夕食も終わり、テレビではバラエティ番組が猛威を振るう時間帯。慶一は川神院の調理場で、低く静かな笑い声を響かせていた。
「慶一が燃えているわ……」と一子が顔を覗かせると、慶一の笑い声は一段と大きくなった。
「なっはっは! そうだ、一子。オレは燃えているぞ! まるでバカが作るチャーハンみたいな火力で燃えてる。いいか? 一子。中華鍋は構造的に熱が分散するから強火で炒めるんだ。家のフライパンで作る時は高火力は必要ない。じゃないとパラパラじゃなくて、パサパサになるってもんだ。そもそも日本のジャポニカ米でチャーハンを作ること自体が足かせになっている。モロの言葉を借りれば無理ゲーってやつだ」
「元気なのはいいけど……あんまり無茶をすると、じーちゃんに怒られるわよ」
「これは無茶じゃないぞ。しっかり打算してる」
「なんでもいいけど、今日は早く寝たほうがいいわよ。疲れた顔してるんだから」
「たしかに早く寝たほうが、早く明日がやってくるな。一子は天才だな! 今日はさっさと寝るか」
部屋に戻るために慶一が調理場の掃除を始めると、一子は疑問に首を傾げた。
「よくわからないけど……。そんなに早く寝たいのなら、私も手伝うわ」
そのまま何事もなく翌日になり、今日の昼休みは慶一が学食に入る日だった。
学食の混雑はいつものことだが、今日はいつも以上に学生がひしめき合っていた。
「裏切り者……」と、慶一の遠くの席で、恨めしそうに声を漏らしたのはヨンパチだ。
「裏切り者……」と、慶一の近く。というよりも真横で、恨めしそうに声を大きくしたのは燕だ。
慶一は「松永先輩……時代は変わるんですよ」と勝ち誇った笑みを浮かべると、そのままの笑みで、列に並ぶ男子学生に「いらしゃい」と声を掛けた。
男子学生は瞳を輝かせて「焼きおにぎりセット」と、上ずった声で食券を慶一に渡した。
「はいよ。それじゃ、よろしく」と慶一は既に形作られているおにぎりを皿に盛るでなく、燕とは反対の隣りにいる武松に渡した。
武松は「うん……」と小さく頷くと、おにぎりを包むように両手で持ち――燃やした。
すぐに、空腹を刺激するような優しくも強いお米の香ばしい匂いが漂う。
慶一がまだ煙が燻る焼きおにぎりに手早く醤油を塗ると、香ばしさが一層増した。薄く塗られた醤油は照りを作り、米が褐色に色づくと、焦げ目を鮮やかに魅せた。
もう一つには、ねぎ味噌を乗せるように塗る。熱々の焦げの上の味噌は熱で一瞬泡立ち、弾けるのと同時に芳しい匂いを破裂させた。それに、味噌で手が汚れないように大葉を巻くと、皿に乗せた。
付け合せは、人参とゴボウの入った甘い卵焼きと、とり天とキャベツの千切り。それに芋煮だ。
甘辛い醤油や味噌の焼きおにぎりの口直しのために、甘い卵焼きやキャベツを一緒に出し、好みの味付けで食べられるとり天でお腹を満たせば、優しい味の芋煮の風味が一層引き立つという定食なのだが、焼きおにぎりセットを頼む学生にとって、そんなことはどうでもよかった。
中国からの美少女留学生の武松が握ったおにぎりを食べられるということが、最重要項目になっているからだ。
だが、慶一もそんなことはどうでもよかった。売れれば良いというのもあるが、武松の人体発火現象による炎操作のおかげで、他では食べることのできない、絶妙な焦げ加減の焼きおにぎりを作ることに成功したからだ。
「三角形のサイド、裏表の五面カリカリでしょっぱく、中の米フワフワで甘い、具はトロトロ。しかも熱々ときたもんだ……もう、納豆小町の言いなりになる必要はないってことです」
慶一の言葉に、燕はぶーっと口をとがらせた。
「おかしな話だよ。二人で始めたおにぎり人類補完計画なのに……しかも納豆はセットから外すという鬼畜の極み! 外道! 畜生! 下劣!」
「だって焼きおにぎりなら、納豆より合うものが他にあるんですもん。それに――」
「それに?」
「武松への報酬は作ったお菓子を渡せばいいだけですし」
慶一が昨夜のうちに作ったシュークリームを高く掲げると、武松の姿勢がよくなった。
