それよりも他の、肩であるとか、手足であるとか、胸であるとか、その背中側とか、頭とか、おそらくは脳がある部分とか、そういうところが痛い、苦しい、どんどんとその痛苦は酷くなっている。

 

 情けなく呻いても、叫んでも、耐え切れないほどの痛みになっている。

 

 血が喉に絡んで、息が上手く吸えなくなってきている。めまいがする、耳鳴りが聞こえる、全身が痛くて苦しい。

 

 苦しい、苦しい。

 

 もはや自分は助からない。この腹ではもう助からない。そのことはわかる、だからもういい、いい加減、終わってほしい。自分はロクでもない人間だ、死が罰というなら受け入れる。だからもう楽にしてくれ。

 

 ……だが。

 

「……ああっ」

 

 彼の苦しみは、そこでは終わらなかった。

 

 彼は更なる地獄が自分へ迫っていることに気付いて、絶望の声をあげた。

 

 それは炎。赤い、鋭い針のような、悪魔の舌の愛撫だった。

 

「うううぅぅぅ! あぐぁあああぁぁぁ!!」

 

 見れば、周囲からじんわりと広がっていた火の手が、ここにきてビンセンバッハを包みこもうとしている。

 

「どうじて! もう少じで、もう少じだったのにっ」

 

 どうして、どうして今なんだとビンセンバッハは嘆く。

 

 もう少しで、もう少しで自分の意識は途切れたのにと嘆く。

 

 途切れ、それで終わるはずだったのに、楽になるはずだったのにと嘆く。

 

 そう願ったことが、罪だったとでもいうのだろうか?

 

「あああ!!……」

 

 最初に、本格的に燃え上がったのは彼の右手の辺り。今までは手首から先が、少しだけ動かせたそこ。

 

 動く力など、もう残っていないと思っていたのに、どうしてか、どうしてもそれは別の生き物のようにバタバタと動き、生きたまま焼かれる地獄から逃れようとした。

 

「あついっ、あづいっ、あづいぃぃぃ」

 

 そうして次に、最早動けなくなっていた左腕の、そこへも炎が到達した。二の腕の辺りからまた強烈な痛みが広がっていく。それはもはや熱さというより、激痛だ。それが、今にも消え入りそうだったビンセンバッハの意識を叩き起こす。もっともっともっともっと苦しめと嘲笑(あざわら)うかのように叩きのめす。

 

 それを、ビンセンバッハはかつて自分達が犯し、死なせた、女達(自殺したのは、ひとりではなかったはずだ)の嘲笑(ちょうしょう)なのかもしれないと思った。

 

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ、ぅぎぃぃぃぃぃぃぃ、だずげでぇぇぇぇぇぇぇ」

 

 ビンセンバッハの身体が、燃えていく。

 

 激痛が全身に広がっていく。

 

 その、これまでに一度も味わったことの無いような苦しみを、どこへも逃げられず延々と叩きつけられる、その地獄の中で、ビンセンバッハは壊れていく。ただ痛みに絶叫するおかしな機械のように、非人間的なまでに身体を痙攣させながら。

 

 動けず。

 

「あぎあ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁぅぅぅぁぁぁぁぁぁ」

 

 生きたまま。

 

 意識あるまま、若く、まだまだ頑健な身体が、ゆっくりと、じっくりと焼かれていく。

 

 

 

 

 

 セルディスは思った。

 

 これで、娘にやる家もなくなっちまったわ。

 

 そう思いながら、彼は呆然と炎に包まれる「元」我が家を眺めていた。

 

 セルディスは乾いた心で思った。

 

 先刻、四十年以上連れ添ったババアが死んだ。頭を撃ちぬかれて死んだ。

 

 何が飛んできたのかはよくわからない、ズゴンという音と共にババアの頭が半分消し飛んでいた。その後、街中(まちじゅう)から火の手があがった。セルディスが若い頃に苦労して買った家も、すぐに彼では手が負えないほどの炎を噴き上げ始めた。

 

 元は、少し高台にある、窓からの見晴らしが素晴らしい家だった。

 

 旦那に先立たれた娘のひとり……といっても、もう五十代も後半だ……が、住みたいから譲ってくれとうるさかった家だ。

 

 それがもう、跡形も無くなってしまって……はいないが、今も燃え続ける、その赤に飲み込まれた黒の影には、もはやほんの少しの面影しか残っていない。

 

 公爵領において、土地と家の相続は、基本的に直系男子にのみ可能だ。セルディスとその妻には男児が生まれなかった。ゆえに、相続権を持っているのは長女と三女の息子達のみだ。娘がふたり居るだけの次女に、セルディスの家を相続する権利はない。

 

