春の風は生暖かく、瞼に錘が下げられたかのように睡魔がじわじわと襲ってくる。真新しい葉が風にさーっと泳がされて擦れる音は子守唄のように耳に流れてくる。同時に花の匂いも運び甘い春の空気を吸い込む。
気だるいような心地良いような春にまどろんでいると、閉じた目に影が映り込む。
「おっ? ずいぶんと懐かしいガキがいるじゃねぇか」
短いボサボサの髪に無精髭、彫刻刀で彫ったような皺が眉間に深く刻み込まれている。
口元は緩みえくぼが出来ているが、それが胡散臭さに拍車をかけており、どうにも一般人には見えてこない。
誰だかわからないが、折角重たくなってきた目蓋を開かなければよかったと後悔した。
「そうですね、お久しぶりです。それではまた」
慶一はズボンについた土ぼこりを手で払い、そそくさと帰り支度を始めた。
「まぁまぁ、そう邪険にするなよ。昔のよしみだ手伝えよ」
男の手からポンっと長い棒を投げられる。いきなりの事で為す術がなく、慶一の手に吸い込まれるように釣竿が着地した。
「釣りですか?」
「まぁな、晩飯の調達ってとこだな」
男はろくに手入れもされてないない、針も糸もつけっぱなしのボロボロの釣竿を手元で遊ばせしならせている。その度にリールから錆が飛び散っていた。
腰を下ろしのんびりと糸を垂らす男の横で、慶一は煙たがるように間を開けて座った。
男はそんな様子に気付いているのいないか、気にした様子もなくひょうひょうと話し出す。
「梅屋もいいけどよ、日本人はやっぱ魚だよな」
「……そうですね」
「鯉こくがまたうめぇんだわ」
どう見ても泥抜きなんて面倒なことはしなさそうな顔だが、男の口ぶりからするとよく釣って食べているようだ。
「いまどきミミズなんかで釣れるんですか? ふかした芋とか食パンの方が掛かりがいい気がしますけど」
そこらの石の下にいたミミズを現地調達して針につけて川に投げ込んだが、ウキは川の流れに遊ばれているだけで退屈そうにゆらゆらと揺れている。
「芋もパンもありゃ食っちまってるよ。なんだかんだ梅屋が恋しいぜ」
「多馬川の鯉も梅屋も体には良くなさそうですけどね」
「はっちげぇねぇ。それにしてもあのときのガキがこんなに大きくなるとは。オレも年をとるわけだな」
第一声からそうだったが、どうやら男は慶一を知っているらしい。顔も身なりも危険な香りが漂っているこの男とどこで出会ったか思い出そうとするが、アウトローな知り合いを探ってもこの男の顔は出てこない。
サバイバル慣れしていそうということは、久遠寺家にいる大佐関係の知り合いだろうかと考えてみるが、あの人の繋がりはあずみさんくらいしか知らない。
大和みたいに無駄に交流を広げる必要もないし、適当に話を合わせて早々に切り上げた方がよさそうだ。
「自分で言うのもあれですけど、子供の成長は早いですからね」
「だよな。オレも今弟子とってるんだが、なかなか飲み込みが早くってな――」
おじさん特有の長話と言うか無駄話が続いているが、慶一は〝弟子〟という単語に反応した。
料理関係の知り合いだろうか。武道を嗜んでいない慶一にとっては師弟と言う単語はそれくらいにしか結びつかない。
川神学園に入学する前だが、料理の幅を広げる為にと揚羽さんに色々な料理屋に連れて行ってもらったことがあった。その時に何人かのシェフと話す機会があったので、おそらくそれだろう。
「でよ、上のネタだけ食ってシャリだけよこしてくるんだぜ。エビ楽しみにしてたってのによぉ」
「こんな所で釣った魚を店で出すのはまずいんじゃないですか?」
「あぁ? なに言ってんだ。どう考えたってオレが店出すようには見えないだろう」
無理やり結びつけた人物像はかすりもしなかった。こうなると向こうが人間違いしているのではないだろうか。
「つーかオマエ、オレのこと覚えれないだろ」
