安寧を望む者よ   作:宮本蓮桜

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第二話

 まずは踵が一直線上にあるように肩幅程度に足を開き、少し腰を落とす。肘は九十度に曲げる。

 その時に手首、肘、肩が同一ラインにくるようにすることも忘れずに。残ったもう片方の腕はバランスの取りやすい位置で止める。

 構えで最も大切な事は“バランス”だ。上半身は勿論、下半身もしっかりと軸を持っていないと体勢が崩れてしまう。

 

 

 長く、息を吐き出す。

 

 審判が合図を出す。

 

Allez(始め)!』

 

 ボクはそのまま勢いよく突きを繰り出した。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「まさかフェンシングを嗜んでいたとは、知りませんでした」

 

 目の前で紅茶を飲みながらしみじみと語る青年は白馬探。

 あの運命的(・・・)な出会いを果たしてから数週間。気がつけば彼と何度かこうして遊びに出かける仲となっていた。まあ、遊ぶと言っても大抵こうして喫茶店に入り浸っているだけだが。

 

「今回こそ勝てると思ったのに……!」

 

 テーブルに突っ伏しながら一人、反省会を開く。残念な事に向かいに居る男は此方の事など気にも留めずにお茶会を楽しんでいるようだ。今日も仕事だと出ていった母さんといい、気づいたらアメリカ国籍になっていた長男といい英国に住むと皆マイペースになるのだろうか。

 ボクの物言いたげな目に気がついたのだろうか、彼がやれやれと此方に顔を向ける。

 

「貴方と出会ってからそんなに時は経っていませんが、何時もの冷静さは何処へ行ってしまったのですか」

「ボクだって悔しい時はこうなるのさ」

 

 ボクがここまで悔しく思うのは(ひとえ)に焦っていたのも有ったのかもしれない。

 一応地域でやっている大会に個人戦で出場したものの、またもや優勝を逃したのだ。教わっている先生には大変申し訳ない結果だ。

 7歳から始めていたフェンシング。

 截拳道を嗜むという母さんと長男の真似をするように何かしらの武道を学びたいと思ったのだ。母さんも自衛手段が出来るのは良い事だと賛成してくれたおかげで、すんなりと始めることが出来た。

 

 フェンシングには「フルーレ」「エペ」「サーブル」の3種類の種目がある。

 その中でボクがやっているのは「サーブル」だ。

 フェンシングは突くだけの競技と思われがちだが、サーブルだけは“斬る”動作も攻撃手段として有効である。そのため、剣身全体にセンサーがついている。

 ボクがこの競技に感じる醍醐味は“攻撃権”がある事だ。

 攻撃権は先に攻撃した者に与えられ、防御側はその攻撃を阻止─剣を叩く、払う、相手の動きを止めることで攻撃権を奪うことができる。あとはこの繰り返しだ。この攻防が瞬時に行われる戦いはまるで試合をハイジャックする様で、ボクは好きだった。

 まあ、結果はついて来なかったが。

 

「まあ、次頑張ればいいじゃないですか」

「いや、分かってるけどさ……ところでキミはずっと何を見ているんだい?」

 

 先程から彼はボクの嘆きを興味なさげにずっとスマホを見ているのだ。

 

「いえ、少々気になる事件がありまして」

「また事件かい?」

 

 思わず呆れたように声をかけると彼が此方に端末を差し出してくる。そこには彼が気にしていたであろう事件がネットニュースの記事として載っていた。概要としては、日本で起きている未解決事件といった所だろうか。

 

「……日本の事件か。キミは随分とグローバルな探偵にでもなるつもりなのか?」

 

 探偵気質と言うべきか、謎がとことん気になってしまう彼。数回見た事のある、あの謎を解き明かす凛とした声と眼差しは好ましく思うが、其方に夢中で横で待っているボクを忘れてしまうのだけは遠慮して頂きたい。

 そういう意味でちょくちょく彼と友人になった事を後悔する。

 

 ……無論、ボクの家族にも言いたいが。

 

 ゆっくりと過ぎ去る日常の何が悪い。

 

 とは言え、他人にそこまで意見を押し付けるつもりは無いので面と向かっては言わない。

 

 一通り目を通し終え、彼の端末を机を滑らせて返す。見事に彼の手元へ吸い込まれて言った端末を彼はそのまま胸ポケットにしまい込んだ。

 ボクはようやく目の前にあるアイスティーに手を伸ばす。少し結露したグラスの冷たさを少し感じながらストローに口つける。

 

「日本の事件に関しては僕の探偵業というか父が関わっているので」

「家族ぐるみで探偵だったとは」

「いえ、父が警視総監でして」

 

 驚きをあげる声と丁度飲んでいた紅茶が喉元で反発して激しく咳き込んだ。

 

──何でボクの周りに居る人達は皆こうも優秀なんだ!

