で済むわけが無い。

※キャラクターのイメージを著しく損なう場合があります。読んでいただく際には十分注意してください。

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サイレンススズカに耳かきしてもらうだけ

 視界がボヤける。ディスプレイ上の文字はどんどん拡散していき、俺が認識できない姿へと変わっていった。パソコンと向かい合っている時間が長すぎたらしい、体のあちこちが悲鳴をあげて俺に抗議してくる。どうやら働きたいのは俺の脳みそだけらしく、それ以外の部位は休ませろと色々な(痛みを伴う)手段を用いて訴えかけてくる。

 

「……っく、うぅぅぅ~~~~………………」

 

 背もたれに体を預け、思い切り体を伸ばす。パキパキと体から恐ろしい音が聞こえる。自分が思っていたよりも余程重症だったらしい、意識をパソコンから外した途端にどっと疲れが体全体にのしかかってきた。

 

「流石に少し休憩するか……」

 

 働きすぎは効率を落とす。俺は数時間前に空になった紙コップを手に持つと席を立った。まずはコーヒーだ、コーヒーは全てを解決する。科学的根拠など知ったことではないが、コーヒーは疲労にも鬱病にも、いや万病に効くのだ。とりあえずコーヒーをいれないことには始まらない。

 そうだ、ついでにトイレにも行っておこう。えーと、トレーナー室の鍵は……あれ、どこに置いたかな。

 

「んん? おかしいな……」

 

 確かに2段目の引き出しに入れておいたはずなのだが、なぜか見当たらない。俺以外にこのトレーナー室に入ることが出来る人物は……担当ウマ娘である彼女くらいか。

 

「…………」

 

 部屋の気温が下がった気がする。いや、仮に彼女が犯人だとして何のために持ち出したんだという話になる。俺がまだこの部屋にいることがわかっていて鍵を閉める必要などないし、そもそも俺が仕事に集中していたとはいえすぐ隣に来た彼女に気づかないということは考えにくい。なんなら、部屋に入った時点で俺に挨拶をしないのも不自然だし、仕事中の俺に遠慮したという線も考えられなくはないがやはり動機に欠ける────

 

「トレーナーさん」

「うおああああああああああっ!?」

 

 耳元に風が当たり、思わずその場から飛び退いた。大声を上げ俺に対して、彼女はうるさそうに耳を手で覆い顔を顰めた。恨めしげな視線がこちらに向けられる。

 

「ご、ごめん! 急に大声を上げてしまって」

「いえ、私が驚かせてしまったみたいなので……」

 

 ウマ娘は耳が良い。耳元で大声を上げられるのは、人間である俺の何倍も不快であろうことは容易に想像できる。

 

「来ていたのなら言ってくれればよかったのに」

「声は掛けましたよ。ただ二度目の挨拶も無視されてしまったので、お邪魔をしてはいけないなと……」

「そ、それは…………」

「ふふ、謝らないでください。お仕事に集中しているトレーナーさんに無理に声を掛けたのは私なんですから」

 

 彼女はそう言うと薄く笑った。申し訳なさが胸に残るが、ここで謝り倒すのは無意味だ。なればこそ、今この時間に彼女と真摯に向き合うことが俺に出来る贖罪である。

 

「今ちょうど休憩するところだったんだ」

「はい、知ってますよ。ずっと見てましたから」

「そ、そうか。そうだよな……」

 

 俺の笑顔はきっと引き攣っていることだろう。仕事の疲れのせいか上手く会話をすることも出来ないらしい。

 

「いつからいたの? 俺、長いこと仕事してたと思うんだけど」

「ええと、放課後になって直ぐに来たので……」

 

 ちらりと彼女が時計を見る。それに釣られて俺も腕時計を見ると、もう6時を回っているようだった。

 

「2時間と20分くらい……だと思います」

「あ、ああ、そう……」

 

