空が濃い青色に染まる小鳥の囀りもまだ聞こえない朝の四時半。いつもは修行僧や門下生達で溌溂たる川神院もこの時間は静寂が音をたてる。その静寂に小気味良い包丁の音が紛れている。キャベツをまな板の上で千切りにして器に移し、また千切りにしては器に移していく。
慶一が四時半に起きている理由はこれだ。
川神院でお世話になり始めてからたったの三ヶ月程だが、この時間に起きて活動するのにも随分と慣れだしていた。元々手伝いと誤魔化し中学から色々バイトしていた。その中で料理屋で働いていたのも役に立った。まぁ、他にも叔父の屋台とか九鬼家とか諸々事情があるのだが、こんなに早くこの生活に慣れたのも揚羽さんに川神院の人達のおかげというのが大きいだろう。
数玉のキャベツの千切りを終え、次は下味をつけた鶏のモモ肉に片栗をまぶし、油で揚げていく。その間に大鍋に水を張り沸騰させる。凝ったものを作っているわけではないが、この人数分を作るとなるとかなりの労働になる。
揚げ終えた唐揚げの固まりに目を向ける。修行僧数百人分の量は改めて見ても壮観だ。
包丁の音に紛れて廊下に響く足音が増えていく。修行終わりの院生が空腹を話の種に歩いている。自分が作る料理を誰かが楽しみにしてくれるというのは、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。
今しがた切り終えた長葱を鍋の中に入れ、味見をしてみる。ほのかな辛味とシャキシャキの食感が食欲を引き立てる。胡椒をいれて味を調えると、シンプルなタマゴスープが完成した。
「いい匂いだわー」
匂いに釣られてか、朝の修行を終えたばかりの川神一子が調理場に顔を出した。
「おはよー、慶一! 今日も美味しそうね!」
「おはよう一子。美味いぞ、ほれ」
まだ熱々の唐揚げを箸で一つ摘み、ふーふーと少し冷まし一子の口に放り込む。
「肉汁がひろがるわぁ~」
幸せそうに咀嚼する一子の頭を撫でると、自分の顔も緩んでしまう。
「今日も慶一は一緒に食べないの?」
「食べないっていうか食えないな。つまみ食いしながら作ってるから、腹いっぱいになっちゃうからな」
「それは寂しいわぁ」
朝ごはんを食べると時間が足りなくなってしまい、弁当を作る時間がなくなってしまう。そのことを言えば手伝いを買って出てくれる人もいるだろうし、朝ももっとゆとりを持つことも出来るのだろう。好意に甘えたくないわけではない。一人で作り上げるという達成感が好きだった。
「おっ、美味そうだな。私も」
一子と同様匂いに釣られたのか、川神百代が唐揚げに手を伸ばす。
「もう出来るから、我慢しろよモモ」
「ブーブー、ワン子と扱いが全然違うぞー!」
「それより、ちょうど出来たから運んでもらっていいか」
百代の不満交じりの返事と一子の快い返事が聞こえると、数百人分のスープが入った鍋と炊飯器を軽々と運んでいった。
慶一は当然そんな重いものを運ぶ筋力など持ち合わせていないので、近くを通った修行僧達に声をかけ、皿に盛り付けた唐揚げとキャベツの千切りと小鉢に入ったナスの浅漬けを次々に運んでもらった。
一緒に食べない間に慶一が何をするのかというと、一子達が朝御飯を食べている間に弁当を作る。別に炊いた山菜ごはんに卵とほうれん草の巾着、朝揚げた唐揚げの残りをアレンジして甘酢餡かけにする。小松菜のおひたしと人参の金平で彩りをつけて完成。
弁当が詰め終わる頃には、一子は学校に行く前にもう一度鍛錬に向かう。百代は特に決まった時間はなく気ままに学校へ行く。慶一はというと、自分の部屋に戻り一時間後に目覚ましをセットしギリギリまで眠ることにしている。
