時刻は朝の4時半。いつも通り朝食の支度の為に起きる時間だが、昨日の東西交流戦の影響だろう。いつもより重い体をのそのそと布団から這い出すことさえ一苦労だった。
顔を洗うついでに朝刊を取りに行く。新聞の一面は武士道プランについてだった。記者による好き勝手な見出しに囲まれて一人の女の子の写真が掲載されている。
一子と色違いのポニーテールをぶら下げており、写真越しでもこちらの心を見透かされるような純真な瞳をしていた。
もう少し新聞を読みたいところだが、朝の鍛錬終わりの者達を空腹のまま待たせることになる事態は避けたいので、疾疾と調理に取り掛かる。
手際よく調理を進めるが、大人数の料理を作るにはそれなりの時間がかかる。胡瓜の浅漬けと白菜のおひたしにほうれん草の黒胡麻和え、かんぼちゃの煮付けとカレイの煮付け。最後に味噌汁を作る。
三つ葉の爽快な香りが出汁に溶け込み、爽やかな朝にはぴったりだろう。
味噌汁を一掬いして味見をするとこで気付いた。珍しく手に火傷をしている。
どの段階でしたのかはわからないが、寝不足で注意散漫になっていた証拠だ。包丁を扱ってる時じゃなくてよかった。指を切り落としでもしたら洒落にならない。
「おはよう! 慶一」
「おはよう一子。昨日あれだけ体を動かしたのに元気だな」
「まぁねー。川神娘は元気が一番! あっこれ義経だわ」
珍しく朝食ではなく片隅に置かれていた新聞に興味を示す。
「これが突然乱入してきた義経か。こりゃまた見た目からは強そうに見えないな」
ほうれん草の黒胡麻和えを箸でつまみ一子の目の前にチラつかせると、仕掛けに引っかかる魚のように食いつく。
「まぐまぐ。あの身のこなしは只者じゃないわよ」
「一応は偉人のクローンらしいからな、非現実的過ぎて理解が追いつかないけど」
「私はなんでもいいわ! 勝負出来るならクローンでもロボットでもなんでもこいよ!」
あずみさんが九鬼が忙しいと言っていた理由が分かった。ロボットならいざ知らず、クローンともなると称賛だけではなく倫理的な問題からの抗議も相当なものだろう。
「うちの学校には一子みたいのもいっぱいいるし、クローン組は決闘申し込まれて大変だろうな」
「川神学園的に言うと慶一の方が珍しいわよ。競争意識を高める教育なのに全然決闘しないんだもん」
「決闘はしないけど、個々の能力は鍛えてるよ。今日の煮付けなんて絶品だぞ」
「廊下いっぱいに良い匂い広がってたわ。あーん」
雛鳥のように口を開けて待っているが、先ほどと同じ胡麻和えを放り込む。
「これはメインのおかずだから、つまみ食いよりさっさと飯にしようぜ」
「ぐまぐま。それもそうね。もう運んでいいの?」
「おう。出来上がってるから頼むわ」
朝のHRは臨時の全校集会に変わり、全校生徒はグランドに集められている。
眠気を誤魔化そうとグランドの土をつま先で掘っては靴の裏でならしてみたりするが、そうすると小さな砂埃が舞い靴を汚していく。その汚れを落とそうと逆の足で擦ると余計に土汚れが広がっていく。少し考えればわかることだが、睡眠不足の頭ではそんなことに気付きもしなかった。
そんな慶一に大和が話しかける。
「慶一は九鬼と親しいんだし何か聞いたりしてないのか?」
「知らんなー。いくら一部の人間と親しいからって、一般人に情報漏れるようなことはしないだろ」
言い終えると、慶一は腹の底からゆっくりと空気が膨れ上がってくるかのような大きいあくびをする。
「あれ? 武士道プランには興味ないの?」
「寝不足のせいで興味がわく程まだ脳が動いてないんだよ」
「オレは帰ってからすぐ寝たから、8時間くらいぐっすり寝たかな」
多少の疲れが残っていそうだが大和は元気だ。
東西交流戦に参加したというだけで結局はなにもしていなかった慶一だが、普段運動をしていないので結構疲れが残っている。それに加えて川神院の食事の仕度もあるので朝は早い。
