天井を仰ぎ体を休ませている大和はお茶を探して手を彷徨わせる。畳に指が擦れる音が何往復かすると、コツンとぶつかった音が聞こえた後にペットボトルの中で水が波打つ音が聞こえた。その場で指を動かすが空を切るだけだった。倒れた拍子にペットボトルは遠くまで転がって行ったらしい。
行き場の失った指は死にかけの芋虫みたいにひくつかせて、しばらくして諦めたのかピタリと止まった。
「ほらよ。飲むなら起き上がらないとこぼすぞ」
実際はそんなに離れて居ない場所に転がっていたペットボトルを慶一が手に取り、大和の目の前で振り子のようにチラつかせる。
「大丈夫。ペットボトルは寝ながら飲めるように発明されたもんだから」
「普段の大和からはとても想像できない台詞だな」
大和が少しだけ頭を傾けると、静かにペットボトルを口につけてお茶を少しずつ飲んでいく。その量に対して豪快に喉が鳴るのは、無理な体制で喉を通しているからだろう。
満足すると、また少し頭を傾けて口を飲み口から離していく。適当に腕を伸ばして置いたペットボトルは指に引っかかり、また大和の側を離れて転がっていた。
「慶一はなにしてるんだ?」
転がっていったペットボトルは気にせず、大和は目は開けず口だけを開ける。
「将棋の駒を磨いてる。見ろよ、油を引いたように光ってるぞ」
「おぉ……。すごいすごい……」
眠たそうにくぐもった声を聞いた慶一は将棋の駒を小銭のように親指で弾いた。上に飛んだ駒は慶一の手の平に落ちてくる。それを何度か繰り返し、流された言葉のもどかしさを誤魔化すように遊ぶ。
気を取り直し再び駒を拭き始める。しばらく続けると榧の油の匂いがうっすらと鼻に届いた。普段は大和がしっかり手入れをしているのがわかる。
王将が王様らしく輝きを取り戻した頃、低い唸ったような声が慶一に届く。
「前口…オジサンにもお茶取ってくれ」
「宇佐美先生はお茶持ってきてないんじゃねぇか?」
周りを少し探してみるが、大和の無造作に転がったペットボトルと寝ている弁慶が大事そうに抱えてひょうたんがあるだけだった。
「そうか……。茶道室なのにお茶が飲めないとは……」
「今から淹れるから、少し時間かかるよ」
「んっ……。それじゃ、お茶がはいったら起こし……て…く……」
宇佐美は戦場で瀕死の兵士のように最後の一文字を言わないまま口を閉じた。
部屋の奥にある戸棚を開けると、茶道室なだけあって粉末状の抹茶があった。喉が乾いて抹茶を飲ませるわけにもいかず他のお茶を探す。立派な缶に入ったお茶を見つけたがこれは流石に淹れるわけにはいかないだろう。いったん外に出し他のお茶を探していく。
茶道室だし下級茶はあまり飲まないのだろうか。いくつか棚から引っ張りだすと、ようやく奥から普段飲むような煎茶が出て来た。これも少し高級な茶葉だったが、まぁいいだろうと缶の蓋を開けた。
宇佐美とついでに自分の分も茶葉もいれてお湯を注ぐ。
「お茶が入ったぞ」
慶一は宇佐美の体を軽くゆすり声をかけるが、断片的な返事が「あー、うー」と返ってくるだけだった。しょうがないので、寝返りでこぼさないように離れた場所に湯のみを茶托に乗せて置いた。
今度は畳を叩いて鳴らしている弁慶の元に行く。
「どうした?」
「川神水ぃ……」
「胸に抱いてるぞ」
「ん……違う」
弁慶は川神水が入ったひょうたんの紐が巻き付いている腕を気だるそうに少し動かした。
大事なものは離さず持っている自覚はあるらしい。
「これか?」
片腕を畳につけて横になっていた弁慶の頭の後ろにあった杯を手に取る。それを弁慶の目の前に持って行くと、弁慶は薄目を開けて確認すると満足そうに頷いた。
畳を叩いていたのは慶一を呼んでいたわけではなく、乱暴に手元の杯を探していたかららしい。
位置も確認せず川神水を注ごうとするので、慶一はこぼさないように杯を動かす。
弁慶は川神水を注ぎ終えると、顔を横に向けたまま器用に吸い上げていった。この寝ながら飲むスキルは、だらけ部にいれば自然と身につくものなのだろうか。
それにしても今日は三人共ずいぶん飲み物を飲んでいた。暑いのだろうか?