 相続しない場合は、土地と建物は一旦公爵家に返還される。そして然る後にまた競売(けいばい)にかけられ、人の手に渡る運びとなる。

 

 三女は良い所に嫁に行った。実家の家と土地など必要ないくらいに。

 長女は普通の男と結婚した。余裕ある生活とはいえないが、困窮してるほどではない。今すぐにでも遺産が欲しいとは言い出さないだろう。

 

 セルディスはため息をつきたくなる気持ちで思った。

 

 そもそもそのふたり(とその孫達家族)は王都に住んでいる。三年前に少しだけ一時避難をしてきたが、事態が沈静化したらすぐに帰って行っちまった。薄情なもんだわな。

 

 問題は次女だった。生きているだろうか。

 

 孫達には生きていてほしいが……。

 

 セルディスは考える、歳をとり、だいぶ鈍くなってしまった頭で考える、様々なことを思い出しながら考える。

 

『お父さんはずっと私だけに冷たかった、その分の愛情を今からでも請求することがそんなにおかしいこと?』

 

 次女は昔からよくわからない子供だった。自分勝手なことばかりを言って、それが叶えられないとヒステリーを起こす。長女からのお下がりは気に入らないと言って破り捨てる。仕方無く買い与えた服にも満足することはなく、すぐに飽きたからと言ってまだサイズの合わない三女に与えてしまう。三女が少し大きくなり、それを着こなせるようになると、今度は何が気に食わないのかそれを取り上げ、また破り捨ててしまう。

 

 家の手伝いを頼めば、長女が近くにいる時は『どうして私なのよ!』とキレる、三女がいる時は三女へ押し付ける。ふたりがいない時に頼めば、ふてくされた顔で一応は受けるものの、わざととしか思えないような失敗を繰り返す。

 

 愛情は、三人に平等に与えたはずだと思う。少なくともババアは……あいつらの母親はそうしていたはずだ。あまりしたくない話をすれば、家の金をもっとも浪費させられたのが次女だというのも、歴然たる事実なのだ。

 

 三女が良い所へ嫁に行ってくれなければ、この家も大分前に手放さざるを得なくなっていたに違いない。

 

 その三女からの仕送りも、随分と次女が(かす)()っていったものだ。

 

 他のふたりよりも、だいぶ早いうちに結婚した次女は、それから二十年ほどは大人しかった。時々、孫達……次女の娘達……のために少し援助してほしいと言われ、少なくはない額を渡したが、それはむしろ望むところだった。孫達は、目に入れても痛くないほど可愛かったし、自分も、()年波(としなみ)には()てず引退するまでは、それなりに稼ぐ男だったのだから。

 

 だがその孫達がまた結婚をして家を出ていき、次女の夫が四十代の半ばで……船乗りだった彼は、航海中に嵐に遭ってしまった……帰らぬ人となると、三十代の半ばだった次女は昔よりも更におかしなことを言い出すようになった。

 

『自分が不幸せになったのはお父さんとお母さんのせいだ、お父さんとお母さんがちゃんと自分を愛してくれていたら、自分があんな男と結婚することもなかった。だからお父さんとお母さんはまだ私を幸せにする義務がある』

 

 あんな男って、愛して結婚していたんじゃないの?……ババアが問いかければ、また鬼のような形相で言い返してくる。そんなわけないでしょ!? こんな家からは早く出て行きたかったからよ! 誰も私のことを愛してくれない! こんな家から!!

 

 お母さんになんてことを言うんだ!!……それへ自分は、久しぶりに、娘に手を上げてしまったが、そうすると今度は泣き出されてしまった。娘ふたりを産み、嫁に行くまで育てた……そういえば、そのふたりの結婚も早かった。次女の理屈なら、あのふたりも実家から早く出て行きたかったのだろうか……三十も半ばとなった娘が、駄々をこねる子供のように泣き喚く。

 

 (いわ)く、相続権のない家と土地を、自分が手に入れるには、オマエラから格安で譲り受ける必要がある、だから寄越せ、長女と三女は王都に居る、相続をしても売り払うだけだ、この家を残したいなら私に売るしかないだろうが……と。

 

『この家を私に寄越せ! オマエラは出て行け! 長女のところへでも三女のところへでも行ってしまえ! 愛してもらえなかった私にオマエラの面倒を見る義務は無い!! せめてそれくらい私をヒイキしてくれてもいいはずだ!』

 

 ……こちらが何を言っても耳に入っている様子はなく、ただ泣きじゃくりながらそのような主張を繰り返す次女へ、自分ら夫婦は何をすることも出来ず。

 