 再び笑いかける俺の笑顔は、間違いなく引き攣っていたことだろう。今日はトレーニングはなしと伝えてあるので、ここに来たのは間違いなく彼女自身の意思である。…………そう、彼女は自らの意思で2時間半もの間、このトレーナー室でじっとしていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サイレンススズカ、俺の担当ウマ娘の名前である。きっと知ってる人も多いんじゃないかと思う。何せ最強ウマ娘と名高い彼女のことだ、レースに興味のない人間でも耳にしたことは1度くらいあるだろう。今やメディアに引っ張りだこ……ではあるのだが、彼女の希望によりメディア露出は控えめにしてもらっている。それでもニュースや雑誌で度々名前が上がるくらいには有名なウマ娘なのだ。

 

 じゃあそのウマ娘の担当トレーナーである俺はと言うと、別にそんな大それた人間ではない。期待の大型新人というわけでもなく、名家の出というわけでもなく、一般人で試験に合格し、2年ほどチームのサブトレーナーとして研修をやらせてもらったごく普通のトレーナーだ。

 サイレンススズカとの出会いは、彼女がまだデビューしていない時にたまたまグラウンドで会話をしたところから始まる。別に珍しくもない、上手く走れないという悩みにどんなトレーナーでもできるようなアドバイスをしただけだった。

 しかしそのことでサイレンススズカの信頼を得た俺は、成り行きで彼女の担当トレーナーとなったわけだ。今考えてみればなんと運のいいことか、自分の特別な才能で手にした出会いだったわけでもなく、タイミングが良かっただけである。

 

 ただ、俺がいくら平凡でもサイレンススズカはとても強いウマ娘だった。小学生並みの感想だが、とても強いとしか形容出来ないのである。速い、とにかく速い。誰も追いつけない速さと凄まじい集中力、そして長距離すらも走りきってみせる脅威のスタミナを武器に彼女は数々のレースに勝利した。影すら踏ませぬ、とは比喩ではなく文字通りそんなレース展開も珍しくはなかった。

 

 しかし彼女は今は年に数回しかレースに出ない。いや、出させないようにした。理由は単純に、彼女の脚が脆いからである。

 現役時代それはもう色んなレースを走ってきた彼女だが、その頃から既に脚に爆弾を抱えていると言っても過言ではないほど、彼女の脚はガラス製の耐久力だった。

 だというのに歴代最速のウマ娘と言われるほどのスピードを持つサイレンススズカだ。このまま走り続ければどうなるかは火を見るより明らかだった。むしろよく3年間も走れたものだと思う。これに関してだけ、俺は自分のことを評価しても良いと感じている。サイレンススズカの脚のケアは欠かさなかったし、スケジュール管理も完璧だったと自負している。もちろん彼女がそれだけ上手いこと走ったというのが1番の理由ではあるのだが、今彼女が歩ける状態で学園生活を送っている、その要因の一端を担えたのではないかとは思っている。

 

 うん、思い出に浸っていたら随分とボーっとしていたようだ。スズカはじっと俺の方を見ているが、彼女の目には仕事に疲れた俺が気を抜いているように映っているのだろうか。本当に、俺の事なんて見てて何が楽しいんだか。

 

 

 

 

 

 

 俺が担当トレーナーになってから2年が経ったくらいのことだっただろうか。俺はその日たまたまグラウンドに用事があって、トレーニングよりも前に外に出ていた。

 するとグラウンドでは1人のウマ娘と、そのトレーナーが計測をしていたのだ。そのトレーナーとは同僚として名前こそ知っていたものの、対して仲が良いわけでもなく、特別な関係があったわけではなかった。だがウマ娘の方はと言うと、……いや別にウマ娘とも特に面識はなかったが、その頃ちょうどメキメキと力をつけてきていると噂のウマ娘だったのである。デビュー当時は結果を残せていなかったものの、今になって急に入着が増え、重賞のレースに勝利するまでになった。彼女はスズカと同期のウマ娘だった。そんな噂のウマ娘のトレーニング風景だ、流石にトレーナーとして気にならないわけもなく、少し観察させてもらっていた。

