黄金色の衣に身を纏ったエビがジジジと鳴いている。揚げたての天ぷらだからこそ聞こえるこの音は学食にしては申し分のない逸品だった。
その横には白い十割蕎麦。淡白な味だが風味の強い蕎麦と油に旨味が閉じ込められた天ぷらは、ツユで混じり合うことによってお互いの利点を潰すことなく絶妙な味を作り出している。
「最近、武蔵坊弁慶にツマミで餌付けをしてる前口君じゃあ~りませんか」
「な~んですか? 直江大和に納豆で餌付けしてる松永先輩」
今日は週に2回ほどある学食で食べる日だった。と言っても慶一が自分で決めたわけではなく、百代が慶一の弁当を食べてしまうのでいつの間にかそうなっていた。
最初は何故そんなにお腹が減っているのかがわからなかったが、ようやく最近その関連性に気付くことが出来た。朝に挑戦者がいる時は少なからずエネルギーを使うらしく、朝の早弁からの昼は慶一の弁当に手を出すという時間差コンボが発動するらしい。文句を言っても聞く様子がないので今ではもう諦めていた。
「納豆はいらんかね?」
「川神院に腐るほどあるからいいです」
「納豆なのに腐るとはこれ如何に……。ちなみに納豆は発酵食品だから腐ってるわけじゃないよん」
慶一は断ったハズだが、気づくと目の前の天ざるの汁には納豆が混入していた。
「納豆蕎麦は美味いと思いますけど、天ぷらでサクサクいきたかったのに……」
「栄養あるんだから納豆は食べないとダメだよ~」
「川神院の台所を預かってるオレに、栄養バランスを指摘してくる人物が現れるとは……。それにしても本当に納豆好きですね」
麺つゆと納豆はとても相性が良かった。ネギかみょうがのさっぱりとした味が加わればもっと美味しいだろう。ただ……ネバネバした口に天ぷらの油は微妙だった。
「なんて言ったって納豆小町だからね。前口君も納豆好きでしょ?」
「普通です」
慶一は燕が納豆を掲げているのを見ると、第二投目が麺つゆに入ってくる前に素早く答えた。
「ありゃりゃ、なんとも日本人らしいつまらない答え方だね」
「美味しいんですけどね。納豆があれば事足りるとなると、料理を作る側としては微妙な気持ちもあるんですよ」
「そんな前口君に為になる納豆のお話を聞かせてあげちゃおう」
チチチっと小鳥がさえずり空は青、流れる雲は太陽を隠さず固まっている。そんなのんびりとした風景は勢い良くドアを閉める音で壊された。
「もう! お母さんたら起こしてくれないんだからっ!」
僕の名前は師岡卓代。恋に恋するお年頃のボクっ娘だ。鳴らなかった目覚まし時計を母親のせいにすると、急いで学校へと向かう。
朝ごはんも食べる時間もなかった僕は、食卓に並んでいた納豆を手に取り掻き混ぜながら通学路を走っている。
ずっと走りっぱなしで納豆を混ぜるのも大変だ。朝は和食という家風がこんなところで効いてくるなんて……。でも、あの角を曲がれば直ぐに学校だ。僕は「走れば間に合うっ」という言葉を呪文のように心で繰り返してスピードをあげた。
男の低い声で「わっ!」と声が聞こえたかと思うと、厚い筋肉の壁にぶつかった。
幸い頭はぶつけなかったが尻餅を付いたせいでお尻が痛んだ。痛めたお尻を手でさすりながら慌てて立ち上がろうとしたが、不思議な力で胸を押さえ付けられているみたいに立つことが出来なかった。
「ご、ごめんなさい……。って、ちょっとどこ触ってんのさ!」
男の手はボクの胸をしっかりと掴んでる。その事実を頭で認識するまでに少し時間が掛かった。
今の状況を理解すると、僕の手は反射的に見つめ合っていた男の頬を叩いていた。
「いってー! 何するんだよ! ぶつかって来たのはそっちだろ!」
パーンと頬を叩く音が響くのと同時に男は慌てて手を離すが、まくし立てるように文句を言ってくる。どうやら、僕の胸を触っていたのは気付いていないようだった。
もう一発頬を叩いてやりたかったけど、時間がないことを思い出す。
僕は慌てて立ち上がると、男のほうを振り返り下まぶたを指で少し引き下げて舌を出した。
「ベーだっ!」
そう言うと僕は再び学校に向けて走っていった。
取り残された男は、やり場のない怒りを近くの小石を蹴飛ばすことで解消していた。