 その日は、無理矢理にでも次女を帰らせた。夜にババアとふたり、何が悪かったのかと話し合った。情けなかった、自分達が、あんなわけのわからない子供を育ててしまったことが。

 

 それからまた二十年ほどが過ぎた。寄る年波に敗北して完敗して惨敗して、仕事も引退し、年に数回、この家にやってきては金をせびり、家を売れと迫ってくる次女にもある程度は慣れた。次女は、まとまった金を渡すと、しばらくは家に来なくなる。仕事仲間に紹介してもらった調査人に探らせてみたところ、妙な男に貢いだりしているといったことはなかった。それは安心出来ることだったが、ただ、ずっと一日中家に閉じこもっているだけというのが気になった。女が家に閉じこもってできる仕事といえば、縫い子等の内職の類だが、そうした仕事を()けている様子もないという。そもそもあの子は手先が不器用だった。

 

 一緒に住んで、家の手伝いをするなら、その内にこの家を売ってやってもいいと言ったことがある。答えは、イヤよ、私はお父さんもお母さんも嫌いなの、嫌いな人とどうして一緒にいなければいけないの、というものだった。

 

 ババアが孫の……あなたの娘のどちらかの嫁ぎ先に、お世話になるわけにはいかないの? と聞いたことがある。その答えは、完全なる沈黙だった。

 

 自分も、もう老い先は長くない。ババアは、自分よりももう少し長く生きるだろう。

 

 ……そう思っていた。

 

 だから長女に連絡を取り、この俺が死んだ後はその長男にこの家を相続をしてもらい、ババアが死ぬまでは売らないで居てくれるよう、お願いをした。王都に来るならお母さんの面倒くらいは見るけど、と言われたが、ババアもこの街で死にたいとそれを断った。次女の行く末も、気になっていたのだろう。ババアは、愛想が尽きかけているこの俺よりも、ずっと次女のことを心配していた。

 

 そのババアも、先刻、死んじまった。

 

 これからどうなるのか。

 

 家は失くしたが、土地はまだある。だが自分に家を建て直す金はない。もうない。そんな余裕は次女が全部吸い取って行ってしまった。次女の家も、眼下に見た感じ、おそらくは消失してしまっただろう。

 

 次女が生きているなら、俺達親子はどうすればいいだろうか?

 

 次女が死んでいるなら……。

 

 そこまで考え、セルディスはある自分の心境へ戦慄をした。

 

 悲しくない。

 

 自分の娘が死んでいるという仮定に、何の哀しみも湧いてこない。

 

 いつからそうだったのか、元からそうだったのか、よくわからなくなっている。

 

 娘だとは思っていた。だからこそ少なくはない金を渡したのだし、家へやってくればもてなしもした。支離滅裂な妄言にも目をつぶることが出来た。手を上げたのだって、人生の中では数回のことでしかない。どれも、次女の暴言がババアへ向いた時だけだ。それが理不尽であったとは今でも思えない。今ならはっきり言える、次女とババア、ふたりが死に掛けていて、どちらかしか助けられないなら、自分は迷わずにババアを助けただろう。ババアは次女を助けてというだろうが、俺はその言葉には従えない。それは、その態度は、長女へも三女へも、同じく向けていたもののはずだ。そして長女と三女は立派に成長した。次女だけがおかしくなった。自分の、どこが悪かったというのだろうか。

 

 いや……悪かったところは、あるのだろう。当然、あったはずだ。けれどそれがあそこまでおかしなことを言われる、される理由にはならない。そこまでの理不尽を押し付けられる()われはない。自分だけならばまだ納得できる、だが次女はお母さんも自分を愛してくれなかったと主張している。そんなはずはない、アレは愛情豊かなババアだった。俺が惚れて、やっとの想いで落とし、俺の子を産んでくれて、生まれた子を全身全霊をもって愛した、そういう女性だった。ババアに言われなかったら、俺はもっと早い段階で次女との縁を切っていたはずだ。

 

 顔だけは一番母親に似ていた次女が、次女だけがどうしてその愛情に気付けなかったのだろうか?

