安寧を望む者よ   作:宮本蓮桜

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第一話

 それは、なんてことは無い穏やかな日の事だった。

 

 まず目に入ったのは覚えている天井とは全く違う、柔らかな木材で造られていた。

 そして、体に感じる拭いきれない違和感。肌に触れる衣服が、布団が、空気が、何もかもが違う気がした。

 自分の右手がある筈の位置に目を向ければ、成長しきった手ではなく、未だ未完成な手がある。その手を意識すれば、ちゃんと連動して動く。

 

──何が起こっている?

 

 右手を恐る恐る顔の前に翳し、手のひらを二、三度程握っては開く事を繰り返す。自分のものでは無い手が、どう足掻いても自分のものであるという事実に不快感を覚える。だが、これは現実だと認識出来るほど意識はハッキリしている。残念な事に夢を見ているわけでは無いらしい。

 

 暫くの間、惚けていたが、いつまでもそうしている訳にもいかない。もう一度手を握りしめ、目を閉じて拳を額につける。

 

──落ち着け。大丈夫だ、自分が自分であるという意識はハッキリとしている。

 

 恐る恐るベッドから立ち上がると、フローリングの床が少し軋んだ音を立てる。

 

 周りを見渡してみれば、センスの良い年季の入った木製の家具が所狭しと並んでいる。

 部屋自体は決して狭いわけでは無いが、部屋が狭く感じる理由は机だろう。

 小学生程度なら横になれそうな、これもまた木製の机が存在を主張するように置かれている。その机の上には、見覚えがあるような、ないような筆記具達。その中でも特に目を引いたのは万年筆だった。

 己が持っていた物によく似た、そのペンを傷つけないようにそっと持ち上げる。黒く、光沢のある軸は高級な物では無さそうだが、使い込まれ、手入れもきちんとしてあるようだった。ますますこの部屋の主に感心する。

家具の配置に些か問題がありそうだが、統一感のあるその部屋は十数年もここに居た気がするほど心地が良い。

 

 カーテン越しに淡い光が部屋に静かに射し込む。そのカーテンを手で横に抑え、窓を開く。目に映ったのは浅葱色(あさぎいろ)の空と強い光を受けている西洋建築。自分が住んでいた都会の喧騒と打って変わって静かな世界がそこには広がっている。

 恐ろしい程美しいその景色に思わず溜息を漏らす。本当に此処は何処なのか。

机の上に置かれていた小さな時計をチラリと見れば六時前。

 涼しい風が、カーテンを少し揺らす。

 十分程朝の空気を浴びて、頭がスッキリとし始めた頃、窓を閉めてくるりと体の向きを変える。

 

 そろそろこの部屋の主を見つけださなければ。自分が何故此処で眠っていたのか皆目見当もつかないが、場合によっては弁明しなくてはならない。

 

 窓とは対象の位置にある扉に手を伸ばす。

ドアノブを回すと、鍵も掛かっておらず、今いる部屋と同じような雰囲気の廊下が伸びている。

 

 自分が居るこの部屋は廊下の突き当たりに位置しているらしく、左に2つ、右に3つ、そして正面に1つ扉が目に入る。

 自分が住んでいた家の何倍もの広さがありそうなこの家に少し眉を顰める。

 悩んでいても仕方が無いと思い、とりあえず最も近くにあった扉を開く。

 

 そこは洗面所だった。洗面所と言っても海外様式らしく、洗面台やトイレやバスタブ等がガラス板で区切られているだけだった。

 

 ふと鏡を見る。

 

 息を吸って、吐く。

 

 鏡の中から此方を見返すその顔は、自分と認識していたはずのものとは掛け離れていた。

 くせっ毛のある短い黒い髪に、エメラルドを彷彿とさせるグリーンアイ。一見すると男に見えるが、僅かながらに膨らんでいる胸がその人物を女であると示している。

 

──誰だ、誰だこれは。

 

 鏡の中のその人物は相変わらず眉を顰めて不機嫌そうに此方を見る。

 思わず後退りをする。やはり、鏡の中の人物も少し下がる。

 

──何が起こっている?

