窓を開け放った空き教室――だらけ部の部室に流れる空気に、季節の変わり目が混ざっていた。
秋がそのまま居座るつもりはないらしく、代わりに冬がわずかに顔を出す。遠慮がちに座布団を差し出しているような冷え方だった。
息を吐くと、白くなるほどではないが、胸の奥がひんやりとする。
慶一が七輪を縁側に据えていると、まるでそれを待っていたかのように、弁慶がにゅっと空き教室に顔を出した。
「ちーかま」
「……情報の出どころは大和か?」
「慶一、挨拶は大事だよ。ほら、ちーかま」
「大和なんだな……」
「名誉のために私は口を閉ざすよ。海の底に沈む蛤のように」
「口を開けないんじゃあ、食うことも出来ないな」
「いけず……いいじゃん湯豆腐くらい」
「おい、なんでこれからオレが作るのが湯豆腐って知ってる? その分だと出汁が蛤なのも聞いたな……」
慶一に指摘されると、弁慶はわざとらしく口元を押さえて驚くふりをした。
しかし、その所作はどこか落ち着いており、どかっと畳に腰掛けると川神水を一口くいっと口に運んだ。
いつもの飄々とした雰囲気を醸し出し、慶一もすっかり諦めた。
「まあ、弁慶なら良いけどな」
「あら、武神がいるのに浮気とは。明日の天気は血の雨かな?」
「うるさくねぇってことだ。今から湯豆腐を作るのを知ってるってことは、理由も知ってるんだろう?」
「最近川神院が騒がしいから、ゆっくりしたい」
「なら――」
「だらけ部だよ。こっちはまっとうするだけ」
弁慶が川神水を軽く掲げると、慶一は苦笑いを浮かべて七輪へ視線を戻した。
素焼きの肌に触れると、冷気を吸って冷たくなっているのを手に感じた。
底に新聞紙を軽く丸め、その上に炭を置く。
黒く、乾いた炭を手に取ると、指先に炭特有のざらつきが残る。
新聞紙に火をつけると、紙がチリチリと縮む音がしてすぐに炭の下へ潜り込んでいった。
ぱちぱちと小さな音が響き、続いて紙が燃える匂いが立つ。
その匂いは、秋の終わりになると決まって思い出す、どこかノスタルジーを感じるものだった。
火熾し器をかぶせ、慶一はしばらく待った。
急がない。七輪はこちらが焦ると機嫌を損ねる。
炭が鳴る音に耳を澄ます。
弁慶が川神水で喉を鳴らす音に混ざり、ぱちぱちと乾いた呼吸のような音が響く。やがて音の間にわずかな間隔が生まれた。
器を外すと、炭の表面が白くなり、夜に浮かぶ橙の月のように芯が燃えていた。
手をかざすと、熱がまっすぐ上がってくる。手のひらに刺さるような暑さではなく、包むような熱だ。
炭を箸でつまみ、七輪の中に並べ直す。
灰が舞い、すぐに落ちる。空気の冷たさと炭の熱が、手のひらの前でせめぎ合う。
その境目に、今の季節があった。
七輪の準備を整えると、慶一は小ぶりの土鍋を取り出した。あらかじめ仕込んでおいた蛤の出汁と、徳利から注ぐ日本酒。
――とく、とく――と澄んだ音を立てて、酒と澄んだ出汁が鍋底で混ざり合っていく。
まだ冷たいはずなのに、鼻に近づけると米の甘さと微かな潮の香りが先に立った。
火にかける前から、もう料理は始まっている。
豆腐は絹。包丁は使わず、角を両手で包み、力を入れすぎないようにして四つに割る。
指に吸い付くような感触が一瞬あり、次の瞬間、つるりと離れように割れた。
出汁に沈めると、豆腐はしばらく静かに底に触れていてが、ぐらぐらと沸いてくると、わずかに揺れる。
やがて、鍋底から小さな泡が立ち始め、蛤の旨味を含んだ甘い湯気がふわりと立ち上った。
顔を寄せた弁慶の鼻先を、温かな匂いがかすめる。
「ん……いい匂い」
「これを、煮立たせないように……酒と出汁が騒ぎ出す前に火を弱めるんだ」
慶一は炭を一本、外した。この一手間が味を決める。
箸で豆腐を持ち上げ、小鉢へと移すと、重みを感じた。
水を吸った重さではない。温度と出汁を含んだ重さだ。
「ほら、食ってみろ」
「かたじけない」
弁慶はキスをするように唇を尖らせると、フーフーと息を吹きかけ、小鉢から豆腐を一口で運んだ。
噛む前に、舌に乗せた瞬間、豆腐が崩れた。
蛤の深い旨味と酒の甘さが、押しつけがましさもなく、ただ絶妙な背景として広がっていく。
大豆そのものの香りが、後からゆっくりと追いついてきた。
「……うま」
素で漏れ出たその一言に、慶一は満足そうに口元をゆるめた。
喉 を通るころには、体の芯がじんわりと温まっている。
派手さはない。だが、七輪の火と、酒と蛤、そして豆腐だけで、これ以上を望む理由が見当たらなかった。
鍋の中には、まだ白が残っている。
急がず、静かに、ふたりはまた次の豆腐へと箸を伸ばした。
湯豆腐は、食べ終わる料理ではない。終わりたくなくなる料理だった。