 

 セルディスは思う。そして考える。

 

 ババアが死んだ今となっては、もはや次女が生きていようが死んでいようが、どちらでもいい。

 

 死んでいるなら、もはやそれで悩まなくてもいいということだし、生きているなら、とっとと縁を切ってしまおう。そうしてそう遠からぬ未来、自分もババアを追って、あの世へ行こう。その前に、一度だけ長女と三女へ会いに王都へ……いやそれもやめておこう、未練が残るかもしれない。自分はもう随分と長く生きた、もう充分だ。

 

 セルディスは思う。そして考える。

 

 自分の人生を、愛した妻のことを、愛した子供達を、愛せなくなってしまった子供を思う、考える。

 

 セルディスは考える。そして考えることをやめる。

 

 涙が零れた。

 

 名前にさん付けから呼び捨ての関係に、それから、おまえと、母さんと、ババアと、変化してきた妻との日々を想い出して泣く。長女が、三女が、次女が生まれた日の心の高揚と喜びを思い出して泣く。孫達の可愛さを思い出して泣く。唐突に訪れた夫婦の終わりに泣く。やがてくる己の終わりを、人生の終わりを想って泣く。

 

 セルディスは様々なことを思い出し、やがて思い出すこともやめた。

 

 何もかもを失った老人が、真っ黒に空いた己の裡なる穴へ、残る心の全てを捧げ尽くすかのようにただ泣いている。

 

 

 

 

 

 ディアナの目に、少しだけ光が戻る。

 

 何年も彼女を閉じ込めていた扉が、男の手によるものではない音を立て、開かれようとしている。

 

 ディアナが攫われ、この地下室に閉じ込められたのは、彼女が十三歳の頃だった。それからもう四年が過ぎた。ずっと地下に閉じ込められ、健全な運動は何もさせてもらえなかったその身体は、人間とは思えないほどに白く、十七歳とは思えないほどに細い。足はもうまともに歩くことすら困難なほどに弱ってしまっている。

 

 少し前に大きな爆発音がした。普段は、男が階段を降りてくる以外の音は、どれも遠い世界にあるもののように感じられてしまう。それくらい、ここは地上からは切り離された世界だった。それでもその音は、ディアナの耳にもハッキリと届いた。

 

 それから、どれくらいの時間が経っただろうか。

 

 何かの燃えるような音がした。何かが、外開き扉の前に落ちてくるような音がした。

 

 何かの燃えるような匂いがした。硬い木製の扉から、焦げたような匂いがし始めた。

 

 しばらくして、扉に付いていたいくつかの金具が、歪んでいくのがわかった。かつてディアナが絶望の中、何度か爪を立てて、しかし何を変えることも出来ずにいた扉が、それをぼうと眺める彼女の目の前で歪んでいった。

 

 だがそうしている内に、扉は何かの限界を超えたようだった。

 

 それは何度か断末魔のような音を立て、ゆっくり少しだけ外側へ歪み、閉鎖空間に小さな隙間を作った。人間が……ディアナほどの細身であってさえ……通れるほどではないが、少し引いた場所からでも若干、視界が通る程の幅はあった。

 

 地下室の、その前で何かが燃えているのが見えた。

 

 扉が開かれたことで煙が部屋へ入ってきたが、その発生源は既に燃え尽きようとしていたのか、勢いはさほどでもなかった。見ればそれは、カーテンのような厚い布地と、木の板のようだった。

 

 カーテンには見覚えがなかったが、木の板は遠い昔に……とディアナが感じる四年前に……見た覚えがあった。地下室と地上階とを分かつ(ふた)……のような役割をしていた板だったと思った。

 

 監禁されて三日目、ディアナは食器で男の頭を殴り、逃げようとして階段を上がった。その行く手を阻んだのが、その板だった……はずだ。もしかしたら違うものかもしれないが、かろうじて残っているその形は、その時のままであるように見えた。

 

 それには簡単な鍵が付いていたはずだ。それを外そうとしてる間に、回復し、追ってきた男に捕まってしまったのだから。殴られ、蹴られ、首を絞められ……とにかくもうそれから十数日は毎日死ぬような目にあわされた。その頃のことを思い出し、ディアナの身体に震えが走った。それはディアナの気力を根こそぎ奪っていった出来事の……その記憶だった。

 

 ディアナはしばらく、少しだけ開いた扉の前でグズグズしていた。

 

 いつ、階段を降りる足音が響き、男が現れ怒鳴り散らすのかと怯え、ビクビクしていた。

 

 逃げられるのかもしれないという発想が頭に浮かんだのは、それから三十分以上が経ち、カーテンらしきものと木の板が完全に燃え尽きてしまってからだ。

 

 その頃には地下室にも、かなりの煙がたまっていた。

 

 だがいつも(うずくま)り、床に近い位置に頭を置いていたディアナは、そのおかげで意識を失うこともなくいられた。それでもとうとう咳き込んでしまい……その時初めて、ディアナはこう思ったのだ。

 

 出て……いいの?……と。

 

 ディアナの足はもうまともに動かない。腱を切られてはいなかったが、筋肉が完全に衰えてしまっている。だからディアナは這うようにノロノロと進み、扉の前で、ごくりと唾を飲み込んだ。

 

 両手首でさえ、男が片手で持ててしまうようなか細い腕を扉にかけ、押す。

 

