大扇島にある九鬼のビルからそう放れていないBARからは、夜を夜と自覚せるように淡い光が漏れている。
酒棚には洋酒に焼酎などが綺麗に陳列されて、カウンターからはラベルがはっきりと読めるくらいだ。お客のニーズに合わせてなのか見慣れない酒もかなりの数が並んでおり、バーテンダーがお客に頼まれる度に迷いもせず一直線にそのビンに手を伸ばす様は、同じ男でも見惚れてしまうほどの手際の良さだった。
音楽はない。客はまばらで、お客同士の会話が耳に入ってくるが誰も気にした様子はなく、自分の空間を楽しんでいる。
カランと氷を転がす音が店内によく響いた。
薄暗い中で頼りないライトが照らしているこの空間と私服が相まったせいか、グラスの中で氷を遊ばせる人物がいつもより大人っぽい雰囲気に映る。
あずみに呼び出された慶一は、スーツまでとはいかないが薄いジャケットにアイロンのかかったスラックスと、いつもより気を使った小洒落た格好に身を包んでいた。
「ムードのあるBARに美女ときてるのに、ミネラルウォーターとは味気ない」
「オマエは未成年なんだから、飲みたけりゃ川神水で我慢しろよ」
「酔うのが好きなわけじゃないですし、川神水を飲むくらいなら水で十分ですよ」
グラスの中には大き目のかちわり氷が縦に二つ並んでいる。水の温度で溶けたのか氷同士が滑りグラスが鳴った。
酒が入っているわけではなくチビチビと飲む必要もないので、グラスに注がれたミネラルウォーターを半分ほどを一気に飲む。
普通の水がやけに美味しく感じられる。何かを楽しむには雰囲気が大事なのだと改めて認識する。
「最近九鬼にはなかなか顔を出さねぇな」
「昔ほど時間が取れないですしね、特殊な調理器具を使うことにならないと川神院の調理場で事足りますし」
「まっ、あたいは借り出されない分いいけどよ」
「で? わざわざ酒につき合わす為に呼んだわけじゃないんですよね」
あずみは氷を黒糖焼酎に滑らせて、音を遊び奏でながら言う。
「九鬼は今年に入ってから忙しくてな、特にこれからもっと忙しくなるってわけだ」
「なんだ……勧誘ですか?」
「ターコ。オマエを勧誘するなら揚羽様が直々に声を掛けるだろうよ」
それもそうかと思う。そもそも九鬼が多忙の理由はどうあれ、慶一が一人増えたところでなにも変わらない。どうせ勧誘するならばもっと多方面に有能な人物をスカウトするだろう。
「と言うことは、あんまり九鬼に行かない方がいいってことですか?」
「そこまではいかないけどな、アタイも例に漏れず忙しくなるわけだ」
「出入り禁止とかは勘弁願いたいなぁ」
「だからそこまではいかねぇよ。ただ、今まではオマエが九鬼に来てた時はあたいが面倒見てたけど、そうもいかなくなってきたわけだ」
普段から多忙なあずみだが、それでも時間を作っては調理場に慶一の監視に顔を出していた。だから、その時間を作れないくらいの事態が九鬼に起こっていると言うことは慶一にも理解できた。
「流石にオレ一人で調理場に籠もるのは拙いんじゃ?」
「それじゃあ、なにかあった時に疑われるのが慶一になるからな、あたいが時間取れないときは別の奴がつくことになった。二人とも癖はあるけど面倒見はいいから安心しな」
別の人が監視につくなんて考えもしなかった。まだ自分のことを苦手としていないメイドはいるのだろうか?