週末を利用した突発イベントを開催した学長を怨む。
「今日の夜は学長のおかずを一品減らすかな……」
隣にいる大和にも聞こえるか聞こえないかくらいの小さい声で呟いた言葉を拾う者がいた。
「こりゃ慶一! 聞こえておるぞ。ワシの楽しみを奪ってはいかん」
いつの間にか壇上に学長が立っておりコホンと一つ咳払いをすると、武士道プランの関係で転入してくる6人の説明を始めた。
深まった春も色を変え、青く澄んだ初夏の空が緑々した夏色を連れてきた。この爽快な日差しも、一ヶ月もしないうちにギラギラと焦げ付く太陽に変わると言うのだから不思議なものだ。
青と白のコントラストは黒い鳥の影をはっきりと映している。この時期だと子育てのツバメだろうか。
同じツバメのナクルトも打順が固定されず選手が忙しそうにしている。メンバー自体は固定されているので持ち前の守備力で攻撃不足をカバーしているのと、勝利の方程式がしっかりと機能しているので順調に前半戦をこなしていっている。昨年までのお先真っ暗という状況から幾分抜け出しているような気がする。
真っ暗と言えば何故か慶一の目の前も真っ暗になっている。
「――ち、――いち! ――慶一!」
肩を揺さぶられ名前を呼ばれていることに気付くと、急に視界が開けた。
人の列は砕けて皆校舎へと向かっている。
「起きたか? 立ったまま寝るなんて器用だな」
睡眠と言うよりはその境目を彷徨っていた感じだった。話し声は所々耳に入っているが、目を閉じていたせいで転入してきた人物の顔はわからない。
「こんなの寝たうちに入らないぞ。頭が重い……。とりあえずF組には転入生は来ないんだろ?」
「クローン組は皆となりのSクラスだってさ」
「じゃあ、とりあえずは顔を覚えてなくても支障なさそうだな」
「それにしても、よくあの騒ぎの中で寝れたな」
「ちゃんと寝れたわけじゃないけどな。ガクトがプロポーズしてたのは聞こえた」
「まぁでも、ガクトが騒ぐのもわかるな。女の子のレベルがすごい高かったよ」
顔を思い浮かべたのか、大和はしみじみと頷く。
「なんだ、全員女の子だったのか?」
「一人……。いや、二人男子生徒もいたぞ」
歯切れが悪い理由は、執事服の男。学校に似つかわしくないその姿は目に入るのに時間はかからなかった。
「転入はクローン組だけじゃないのか?」
「九鬼のところの妹も転入してきて、その護衛だとさ」
「へー、あれが英雄の妹か」
とは言ったものの、学生の間を縫って揚羽さんと同じ色をした長い髪がチラッと見えただけだった。
隣にいる金髪の男は、似合ってはいるのだが執事服を身に纏うには不必要だと思うほど肩幅が広がっており、立っているだけで周りを威圧している。直接は会ったことはないが、確か揚羽さんの武の師匠のヒュームさんだったと記憶にある。
「なんにせよ、あの金髪の執事の人がF組じゃなくてよかったよ」
「同感。英雄にはあずみさんが付いてる時点で2年に来るのはありえないと思うけどな。さて、さっさと教室に戻って寝るか」
「一限目はウメ先生の授業だから寝ないほうがいいよ」
その言葉を聞くとただでさえ重い足取りが余計重くなってしまった。
放課後になり、慶一はプールサイドにパイプ椅子を繋げて寝転んでいる。川神院に帰るまで睡眠欲求を我慢することは出来なさそうだったからだ。
この位置は校舎の影で日に当たることなく、時折冷えた風が通り抜けていく言わば穴場である。今の時期はまだプール開きもしていないので人もめったに通ることはない。
塩素の匂いが夏を先取りしている感じがして、意外と心地良かったりする。
その空間も飛来者による水しぶきで台無しになる。
「おい、流石にそれは夏を先取りし過ぎじゃないか?」