 

 そうして暫くそのウマ娘のトレーニングを眺めてした俺だが、ふと後ろに気配を感じ振り返ろうとした。

 

「トレーナーさん」

 

 俺を呼ぶ聞き慣れた声。担当ウマ娘のサイレンススズカのものだ。しかし聞き慣れたその声にはいつもと違う感情が込められていた。

 

「トレーナーさん」

「どうした? スズ……ッ」

 

 振り返ろうとした俺の顔は、何者かの手によってその両側を凄まじい力で押さえ付けられた。後ろから伸びるその手は、サイレンススズカのものだった。

 

「な、なにを……!」

「トレーナーさん、誰を見てたんです?」

「いや、その、なんだ……そ、そう! 同僚! 同僚のウマ娘が最近力をつけてるって話題でね! 別にスズカの実力を疑ってるわけじゃないけど、敵情視察は大切かなって……な?」

 

 嘘は言っていない。もちろんトレーニングひとつ取って対策ができるような甘い世界ではないが、その目で確かめる必要性がないわけではない。

 ただここで純粋に興味がある、などと抜かそうものなら、スズカに抑えられたこの頭がそのまま真上へとシフトしてしまいそうな予感がした。そんなはずはないのだが、その時ばかりは本当にそれほどの凄みをスズカから感じた。

 

 他のウマ娘を見てスズカの機嫌を損ねたのはこれが初めてではない。しかし今までは精々唇を尖らせて拗ねる程度だった。それがその時はいつもと違い、本気で狩りをする獣のような鋭い殺気をスズカに向けられている。久しぶりにやってしまったので驚いただけ、という言い訳はあまりにも苦しかった。

 

「………………」

 

 スズカは黙っている。蛇に睨まれた蛙とはまさにこういう状態のことを指すのだろう。結局その後スズカから解放されるまで、俺は一言も喋ることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 そんな事があってからというもの、俺はスズカの一挙一動にたまに底知れない恐ろしさを感じるようになった。元々好意をあまり隠すタイプでもないのか、スズカはちょっと恥ずかしいようなことも平気で口にするウマ娘ではある。だがそれを加味しても俺の事を数時間に渡り眺めているだけ、というのは少々度が過ぎているのではないだろうか。

 仮にスズカが俺に向けるその感情が恋愛のそれだったとしても、他のウマ娘に向ける嫉妬や俺に対する接し方のどれを取っても行き過ぎていると思わざるを得ない。

 今日だってそうだ。トレーニングが休みの日、友達と遊びに行ったり学校の課題をまとめてやったり……とにかく、少なくとも行き先がトレーナー室になることはないはずだ。

 仮にトレーナーに対してかなり好意的であったとしても、声をかけても無視、何時間も構ってくれないとくれば退散するなり抗議しに無理やりちょっかいをかけに行ったりするものではないだろうか。それをただ見ているだけで満足というのは、正常な感性ではないように思う。

 ……まあ、俺如きの恋愛経験で語るのはどうかと自分でも思うけれど。

 

「トレーナーさん、今お時間ありますか?」

 

 と、俺がそんなことを考えているとも露知らず、スズカが俺に問いかけてきた。

 

「ああ、しばらく休むつもりだからね」

「よかった。私、トレーナーさんにやってみたいことがあったんです」

 

 珍しいな、と思った。あれしたい、これしたいと普段は自分の願望を口に出さないスズカがそんなことを言うとは。しかし俺にしたいことと聞こえた気がしたが。

 

「良いけど、何をするつもり?」

「……ふふっ。実はですね、こんなものを持ってきたんです」

 

 スズカが手に持っているのは棒状の……いや、あれは耳かき用の……。

 

「耳かき……?」

「はい、トレーナーさんは耳かきがお好きなんですよね」

 

 待て待て待て。

 

「俺、そんなこと言ったっけ?」

「……? 言われた覚えは無いですけど、そういう動画見てますよね」

「なっ!?」

 