 しかしそれは最後の抵抗を示すかのように、固く動かなかった。

 

 ディアナは、数分頑張って……諦め。

 

 今度は半身を、扉の隙間へ割り込ませる。そしてまた押す。

 

 肩が痛い、背中が痛い、しかし全体重……おそらく四十キログラム(40kg)もなかっただろうが……をかけ、死ぬ気で押すと、(ようや)くディアナひとりくらいなら通れるだろう幅が出来た。

 

 ディアナは這って進む。炭となったカーテンで下半身を汚しながらそれでも進む。胸が、久方ぶりに高まるのを感じる。心臓がバクバクいっている。吐いてしまいそうだ。それを自覚しながら、押し殺しながら、階段を冗談のような遅さで上がる。

 

 両腕に力を籠め、賢明にお尻を浮かせて一段。

 

 何も履いてはいないお尻に、木の階段は所々チクチクと痛い。けれどディアナはそれを気にしない、気にしないでいられる。何年も死んでいた心に、輝くような色が戻っている。

 

 頭上には、蓋となっていた木の板を失ったことで、ぽっかりと空いた大きな穴がある。その向こうに自由がある。今はすすけた天井しか見えない。だけどその向こうには太陽がある、空がある、夜空の星々がある、四年間、ディアナが見ることも叶わなかった世界、味わうことの出来なかった景色、もう少しでそこに、ほんの少しでそこに辿り着ける、家へ帰れる。

 

 (はや)る胸を押さえ、少し休んで、また両腕に精一杯の力を籠めて、賢明にお尻を浮かせてまた一段。そうしてからはぁと息を吐き、はぁはぁと息を整え、彼女は一段、また一段と進んでいく。

 

 もし。

 

 今、頭上の穴に、ディアナを閉じ込めていた男がひょいと顔を現し、ニタリと(わら)ったなら。

 

 これが、彼女を更なる地獄へ落とすための趣向であったなら。

 

 その時こそ、ディアナの心は粉々に砕け、壊れ、二度とその色を取り戻すことはなかっただろう。

 

 だがそんなことは起きず、ディアナは十分以上の時間をかけて二十三段の階段を(のぼ)りきった。

 

 最初に見えたのは……。

 

「うっ……」

 

 穴より数メートルほど先、木造部分が燃え尽きた家の、その玄関に倒れこむ、男の姿だった。

 

 どういうわけか、下半身だけが黒焦げになっている。もはや尻といえるようなモノはなく、太腿(ふともも)もそのほとんどが丸く(えぐ)られてしまっている。ふくらはぎから下は綺麗に残っていたが、それが逆に滑稽にも見える。

 

 男は死んでいた。傷は黒く焦げていて、周囲にも出血の跡は無かった、出血死ではなく、ショック死のようなものだったのだろう。胸に耳を当てても心臓の音は無く、異常な表情のまま固まったその顔に、呼気の様子も無かった。

 

 何が起きたのか、ディアナにはわからない。

 

 扉を失った玄関の、その向こうに見える景色は、焼け野原だ。

 

 けれどディアナは思う。

 

 ある確信だけが、ディアナの心を極彩色(ごくさいしき)に染めている。

 

 ある確信だけが、ディアナの中に歓喜を呼び覚ましている。

 

 自由だ。

 

 私は、やっと自由になれたんだ。

 

 あんなことも、こんなことも、もうしなくていい。

 

 あんな目にも、こんな目にも、もうあわなくていい。

 

 ああ……ああ……帰れる……家に帰れる。

 

 大火災に見舞われた街の片隅で、グロテスクな死体の(そば)で、ディアナは思わぬプレゼントを貰った子供のように泣いて(よろこ)ぶ。

 

 絶望の中で、自死を選ばなかった自分自身に感謝する。賞賛する。褒め称える。

 

「やっと、やっと帰れるんだっ……」

 

 だくだくと流れる涙を、拭うこともせず、彼女は(よろこ)びに泣いた。

 

 四桁の被害者を出した災害、ボユの港の大火災において、ディアナはこうして、心身の自由を取り戻したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうしてボユの港町、その倉庫街において、いまだ地下シェルターに自らを閉じ込め、閉ざされ、動けないレオと、ラナ達は――。

 

 

 

 

 

 

 

<ラナ視点>

 

「それで、質問は終わりですか?」

「……今のところは」

 

 レオを助けられる可能性のある仮説、賭けとは。

 

 私の命、存在そのものをチップにした、賭けというのは。

 

「……ツグミ、本当に効いてるの? この……ギャサマジックだっけ?……は」

 

 それは、言うまでもなく、レオの魂全てを、私に移してしまうこと……だった。

 