メイドと考えること自体間違いなのかもしれない。基本的に慶一にはあずみがついていたので短絡的に従者=メイドだったが、九鬼には優秀な執事もたくさんいる。
「学校で会ったとき言ってくれれば、わざわざこんな時間とることなかったに」
「一応今まで面倒を見てきたわけだからな、形式上ってやつだよ」
そう言って僅かに微笑む。それは英雄といる時のキャルンとした笑顔でなく、からかっている時のニヤっとした笑顔でもなく大人の女の笑みだった。
「バーテンさん、強い酒を」
「申し訳ございませんが、未成年の方にはお出しするわけには」
「オレじゃなくてこっちに」
親指であずみさんを差すと手ではじかれた。
「しょうもねぇことをするな。あたいを酔わせてどーすんだよ」
くないでチクチクと脇腹をさされる。
「若者らしく雰囲気に流されてみようと」
「あたいを酔わせる男になるには100年はええよ」
「100年後には死んでるなぁ……」
「そりゃ残念だったな」
今度はからかう様な笑いを向けられる。
自然と口が軽くなるのはBARの雰囲気に酔ったのか、メイド服以外の格好を見たからなのかはわからない。恋に酔ってるなんて甘酸っぱい感情ではないのは確かだ。
「それにしても私服のあずみさんって新鮮だな」
「そうかもな、会うときはほとんどメイド服姿だしな。あたいは慶一の制服姿の方が変な感じだったぜ」
あずみさんと制服姿で会ったのは川神学院に入学してからだった。九鬼ビルに行く用事と言うのは調理場を借りるくらいなので、わざわざ制服を汚す必要もなく私服で通っていたからだ。
そうなると当然、私服とメイド服姿で顔を合わせることになる。
久遠寺家のメイドしか知らなかった慶一は、口の悪いメイドはなにか新鮮だった。
料理ばかり作っていたせいか、九鬼のことを思い出すとお腹が減ってきた。
「バーテンさん、なんか腹に溜まるものないですか?」
「BARでそんなもの頼むなよ」
「酒も飲ませてもらえないのにBAR来てるんだし、それくらいしか楽しみがないんですもん」
「しょうがねぇ奴だ、なんか適当に作ってもらえるか?」
「簡単なものでよろしいなら」
そう言うと奥の厨房になにやら指示を出していた。
「頼んでおいてあれですけど、そういうのもあるんですね」
「最近はそういう需要も多いですからね」
特に気にした様子もなく放たれた言葉だが、細かい客のニーズに軽く答えられるとは凄いことだ。
それから10分ほど、あずみさんと酒の席でのたわいない話をしていると「おまたせしました」と言う声と同時に慶一の目の前に皿が置かれた。
しらすに長ネギ、赤身の肉にバジル。卵が入っていないので一見混ぜご飯のようにも見えるが、炒めた後があるのでおそらく炒飯だろう。醤油の匂いもしてこないが、時間的に考えてもピラフということはなさそうだ。
口の中に入れると何より先にオリーブオイルの味と匂いが広がった。オリーブオイルだけでも珍しいのだが、肉の正体は何なのだろう。
一口目とは違い二口目はゆっくりと味わい考える。
「お連れ様どうかしましたか?」
「あーほっといてやれ、どうせ料理の分析でもしてるんだろうよ」
「そうですか」
バーテンダーは子供の正解を待つ学校の先生みたいに、どこか楽しそうに笑みを浮かべた。
慶一はまだ考えていた。
見た目は生ハムに見えるが、生ハムほど舌にとけてこない。
上質なベーコンを焼いたような塩のコクがあるが、ベーコンにはないオリーブオイルとは違う僅かな酸味が後を引く。
わかるのは豚肉と言うことだけで最後の一口を食べても結局答えは出てこず、水をあおる。
「ギブアップか? あたいは食べなくても分かったぞ」
慶一の悩む姿を肴にするのも飽きたのか、プロシュットをつまみながらようやく一杯目の酒を飲み干していた。
慶一はそのプロシュットにあの赤味の肉が似ていることに気がついた。しかし、プロシュットではない。それならば普通は火を通さないだろうし、もも肉にはない脂のコクが出ていた。
いつだったかカルボナーラを作るときに使っていた。ベーコンだが、燻製されていない……。
無数の言葉が流れる記憶の中で、どうにか単語を掴み出す。