 

 どくどくと心臓の鼓動が早くなり、嫌な汗が流れる。

 思い出したかのように唾を無理矢理飲み込む。

 途端に目の前がぐにゃりと歪み、思わずよろける。ふらふらと定まらない視界がとても気持ち悪い。

 壁に手をやることで、なんとかその場で踏ん張ることができた。

 

──これは……いや、違う。私は、わたしは……

 

 

────ボクは。

 

 

「真純…?もう起きているのか?今日は随分と早いな」

 

 突然後ろから声をかけられ、びくりと肩が上がる。

 顔を上げれば鏡の中にもう1人、人が現れる。殆ど同じような見た目だが、決定的に違う髪の毛の色。その髪は光の束を集めたような色素の薄い色。

 

「…ま、すみ……?」

 

 自分のものではなかった声がそこに響く。

 

──これは……ボクの声?

 

 瞬間、ギュルギュルと一昔前の映画フィルムのように頭に映像が流れ出す。

 

『母さん、この子の名前はどうするの?』

『そうね…。うちは皆我が強くて、いつかバラバラになるかもしれないけれど、この子には。この子には、真っ直ぐ、ありのままで過ごして欲しいと思うの。だから、この子の名前は……真純、真純よ』

『真純……かぁ…。……母さん、僕もだっこしていい?』

『いいわよ。ほら、頭をしっかり持ってあげてね』

『あ!母さん!今、真純笑ったよ!』

『うちでは初めての女の子よ。優しくしてあげなさいね』

『よろしくね。真純』

 

『きちにぃ!』

『どうした?真純?』

 

『ままぁ…』

『ほら、泣かないで』

 

 これまで生きていた、十数年の思い出が流れる。

 夢から醒めたように、「ボク」はここに立っていた。もう目眩は治っていた。

 

「真純?」

 

 惚けていた自分の事を心配したのか、前に立っていた彼女は「ボク」に声をかける。

 「ボク」は、彼女に心配かけまいと挨拶をする。

 

「おはよう」

 

 自分で声に出すと、より一層スッキリと目が覚めた気がする。

 

「……大丈夫か?」

「……うん、ちょっと立ち眩みしただけ。昨日遅くまで本読んでたせいかな?」

 

 ハハッと乾いた笑いをあげながら適当に誤魔化す。彼女は少し眉を顰めるが、そのまま背を向けて歩き出す。どうやら流してくれるようだ。

 

「何時もより少し早いが朝食にしよう。さっさと顔を洗いなさい」

 

 そう言ったその背中をボクは追いかける。

 

「分かったよ」

 

 

 

 

 

 

「母さん」

 

 

 

 

 

 

──嗚呼、そうだ、そうだった。

 

 少女は全てを思い出す。

世良真純、15歳の頃の事だった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 己の覚醒が起こってからも、別段日常が変わることは無かった。やはり、自分は自分でしか無いのだろう。

 強いて言うならば自分が今いるこの地は己の覚えている故郷である島国とは別の島国だった事だ。

 

 誰が思うだろうか、英国に住むことになるなんて。

 

 しかし、成程どうして今世は随分と面白い。この国の教育制度は、かつての故郷とはかなり違うものであった。

 この国では16歳で義務教育は修了する為、ボクらはGCSE、つまり中等教育修了一般資格と呼ばれる試験を受けなければならない。

 この試験のコースは14歳から始まる。

 ボクらはたった2年間で沢山の事を学ばなくてはならない訳だ。

 

 これのスコアは大学や就職にも影響が出る可能性のある成績であると同時に、生涯有効な資格とされるから、気は抜けない。お陰様で中学生レベルの事をしていても退屈はしないのだ。

 

 と、まあ格好つけてみているが実際の所、そんな事を言っている場合ではない。

 幼い頃から自分で自分の専攻を決める環境なのだ。周りのレベルも必然的に上がる。

 

 

──だからと言ってコレはどうかと思うのだが。

 

 

 話は数時間前に遡る。

 

 

 母さん共々ふらりと立ち寄った喫茶店。

(前世は日本で生まれ育った僕からしてみれば本場だが)普通のアフタヌーンティーを楽しみ、そろそろ店を後にしようかと立ち上がったその時だった。

 