敷いたままの布団はすっかり冷えており、自分の体温が広がるにはまだ時間が掛かりそうだ。
布団に包まり目を閉じると、腹のそこから泡が浮かび上がってくるかのような大きな欠伸が出てくる。目じりに溜まっていく涙もそのまままに慶一は静かに寝息をたて始めた。
お気に入りの傘が剣で、ランドセルは盾だった。
そんな見るもの全てが遊び道具だった子供時代、慶一はもう一つの武器を手に入れた。高速走行、急坂登降、段差越え、何をしても壊れなかったマウンテンバイク。どこまでも走っていけると本気で思っていた。
そんな慶一が隣町へ自転車を走らせるという大冒険を思い立つには、そんなに時間はかからなかった。
一つ一つ橋の下を潜り抜けていく度に心臓の鼓動が大きくなっていった。見慣れない景色に目を奪われる度に高まる期待と、帰れないのではないかと不安に掻き立てられる。今となっては、隣町だろうが隣の県だろうが胸の内の変化は微々たるものだろう。子供の頃のあの気持ちは、初めての海外旅行に行った時のような期待と不安だった。
新しい出会いが新鮮で、同じ位の年の子に声をかけては一緒に遊んでいた。鬼ごっこも、かくれんぼも自分が知っていたルールとは少し違っていた。
気づいたら知らない子と遊んでいたことはなかっただろうか? そんな、名前という概念がそんなに大事じゃなかった時代。楽しいが頂点で後はその下。些細な問題など全部後回し。
そんなんだから度々怒られた。理由はもちろん帰宅時間。ご飯の時間になっても帰らなかった自分を見つめる二人の姿を思い出す。心配で泣きそうな顔になっている母、男の子らしいと嬉しそうに笑う父。一人が心配すれば、もう一人が褒める。一人が怒れば、もう一人が慰める。こんな二人が大好きだった。
次の日も次の日も隣町に遊びに行った。相変わらず一期一会が続いていたが、よく遊ぶ友達も出来た。もちろん約束なんてない。ほとんど彼女は一人でいたから、見つけるのは簡単だった。
ほんの数年前だが遠い昔の思い出を振り替える。
どこか懐かしい初夏の風を感じたせいなのだろうか。遠くに見える工場の煙が、隣を通り過ぎていく赤と黒のランドセルが、蹴り上げられた土の匂いが思い出に色をつけていく。
土の匂い? 疑問に思ったがすぐに理解する。随分と歩いていた。いつの間にか多馬大橋の近くまで来ていた。周りの雑踏も耳に入らないくらい思い出に浸っていたらしい。せっかく色付いてきた思いでも現実に塗り替えられてしまった。
「おはよう慶一。姉さんの決闘見ていかないのか?」
直江大和に声をかけられ振り向くと、椎名京、師岡卓也、島津岳人の姿も見える。この4人は慶一と同じ1-Fのクラスメイトであり、今ここにはいない同じ1-Fの風間翔一を中心とした仲良しグループだ。更にここに、一子と百代もがここに加わった7人が風間ファミリーと呼ばれている。
それぞれに挨拶をすると、多種多様に挨拶が返ってくる。それだけでもこのファミリーの個性の強さが現れていた。
「あそこまで一方的だと虐殺の方が近い気がするけどな」
橋の上から見下ろす光景は、百代一人に対して数十人の男が囲んでいる。その男の群れの後ろには山が出来上がっていた。百代が男を殴り飛ばすと器用にその山の上へと重なって行く。出来上がっている山の正体は隣町の暴走族の集団で、一撃で戦闘不能へと追いやられた残骸である。積み上げらた男達はピクピクと痙攣し、陽炎のように山を動かしていた。
「あはは。僕も慣れたと思ってたけど、川神学園に入学して改めてモモ先輩の強さと人気を確認したよ」
「モモ先輩の強さは規格外だからな、オレ様ももっと鍛えないとなっ!」
