真剣で私に恋しなさい!N   作:挽きたて

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第三十八話

 じゃがいもに玉ねぎ、人参、豚肉。なんて単純な食材なのだろう。それに対して複雑に絡み合ったスパイスの匂いは鼻孔を突き抜けて脳へと直交する。

 味の深み、コクなんていう言葉があるが、感じ方は人それぞれで説明をするには厄介なものだ。

 ただひとつ誰でも感じるものがある。

 カレーだ。それも日本の。

 インドのカレーに比べれば独特なスパイスの香りが低く、特定のスパイスばかりを使っている日本のカレーは独特の進化を遂げている。日本とインドではカレーは別物だと思う人が多い。それは正解である。そもそもカレーというのはインドにおいても外来語であり、様々なスパイスを使った煮込み料理全般のことを指す。

 インドの歴史を長々語っても仕方がないので話を戻す。

 一晩寝かせたカレーは美味しいというのはよく聞く話だ。しかしスパイスという物は時間が経つほど飛んでいってしまう。

 それではなぜ長時間煮こむほど日本のカレーは美味いのか?

 答えは単純に“旨味”である。日本人が好む旨味は、食材に熱が加わることによって細胞が破壊されて旨味成分が溶け出す。昆布が海で出汁が出ないのもこの作用が働いていないからである。

 豚の脂が溶けて旨味がルー全体に広がり白いご飯に絡まる。煮込んで脂が溶けた豚は柔らかくなり、肉自体にもルーが絡みやすくパサパサではなくジューシーに仕上がる。

 じゃがいも、玉ねぎ、人参を使っているのにもちゃんとした理由がある。溶けるということだ。

 溶けた野菜はまろやかになり、これがコクとなって感じられる。

 激辛を頼んでもほのかに香る野菜の溶けた甘い香りは食べている最中よりも、食べ終わった後に静かに鼻から抜けていく。

 他にもこの具材が好んで使われるのには野菜の自身の甘みでカレーの辛さを引き立てるからだろう。ピリっとしたスパイスの後に舌の上で溶ける野菜の甘味に引かれるように、次の刺激を求めてまたスプーンを走らせることになる。

 カレーと一緒に出てくる冷水も辛さを増強させるためにある。

「ここで問題なのがビーフカレー、ポークカレー、チキンカレーがあるように、それぞれ肉の旨味や風味の違いが――」

「おい、もういいだろ。ワン子がお預けされ過ぎて限界だ」

 慶一は百代に声をかけられて一子を見ると、目の前に置かれたカレーを凝視して本当の犬のようにハッハッハッと舌を出して呼吸を荒らげていた。

「おかしいな。一子に「なんでカレーって美味しいのかしら?」って聞かれたから答えたのに……」

「長すぎだろ……。いいかげん私達も腹が減ったぞ!」

 百代の言う通り、一子や百代以外の他の修行僧達も若干苛ついたようにそわそわと体を小刻みに動かしながら、食卓の前で慶一が講釈を垂れているのを聞いていた。

「……ごめんなさい。それじゃ、いただきまーす」

 慶一がそう言うとようやく川神院で夕食が始まった。

 部屋はカレーの匂いで包まれている。というよりは、カレーの匂いしかしていない。どうりでカレーを思い出す時は鮮明に匂いも思い出すはずだ。

 慶一は半熟卵の黄身をスプーンで静かに崩す。ご飯に混ざり、ぐちゃぐちゃになってしまわないようにルーの上で豚肉を浸すように付けて口に運ぶと、まろやかな舌触りで喉の奥へとカレーを滑らせていった。