 なんで知ってるんだ。スズカが言っているのは十中八九俺のウマチューブの履歴にある動画のことだろう。それを何故スズカが知っているんだ。

 

「ス、スズカ? どうしてそれを?」

「たまたま見つけたので、なるほどと」

 

 いわゆるASMRというやつだ。有名配信者のウマ娘がそんな事をやっていたので、興味本位で聴きにいったらこれが寝心地がよくてついハマってしまったのだ。それからというもの定期的にそういう動画を睡眠のお供にしていたのだが、まさかスズカに見られてしまうとは。

 

「トレーナーさんは耳かきが好きなんですよね?」

「い、いやそういうわけじゃ」

「では」

 

 ずい、とスズカは顔を寄せた。その目に光はなく、感情は読み取れない。好意的な接し方ではないことだけは確かだが。

 

「耳かきではなく、あのウマ娘の配信者が好きだと言うことですか?」

「い、いやいやいや! そうじゃない! な、なんていうか、寝やすいんだよ! 決してやましい気持ちで見てるわけじゃない!」

 

 必死の弁明をしている間も、スズカは光のない濁った瞳で俺の事をじっと見ていた。

 

「じゃあ誰がやっても変わらないですよね?」

「い、いやそれは……まあ、下手に傷つけないのなら……」

 

 まずい。俺の頭の中で警鐘が鳴り響いている。なにかとてつもなく良くないことが起ころうとしている。しかしその良くないことを回避する術を、今の俺は持ち合わせていない。

 

「だから、私がやってあげます。大丈夫ですよ、優しくしますから」

「……やったことは?」

「ないですよ。でもちゃんと調べましたから、人間の耳かきの仕方」

 

 逃れられない。ここは受け入れるしかない。

 

「……じゃあ、お願いします」

「はい」

 

 にこり、とスズカが笑う。しかしながら彼女は依然仄暗い雰囲気を纏ったままだった。

 

 

 

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 ━━━

 

 

 

 ごりごりとくぐもった音が聞こえる。

 

「どうですか? トレーナーさん」

「あ、ああ……大丈夫だよ」

 

 とても反応しづらい。下手ではないが上手いかと言われればまぁ……くらいのお手前。この時のために勉強した、と言っていたのであまり慣れていないのだろう。なんとも献身的な担当だ。

 

「……強引に誘っておいてなんですが、ちょっと怖いですね」

「ははは、まあ人間の耳なんて触ることあんまりないだろうし」

 

 余裕そうにしながらも内心は緊張している。人に耳かきなんてさせたことなかったし、ましてや初めての相手がウマ娘になるとは。怖いという気持ちも大いにある。

 

「でも、少しずつ慣れてきました」

「ああ、心地いいよ」

「ふふふ、嬉しいです」

 

 ちなみに膝枕だけは断固拒否させてもらった。絵面がやばすぎるし、何よりも誰かに見られた時に社会的な死を迎えるためだ。トレーナー室には鍵をかけているが、この学園のマスターキーを持っている『誰か』がもし急用で入ってこようものなら、それはもう大変なことになる。スズカは不満そうだったが、これさえ守ってくれればと耳かきをさせると言えば彼女も渋々条件を飲んでくれた。

 

 段々手馴れて来たのか、スズカの手つきがスムーズになっていく。力加減も完璧でとても心地よい。運動神経が良いの悪いのと学生時代はよく考えたものだが、こういった飲み込みの早さ……ひいては頭の回転や技術をモノにするコツなんかも運動神経の良さと繋がっているのかもしれない。

 

「スズカはなんでも上達が早いな。耳かき一つとってもビックリさせられるよ」

「えへへ、本当ですか?」

 

 素直に褒めると、スズカは嬉しそうに笑った。今は彼女に背中を向けている状態なのでスズカの表情は確認できないが、いつものように静かで可愛らしい笑みを浮かべていることだろう。そんなことを考えているとスズカは声色を変えずに問いかけてきた。