 しかしそれは「だった」……過去形だ。

 

「そのはずですが……申し訳ありません、絶対とは言えません」

 

 レオの肉体を治す方法は無かった。レオは、私の魔法無しには生命活動を続けられない状態にされた。この魔法を使い続けることに、根性論的な限界がある以上、レオの命にはあと数週間という限界が設定されてしまった。

 

「まぁ……あんな相手だからね、仕方無いけど」

「……申し訳ありません」

 

 だから思ったのだ。

 

 レオの魂を全て私の肉体に移し、可能なら私の魂と融合させ、それが無理ならば私の魂をところてんのように押し出してしまい、レオの魂だけをこの身体に定着させる。そうすることで、レオは、私の肉体で生き続ける事も可能なのではないかと思ったのだ。

 

 それは、本当にどうなるかわからない魔道の極致、最後の手段だった。

 

 ツグミの力を借りれば、他者から他者への魂の移動も可能なのではないかと気付いてからは、レオの魂を別の男性の身体に……たとえば船から救出した五人の中の誰かへ……移すことも考えたが、それはより「どうなるかわからない」、分の悪い賭けだと思っていた。

 

 今はもう少し、分の良い賭けが目の前に提示されている。

 

「制約に、代償が科されている以上、改変なく無効化は出来ません。信じていただくしか、ありませんが」

「……ツグミ、解説」

 

 今、レオの肉体を治す方法は、目の前にある。

 

「……制約(ギャサ)魔法(マジック)はある種の強化魔法です。これは情報(データ)誘導体(デリバティブ)の機能を一部制限、限定化することで、その代償を得ます。手の機能を封印する代わりに、足を手のように動かすといった具合です」

「それはもう聞いた」

「基本的には自己強化魔法ですから、他者へ使う場合は相手の認可が必要です」

「それももう聞いた」

 

 巻き戻し魔法(ロールバックマジック)、か。物語のクライマックスにそんな魔法が出てきたら興醒(きょうざ)めすること(はなは)だしいと思う。機械仕掛けの神(デウスエクスマキナ)なんて、二千年以上も前に流行遅れになってしまった代物なのだから。

 

 しかしこれは、少なくとも私には現実だ。

 

「……嘘を()くというのは精神活動の一種です。今回の場合、嘘を考えるというその精神活動そのものを制限しています。代わりに得ているのが、あの方が指の先に灯らせている、あの炎です」

「あの、ハ●ポタのル●モスみたいな魔法ね。ツグミのと違って炎の形だし、七色に光っているけど」

 

 現実なのだから、当然何かしらの制限はあるのだろう。アレは、しゃらくさいことに、それをまるでないかのように振舞っているだけなのだろう。しかしそれは今のところ上手く機能している。突く隙が見えない。手で搦めとる先が見つからない。揚げない足に掴み所がない。そこが、見事なI字バランスを披露していたジュベミューワとの違いだ。

 

「あれは、ナガオナオ様の世界においては高位の魔法使い様が、これから言うことは嘘ではない、ということを示すために行う軽い()()のようなものでした。嘘を()けば炎が消える、色が変わるといった変化が起きるというモノです」

 

 到底、信じることのできないような救済の糸を目の前に垂らされた私は、ツグミに、相手の言っている嘘を見破る魔法ってないの? と聞いた。無いと答えるツグミに、私は更に、それに近いことが出来る魔法で構わないと迫った。

 

「ただ、指先に炎……私は炎が怖いため、自分の指先に出す場合は光球(こうきゅう)の形になりますが……指先に灯りを灯す魔法は他にもあり、指先に出したそれが制約(ギャサ)魔法(マジック)によるモノなのか、そうでないのか判断は難しく、この誓約はあくまでも軽い、冗談のようなものでもありました」

 

 その答えが、この制約(ギャサ)魔法(マジック)だった。

 

 申し訳なさそうに、『相手の認可が必要ですから、お役に立てるものではないと思いますが……』とも付け加えられたが。

 

「運動会の選手宣誓みたいなもの? 我々はスポーツマンシップに則り正々堂々云々の」

「それは……別に冗談でやっているわけではないと思うのですが」

 

 私は青髪のユーフォミーに、これを使わせろと要求した。お前の言うことは信用出来ない、信じてほしければこの魔法を受け入れろと。

 

 要求はしたけれど、受け入れられるとは思っていなかった。

 

 だが。

 

「運動部の子が大会でやるのは本気かもしれないけど、運動会とか体育祭のそれはセレモニーでしかないと思う」

「それは……制約(ギャサ)魔法(マジック)による誓約も、セレモニーの一種であると捉えればそうかもしれませんが……」

 