「なんだよっ! あいつ……。納豆なんか持って変な女」
(まぁ、顔は可愛かったけどな……)
「違う違う! オレ様も早く行かないと!」
男は放り出された学校鞄を拾うと走っていった。
学校には間に合ったけど、さっきの筋肉男のせいで最悪の朝だった。
「どうしたの卓代? 怖い顔して」
「聞いてよワン子!」
僕はワン子に今朝の経緯を話した。
「それは災難だったわねぇ。でもそんなに筋肉があるならきっとかなりの実力者ね! 勝負してみたいわ」
「もう……。ワン子ったらそればっかりなんだから」
(でも、あんなに男の人の筋肉を意識したのは初めてかも……)
僕は自然と自分の頬が熱くなるのを感じた。
「どうしたの卓代? 顔が赤いわよ」
「な、なんでないよ! それよりそろそろ席につかないと先生来るよ!」
その言葉の後、一分もしない内に担任の先生が入ってきて朝の挨拶を済ませる。
「今日はHRの前に転校生を紹介するぞ。入って来い」
扉がガラッと開いたが誰も入ってこない。
「なんだ、緊張してるのか? オジサンだって面倒くさいだから早く入ってこいよ」
教室のドアから影が覗いている。随分背の高い人のようだった。
男はゆっくりとした歩幅で教室に入ってくると、緊張した顔で黒板の前に立った。
「今日転校してきた島津岳人です。よろしくお願いします!」
その姿を見た僕は指をさして叫んでいた。
「あ、あなたは今朝の筋肉男!」
「オマエは朝の納豆女!」
男の方も共鳴するように叫びだす。
「なんだ二人は知り合いか? ちょうどいい島津オマエの席は師岡の隣な。わからないことがあったら聞けよ」
「せ、先生待ってください!」
僕は誤解を解こうと声を出すが、前の席に座っていた風間の声によりかき消されてしまった。
「卓代! 結婚式には呼べよな!」
「熱々だね。……夫婦の先輩として仲人しなきゃだね大和」
「ヒューヒュー! 京さんや、そんな事実はない」
冷やかし混じりのHRは生きた心地がしなかった。
この騒ぎの原因を作った男が僕の運命の人だと気づくのは、もうちょっと後になってからだった。
「それでオチはなんですか?」
「二人は臭い仲になるってことで」
燕は右手と左手のひとさし指を登場人物の二人に見立ててくっ付ける。
「昼時に友達のBLネタを聞かされるのはキツイですね……」
「この世界では師岡君は女の子だから問題なしだよ」
「それでも、納豆食いながら走ってる女の子はいないでしょう」
「そうかなぁ……。「納豆はやめたほうがいいぜ」からの「やな奴やな奴やな奴!」の方が良かったかな?」
燕はわざわざ闊歩する動作まで付けてその場で足踏みを始めた。
「オチまですごく長くなりそうなのでいいです」
「それじゃ話の代わりに、もう一個納豆いっとく? 有料だけど」
「健康のために過剰摂取はしないことにしてるので遠慮しますよ」
これ以上納豆の話題を引っ張られると思わず買ってしまいそうなので、慶一は残りの蕎麦を掻っ込むように口に流し込んだ。
「なかなか手強いねぇ。まっ、今日のところは諦めとくよん。じゃ~ね、納豆神のご加護を」
燕が去った後のテーブルを見ると小さいカップが置いてあった。どうやらサービスしてくれるらしい。麻薬のバイヤーみたいな優しさだった。
今のところ役に立ちそうにないアイテムをポケットに入れると、慶一は食器を片付けに行った。
放課後になると慶一は真っ先に川神院に帰っていた。
箒で小さな水たまりを掃いていくと、行き場を無くした水の固まりが石畳の隙間へと入り込んで流れていった。水が捌けた石畳には泥の汚れが残っていて、それ数回に別けて丁寧に掃きだす。
空を見上げると、夕焼けは朝焼けのような色を曇天に映し出していた。その陽を浴びて作りだされた遠慮がちな影に紛れて、門の上ではカラスが羽を休めている。これが羅生門ならば死人の肉を啄みに来ているのだろうが、コイツのお目当ては観光客の出したゴミだろう。残念ながら川神院ではしっかり掃除をしているから、オマエの目当ての物をはないよと心に思いながら次の水たまりを掃きだしていく。