 

「どっちがいいですか?」

「……え? 何が?」

 

 1度目で理解することは不可能だった。それ故に、スズカは変わらない調子で再び問いかけてくる。

 

「どっちがいいですか? 動画の耳かきと私の耳かき」

「あ、ああ……そういうこと」

 

 ようやく質問の意味を理解した俺は、答えようとして口を噤んだ。正直な話スズカの耳かきが心地よすぎてすぐにでも口から出そうになったのだが、これはこれで成人男性の、しかも立場的には教師と教え子に近いであろう俺が「学生の耳かき最高です!」なんて言おうものなら取り調べ待ったナシである。

 かといって動画の方がいいなどとスズカの前で宣おうものなら、俺の右の鼓膜に穴が空いてもおかしくはない。どう答えてもベストな回答にはならない。

 

「ええと、スズカも初めてとは思えないくらい上手いし、それに……そ、そう! きっと仕事にしてお金をとっても文句は言われないと思う!」

 

 だから褒める。もちろん嘘は言ってないし本心から思ったことだ。上手いこと濁して下手な言質を取られないようにしないとという意図があるだけ。

 

「質問に答えてください。どっちがいいですか?」

 

 心なしか耳の中にかかる圧力が増した気がする。まずい、ここで機嫌を損ねるのは1番の悪手だ。

 

「な、なぁ……勘弁してくれないか? どう答えても俺の印象が悪くなるだけだと思うんだけど……」

「私しか聞いてないから良いじゃないですか。トレーナーさんが何を躊躇っているのかはわかりませんけど、私はトレーナーさんを嫌いになったりしませんよ」

「い、いやそういうわけじゃ……ううん」

 

 実質一択しか残っていない。

 

「スズカの耳かきの方が良いよ。そもそも動画と実物を比べてどうするんだ」

「ふふっ」

 

 諦めて負けを認めるとスズカは小さく笑った。

 

「じゃあもう、そんな動画見る必要ないですよね?」

「それは……まあでも、快眠のお供にというか……」

「ないですよね?」

「はい……」

 

 有無を言わさぬ圧に耐えられず、俺は耳かきASMRの視聴を禁止された。なかなか良かったんだが、代わりの睡眠導入動画を探さなければならないようだ。

 というか視聴履歴が見られていたとは、なんとも恥ずかしい話だ。

 

「……その、スズカ? 今回の事はもういいけど、なるべくそういうものは見て見ぬふりをしてくれると助かるというか……」

 

 俺の言葉を聞いたスズカはピタリと手を止めた。急に耳を弄る感覚がなくなったものだから思わず不安になってしまう。

 

「スズカ?」

「……トレーナーさんは、そんなこと言うんですね」

 

 再び手が動き始める。ごっごっとくぐもった音が聞こえ始める。

 

「私、トレーナーさんのことならなんでも知ってるんですよ? 普段聴いてる音楽とか、よく読む雑誌とか」

 

 ごっごっ。

 スズカにそんなこと話したかな、と思ったがこれだけ長い付き合いの中なら口に出したこともあったかもしれない。

 

「靴を右から履く癖があること、読むのを途中にした書類を4番目の引き出しに入れがちなこと」

 

 ごっごっ。

 そんな自分が気づかない癖まで見抜かれているとは。

 

「行きつけのBARがあること。女の人と出かける時は必ずそこで予約をすること」

 

 ごりっ。

 ゴクリ、と生唾を呑む音が聞こえる。自分の耳の内側でその音が反響する。

 

「一昨日はたづなさんとそこで飲んでたの、私知ってますよ。先週私の誘いを断って桐生院さんと出かけた時もそこで話してたんですよね?」

 

 がり、がり。

 背中が冷たくなる。耳を弄る力が強まっている。

 

「桐生院さんのこと、プライベートでは下の名前で呼ぶんですね。LANEの登録名も葵って書いてありますし。それにさっきメッセージ来てましたよ? 読み上げてあげますね」