慶一は窓に向かい障子を開くと、梅雨らしからぬ青空が広がっていた。窓を開けて外の空気を呼びこむ。吹くと言うよりは揺らいでる感じだが、体に感じる風は確かに涼しかった。
その風のおかげで額にうっすらと浮かんでいた汗に気づいた。
将棋の駒を拭き終えると袋にしまう。
やることがなくなった慶一は鞄に入っていたチラシを取り出すが、中途半端に開けた障子のせいで光と影がチラシを見えにくくしている。窓に寄って背中をつけると、太陽の光がちょうどいい感じに癖のある光沢のチラシを照らし、みずみずしいトマトの写真がより一層美味しそうに瞳に映る。
特に何か買うというわけではないが、スーパーのチラシは献立を考えるのに役立ったりするので目を通すのは楽しい。
外で決闘をしている義経の声をBGM代わりに耳を傾けると、元気な声が次々と挑戦者を倒していってるのがわかった。
まだしばらく梅雨は続くが、一足早い夏の日射しを頭に感じながらゆったりとしたまどろみの空間に慶一は溶け込んでいった。
いつの間にか俯いていた顔をあげる。前方の景色は変わりなく、中年の男に少年少女が広い部屋で小さく固まって雑魚寝をしている。後方は陽の傾きが変わっていて、慶一が立ち上がると茶道室の影は大きくなっていた。
急須に残っていた茶葉に再びお湯を注ぎお茶を淹れる。温かいお茶を飲むと直ぐにスッキリとはいかないが、徐々に目が冴えていくのを感じた。
「弁慶、いるのか? 入るぞ」
扉を開けて入ってきたのは義経に向かって慶一は、自分の人差し指を口に当て静かに息を吐いて静かにとジェスチャーをした。
「す、すまない」
「ままっ、お茶でもどうだ?」
茶葉を新しく入れ替えてお茶を淹れると、義経が慶一の近くまで寄ってきて静かに腰を下ろした。
「前口君、ありがとう」
「どういたしまして。弁慶に用事なら起きた時伝えとくぞ」
「今日は決闘が速く終わったから、一緒に鍛錬でもしようと思ったのだが……」
義経はお茶を置いて弁慶を見る。幸せそうな寝顔で夢の世界を楽しんでいるようだった。
「弁慶は鍛錬なら起きててもやらなそうだけどな」
「弁慶がなかなかやる気を出さないので、義経は少し心配だ」
「やる気を出してる弁慶なんて想像出来ないぞ」
慶一も弁慶を眺めながら言う。
「義経たちは皆の模範にならなくてはいけないのに、このままでいいのだろうか?」
「生き急いで立ち往生されるよりはいいんじゃないか?」
「そ、それは困るっ!」
「だろ? シエスタってことで多めにみてやれば?」
その言葉を聞いた義経は何かを考えるがしばらくして小首をひねる。
「シエスタとはなんだ?」
「午睡のことだよ。スペイン人の生活様式で仮眠を推奨する制度のこと」
「なるほど、そういうのもあるのか。義経は覚えたぞ」
「その代わりスペイン人の朝は早いらしいからな、朝の鍛錬付き合わせてやんな」
弁慶のことだから朝はゆっくりしていたいだろうが、義経の一生懸命の姿を見ると助け舟を出したくなる。慶一は心のなかで弁慶に謝った。
「確かに朝早く起きて体を動かすのはいいことだ。義経は明日から朝に弁慶を鍛錬に誘ってみることにするぞ」
「義経もたまにはのんびりすれば? 梅雨時にこんな天気の日は珍しいぞ」
「こんな日だからこそ、義経は体を動かすのが大事だと認識している」
先ほど静かにとジェスチャーをしたからなのか、義経は声だけではなくガッツポーズまで控えめに胸元で握りこぶしを作っている。
「義経は真面目だな。偉いもんだ」
「うむ、前口君にもっと褒められるように義経は頑張るぞ」
「頑張るのもいいけど、もう一杯くらいお茶を飲んでいきなさいな」
「しかし、そろそろ鍛錬に行かなければ」