ゴボゴボと水中で空気の泡を吐き出している人物に話しかけるも当然返事はない。
慶一は、ゆっくりと歩くように泳いでくる男に手を差し伸べるが払いのけられる。
「オレにかまうな」
「いいから掴まれよ。水吸って制服重くなってるから上がりづらいだろ」
何故か慶一に必要以上に怪訝な目を向けてくる男は恐る恐る手を掴み何かに気付き声をあげた。
「っ!? その手!」
「こりゃ、ただの火傷だよ」
「……なるほど炎系の能力者か。だがその怪我は……。まだ上手く扱いきれていないようだな」
「炎でもなんでもいいけど早く上がれよ。暑くなってきたと言っても、まだ泳ぐには早いぞ」
数回のやり取りの後、やっと男がプールサイドに上がってくる。
「ちっ、一応礼は言うぞ」
「舌打ちは気恥ずかしさからってことで受け取っとくよ」
「オレを理解した気になるなよ。心を許したわけじゃないからな。お前が組織からの刺客だったなら容赦なく頭をぶち抜くぞ」
顔を手で覆い指の隙間から慶一を睨む。
「組織の人間って、オマエをプールに放り込んだ奴か?」
「……っふ。当たらずとも遠からずってとこだな」
いちいち遠まわしの言い方で会話を難しくさせる男だ。顔が良いだけに、実に勿体無い性格をしている。
「与一ーっ! 大丈夫か!」
タオルを持った女の子が大声で呼びながら走ってくる。この水も滴るいい男の名は与一と言うらしい。
「ずいぶんと可愛い刺客に狙われてるんだな」
「ちっ、相変わらずお節介な奴だ」
飛び込むようにタオルをかけられ頭を拭かれるが、与一はそれを乱暴に払いのける。
「いちいちオレにかまうな、迷惑なんだよ!」
「すまない! でも、義経は与一が風邪を引くと凄く悲しい……」
義経の悲しそうな表情を見た与一はすこし慌てた顔になり、ぶっきら棒にタオルを奪うように取ると何処かに歩いて行ってしまった。
「追いかけなくていいのか?」
慶一は立ち尽くす義経に話しかける。
「義経は迷惑だっただろうか?」
「気恥ずかしかっただけじゃないのか? 気にすることじゃなさそうだけど」
「弁慶も、与一は難しい年頃だから気にするなと言っていたのだが」
「まぁ、タオルは持って行ったんだし優しさは伝わってるだろ」
子供のような無垢な笑顔をになる。
「その気遣い義経はいたく感激した! ありがとう! えっと……」
「2-Fの前口慶一」
「義経は源義経だ。改めてよろしくお願いする」
手を出すと躊躇うことなく握手をしてくる。細く柔らかい手は、刀を扱っているにしてはあまりに綺麗だった。
「つーか、転入初日なのにこんなところに一人でいいのか?」
「あぁ! すまない義経はもう行かなくては。今度改めて弁慶と与一も紹介させてくれ」
そう言うと手を振りながら来た道を戻っていく。何度もこちらを振り返るものだから危なっかしいが、武士娘にそんな心配は必要ないだろう。
結局寝れずじまいの慶一は、重いどころか痛くなってきた目蓋をこすりフラフラと歩く。こうなると痛さが気になってきてなかなか寝付けないので、夜まで起きて早めに寝ることにする。
「慶一さんお帰りですか?」
「そうだよ。まゆっちも帰るとこなら秘密基地行こうぜ」
「けいいっつぁんの頼みなら断れないぜー。行こうぜまゆっちー」
「はい。もちろんですよ松風」
まゆっちのクラスにも英雄の妹の転入生が来ているはずだが、さっさと帰路に着くということはファーストコンタクトには失敗したのだろう。
「オレを寝かさないでくれよ」
「ええ!? そ、それはどういう意味で!?」
「けいいっつぁんの口撃がまゆっちへダイレクトアタック! LPがだいぶ削られたぜ!」
まゆっちが顔を赤くして慌てようが松風だけはいつものように流暢に喋っている。そんな二人?に理由を説明する。
「酷いぜ、けいいっつぁん……。わざとまゆっちが勘違いするようなワードチョイスしただろー」