 

 頭を抱えて唸っていると白々しく大丈夫ですか、などと声をかけてくる。

 その優しさは別の所で発揮してくれ。

 

 警視総監、それは日本警察の実質的トップ階級にして「あがり」等と称されるポスト。ドラマなんかでよく見る出世戦争の勝ち組だ。

 

「嗚呼、先程の未解決事件の中で1つ気になる事が有りまして」

「…なんだい?」

「未解決事件と言うよりも噂話に近いですが…。怪盗1412ですよ」

「怪盗1412…?」

「こう言った方が分かりやすいかも知れませんね…怪盗KID.と…」

 

 怪盗キッド。

 ボク(・・)の記憶の中にも残っている、世界的に有名な大怪盗。一時期は予告状と共にギャラリーが押し寄せる程、人気を博していた。しかし、その誰もが気が付かないうちにその存在は何時の間にか消えていった。

 ボクも何度かネットで噂話を見かけた事がある。その正体は悪の組織を狙う心優しき義賊だとか、はたまた実はそんなものは存在しなく、警察組織の為のプロパガンダだったとか。

 居なくなってしまった理由の多くはとしては死んでしまったのではないか、と考えられているらしい。

 

「何故その怪盗の事が気になるんだい?」

「余りにも謎が多い存在ですよ? 気になりませんか?」

「いや、別に」

 

 ボクの返答をあまり聞いていなかったのだろうか、彼は話し続ける。

 

「そもそも目的が分からないですね…なぜ16年前突如として現れ、そしてまた消えたのか」

 

 そしてそのまま考え込むようにして探偵モードに入ってしまった白馬君。彼は考え込む時に両手を口の前で合わせる癖がある。こうなった彼は自己解決するまで此方の声は届かなくなる。

 

 ドラマや小説で描かれる探偵は素晴らしいと思うが、それになろうとは思わない。

 ボクにとって現実世界の探偵はファンタジー小説に出てくる魔法使いのようなものだ。まるで魔法の様に全てを見抜いていく。

 それに残念な事に普通(・・)のボクには全く事件を解決する能力が無い。ボクがせいぜい出来るのは彼の推理の為の情報集めか、邪魔をしない事だけだ。

 

 深く座り直し椅子の背もたれに体重をかける。少しだけ軋んだ音をたてる木製の椅子は長年使い込まれた事により人の体に馴染みやすく、趣がある。この店は店主の趣味なのだろうか、殆どがビンテージ物だ。

 前に他の客と店主の話をちらりと聞いただけだが、本当はアンティークを集めたかったそうだ。

 

 “ビンテージ”と“アンティーク”。何方も「古い物」という印象だが、違うニュアンスらしい。母さんに聞いた所、“ビンテージ”は100年以下、基本的には20〜50年前のアイテムに使われる言葉で、“アンティーク”は最低でも100年以上の美術品や家具の事らしい。

 

 ポケットから取り出した手帳を見ればさっきの事がボクの少しクセのある文字で書き込まれている。

 これはボク(・・)になる前からやっていた習慣だ。

 新たに知った事を紙に書き記しておく。こうしておく事でボクがまた一つ賢くなった気がする。スマホにただ残しておくよりも自分で紙に書く方が何となく好きだった。少しずつ残りのページが無くなっていくと、それだけ自分が成長したような気がしたのだ。

 今まで書いたページをひとしきり眺め、ゆっくりと手帳を閉じた。

 まだ使い始めたばかりの手帳の黒革は未だに少し硬いが、それでも少しづつ手に馴染み始めてきたのだと感じられる位にはなってきた。

 

 今度こそ落ち着いてアイスティーに口をつける事が出来た。ベルガモットで香り付けされたアールグレイは飲み込んで少し遅れてから爽やかな柑橘系の香りが広がる。

 香りの強いアールグレイはストレートは勿論、アイスティーとして飲んでもしっかりと風味が残る。ベルガモットと同じ柑橘系で相性の良いレモンを添えても、涼やかなレモンティーになるだろう。

 

 イギリスの低く、広い空が何処までも続いている。

 一羽の白い鳥が、羽ばたいた気がした。

 

「…まだ情報が足りないですね」

 

 その彼の一言に現実に戻って見れば、彼は頭を少し横に振りながら呟いていた。ようやく思考の海から戻ってきたようだ。

 残念な事にまだ真相解明には至らなかったようだが。

 