「パンチェッタ?」
「お見事です」
バーテンダーがニコリと笑う。
「まっ、60点だな」
「バーテンさん見たく素直に褒めてくれもいいのに。パンチェッタなんて日本じゃあまり馴染みないですよ」
「オマエは九鬼で色々な食材扱ってきたんだ、もっと早く分かるようにならないとダメだぜ。ヒントもあったんだしな」
九鬼が厳しいのかあずみさんが厳しいのか……。たぶん両方だろう。
その厳しさは、最近は慢心気味だった慶一の料理魂にも少し火を点した。
BARを出ると闇夜がずい分と色濃く深まっていた。
座りっぱなしだったせいか酒を飲んだわけでもないのに、千鳥足のように若干足元がふらつく。
帰りの道を歩いている最中にあることを思い出した。
真っ暗な調理場に電気を点けるとステンレスの調理台に反射して一層明るく見える。手を洗うために蛇口をひねると飛び散った水滴がはっきりと映った。
冷蔵庫に入っていた冷や飯をレンジで軽く温めているその間に、一本の長ネギを白い部分も緑の部分も気にせず斜めに薄切りにしていく。
切り終えると丁度レンジが鳴った。
フライパンに火をかけ熱していく、温まるまで時間がかかるのでボウルに卵を割り適当に溶いておく。フライパンから薄煙が出たところで油を引いて馴染ませる。
溶き卵を入れると直ぐに泡立つように膨れ上がってきた。そこにご飯を落としかき混ぜる。
ある程度混ざったところでウインナーを丸ごと二本入れ、フライ返しの先端で大雑把に押し切って炒める。葱を入れて塩、しょうゆ、胡椒をかけて火を止める。
皿に盛り付けレンゲを二つ添えて、目当ての部屋へ向かった。
夜中の廊下というのは足を潜めてもやたらと音が響く。
百代の部屋のドアを優しくノックする。慶一の気配を察知したからだろうか、返事がくる前にガチャっとドアノブをまわす音が聞こえる。
「よっ、食わないか?」
ドアの隙間から顔を出している百代の目の前に、チャーハンを盛り付けた皿を近づける。
「いきなりだな。寝てたらどうしようとか考えないのか?」
「起きてたんだから問題ないだろ。床に置くのもあれだしテーブルかなんか出してくれよ」
「オマエって時々物凄い強引だな」
怪訝な顔をしているが、部屋に招き入れてくれる。
部屋に入ると女性特有の甘いにおいに包まれるが、すぐにチャーハンから出る香ばしい匂いが勝り広がっていく。
食べやすい位置にテーブルをセットし皿を置くと、急かすように百代にレンゲを手渡す。
「どうだ?」
「不味いことはないけど……。うーん」
珍しく百代が言いづらそうに首をひねっていた。
一般的なイメージの卵がコーティングされたパラパラのチャーハンには程遠く、雑に切られたネギからでた水分によってコメはモッチリとしてしまっている。
「気持ちは分かるけどな。米はベチャベチャしてるし、具はゴロゴロしてて食べ難いもんな。やっぱチャーハンはパラパラしててこそ美味い」
「なんだよー、わざわざ夜中に失敗作を食わせにきたのか」
「そうだよ。わざわざ夜中に、わざわざモモの為に作ったんだぞ」
「押し付けがましくしなくても、明日作ってくれればいいものを……」
不満ありありの台詞も尤もだが、慶一には思うことがあった。
「こないだ興味あるって言ったろ?」
少し考えて百代は声を出した。
「もしかして初めて作った料理のことか?」
「そうそう。最初の頃はこんなんでも作るの楽しかったよ。ネギからこんなに水分出るなんて知らなかったみたいに、いちいち発見があったからな」
「昔から料理好きだったんだな。どうせならワン子も一緒の時に作ったほうが良かったんじゃないか?」
「オレにも分かんないんだけど、思い出したらなんかモモには食べといて欲しいと思ったからさ」
「そ、そうか……。って! なんか改まって言われると変に恥ずかしくなるだろー」
微妙な空気に耐え切れなくなったのか、いつものじゃれあっている時のような口調に変わっていた。
「確かに、なんか思ったより気恥ずかしくなってきたし、洗い物して寝るわ」
おやすみと言いドアを閉めると、ドア越しに「おやすみ」と言うのが聞こえた。