 どうぞと……しかしもはやユーフォミーではないのだろうその女は、すぐに応じた。

 拍子抜けするくらいに、あっさりと。

 

「セレモニー、ね。教会で永遠の愛を誓い合った夫婦が、すぐに離婚する現実もあるわけだけど」

「はい。ただ……今回の場合、自発的に使ってもらったわけではなく、私が、あの方へ科した形となります。通常であれば……私に異変を報せない形での破棄、改変等は行えない……はず、なのですが」

「はず、ね。アレはツグミですら理解出来ない魔法を使う。そんな相手を前に、確かなことは言えないってことね?」

「……申し訳ありません」

 

 ツグミが、青髪のユーフォミーへ何かをすると、その頭上にいくつかの、白銀白金(はくぎんはっきん)の天使の輪のようなものが浮かび、それらはゆっくりと、艶やかな空色の頭へ飲み込まれていった。

 

 そうしてから私は彼女(?)へ、いくつかの質問をした。

 

 

 

 Q:私がもうすぐ死ぬというのは本当?

 A:ラナンキュロア様は最初の世界で、ノアステリアに斬られ死んでいます。後数十分でその状態に戻ります。だから死にます。

 

 Q:ロールバックマジックとやらの効果はその通り?

 A:その通りです。別の周回の状態に戻るのが不思議ですか? 当方には、雄雌(おすめす)が結ばれ子が生まれる、有性の生殖システムの方が不思議です。繁殖のためにも発展のためにも効率が非常に悪い。リスク管理のためというなら、そこで生まれる差異そのものが差別を生み、争いを、殺し合いを引き起こすのは何故でしょう。ですが、それも詮無(せんな)きこと。誰が何を想おうが世界はそのようになっているのですから。男女が惹かれあい結ばれ、子を成すように、ロールバックマジックもこの世界のシステムに沿った形でその効果を発揮します。理解出来ないのは、あなた様やそこのお犬様が世界の構造そのものを理解できていないからです。

 

 Q:ならば、ロールバックマジックとはどういうものなのか?

 A:回答を拒否します。説明したとて、理解できません。その時間も、無い筈です。たった今、関係無い話を長々とするなと言ったのはそちらでしょう。

 

 Q:レオを治せるというのは本当か?

 A:レオ様へはこの()()の数時間前に戻っていただくだけですから、間違いなく助かります。約束は守ります。術の効果発動後に、記憶は多少混乱しますが、術を受けたという記憶は残ります。術後に当方への敵愾心(てきがいしん)霧消(むしょう)しているなんてこともありません。それが術の目的ではありません。気に食わないというなら、かかってくればいいでしょう。ラナンキュロア様を失ったレオ様など、当方は脅威であるとは認識していません。

 

 ここでレオが、青髪女に噛み付いて丁々発止(ちょうちょうはっし)をしたが、それには何の意味もなかった。

 

 Q:オマエは私の敵か?

 A:敵ですよ、敵に決まってるじゃないですか、何度私が、ラナンキュロア様に煮え湯を飲まされたと思っているんですか。ですがそれと、約束を守る、守らないは別の話です。

 

 Q:オマエはツグミに変身できるのか?

 A:できます。

 

 Q:なぜそんなことができる?

 A:回答を拒否します。今回の件には関係の無いことです。

 

 Q:オマエはループしているのか?

 A:してます。

 

 Q:何の為に?

 A:回答を拒否します。

 

 Q:そのループはどうすれば止まる?

 A:今回はここまで理想的な形で進んでいます。今回で、止まるかもしれませんね。

 

 Q:オマエの目的は? 私が死ぬことを望んでいるのか?

 A:当方の目的は、情報の収集と、当方が望む形にこの世界を落着(らくちゃく)させることです。そしてそれはどちらも今回で達成に至る模様です。あとはラナンキュロア様が死を受け入れてくれれば完成となるのです。

 

 Q:どうして私の死がそんなに重要なんだ!?

 A:回答を拒否します。ですがその周辺の話をすれば、ジュベミューワ、ノアステリア、灼熱のフリードも、あのような形で死んでもらうことが必要でした。ラナンキュロア様の死もそれと同じことです。私の望む世界の形は、ラナンキュロア様の死で完成します。

 

 Q:幽河鉄道(ゆうがてつどう)で私が過去改変をしにくるとは思わないのか?

 A:どうして? このレオ様は生き残るのですよ? それを改変しに戻るのですか?

 

 ここでまたレオが、青髪女に無数の斬撃を放った。だがそれも、何の意味も成さなかった。

 

 次の質問の最中にもレオは青髪女を殺そうとし、それにはツグミもなんらかの魔法による補助を行っていたようだが、その全てが完全なる無為に終わってしまったのだというのが、見ていてわかった。

 

 青髪女はツグミよりも強い。わかっていたことだが、その事実は私からいくつかの選択肢を奪っていってしまった。

 

 Q:私が、レオのことを想うなら死を受け入れろと?