小鉢に残った僅かな出汁を飲み干すと、弁慶はどこか名残惜しそうに唇を舐め、七輪の上でふつふつと優しく揺れる土鍋を一瞥してから、くっと川神水を一杯飲み干した。
「ふぅ……慶一、今のままでも十分に完成された味だけどさ。まさか、これで終わりってわけじゃないよね?」
「当たり前だろ。本番はここからだ」
慶一はそう言うと、傍らに置いてあった、手のひらサイズの小さなコンテナ群れを畳の上へと並べた。
中に入っているのは薬味だ。
薬味の入ったコンテナには、きれいに切り揃えられた細ネギの青、擦り下ろしたばかりの鮮烈な生姜の黄色、そして赤唐辛子を大根に抱かせた色鮮やかな紅葉おろしが盛られている。
さらにその横には、慶一特製の自家製ポン酢が入った小さな徳利が添えられていた。
「ただの醤油じゃない。橙(だいだい)の生搾り果汁に、鰹節と昆布を漬け込んで熟成させた特製ポン酢だ。……まずはシンプルに、ネギと生姜だけでいくのが――」
「うわ、もう匂いだけで酒が進みそう……」
弁慶は慶一が全部説明する前に小鉢を差し出した。
慶一が新しくすくい上げた湯気の立つ絹ごし豆腐を受け取ると、その上へ、刻みネギをパラリと散らし、生姜をほんの少しだけ添えた。
そこに徳利からポン酢をひと回し注ぎかけると、澄んだ酸味が熱い豆腐に触れて一気に香りを弾けさせた。
柑橘の爽やかな香りと、削りたての鰹の香ばしい風味が、空き教室の冷えた空気をふわりと包み込む。
弁慶は小鉢から豆腐をレンゲですくい、フーフーと軽く熱を逃がしてから、口の中へと滑り込ませた。
「っ……あは、なにこれ……!」
舌に触れた瞬間、先ほどまでの「優しく温かな蛤の出汁」の世界が一変する。
キリッと立ったポン酢の鮮やかな酸味が、大豆の濃厚な甘みをこれ以上ないほど引き立てていた。
噛む必要すらない豆腐のつるりとした滑らかさの中に、シャキシャキとした細ネギの心地よい食感がアクセントとして弾ける。
そして、遅れてやってくる生姜の爽快な辛味。
それが鼻腔をすっと突き抜けたかと思うと、喉の奥に残り火のような温もりを残して消えていく。
「旨みが……層になって押し寄せてくる。ネギのシャキシャキと豆腐のふんわりした柔らかさの対比がずるいよ慶一。ポン酢の酸味がカドの取れたまろやかさで、出汁の風味を殺すどころか引き立ててる……!」
「……さては、大和からなんか料理漫画借りたな?」
「美味しいって褒めてるんだから、素直に受け取ればいいのに」
「なら続けるけど、蛤の出汁と酒で下味がしっかり入ってるからこそ、ポン酢の酸味が尖らないんだ」
慶一も自分の小鉢に豆腐を移すと、今度は紅葉おろしをたっぷりと乗せた。
朱色に染まった大根おろしが、白い豆腐の上で鮮やかに映える。
「次はこれだ。紅葉おろし」
「私にもそれ頂戴」
弁慶が催促するように小鉢を突き出す。慶一は苦笑しながら、惜しみなく紅葉おろしを乗せてやった。
熱々の豆腐とともに口に含めば、ピリッとした唐辛子の刺激が舌を心地よく痺れさせる。
だが、大根おろしのさっぱりとした瑞々しさがすぐさまそれを包み込み、熱い豆腐の甘みと混ざり合って極上のハーモニーを奏でた。
シンプルな豆腐だからこそ、辛味、旨味、熱さ、そして涼やかな薬味の風味が口の中で跳ね回るのを感じた。
「……んーっ! 身体の奥からカッと熱くなるね! このピリ辛さと冷たい川神水が、もう……悪魔的な組み合わせだよ……」
弁慶はたまらず川神水を一口あおり、感極まったように深く息を吐き出した。
冷えた身体が、七輪の火だけでなく、唐辛子と生姜の薬味の効能で内側からじんわりと燃え上がっていくのを感じる。
「ネギと生姜の清涼感で食べるも良し、紅葉おろしでピリッと引き締めて食べるも良し。交互に食うと、永久機関の完成だ」
「慶一はだらけ部の部員じゃなくて、人間をダメにする料理の天才だよ」
「褒めても、もう一鉢分しか残ってねぇぞ。オレは手から豆腐が出る能力は持ってない」
「和菓子が出ても、作るくせに」
弁慶はレンゲを伸ばし、七輪の上でゆらゆらと揺れる最後の豆腐を拾い上げた。
窓の外からは冷たい秋末の風が吹き込んできていたが、空き教室の隅っこ、七輪を囲む二人だけの空間には、薬味の豊かな香りと、何物にも代えがたい温かな満腹感がどこまでも満ち満ちていた。
本編関係無し。
なんか思い立ったら書いてみようと思ってるだけの、誰かと食事をするシリーズ。
このキャラとの絡み読みたかったのになーは、活動報告の方にでもコメントしてもらえれば、インスピレーションが沸いたときにでも考えてみます。
とくにリクエストの募集ではないです。