「何でもかんでも気になってしまうなんて、キミは難儀だな」

「僕からしてみれば気にならない方が不思議ですね」

「そうかなぁ…」

 

 やはりその感覚はボクには分からない。そもそも自分で解けた試しなど無い。

 

「キミあれかい?小学生の時に『魔法使いなんて存在するわけが無い』とか言ってた」

「…煩いですよ」

 

 ボクから目を逸らして彼は呟く。

 本当に言っていたのか。冗談だったのに。

 

「問題はそこではなく」

 

 小さく咳払いをして彼はそう言葉を続ける。

 

「そもそも人を殺していようが殺して無かろうが怪盗が犯罪者である事は同じです。なのに何故世間一般での怪盗はあそこまで人気が出るのか…」

「怪盗(イコール)義賊のイメージが強いからじゃないか?弱気を助け、強きを挫く…」

「…それなら面と向かって解決したら良いじゃないですか……」

 

──皆がそうできるとは限らないのだよ。

 

 それは口にしなかった。それを理解してもらうには彼はまだ幼い。ボク自身も今世ではまだ立ち会ったことは無いがきっと世界の闇は深いのだろう。世界中の人間が彼のような人間だったら、ボクの家族は今でも食卓を共にしていただろう。

 

「……あとは怪盗の美学とやらが格好良いんじゃないか?」

「もし、そうだとすれば理解し難いですね…」

 

 相変わらずブツブツと文句を言う探偵様。

 

「それにしてもよく警視総監なんて言葉知ってましたね。流石です」

「え?」

「貴方、日本の血が混ざっているとは言え、生まれも育ちもこの国(イギリス)でしょう?」

「いや、ボクは…」

 

 言葉を続けようとして止める。

 これはボクが犯してしまった罪。

 

 それはほんの僅か数年前。

 その(・・)出来事は平穏を望むボク自身が引き起こしてしまった。

 

 思い出すのは怖い顔をした母さんがボクに言った言葉。

 

『良いか真純。今日起きた事は全て忘れろ』

 

 ボクは今でも起こったかもしれない出来事を考えては悪夢に魘される。

 

「真純さん?」

 

 彼に声を掛けられ慌てて続ける。

 

「あ、ああ。1番上の兄がFBIでね。その時気になったから…」

 

──不自然だっただろうか。

 

 なるべく自然に言葉を紡ぐ。

 彼の顔は見れなかった。

 

 彼はただ、そうですか、と呟いて目の前のティーカップに口をつけた。

 

 ただ心苦しかった。真実を見抜く彼に嘘をついているボク。

 

 そもそもボクがボク(・・)では無かったのだ。それに、今ではボクですら分からない。

 器が変わったボクは果たして前と同じ人間なのだろうか。

 己の人生は本当に二回目なのだろうか。ボクが可笑しくなってしまっているだけなのかもしれない。

 

 テセウスの船か胡蝶の夢か。

 

 まだ、何も分からない。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 この国にしては珍しく、晴れた日が続く。

 照りつける太陽の光は街に反射して、西洋建築の神々しさが増しているように感じた。

 

 数日前、彼の前で取り乱した事を今にして思えば気恥ずかしく思えた。幾ら探偵と言えども友人の彼は無粋に此方に踏み込んでこない。そんな彼だから横に立っていられたのだから。

 

 学校から出された課題をやりながらそう考える。

 

 こんな晴れた休日の昼間から課題をやっていると母さんに小言を言われそうだ(過去に何度も言われている)が、ボクは前からインドア派だった。

 何年か前、家族で海に行った時もあまり海自体は楽しめなかった気がする。

 覚えているのは盛大な乱闘騒ぎ(家族喧嘩)とさざ波の音だけ。あの時、近くにいた少年と少女は誰だったのだろうか。

 

 課題机の上を暖かく照らしている卓上ライトの光を消す。

 

 窓から入り込んだ強い太陽の光が木軸のシャーペンに少し反射した。

 これはボクが気に入っている文房具の一つ。少し値段は張ったが、大人しい雰囲気も相まってとても高級感がある。木軸という事もあり使い続けていると経年変化も楽しめる。今よりも深い木の感じが出るのだ。

 

 不意にとんとん、とノック音が静かに響いた。

 はぁい、とおざなりに返事をしながらドアを開いた。そこには何時もと違う髪が視界に映り込む。

 

「真純、ただいま。久しぶりだね」

 

 人好きな笑みを浮かべる顔と男性にしては高めの声に少し寝癖のついた黒髪。

 