高圧洗浄機を使えば泥もこびり付いた苔も綺麗に落ちると思うのだが、川神院の体育会の精神は掃除にも影響していた。
トイレ掃除も素手でなんてアホらしい精神鍛錬はないが、基本は拭き掃除掃き掃除である。時間は無駄にかかるが、綺麗になったのを見渡すと満足感はひとしお感じられる。なんだかんだ精神鍛錬の効果はあるらしい。
静かな動作でも繰り返している内に汗が出てくる。首にかけたタオルで額の汗を拭いて一息つくと、楽しそうにはしゃぐ黄色い声が聞こえてきた。
「すいませーん。お参りしたいんですけど、大丈夫ですか?」
慶一に声をかけたのは二人組の女性。
カメラを片手に持ち、もう片手には仲見世通りで買ったであろう物が入っている土産袋。わかりやすいくらいに観光客だった。
「はい、大丈夫ですよ。このまま真っ直ぐに見えているのが大本堂です」
慶一は手を向けて大本堂への道をざっくりと説明する。
「ありがとうございまーす」
「境内は雨で石畳が濡れて滑りやすくなっておりますので、気をつけてお進みください」
軽くお辞儀をして二人組の背中を見送った。
大学生かOLか、どちらにせよ平日に旅行出来るとは羨ましい。参拝が終わったら、ホテルか旅館に戻り食事でもするのだろう。もうそろそろそんな時間だ。名産を使った料理や、小鉢に入った様々な料理よりも、食事の後に洗い物をせずに部屋でのんびり出来るのは旅行の一番の楽しみだと考えている。
今の状況に憂いていてもしようがないので、最後に大山門周辺の掃除の確認を終えると、弱火で煮込んでいる角煮の様子を見に行く。
玄関に入ると靴を脱ぎサンダルに履き替えてもう一度外に出る。思った通り靴の裏は泥だらけになっていた。軽くブラシで擦って泥を落とすと改めて調理場へ向かう。
石鹸を泡立てて手のひら、手の甲、指の間、指先、親指、手首の順に洗っていく。すっかり癖になったこの洗い方は、小学校の手洗い場に貼ってあった手書きのポスターの影響だろう。しっかり爪の間まで洗ったのを確認すると、流水で泡を落としてタオルで手を拭いた。
鍋に入った豚の角煮を菜箸で刺してみると、いい感じに固くなっていた。もう一時間くらい煮れば繊維がほぐれて柔らかくなるだろう。付け合せの料理も肉が柔らかくなり始めてから手を付ければ十分だ。
「ただーいまーっ!」
遠くから一子の元気な声が聞こえてくる。足音は一直線に調理場へと向かってきた。
「おかえり一子」
一子はもう一度ただいまと言うと、慶一の前に立って目をつぶり口を開けて静止している。
「なにしてんだ?」
「イート、ミート、ミー!」
適当な英語はラップのように韻を踏んでいた。
「悪いな。まだ出来てないんだよ」
「家中にお肉の匂いをまき散らしてそれは拷問よ!」
「これで手を打たないか?」
ポケットに入れていた松永納豆を取り出す。
「松永納豆は美味しいけど、お肉の匂いには勝てないわぁ……」
一子のポニーテールがシュンとうなだれるように見えた。
ご飯まで少し時間があるし少量なら大丈夫だろうと、海苔の上にご飯を乗せて刻んだ小ネギと青じそを散らして巻きすで巻き上げる。
「これならどうだ」
「もう一声!」
角煮を作るために切り落とした端っこの豚バラのブロックを細切りにして、キッチンペーパーで余分な油を取りながら焼いていく。豚バラをカリカリに焼き上げ角煮のタレに軽く絡めると、レタスの上に乗せて納豆巻きと同じように海苔とご飯で巻いていく。
「これでどうだ?」
「私、慶一に一生ついていくわっ!」
「それじゃ、手を洗ってから食べろよ」
「はーい!」
お腰につけたキビ団子ならぬポケットに入れていた納豆だが、図らずとも犬のお供が出来てしまった。
「お? 美味そうだな。私にもくれよ―」
一子と一緒に帰ってきたのだろうか、百代も遅れて調理場に顔を出した。
「鬼はまだ出て来ちゃだめだろ」
「とうっ! よくわからないけど、鬼は悪い子に仕置きするにゃん」
「それ、なまはげ……」
叩かれた頭を擦りながら慶一は呟いた。
窓の外からは門の上にとまっていたカラスの声が聞こえる。そのバカにされているような鳴き声を聞きながら慶一は、後は猿がいれば鬼(百代)を倒せるのにと思っていた。