水族館のアシカのショーのように、慶一の腕の動きに合わせて武松の首が動く。
右へ手をのばすと武松の顔は右へ、左へ手をのばすと左へ。渦をかいて見せれば、首ふり人形のように動く。
慶一はしばらく遊んでから、シュークリームを武松に渡すと、閉店の札を出した。
「ありがとよ。また今度頼むわ」と慶一に言われると、武松は了解と頷いて離れていった。
「前口君……」と燕は睨みをきかせた。「高火力娘に心を奪われちゃダメだよ。中華より和。日本の心を忘れちゃダメダメダメ。納豆なら、なんと火いらずで最高の味だよ」
「納豆は火を入れると臭いますからね」
「それは私が鼻つまみ者だと言いたいんだね……」
燕はよよよとわざとらしくし壁にしなだれかかった。
「納豆じゃ限界なんですよ。アイディアは枯渇。風鈴市で儲けたんだからいいじゃないですか」
「いいや、これは契約違反だよ。この恨みはらさでおくべきか……」
燕は不気味な笑みを口元に残すと、学食にいる生徒の皿に納豆を残しながら消えていった。
放課後になると、慶一は学食でもなく、川神院の厨房でもなく、九鬼ビルのキッチンでもなく、だらけ部が使っている空き教室でフライパンをふるっていた。
「しらたきの乾煎りと茹でるのは、同じアク抜きでも用途が違って、味をよく染み込ませたい時にはは炒って水分をよく飛ばす。プリプリの食感を残したい時は茹でる。今はアク抜き不要のしらたきも売られてるけど、臭みが気になるならさっと火を通したほうがいいかな」
慶一は沸いたお湯に水を切ったしらたきを入れながら言った。
「前口よ……なんでオレは、頼んだ覚えのない料理の講習を受けてるんだ?」
「ゲンさんに頼まれたからだよ。特S食券で宇佐美先生の食生活を正してくれって。最近は特に飲みすぎて心配なんだとさ。ツマミに脂質と糖質が多いのも気になるって」
「ガキに酒の飲み方を心配される日が来るとはな……」
「ガキに心配されるってことは、相当無茶な食生活を送ってるってことでしょうね。健康診断の結果も隠してると見た」
「……いいんだよ。おじさんは太く短く快楽に溺れて行きていくって決めてるんだから」
「でも、ヘルシーなおつまみの作り方を覚えたら、小島先生とか誘いやすくなると思うけど」
宇佐美は「おい、前口……」と慶一を睨みつけた。「大人をなめるなよ。安い挑発は命取りと思え。……それで? その野菜はなにに使うんだ?」
「野菜スティックですよ」
「野菜スティックってあれだろ? 野菜を細く切ってあるやつ……おじさんもキャバクラでケチって頼むけど、美味しいものじゃないぞあれ」
「ディップにこだわってないからですよ。まずはこうやって昆布で出汁をとってですね」
慶一は別鍋で茹でていた昆布を取り出すと、ダシを醤油と合わせ、マヨネーズの色が薄く変わる程度入れて合わせた。そこに一味と胡椒を少々――出汁の奥に辛さを感じる程度入れる。
もう一つ、今とまったくおなじものに味噌と砂糖を入れてよくまさ合わせることで、和風でも醤油と味噌ベースで別物のディップを作った。
「簡単なわりにはうまいな。大根の瑞々しさが出汁に合う」
「昆布出汁は面倒くさかったら、塩昆布でもいい。でも、昆布で出汁をとっておくと、とり終わったら昆布でこんなのも作れるという、手間が手間じゃなくなる魔法もある」
慶一は出汁をとり終えた昆布を千切りにすると、同じく人参も千切りに、油揚げは短冊切りにして鍋で炒めた。
「この時に油揚げの油は抜かいないで、揚げの油で炒める感じで、あとは好きな煮物の味付けで炒めるだけ。今日はシンプルに醤油、酒、みりんに、昆布出汁で煮る。香ばしさが欲しかったら、煮詰めて煮汁が少なくなった時にごま油を足してく。油で煮詰めるとせっかくの出汁の旨味が気圧されちゃうから、香りを付ける程度で」
ついで慶一は、茹でていたしらたきを湯切ると、市販の味噌ラーメンスープと昆布出汁を合わせて、適当な野菜を炒めて合わせた。
「この野菜は野菜炒めを作る感じで濃いめの味付けのほうが美味しいかな。スープは味噌じゃなくてもいいけど、味噌だと豚汁っぽさが出て違和感がなくていい感じ出来る」