 苦しみ喘ぐ声、割れる食器の音、そして床に崩れ落ちる体。

 一瞬の静寂の後、店内に叫び声が上がる。

 

──事件だ。

 

「何方か、警察と病院へ連絡して下さい!」

 

 茫然としている客の中で、一人の青年が声をあげる。しかし、突然の出来事にパニックになっているせいか、中々動く人は居ない。

 母さんはチラッと店内を見回すと小さく溜息を吐き、素早く携帯を取り出す。

 

 その間にも彼は動き続けていた。

 倒れた体に近づき屈む。どうやら脈を測っていたようだ。

 

「残念ですが、もう間に合いませんね…」

「そんなっ…」

 

 その場に居合わせてしまったであろう、他の客達がざわめきだす。

 

「全く、物騒な世の中だな」

「母さん…」

 

 やれやれと額に手をやりながら母さんが戻ってくる。警察への連絡を終えてきたらしい。

 

「しかし、彼は何者だ?」

「え?」

「突然の出来事にも関わらず、あれほど冷静に指示を出すとは…。それに彼は真純と同じくらいじゃないか?」

 

 言われてみれば僕とほぼ同じくらいだろうか。さらに英国では珍しい東洋人の顔立ちに親近感が湧く。

 

……それにしても勝手に現場を探っても良いのだろうか。

 

 確かに彼が冷静でいてくれたおかげで他の客達も幾分か落ち着いてきたようだが、過去に見たテレビドラマやらでは駄目だったような気もする。それともあれは日本のお国柄なのだろうか。

 日本人の良いところは互いを思いやる事だが、同時に度々同調圧力のようなものも感じる。あの何とも言えない雰囲気に僕は面倒臭く思うこともあった。だから大抵の場合は話半分にその場を過ごすか、話を適当にまとめて切り上げる事で難を逃れていた──今となっては最早関係ないが。

 

 ふと横にいる母さんをちらりと見ると、例の青年を観察するように目が動いている。

 

……面白そうなので放置していると言った所なのだろうか。

 

 ボクが物心ついた頃から母さんは何かを隠していると薄々思っていたが、ボクが2週目である事を思い出したことで確信を得た。その言動が、思考回路が明らかに普通のものではないのだ。

 

 

 やがて、連絡を受けた警察がどやどやと店へ入ってくる。

 僕や母さんにも事情聴取をされるが、当然の事ながら当たり障りの無い事しか話せない。若しかすると母さんは他にも話せるのかもしれないが…いや、実際犯人はもう分かっているのだろう。先程まで観察していた青年を初めから興味が無かったかのように目もくれない。今はただ、この無駄な時間から解放されるのを待っているようだった。

 

 2度目の人生と言えども、母さんのように誰が犯人なのか全く分からない。いやそもそも推理力など何処で学べと言うのか。

 

 特にすることも無く、僕は窓の外の通行人をぼんやりと眺めていた。薄橙色に染まった空気の中を流れる人々は事件が起こったことなど知らずにこの後買い物をするのだろうか。イギリスの広い歩道と澄んだ空が何処までも続くその景色が僕はとても好きだった。

 

 その様子に思わず微睡みかけていると凛とした声が響き渡る。

 思っていたより事は進んでいたようだ。

 

 息を吸って、あの青年が朗々と語り始める。

 まるで彼だけの劇場が始まったかのように僕達は聴衆となって静まる。

 

 コツコツと靴を響かせ店内を歩きながら事件を語る。誰が何のためにこんな事を起こしたのか、論理立てて説明を続ける。その内容を聞くうちに必然と1人に注目がいく。

 

「つまり、必然的に犯人は貴方しか居ない訳です。違いますか?」

 

 その真っ直ぐな目で見つめられた犯人は、何度も謝りながらその場に泣き崩れた。

 

 穏やかな空気が流れる喫茶店で白昼堂々起こった殺人事件。突然な死の気配にざわめき、混乱する人々の中、たった1人冷静な者が居た。

 聡明な彼は僅かな時間で全ての紐を解いてしまった。

 

 警察は項垂れている犯人を連れて店から出ていった。先程までの緊迫した空気がまるで夢だったかのように普段の様子に戻り始める。

 

