「
広島県
呉鎮守府自体は江田島にある海上自衛隊の教育施設敷地内に存在し、その中で一番大きな建物がメインに使用している庁舎になる。
その庁舎2階にある教官室の主である
「……簡潔に申し上げますと、
ええ、ええ。私も仕事ですからできる限りの対応はいたします。それでも常識と限度というものがあります。河口部長、それは重々ご承知願いたいものです」
人はその時の自分の感情と無意識の仕草が連動する癖を付けていることが往々にしてある。香取の場合はかけている眼鏡のフレームを撫でているときは怒っているときだと知っている鹿島は気が気でない。
今までにこの呉で香取の指導を受け、各鎮守府で活躍している艦霊は数知れず。そのみんなが揃えて口にするのは、『香取教官が眼鏡に触れたときは決して逃げずにただ頭を下げ続けろ』というものだ。
「改めて言うまでもありませんが、すでに来季の研修参加者の3名分の講義資料やそのほか研修中の出張先の手配など準備は済ませてあるんですよ?それを今から変更追加する手間暇を十分にご理解した上で電話してきているということでよろしいのでしょうか?!」
口調から香取の機嫌がどんどん悪くなっていくことを如実に感じている鹿島が心の中で『香取姉……。声にドスが効いてるよぉ……』と思わずつぶやく。
「ええ、ええ。艦霊の絶対数が不足していることによって鎮守府の皆さんの負担が重いことは私も承知しております。一刻も早く戦力化させたいという気持ちも痛いほど知っております。ここで無下に断ることはしませんが、こんなことは二度と勘弁してください!
はい、そうですね、私の優しさを本当に噛みしめてください。本当に。あと、遡りで結構ですから依頼文の送付もやっておいてください。ひとまずこの電話で私たちは受け入れ準備を早急に進めますから。
は?呉までの足?!それはそちらで何とかしてください。では、くれぐれもよろしくお願いします!」
香取が大きなため息を吐くとともにガチャンと大きな音を立てて受話器を戻す。そばにいた鹿島が電話のやり取りを案じ、歩み寄って香取へ声をかける。
「香取姉、今の電話は……」
「悪いわね鹿島、研修に一人追加よ。横須賀の
電話の内容は横須賀鎮守府に新規に配属されるグラーフ・ツェッペリンを明日からの初任者研修に加えるよう依頼するものだった。香取にとってはあまりにも突然すぎる話であり、最初は難色を示していたが、結局は受け入れるしかないだろうという判断に至った。実際のところは、研修はまだ始まっていないのだから間に合うし、間に合わせるしかないという結論を河口との会話の途中から決めていた。
と言っても香取の立場からすれば歓迎しますとは当然言えるわけがない。部下へは業務量の増大という負荷をかけるわけだから、組織人としては抵抗するのが通常の対応だ。鹿島が見ている手前、ポーズだけでも取らなくてはいけない。
そんな香取の考えを知ってか知らずか鹿島は元気良く答える。
「それじゃあ、教官や研修課の皆に報告して急いで準備を整えるように指示しますね」
「頼むわ。私は上に報告してくる。それが終わったら一緒に準備に取り掛かりましょう。
「はい!承知しました、香取研修課長」
鹿島がパタパタと可愛げのある足音を立てて部屋を出ていく。その後ろ姿を見ながら香取は急な業務の割り込みに嫌みの一言もなく受け入れてくれる妹艦に内心感謝する。
そして先ほどまでの不機嫌な態度をすっかり表情から消した香取も足早に教官室を出て、上司である教育部長など関係各所へ報告しに向かう。
顔は平静を装っているが、上に上手く説明しないといけない苦労がこれから待っていることを考えるとさすがの香取も上向いた気分にはなれない。
「はぁ……。もしかすると私って甘いのかしらね」
そう独り言ちるが彼女のように真摯に仕事に向き合う者がいるから組織は回るのである。
■――■――■ ■――■――■
「グラーフの研修参加、大丈夫だった……?」
同じ横須賀鎮守府の執務室で香取との電話を聞いていた
「無事に成功さ!」
「いや?!全然無事な雰囲気じゃなかったし、それに罵倒されていたっぽかったけども?」
河口があっけらかんとした口調で答え、隼鷹は何を言ってんだという片目を細めて非難じみた様子で見返す。隼鷹にしてみれば、もっと以前に香取に『もしかするとグラーフが呉に行くことになるかもしれない』と伝えておけば向こうも混乱することにならなかっただろうし、スムーズに受け入れてもらえただろうにと思わざるを得なかった。ただ、それを言うと『じゃあなんでそれを隼鷹さんが言ってくれなかったの』と水掛け論になりそうなので口にはしない。
「なぁに。香取さんの元気な声を聞けて嬉しいくらいさ。グラーフさんの研修参加依頼を連絡するのを忘れていたのを思い出した時はどうしようかと思ったけど、頼んでみるもんだねぇ」
「はぁ……。とりあえず研修に参加できそうでほっとしたけど、グラーフが呉についてから香取にいびられないようにしてくれよな……」
「大丈夫!あの人はそんなことしないさ。優しい人だって僕は知っているよ」
「はぁ……」
隼鷹は目の前のからっとした声で笑う男を見て思いふける。横須賀の河口と言えば的確な指示と部下の失敗に懐の深い男だと言うのが専らの評判だ。だが、隼鷹の藤紫色の瞳に映るのはひょうひょうとした態度で『なんとかならんかね』と言って無茶を通そうとする、良く言えば人懐っこく、悪く言えばずぼらな中年だ。
「ま、なんとかなったんだったら、それでいいか……」
やや頼りなさげな光景を見てつぶやく。むしろこういう態度でいてもらった方が自分たちが支えなきゃと部下が奮起するのかもなとも思う。きっとそういう考えの方が世の中スムーズに行くもんだ、と隼鷹は自身で結論付けて自分の仕事に戻っていく。
次回から2章として呉鎮守府編になります。書き溜めているところですので、ある程度時期を集中させて上げる腹積もりです。