珍しい人物が月を見上げている。漆のように黒い髪を夜風に遊ばせ佇むその姿は誰よりも似合っているが、彼女のことを知っている身としては不思議な光景に映っていた。
慶一はその後姿に話しかける。
「月が綺麗ですね」
「はっ、口説いてるのか?」
空気を切るように息を吐いた百代が、不機嫌そうな表情を浮かべた。
「いや、月はそんな風に睨むもんじゃないよって意味なんだが、伝わらないもんだねぇ」
座るように手で縁側を叩き合図し、器に盛った剥きたての桃を置き食べないかと促す。すこし見合った後百代がゆっくりと腰を下ろした。
フォークに桃を刺すと、盛り上がるように果汁が湧き出てきた。夏の夜に桃の甘美な匂いが溶け出す。
「桃って秋の季語なのに、旬は初夏なんだってな」
「そうか……。私は丸かじりの方が好きだがな」
噛み締めると、果肉が水蜜に変わる。喉と舌に甘い果汁を感じると、直ぐに桃独特の甘い香りが鼻腔に抜けていく。百代の顔の顔も少し和らいだ。
「月が綺麗ですね」
「もう睨んでないぞ」
「今度は口説いてみた。せっかくのシチュエーションだしな」
沈黙が流れる。木々の葉がこすれる音が心地よく耳に抜けていく。居心地の悪くない無声の空間に発するのは呼吸音だけで、浮かんでは漂う言葉を頭の中で泳がせるだけ。言葉を選ぶ理由は、適当な言葉だと木々のざわめきに掻き消されてしまいそうだから。
「オマエは変わったな……。随分と捻くれた」
沈黙を破ったのは思い掛けない一言。慶一の脳の片隅に居た、表情も読み取れない空白の少女が顔を出す。
「自分自身としては、変わってない気もするんだけどな。まぁ、そういうモモも変わったけどな、正直言うと友達が出来てると思わなかった」
「美少女に磨きがかかって驚いたかにゃん?」
「美少女なのは認めるけど、小さい頃の顔なんて覚えてねぇな」
百代が薄情な奴だと笑っている。笑っているのは百代も、慶一の小さい頃の顔なんて覚えてないからだろう。
親同士の親交があった訳でもないし共通の友達がいたわけでもない。マウンテンバイクで旅をしていた子供時代に、なんとなく出会ってなんとなく遊んだ。そして、いつの間にか合わなくなった。そんなたった数日間の思い出を覚えているわけもない。ただ、勝ち誇っている少女の顔を慶一は少し思い出していた。
「覚えてたなら言えよー」
「ほとんど覚えてないって。その微かな記憶も本当にモモなのかもわからないくらいだしな」
それでも、変わったなんて思えるのは記憶のどこかに覚えているからだろう。
「それで、聞かないのか?」
「昼間の決闘のことか?」
昼間に川神院で百代が決闘をしていたことを思い出す。一撃で挑戦者を倒したと一子がはしゃいでいた。
「物足りない……! あんなのじゃダメなんだ。もっと……。もっと強い奴と戦いたいんだ。でないと私は……。退屈で死にそうだ!」
ファミリーには言えないことが溜まっていたのだろうか。縛りだすような声は徐々に大きくなっていった。
「オレにはわからん世界だな。退屈ならやめりゃいいのに」
「私には、今まで築き上げてきたものを簡単にやめると言う事の方が理解出来んな」
相成れないのか、合う必要がないのか、二人の意見が交差し少しの空白の時間が支配する。静寂の中、桃にフォークを入れる音がやけに大きく聞こえた。
「楽しくないのに続けるのもどうかと思うけどな」
「強い奴と戦ってる間は楽しいんだがな……」
豪快な笑いを思い出した。いつも変ることない笑い声は彼女の強さの証だ。視線が、言葉が、意思が真っ直ぐに慶一を貫き、自分の世界に惹きつけた人を。
「そういや楽しそうだったな……。揚羽さんも」
「私だって揚羽さんと戦うのは楽しいさ」
「いや、そうじゃなくて。自分よりも弱い相手と戦うのも楽しんでたよ。一度きりでも、相手が一撃で沈んでも楽しそうだった」
人生は闘いである。それが九鬼揚羽の座右の銘だった。”戦い”ではなく”闘い”と言うのが揚羽さんらしい。
そして、そこが百代と揚羽さんの大きな違いでもあるのだろう。
「すっかり揚羽さんっ子なんだな。私を慰めたり、解決策を考えたりないのかー」
文字通りブーブーと文句を言われる。確かに、ずいぶんと揚羽さんを中心とした生活をしていたと実感する。
「強いゆえの悩みなんて、オレに解決できるわけないだろ」
「そうだな、結局私の気持ちなんて誰もわからんのかもな」
そう言って、百代が最後の一切れの桃を口に放り込み立ち上がる。
「月が綺麗ですね」
「またか。本当に捻くれたもんだな」
一度だけ怪訝な顔を向け、部屋の方向へと歩き出して行った。
「アポロだって当初は喝采を浴びたけど、今は難癖つけて盛り上がるばかりだしな。月はこうやって眺めてるのが一番綺麗だよ」
その言葉が聞こえたのか聞こえなかったのかはわからない。闇に溶けていく背中をしばらく見つめていた。
川神院の自室に、炭酸飲料のプルタブを開ける音が響く。時計を見ると深夜を廻ってた。慶一は缶に付いた水滴をなんとなしに指で拭っていた。
「私にも一本くれ」
「これしかないぞ」
缶を持ち上げ自分の物だとアピールも意味を成さず取り上げられ、間接キスなど気にせず喉を鳴らしていく。
「いくら自分の家でも、ここはオレの部屋なんだしノックくらいして入ってこようぜ」