立ち上がろうとする義経を慶一は手で制する。
「頑張りすぎてる時は疲れに気づかないもんだし、もう一杯くらい飲んでゆっくりするのもいいだろ。その間に弁慶が目を覚ませば連れて行けばいいし」
「そうだな。前口君の心遣い痛み入るぞ」
さっきよりも少しだけお湯の温度をあげて香りを立たせる。あまり温度を上げ過ぎると渋みが出てしまい煎茶の良さが消えてしまうので注意をする。
「少し熱いから気をつけろよ」
「ありがとう。弁慶もせめて川神水を減らしてお茶に変えてくれればいいのだが……」
義経はまた弁慶を見るが、弁慶は川神水の入ったひょうたんに顔をうずめるように頬ずりをして寝息を立てていた。
「大丈夫、酔いつぶれるのが5杯から7杯に増えたって言ってたよ」
「そ、それはいいことなのだろうか?」
「そのうち錫杖を捨てて酔拳に目覚めるかもしれないな」
「もう、前口君は人事だと思って……」
慶一は義経の困ったような顔を見て笑い声を漏らす。それを見て義経も釣られて笑っていた。
「結局弁慶は起きなかったな」
「仕方ない、与一を誘って鍛錬することにするぞ。一緒にしてくれるかはわからないが……」
「もし、与一が見つからなくて一子を見かけたら鍛錬に誘ってやってくれ」
「了解だ。では前口君、お茶をありがとうっ!」
そう言うと義経はポニーテールを揺らしながら茶道室を出て行った。
義経もいなくなり三人も寝ているので、洗い物を済ませようと義経の湯のみに手を伸ばす。
「主の湯のみを舐めるように味わうつもりかい?」
「食べるよりはマシだろ?」
「食べたら流石に慶一を人として見れなくなるね。色んな意味で」
「寝起きの第一声にそんなこと言われるとは思わなかったな。信用して欲しいもんだ」
慶一は未だ目を閉じたままの弁慶の顔を見ながら話す。
「その言葉には三つの間違いがあるね。まず第一に私は寝起きじゃない。第二に慶一の信用度は大和の次くらいに高い。第三は……思いつかないねぇ」
「やっぱり寝起きじゃねぇか」
「耳は起きてたよ」
「それならオレと義経の会話に思う所あるだろ」
「うーん、酔拳はいいアイディアだと思った。今以上に気兼ねなく川神水を飲めるからね」
弁慶がようやく目をこすりながら目を開けた。
「それだけか?」
「あとは……。明日の朝になったら慶一を恨むことにすると決めたよ」
「それくらい付き合ってあげればいいじゃねぇか」
「早起きしたくなーい。慶一がもうひと押ししてくれれば、主から鍛錬の二文字が消えたかもしれないのに」
猫のように体を伸ばしながら弁慶がやる気のない声を出す。
「それは大和じゃないと無理だな。義経の寂しそうな顔を見るとオレにはとてもとても」
「私は好きだけどね、主の寂しそうな顔も困ってる顔も」
「従者とは思えない発言だな」
「私ほどご主人様と言うのが似合う人はいないと思うよ。きっと前世では真面目な堅物キャラのこと間違いなし」
慶一も一子の鍛錬の誘いを断っているので人のことを言えないかと思う。
弁慶と話していると慶一にも再びだらけの虫がじわじわと這いよってきた。どうせ後で宇佐美先生の分の湯のみも片付けないといけないと思い、洗いに行くのをやめた。
慶一は大和のお腹に頭を置くと、「うっ」っと短く呻き声が聞こえた。
「おや? ボーイズ……?」
「ラブなら迷わず腕に頭を乗せるな。枕が低いと寝た気がしないんだよ」
「それじゃ私も」
弁慶は慶一と反対の方向から大和の胸あたりに頭を置いた。そうすると弁慶は直ぐに慶一の耳元で寝息を立て始めた。
弁慶の寝息を聞きながら慶一も目を閉じる。大和の呼吸で沈んだり膨らんだり動くお腹は、揺りかごのように睡眠へ誘って行った。
慶一が目覚めるのは大和が叫び声をあげた後だった。