 母さんの携帯にメールの着信音が鳴ると、母さんは少し眉を顰める。

 

「…すまないが、仕事の連絡だ。お前は先に帰っていなさい」

「え?あ、うん」

 

 白昼夢のような出来事に呆然としていたボクは慌てて返事をした。

 返事を聞いた母さんは少し微笑み、ボクの頭をそっと撫でて店を後にする。母さんの歩くその後ろ姿は直ぐに小さくなっていった。

 

 すとんと椅子に腰を下ろしてため息をつく。

 

……このアフタヌーンティーをどうしようか。

 

 ボクの目の前には1人分には多いサンドイッチやスイーツ達が積み上がっている。

悩んでいても仕方がないとちびちびと食べ始めた。

 

 ボクの隣の席にあの青年が腰掛け、店員に注文をする。

 

「ダージリンとスコーンを」

「お客様、申し訳ございません…その、先程の事件でスコーンの方が……」

 

 犯人は料理担当の人だったのだろうか。彼はそのまま紅茶だけを注文し店内を眺め始める。あまりにまじまじと見すぎていたのだろうか、彼と思いっきり目が合う。その事に気まずく思い、慌てて声をかける。

 

「こ、このアフタヌーンティーなんだけど一緒に食べてくれないかい?1人だと多すぎて困ってるんだ」

「貴方は…母親は先にお帰りですか?」

「…凄い、よく分かったね」

「人間観察が趣味なので…嗚呼、宜しいのであれば一緒に頂きます」

 

 ちょうど届いた紅茶と共にボクの向かいに座る。しばらく他愛の無い話をして彼がボクと同い年である事、留学でこの国にいる事を知った。彼との会話は盛り上がる程のものでは無かったが、居心地が悪くなる程の沈黙も訪れる事は無かった。

 

 ボクが今世で友人と呼べるべき関係になれると思うのは彼が初めてだった。

 

 ボクやボクの家族は皆優秀だった。ボクが一般水準よりも知能があるのは驕りでも何でもないが(むしろ低かったら問題だ)、ボクの家族はボクを遥かに超える優秀さだ。

 1番上の兄には殆ど会ったことは無いが、FBIに入局しているらしい。母さんから聞いた話だが截拳道も身につけているとか。

 2番目の兄は天才的な記憶力、予測力の持ち主だ。ボードゲーム、特に将棋に関しては母さんでさえ勝ったことが無いようだ。

母さんは言うまでもないだろう。冷静沈着、頭脳明晰を体現したような人だ。まあ、一般家庭の母親の役割と比較して考えると多少の問題は有りそうな気もするが、ボクをここまで育ててくれた贔屓目なしに素晴らしい人だと思っている。

 そしてボクの知らない父さん。生きているのか死んでいるのかすら分からない。1度だけ聞いてみたことがあるが濁されてしまった。ただ、そんな母さんでも一つだけ教えてくれたのは父さんはこの家の誰よりも強い人だったという事だけだ。人間的に、精神的に、身体的に。だからだろうか、この家族がほんのり歪んでしまったのは。彼が今でもボクらの元に居れば、何も知らずに穏やかな日々を過ごしていたのだろうか。

 

 まあ、つまり何が言いたいかと言うとボクは意外と寂しく思っていたということだ。だから彼と友達になることが出来れば良いなと少なからず思っていたのである。

 

 だが、時間は過ぎていく。ボクも彼も食べ終わっていた。どちらからともなく席を立ち、店の前で別れる。

 もう世界は夕陽の色に染まっていた。

 

「では、これで。ありがとうございました」

 

 そう言ってお辞儀し彼は自らの家へと帰るべく去っていく。その大人びた姿に目を惹かれる。

 

──2度目の人生のボクより、よっぽど素晴らしい人間じゃないか。

 

 ボクの目指すべき姿が初めて見えた気がした。

 街の光を受けて茜色に染まった彼の背中に思わず声をかける。

 

「キミは…キミは、一体何者なんだい?」

 

 甘栗色の髪を少しかきあげて、彼は微笑む。

 

「僕は白馬探、探偵ですよ」

 

 これがボクの生涯の相棒と呼べるべき人物に出会った時の話だ。

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