「こんなところで脱がないでよ!」
モロとガクトのやり取りを遮るように声援が大きくなってきた。どうやらそろそろ決着がつくらしい。
「なにが楽しいのかねぇ、毎回毎回バカみたいに戦って」
誰に話しかけたわけでもない慶一の呟きに、大和が不思議そうに反応した。
「前から思ってたけど慶一って、姉さんに容赦ないよな」
「そうだぞ後輩。こそこそ悪口なんて男らしくないぞ」
歓声と共に空から現れた百代が不満を口にしている。河川敷に目を向けると、不良の山は悲惨な人間タワーに変わり高くそびえ立っていた。そんなことよりも空から来たということは、この距離を飛んできたいうことだ。流石にそのことには驚きを隠せない。
挑戦者対川神百代という図式は、最早お馴染みの光景になっている。一対一の時もあれば、今回のように武神のうわさを聞きつけた不良たちの的になることもある。
スポーツとも喧嘩とも違う。でも、殺し合いでもない。アレをなんて呼ぶのが正しいのだろうか。
単純に憂さ晴らしと呼ぶのが正しい気がする。
「悪口じゃなくて、ただの疑問だよ。川神先輩」
「気は晴れるけどな、あんな弱いやつを相手にしても楽しくはないな」
少しつまらなそうな顔で言う百代の顔が気になるが、大和に抱き着きついてじゃれてる間にいつもの表情に戻っていた。血は繋がっていなくても姉妹というのは似るのだろうか。ころころと表情が変るところは少し一子を思い出す。
「それにしても相変わらず外では川神先輩って呼んでるんだね」
慶一と百代の会話を聞いていたモロが、いいかげん呼び方を統一したらといったニュアンスで慶一に言う。
風間ファミリーのメンバーは川神院に来ることもあるので、慶一が百代に対して普段は川神先輩ではなくモモと呼んでいることも知っている。
「ファンの子達が怖いからな」
黄色い声援を上げている女性との声が全て罵声に変わるのを想像すると、太陽に照らされていよるのに身震いしそうになる。
「オレ様は鍛え抜かれた筋肉のおかげで怖いものなんてないぜ! 慶一もオレ様みたいにタフガイにならないとな!」
「女は目で人が殺せるんだぞ、おぉ、怖い怖い……。まぁ、男は目で犯せるけどな」
「なんだよその特技!? オレ様にも教えてくれよ!!」
「ガクトはいつもやってるような……。私も目で大和を犯せるよ。もちろん大和が私を犯すのもオッケーだよ。ハァハァ……」
京は艶やかな顔で大和を見つめる。
「慶一もそういうこと気にするんだな(スルー)」
「大和みたいにファミリーなら問題ないだろうけど、無駄に噂話の中心になりたくねぇしな。良い噂だったらいいけど、今のところ川神先輩に関わると生意気な一年が楯突きやがって……って噂になりそうだし」
「私は番長か!」
「まぁ、女子の嫉妬は怖いからね……。私も大和が他の女の子と仲良くしてるのを見ると黒いものがモヤモヤと……」
「京は朝から暗いなぁ……。そうだ、川神先輩弁当忘れてるぞ」
桃柄の手ぬぐいに包まれた弁当箱を差し出す。よく考えたら、この行為も知らない人から見れば勘繰られてしまうのかもしれない。
きっと大和がなにかしているんだろう。慶一のためではなく百代のために。自分よりもファミリーのために色々画策していることは知っている。他のファミリーもそうだろう。自分よりもファミリーのため。そんな関係が少し羨ましく思える。
「おぉ、悪いな」
「それじゃ、お先に」
手を振り別れ、春の日差しとは違う初夏の日差しに気づく。そろそろ制服も衣替えだということを思い出しながら学園へ向かった。
そういや、一年の頃は風間ファミリー全員同じクラスだったけか?
まぁ、いいや。