「あいにくさっぱりわかりません」
「どうりでよそよそしいわけだ。まぁ2,3回しか会ってねぇし無理もねぇか」
「それは、昔のよしみとは言わないんじゃ……」
慶一はリールを巻き、竿を男に向ける。
「まぁ、わからないならそれでいい。どうせこの先道が交わることなんてねぇだろうしな」
そう言うと男は慶一から釣竿を受け取り歩いて行ってしまった。その伸ばされた手が筋肉質で角ばっていたのが見えた。
男が釣れないままさっさと帰ってしまったので慶一が一人取り残される。
結局この男と知り合いだったのかどうかもわからずじままだが、春の陽気に誘われた変質者の類ではなさそうだ。
帰るタイミングを逃した慶一は手慰みに雑草を千切って風に流して遊んでいた。
「うぇっ! やめろよ慶一! 口に入っただろ!」
草の流れに目を向けると口元を拭っているキャップがいた。
「どうしたキャップ」
「どうしたじゃねぇよ! 携帯の電源切れてるぞ」
ポケットに仕舞ってあった携帯を弄ってみると、画面は真っ黒のまま慶一の顔が微かに映るだけでうんともすんとも言わない。
「それは悪かった。急用か?」
「こないだの依頼の報酬貰って来たからよ、召集かけたのに慶一来ねぇんだもん」
「それでわざわざ探したのか。明日学校で渡してくれてもよかったのに」
「折角だしすぐ渡したいだろ。まっ今回は報酬も少ないけどな」
キャップから数枚食券を受け取る。毎朝弁当を作ってる慶一にとっては食券を使う機会があまりなく、束になって部屋の机に仕舞ってある。
「ありがとう。これが札束だったらいいんだけどな」
「それにはオレも同意だけどよ、うちの学食美味いからいいじゃねぇか」
「それで問題は解決したのか?」
「まっ一応な。大和がきっちりレポートにまとめて依頼主に渡してたし、後はオレらに出来ることはないぜ」
「余計に関わってこっちにまで被害がきたら元も子もないもんな」
いつの間にかキャップも腰を下ろしていた。
「慶一はここで何してたんだ?」
「春の陽気に浸って昼寝でもしようとしてたんだけどな。いつの間にかよくわからんおっさんと話してたよ」
「春だしなー、こう暖かいと眠くなるよな」
欠伸をひとつすると、ごろんと横になり目をつぶる。
「おいおい寝るのか?」
「風だって吹かない日もあるぜ」
あっという間に寝息をたてる。こうなってしまってはテコでも動かないし、男二人肩を並べて寝るのも気持ち悪いので放っておいて帰ることにした。
川神院に続く仲見世通りは、観光地独特の喧騒とにおいがあふれている。
ツアー客だろうか、一部の人の固まりが川神院へと向かって行く。今帰るとあの団体と鉢合わせすることになる。観光客に質問をされ、歴史やら名物やら紹介しなくてはいけなくなりそうなのでそこらへんで時間をつぶすことにする。
茶屋なのでオープンカフェと呼んでいいのかわからないが、店先に設置されてある席に腰をおろす。
愛想の良い店員がメニュー表を持って来る。何を頼むか決まっていたのだが、その愛想の良さに気を使って一通りメニューに目を通す。
「番茶と塩大福のセット――」
「を二つ」
どこからか現れた百代が慶一の対面に何食わぬ顔をして座っていた。
「小腹がすいたなら、いつも通りそこらの姉ちゃんナンパして奢らせればいいのに」
「私は慶一と食べたいんだよ」
わざとらしくモジモジと照れたそぶりを見せる。
「……とうとう悪名が祟って誰も寄り付かなくなったか」
「ふっ。いつもなら食って掛かるところだが、私は大人だからな安い挑発にはのらないぞ」
「おごらせる気だからだろ。で、大人の女性は川神院に戻らなくていいのか? 観光客が大量に向かってたぞ」
「だからここにいるんだよ。イベントでもないのに演舞を見せる羽目になったら面倒くさいしな」
「まっ同じような理由でオレもここにいるからな、とやかく言えねぇわ」