「あぁ」
「なんて言うか、一応カッコつけた台詞言ったつもりだし、その日のうちに顔合わすなんて反則じゃね?」
「あぁ」
「……となりの家に囲いが出来たんだってねー」
「あぁ」
顔面を蒼白にした百代が、飲み干した缶を持って立ち尽くしている。目の焦点が合っていないので慶一のことを見ているのか、その後ろの壁を見ているのかもわからない。何を言っても生返事しか返ってこないので、頭に軽くチョップをしてみる。
……反射的なのか、倍以上の力で慶一にチョップが返ってきた。とりあえず反応はあったので、話を続ける。
「随分と冷や汗出てるけど、幽霊でも出たのか?」
「オマエも見たのか!?」
硬直状態だった百代が、突然顔の近くまで詰め寄ってくる。恐々とした様子を見ていると、万夫不当でも人間らしさがあるのだと、変なところで関心する。
「適当に言ってみたんだけどな。猫かなんかの見間違いじゃねぇの?」
「お、お、おばけだったらどうするんだ!」
「そりゃ、川神院だって寺院なんだし出るんじゃね?」
「そそそ、そんなこと言うなよ! 部屋に帰れなくなるだろ!」
慶一の部屋でしっかり自分のスペースを陣取っているのを見ると、もう帰る気はない気がする。
「永国寺に比べたらましだろ。つーか、幽霊なんかより怖いものいっぱいあるだろうに」
「だってだって! オバケだぞ! 攻撃通じなかったらどうするんだよぉ」
攻撃が通じたら怖いもの無しって方が怖いと思う。こっちからしてみれば、襲われたらどうしようもないって意味で考ると、百代も幽霊も変わりないのだが……。
とにかくこのままじゃ埒が明かないので、落ち着かせるためにも優しく語り掛ける。
「昔な、友達の家に行ったんだよ。山の上にあるマンションでさ、それなりに自然とかも残ってて夏場も涼しいんだよな。それで、かなり盛り上がって深夜になったんだが、オレは明日のバイトもあるし先に一人帰ることにしたんだよ。エレベータにボタン押したときにエレベーターの扉に一匹の蛾が止まってた。扉が開くときこっちに飛んできそうで嫌だなーと思っていたら、案の定はばたいてオレのズボンのところに止まってきたんだよ。手で払いながらエレベータの中には入ってこないように、素早く一階のボタンと閉のボタンを押した。階と階の間を通る時ガラスが暗くなって、鏡みたいになる瞬間があるじゃん?そのときガラス越しに目が合ったような気がしたんだよ」
「うわあぁぁあ!! やめろよぉ」
「まぁまぁ、聞けよ」
普段見ることのない必死に耳を押さえて蹲る百代の姿が可笑しくて、少し調子に乗る。手を掴み耳から離そうとするが、磁石のようにくっついて動かない。百代の力に敵うはずもなく、諦めて耳元で語りかけることにした。
「でな、まるで脳が鼓動してるんじゃないかってくらい心臓がバクバクしてな、何かに見られてるって思うと気になっちゃうんだよ、やっぱ振り向いちゃうんだよな」
「あーあー! きーこーえーなーい!」
「オレの顔くらいある、でかい蛾がエレベーターの壁に止まってんだよ」
「へ?」
「後にも先にも腰を抜かしたのはあれだけだったなー」
骨と骨がぶつかる音が直接頭に響く、それと同時に鼻の奥から鉄の匂いが広がる。
何をするんだと言おうとする前に、意識が消える間に目に映ったのは、振り切られた拳だった。
「おい! 私を残して勝手に寝るなぁ!」
殴った当人の百代が慶一を揺さぶり叫ぶ。
「痛えよぉ…。こちとら一般人なんだから手加減して欲しいわ」
百代の気付けで強制的に起こされると、折れてはいないが鐘を鳴らすような鈍い痛みが鼻に響いていた。自分の血の匂いで酔いそうだった。
「紛らわしい話をするからだろ! それに手加減はしてるぞ」
これで、手加減しているらしい……。確かに本気で殴られたら拳型に顔に穴が開くのは間違いない。
鼻血が垂れてこないように指で押さえると、喉からも鉄の匂いがあふれ出してくる。
「あの体験に比べれば、幽霊なんて怖くないって諭すつもりだったんだが」
「嘘だろ! 絶っっ対恐がらすつもりだっただろ!」
そういう気もあっただけに強く非難出来ない。とりあえずティッシュを丸めて鼻に突っ込んでおくことにする。
「だからって暴力じゃ解決しないぞ」
「それにしても、忘れるもんだな子供の頃のこと」
「それだけ、楽しい思い出で上書きされたんだろ? オレもそうだしな。……そう言えば自己紹介もしてねぇもんな」
お互いの思い出を引っ張り出し合ってみるが噛み合うことはなかった。それでも、知らない記憶を埋めるように喋々喃々と語り合っていた。何度目かの問答をしていると、眠気が来たようで欠伸が出てきた。つられたのか百代も欠伸をする。
「さて、そろそろ美女は寝るにゃん♪ 猫は布団で丸くなるにゃん」
そう言うと。布団被り寝床を占拠されてしまった。すっかりいつもの調子を取り戻したかのように見えたが、いつのまにか繋がれていた百代の手がまだ少し震えていたので追い出すわけにもいかなかった。
時計を見ると二時間後には調理場に行かないといけない。寝たとしても中途半端な時間になりそうだ。慶一は近場にあった適当な雑誌を手に取り、朝食の準備の時間までこのまま手を繋いでいることにした。