「秀吉兄さん…!」

「驚いたかい?」

 

 悪戯が成功した子供の様に笑うボクの兄さん。喜びのあまりに年甲斐も無く抱きついてしまった。久しぶりに会ったがどうやら元気にやっているようだ。

 

「わざわざイギリスまでお疲れ様。こっちに何か用があったの?」

「ああ。実はこっちで交流戦をやるという話になってね」

「交流戦?」

 

 疑問に思いながら聞き返す。母さんも一番上の兄もボク自身も格闘技の試合をやっているが、彼は特に何もやっていなかった筈だ。

 現に、今の彼の体格は女性である母さんに比べて細身だ。

 

「あれ、言ってなかったっけ? 去年名人位を取ったから世界に将棋を広めるために代表としてこっちに来たんだけど…」

 

 二回ほど頷き、それから頭を抱える。

 この兄さんは元気でやっているどころか、とんでもない事をやっていた。

 名人戦は、まず名人に挑戦するのにも苦労する。順位戦のA級棋士の中から最多勝者が挑戦権を得られる。それから漸く挑めるのだ。

 つまり目の前にいる兄さんは多くの棋士に勝ち、尚且つ相当強い元名人にも勝ったという訳だ。

 

「そもそも棋士だった事も初めて聞いたんだけど……」

「そうだっけ」

 

 ごめんごめん、と軽く謝る秀吉兄さんは昼食の準備が出来たのでそれを伝える為にサプライズを兼ねてボクの部屋まで訪れたようだった。

 

 言葉足らずな優秀すぎる家族は、ボクの心臓には悪いがそれでも心地よかった。

 

「今日は椎茸と玉ねぎのバター炒めだって」

「えっ」

 

 これは母さんが少なからず怒っている。しまったな、素直に外出すべきだったか。

 菌類とは分かり合えたことがないし、今後も分かり合うつもりはない。

 

 ちなみに、この時のボクの顔はさながら出陣する戦国武将の様だった、と後に秀吉兄さんが爆笑しながら教えてくれた。

 

 彼が一日でも早く忘れてくれることを願う。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 歳を取るにつれ時間が過ぎ去るのが早く感じるとはよく言うが、実際その通りらしい。原因の一つとしては代謝が落ちるから、と聞いた時はさすがに夢が無さ過ぎてなんとも言えない気分になった。

 事実(悲しいと言うべきだろうか)、あっという間に時は経ちボクは十七歳になっていた。この国の法律ではあと一年でボクも成人になる。

 

「全く、別れの時だというのに今度は何を考え込んでいるんですか」

 

 そう言って手に革製のトランクケースと大振りなスーツケースを転がしながらボクの方へ近づいてくるのは、ボクの素晴らしき相棒様。

 

「いやあ、時が流れるのは早いなと」

「…そうですか……」

 

 そう言いながら彼は残念な物を見る目で此方を見てくる。

 彼はボクと過ごすうちにボクが度々物思いに耽る事に気がついたらしい。彼が事件を解決しても、ボクがその話を全く聞いていない事が過去に何度もあったのだ。

 初めのうちは、どんな風に推理したか自慢げに話してくれていた彼だが、ボクがあまりにも興味を示さないので最近はあまりその話題にならない。とは言っても、探偵の魅力を語ることを諦めるつもりは無いらしい。

 ボクは別に彼の推理話に興味が無い訳では無い。むしろ、誇らしげに話す彼の姿は好ましいとさえ思っている。しかし彼曰く、ボクが推理するつもりが全然無い事に納得出来ないらしい。

 

「僕は日本へ行きますが、お貸ししたホームズ集、是非読んで下さいね」

「善処するよ」

 

 にっこりとお手本の様な笑顔をしてみせる。安心してくれ、時間と興味が沸けば読むさ。

 ボクの相変わらずの反応に彼はやれやれと頭を振る。そして何を思い出したのか(きっとろくな事ではないだろう)、ボクの肩に手を乗せて笑顔を向けてくる。

 

「まあ、僕の助手である貴方の事ですから心配はしていませんが」

「ボクは了承したつもりは無いよ」

「ははっ、また御冗談を」

 