 

 がり、がり、がり。

 

「『先日はありがとうございました。次の休日なのですが、来週の金曜日から日曜日の間なら大丈夫です』だそうです」

「ス、スズカ! 力強くないか!?」

「ああ……すみません。不慣れなので力加減がまだわかってないみたいです」

 

 がりがり、がりがり。力は弱まらない。

 

「あ、たづなさんからのメッセージも読んであげましょうか? 『来週末どこかにご飯に行きませんか? 前回は私が奢ったので、今回はトレーナーさんの番ですよ。楽しみにしてますね♡』…………ハートマークまで付いて、余程仲がいいんでしょうか」

 

 がりっ。

 

「随分と色んな女の人に手を出してるんですね」

「いやいや、下心があるわけじゃないぞ! 同僚として仲がいいだけだ!」

 

 がりがり。

 まずい、まずいまずいまずいまずい。この状況でスズカの機嫌を損ねてはいけない。このままだと俺は病院に直行する羽目になる。

 

「ねぇトレーナーさん。来週は私、一緒にトレーニング用品を見に行きたいって言いましたよね? トレーナーさんは予定が入らなければ行こうと言っていましたが…………まさか、まさかとは思いますけどこの2人を優先して別の日にして欲しい、なんてこと言わないですよね?」

「も、もちろん! トレーニング用品を買いに行く大事な用事を、仕事以外の理由で外すなんてことしないよ!」

「ふぅん……本当ですか? だって、私が言ってたのって少なくともたづなさんと出かける前ですよね? たづなさんは来週末は空いてるって思ってメッセージを送ってきたってことになるじゃないですか」

「そ、それはたづなさんにその事を言ってなかったから! そう、だから向こうも知らなかったんだよ! 本当だ!」

 

 がりがりがり。

 

「俺はスズカの担当トレーナーだ! お前より優先することなんてない!」

「じゃあ桐生院さんの件はどうなるんですか? 私の誘いを断っておいて、他の女と遊んでたトレーナーさんが何を言っているんです?」

「それは仕事の話だったんだよ! 夜ご飯は一緒に食べたけど、理事長からの頼みで出張に行ってたんだ!」

 

 がりりっ。

 

「それに2人きりで出てたわけじゃない! 他のトレーナーや……そう! スペシャルウィークのトレーナーもナリタブライアンのトレーナーも一緒だった!」

 

 必死に弁明をする。心なしか手の力が緩んだ気がする。

 

「…………わかりました、トレーナーさんを信じます。その代わり約束してください」

「す、する! するから!」

「女の人と出かける時は必ず連絡すること。帰りは夜の1時を過ぎないこと。GPS機能をONにすること。私との予定を他の女の人より優先すること」

 

 付き合ってすらいないのになんだそれは、と口から出かけるのを懸命に塞き止める。ここで不興を買うな。

 

「わ、わかった、約束するよ……」

「じゃあ、今回のことは不問にしてあげます」

 

 スズカの手が止まり、軽く耳の周りを拭いて耳かきは終わった。何も悪いことをしていないはずなのに、どうしてこんなことになったんだ。

 

「反対の耳もしてあげますよ」

「い、いや、もういいかな! 十分だよ」

「そうですか? 片方だけって変じゃないですか?」

「いやいや、今日はもう耳かきはいいかなーって……」

「…………まあ、トレーナーさんがそう言うならわかりました」

 

 これ以上はもういい。もう一刻も早くこの部屋から出たい。

 

「そろそろ俺は切り上げるよ! スズカも暗くならないうちに帰るんだぞ」

「はい、わかりました」

 

 早口で捲し立てる。不自然極まりないだろうが、もはや形振り構っていられる状態ではない。

 

 急いで帰り支度をしていると、ポンと右肩に手を置かれた。何かと振り返ろうとすると、右耳に風を感じた。

 

「こっちの耳から声が聞こえる状態で済んで良かったですね」

 

 

 



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