運ばれてきた塩大福を口に入れる。丁寧に裏ごしされた餡は口どけがよく、あんこに砂糖をあまり使っていないのか普通の大福よりは甘さが感じられないが、塩が小豆本来の甘さを引き立てていた。
渋みのある番茶を飲むと、口の中の甘味が流されすっきりとする。
「そういえばキャップが探してたぞ」
「さっき川原で会ったよ。食券をオレに渡して直ぐ寝ちまったから置いてきたけど」
「楽な依頼だったとはいえ、もうちょっと報酬がほしかったな」
月末と言うことも有り、百代の財布の中は殆ど入っていないのだろう。月末に近づくとバイトを入れ借金返済の為に文字通り汗を流している。肉体労働と言うのがいかにも百代らしい。
「短期バイトでも定期的にやればいいのに」
「定期的にやったら、鍛錬の時間も遊ぶ暇もなくなるだろー。」
「たまにはそういう月があってもいいだろ。オレも明日からは放課後はしばらく屋台引っ張るぞ。と言っても晩飯の仕度もあるから一日おきになるけどな」
バレンタインデーの稼ぎで金銭的には余裕はあるのだが、旅行やらなんやらで出費が重なった分は早めに補充しておきたいところだ。
「じじいが無期限で貸してるんだからゆっくり返せばいいのにマメなやつだな」
「友達に借りてるわけじゃないから、だらだら長引かせるわけにもいかんだろ。理想としては在学中に学費を返済したいんだけどな」
手についた大福の粉を指で擦り取りながら、風間ファミリーに入ってからあまり屋台を引っ張っていないことを思い出す。
「ご苦労なことだな。で、何を売るんだ?」
「新入生あたりを狙ってキーホルダー。結構仲良くなった記念にって友達同士で買っていくんだよ」
「仕入れたのか?」
「いや、手作り。まず型を作るんだけどな、針金で好きな形を作ってもいいしクッキーの型でもいい。そこに適当にパーツやら写真を入れてレジン液を垂らして紫外線に当てて固めれば完成」
「また、時間と手間が掛かりそうなことを始めるんだな」
「UVライトも買ったから5分くらいで固まるし、慣れれば1個10分くらいで作れるよ。それに大量に売り歩くわけじゃないしな」
計画としては、出費分プラスアルファ純利益が出れば充分という軽いものだ。
ネイルが流行っているからメタルパーツも結構安く手に入るし、チャームパーツで高く見せてもいい。どちらも粗悪品を使えば安く出来る。むしろ粗悪品の方が一つ一つ形が違ったりするので受けが良かったりもする。
「安いアクセサリーだったら買わない人もいるだろうが、安いキーホルダーだったら気にしない人が多いからな」
「よく売るほど作ったな。私なら面倒くさくてやらないぞ」
「バレンタインが終わった後からちょこちょこやってたからな。モロがつけてる携帯のストラップもオレが作った試作品」
「あー、あの有名なアニメキャラのやつか」
「プラバンに模写してから作ったから、版権の問題であの手のは売れないけどな」
辺りはすっかり夕方の色をしており、生暖かい春の風も汗を乾かすほど涼しいものに変わっていた。
童謡のようにカラスの声と共に赤と黒のランドセルが家路へと駆けていく。
小石に躓いたのか足を引っ掛けたのか男の子が転び泣きだす。一緒にいた女の子が足を止めて男の子の元へ走って行く。女の子らしく優しい言葉をかけるのではないかと思って見ていると、突然男の背中をピシャリと叩き喝を入れると、手を取り引っ張っるようにまた家路へと駆けていった。
男の子の方はと言うと、泣き止んではいたが呆然とした表情のまま女の子のなすがままに足を動かしている。
その光景を一部始終見ている慶一には笑いがこみ上げてきた。
「なに笑ってるんだ?」
「いやなに、もしかしたら昔から男より女の方が逞しかったじゃないかってな」
慶一は、今現在世界で一番強いであろう女の子を見つめてそう言った。