慶一はしらたきのラーメン風を出すと、とりあえずこれで一通りの調理の工程は終わりだと告げた。
「おじさんからしたら、出汁をとるってだけでハードルが高いんだけど……」
「出汁をとるって言うと手間がかかりそうだけど、基本放置だから楽なんだけどな。凝ったラーメンを作るわけじゃないから、昆布だけ取ればいいし。面倒くさかったら市販の出汁を使えばいいし。オレは出汁をとったあとの昆布が好きだからとるけどね。なにより、化学調味料にまみれた宇佐美先生は出汁の味を覚えないと、生活習慣病へまっしぐららしいよ」
慶一はゲンさんから渡されたメモを渡した。そこには、最近の宇佐美に対する食生活の心配事が書かれていた。本人には見せないように言われていたのだが、見せたほうが効果があるだろうと思って慶一は見せたのだ。
「あいつめ……」と感慨深い表情を浮かべた宇佐美だが、「今度風俗をおごってやらないとな……」と台無しな発言で締めた。
「色々思うようだけど、多分食生活は直せないし、酒も止めないだろうから、せめてつまみくらいはって考えてオレに頼んだんだから、せめてそれくらいは直してみれば? 子供に見捨てられた中年は悲惨だと思うけど」
「おい……せっかく飲んでる時に、台無しな話題をふるなよ……」
「酒は出してないでしょ……。出したら学長に怒られる」
「怒られるって言えば、今話題の中華娘のおにぎりは怒られないのか?」
「別に脇でおにぎりを握らせたわけじゃないから、ミナミミナミおじさんに握らせてるわけじゃなく本人だし。学長は黙認。むしろ武道以外で交流が持てていいってさ。学長自ら買いに来てたくらいだし」
宇佐美は「かーっ」と不満そうに唸った。「羨ましいね。留学生が来るってだけで売上が増えるんだからよ」
「最近は代行業が不況なの?」
「最近あちこちから川神に集まってるだろ? 色々と細かいところが厳しくなってるんだよ。川神院もそうだけど、九鬼も出張ってきてな。前口は最近七浜に出張ってないから知らないかも知れないけどよ。あっちも結構色々規制が入ってるんだぜ」
宇佐美が言っているのは武士道プランのことや、梁山泊からの留学生のことだ。表向きにも裏にも、様々な思惑が渦巻いているせいで監視が厳しくなっている。
宇佐美の代行業は裏にも通じているせいで、そっちの分の稼ぎがかなり減っているとのことだった。
「でも、宇佐美先生は半分引退でしょ? だからゲンさんが苦労してるわけだけど。その苦労を労うためにも、お酒減らしたら?」
「そこに繋げるとは……さてはゲンから余計に報酬をもらってるな」
「ゲンさんには普段世話になってるから、気を使ってるだけ。せめて次の健康診断時くらいまで減らしたら? 飲んで死ぬことはあっても、飲まないで死ぬことはないんだから」
「いや……死ぬぞ、前口よ。その証拠にこの話題をしている時に弁慶がいないだろ? こんなに酒のつまみがあるのにだ」
「弁慶がいないのは、似たような内容を義経から依頼されたのを知ってるからだよ。ほとぼりが冷めたら、またつまみをねだりに来る」
「オマエさんはすっかりだらけ部の敵になったってわけか」
宇佐美は慶一と二人きりだと不満を漏らした。弁慶はもちろん。大和も、最近だらけ部に入部した公孫勝の姿もなかった。
「若けりゃ、他にも色々用事があるでしょうよ」
「若けりゃ?」
宇佐美は自分と慶一を交互に人差し指でさして言った。
「オレは学生。宇佐美はおっさん。なにか問題が?」
「おっさんの健康状態を気にする学生なんていないって意味だ。まったく……その景気をわけてもらいたいよ」
宇佐美がため息をつくと、慶一は待ってましたと言わんばかりの笑みを口元に浮かべた。
「景気と言えば、うまい話が……なんでも近々あれがこうで」
「それがこうなら、あれはこうなるってわけか」
「こうなれば、そうなるわけだから、宇佐美先生も損はしないでしょ?」
「……よし、乗った」と宇佐美は慶一と固い握手を交わした。