 何故か彼と居るとよく事件に巻き込まれた。

 いや、巻き込まれたと言うよりも彼が首を突っ込んだと言った方が正しいだろうか。探偵の居る所に事件有りとでも言わんばかりの遭遇率だった。

 そして素晴らしい事にこの男は全て解決してしまった……のだが。

 気がつけばボクは彼と共に、彼の「助手」としてロンドン警視庁に知られていた。

 イギリスの人々はプライドが高く、まわりくどい言い回しを使う事を好みがちだが、それでも彼らが「白馬探」を信頼しているのは分かった。

 そしてボクの事も。

 褒められ感心されるのは悪い気持ちはしないのだが、何もやっていないボクが彼の「助手」として知られるなんて申し訳無い気持ちでいっぱいだった。

 だけど、ボクは君の隣に立てることは誇らしく思えるから。

 ボクも努力するから。

 

「せいぜい頑張りなよ、名探偵様」

 

 態と口角を上げた様に笑ってみせる。

 普段のボクならば絶対に言わないであろうこのボクの言葉が予想外だったのか、彼は呆気に取られた。ただそれも一瞬の事で、ふっ、と静かに微笑み答えた。

 

「…貴方に言われなくとも。僕を誰だと思っているんです?」

 

 きっとお互いに思っている事は一緒だった。

 

──それでこそ。

 

 心地の良い静寂の中、彼は思い出したかのようにコートのポケットを探り始める。

 しばらくして彼が取り出したそれは片手で持てるほどの大きさの直方体の箱。どうやらそれはボクの為の物らしい。

 

「…開けても?」

 

 尋ねると彼は静かに頷く。

 蓋の部分と底の部分で二つに分かれているその箱は抵抗も無く滑らかに開いた。

 傷が付かないようにと配慮された緩衝材代わりのクッションが敷かれている。その上に鎮座しているそれは万年筆だった。

 一目見て目につくのは傷一つ無いつるりとした真っ白なボディ。そしてキャップをくるりと一周する上品な金色のクリップとキャップリング。

 丁寧な包装やそれの状態からその万年筆はそれなりに質の高いものである事がボクでも分かった。その美しさに思わず息を飲む。

 

「……これは」

 

 驚きながらも彼を見ると、彼は事も無さげに何時もの自信たっぷりげに笑う。

 

「一応、僕なりの餞別です。貴方は普段からそういう物を好んでいたのは分かっていたので…。残念ながら僕はまだ未成年でもあるので流石に最高級、という訳にもいきませんでしたが」

 

──嗚呼。

 

 心の底から彼の友人で良かったと思った。きっと彼ほど気遣いの出来る友人は出来ないだろう。

 

 目頭が熱くなるが、涙は流さなかった。

 

 頑張ろう、そう心から思った。

 何時の日にか彼がボクを自慢に出来るように。

 ボクは凄い人間だと、彼の友人で相棒だとそう自慢してもらえるように。

 

 だから、こんな所で泣かない。泣くものか。

 

 ボクは最大級の親愛を込めて笑ってみせる。

 

「ありがとう」

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ポーンと気の抜けた軽い音が鳴り、シートベルト着用のサインのライトが消える。

 その音を合図にしたかのように緊張からか、静かだった機内が少しずつざわめきに包まれ始めた。

 皆慣れているとはいえ、普段地に足をつけて生きているのだ。人間が空を飛ぶ、しかも重い鉄の塊ごと浮かぶというのはまるで御伽噺のようではないか。

 

 飛び立つ前から開いていた機内サービスの紹介パンフレットを閉じ、ビニールに入っているイヤフォンを取り出す。目的のチャンネルに合わせれば心地の良い弦楽四重奏が耳元で響きだした。

 

 遥か雲の上、飛び立った機体の中で彼女の事を思う。

 男性よりも紳士らしく、女性よりも上品な彼女の事を。

 

 故国に残されてしまった彼女は僕が出会った同年代の中の誰よりも優秀だった。優秀、と言っても単純に成績が良いというだけでは無い。その思考は常に僕の先にいた。

 

 それなのに彼女は自らの能力に自信を持っている姿を見たことが無い。

 だからこそ、僕の相棒(ワトソン)として皆に紹介したのだ。

 

 僕は貴方の相棒だから。

 だから、貴方には自信を持って欲しい。

 僕は完璧(ホームズ)では無いからこんな方法でしか貴方を励ます方法を知らないけれど。

 

──どうか彼女の歩むこの世界が優しくありますように。

 

 遥か雲の上、彼女の祝福を祈り続ける。




『一羽の白い鳥が、羽ばたいた気がした。』:白いマントに白いシルクハットを被った怪盗が再び空を舞ったのかもしれない。
『テセウスの船』:パラドックスの1つ。全てのパーツを変えられた船は果たして元の船と同じと言えるのか?というもの。
『胡蝶の夢』:荘子が夢の中で蝶になったのか、蝶が荘子になった夢を見たのか、夢と現実が曖昧な様。
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