 A:そうです。今度こそ、あなたの旅は終わりです。

 

 ここに至り、勝敗は決してしまったと言っていい。

 

 

 

「ならもう、ツグミが知る魔法の常識を信じるか、目の前の相手が常識の埒外(らちがい)にある存在であると認めるか、その二択ってことね」

「ラナンキュロア様……」

 

 ツグミが知る魔法の常識を信じるなら、レオを助けるには青髪女の魔法に(すが)るしかない。

 

 目の前の相手が常識の埒外にある存在であると認めるなら、どちらにせよそんな相手に何が出来るというのか。四十六回目もループすれば、「私への対策」はバッチリというわけだ。……ってことは私はアイツに四十五回も勝ったのか。凄いな私、どうやったのか教えてほしい。ここにおいても、私が勝利する鍵は何かしらあるのだろう。でも……。

 

「どちらにせよ、私達に打つ手はないってことね」

「ラナ!?」

 

 おそらく相手は今回、その鍵を私に渡さないという、その部分に特化した作戦を採っている。そしてそれは、奇手ばかり使ってきた私にはとても有効だ。もしかしたらあの棒読みの声でさえ、反応や抑揚で何かを悟られないための擬態なのかもしれない。

 

 これは、私の檻だ。

 

 私という人間が身動きを取れなくなるよう、私に合わせて作られた牢獄。それはもう完全に構築されていて、どうにもならない。それに、これを打ち破ったとて、四十七回目かでまた違う対策がとられるのだろう。

 

「はい。そのように状況を整えましたから。これはラナンキュロア様に学ばせていただいた手法ですよ。相手の特性を逆手に取るという」

 

 レオこそが私の弱点であると知られている以上、相手の採れる選択肢は無数にある。対してこちらは悪足掻(わるあが)きしか出来ない。そして、それに成功したとて、次の周回で今度はそれへの対策を講じられてしまう。

 

 これはもう……。

 

 ダメだ。

 

「レオ、ごめん、もうどうにもできない」

 

 無理だ。

 

「諦めないでよラナ!! ラナはこれまでも、どうにもならないような状況を覆してきたじゃないか!!」

 

 この檻は私を完全に囲い込んでしまっている。

 

「諦める、諦めないじゃなくてね。私は戦略で負けたの。戦略で負けた以上、戦術レベルで出来るのは玉砕か、なるべく被害を少なくしての撤退かだけ。玉砕はこの場合、言うまでもなく無意味。それでね、レオ……私は、私自身の被害は許容できるけれど、レオを見捨てるということだけは出来ないの」

 

 だから。

 

「僕はラナを失ったら死ぬよ!? 僕はラナのいない世界でなんて生きていたくない!!」

「うん、わかっている。ありがとう、レオ。私を愛してくれて」

「何を……言っているの? ラナ」

 

 だから今までは、レオの魂全てを私に移してしまうことは……出来なかった。

 

 出来ずにここまで来た。

 

 でも、ここに来て別の選択肢が生まれた。

 

「わかった」

「……ラナ?」

 

 私は、今もモニターの向こうから私達を見下ろしてきている青髪女の、おそらくはこちらが見えているのだろう目を、全力で睨む。

 

「いいよ、わかった、死んであげる。でも条件がある」

「ラナ!!」

「……何ですか?」

 

 誰もこれを、望まないだろう。私だけが望む。

 

 誰もこれを、賞賛しないだろう。そんなものはいらない。

 

 誰もが、これを選んだ私のことを愚かと言うだろう。いくらでも言え、私はずっとその中で生きてきた。

 

「レオ……これから私がするのは、レオに、自殺させないための魔法を使うってことなの。それが、私の最後の魔法」

 

 コンラディン叔父さんの無念に、ナッシュさんの無念に、ユーフォミーの……肉体の無念に、ボユの港町で死んでいったおそらくは数千単位の人達の無念に、私自身の怒りに、私はさよならを言う。

 

「ラナ、何を……」

「何をする気ですか? ラナンキュロア様」

「……ふむ?」

 

 やはり私にざまぁは難しい。それは結局、自分自身を愛している人にしか出来ないことなのだ。私は私を愛していない。だから私は私の怒りすらも慰撫(いぶ)しない。そんなことよりもずっとずっと大事なことが、私にはある。

 

 私の世界には、レオしかいないのだから。

 

「レオに、私の恋心と愛情の全てを捧げる」

 

 

 

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