 他にも野菜の栄養をとるための生サラダや、豚カツ、からあげ、目玉焼き、チーズなど様々なトッピングも並べている。

 ルーはサラダのほうれん草をカレーに入れる。

「ワタシは、ほうれん草のほうがいいネ」

「ルー先生は野菜好きですね」

「しっかり野菜を食べないト、強くなれないヨー」

「私もカレーにトッピングするわ!」

 一子はほうれん草だけではなく、他もトッピングしてカレーの上は凄まじい光景になっていた。

「なんか無駄に豪華にしすぎたな。胃にもたれそうだし揚げ物はなくても良かったか?」

「料理に無駄なんてことないわよ。全部平らげて見せるわ!」

 しばらく待たされた反動か、一子はいつも以上にガツガツと勢い良く食べている。その姿を見ている慶一はあることを思った。

「川神院も認めるパワーカレーって銘打ったら屋台で売れないかな」

「川神院内で無償で配膳するならかまわんぞい」

「境内でカレーの匂いさせるのはどうかと思いますけど」

「ほっほっほっ、匂いにつられて参拝客が増えるかものぉ」

 今年の正月に川神院にお参りに来た人へおしるこを無料で提供していたことを思い出した。結構おしるこや甘酒目当てで初詣に来る人が多いので準備をした慶一は大変だった。

 正月前後の神社や寺院は目の回る忙しさだ。川神院も例外ではなく、慶一一人暇を持て余すのも居心地が悪く手伝いを買って出たのだが、これが間違いだった。

 正月前は大掃除やおせち作りがあり、正月後も大量に押し寄せる参拝客が途切れる僅かな隙間を見つけて掃除をして、餅つきなどの行事に参加する。

 思えば1月1日というのはハードなスケージュールの合間の大事な休みの日だった。それを返上したことを今では後悔していた。

 慶一は川神院には悪いが参拝客が増えるようなことは止めとこうと結論づけ、その話題はこのまま広げないようカレーをすくう手を早めた。

 

 

 食べるだけでも匂いが付くのだから、作る方はかなりのカレーの匂いが染み付いている。

 慶一は洗い物を済ませると早めにシャワーを浴びに行くことにした。

 蛇口を捻るとシャワーが足元を濡らしていく。冷たい水は直ぐに湯気を立てて足先を暖めていった。丁度良い温度になったところで、シャワーヘッドの位置を変えて頭から浴びる。

 固まった髪の束を指の腹で擦る度に整髪料が溶けて指通りが良くなっていくが、まだところどころにこびり付いている。

 一度シャワーを止めシャンプーのボトルを押す。カシュカシュと空気が抜ける音がする。ノズルを外しボトルを逆さにして振ってみるが、コンタクト程の大きさも出てこなかった。

 買い置きもなかったはずだが、念のために部屋に確認しに行くことにする。

 濡らしたばかりの体を拭く。着替えるのは面倒くさいのでバスタオルを腰に巻き廊下に出ると、部屋に戻るところだったのか、お菓子の袋を片手に持った百代と目が合った。

「おい、そんな格好で何処行くんだ?」

「シャンプー切れてたから、部屋に買い置きがあるか確認しに行くんだよ」

「それなら、棚の上に私のシャンプーあるから使っていいぞ。さっき浴びたばかりだからまだあるだろ」

「おっ悪いな、助かるわ。正直買い置きがあるか微妙だったんだよ」

 無かったらコンビニにでも買いに行くしかなかった。濡れた髪を乾かして外に出るのは大変だし、それからまたシャワーを浴びるのは流石に億劫だった。

「半裸でうろつくなよ。風邪引くぞ」

「だな、それじゃ風呂に戻るわ。覗くなよモモ」

「……その台詞は男が言っても意味無いだろ」

 慶一は浴場に戻ると、拭いたばかりの体をまたシャワーで濡らす。百代に借りたシャンプーを泡立てると、浴場いっぱいに香りが広がった。自分の頭から良い匂いがするのは不思議な気分だ。

 洗い終え、今度はしっかりと体を拭いて行く。ドライヤーで髪を乾かすとよりいっそう香りが強くなった。いつもよりさらさらになった髪の毛は自分のものじゃないみたいだった。

 前髪を持ち上げてみたり、襟足を後ろで纏めるように触ってみたりと色々試すが、どうもすわりが悪く落ち着かない。

 とりあえずシャンプーのボトルを元の棚に戻し浴場を後にする。

 部屋に戻る途中で自己鍛錬終わりの一子がタオルで汗を拭きながら歩いているのを見かけた。前を見て歩いていないのでふらふらしいて危なっかしい。

 慶一との距離が近くなるとくんくんと鼻を鳴らす。

「お姉さまお風呂上がったの?」

「お姉さまぁ?」

「あれ? 慶一だったのね。お姉さまと同じ匂いしてるから間違っちゃったわ」

 一子は慶一の顔を見ると微笑み「明日の朝ごはんを楽しみしてるわね」と言い残して歩いて行った。しばらく立ち尽くした慶一はその足で百代の部屋へと向かった。

 百代は部屋で女性らしからぬ胡座をかいて雑誌を読んでいた。慶一はそのまま近づき後ろから抱きしめる。その行為に気にする様子もなく百代は普通に話し始める。

「私は今カタログ見てるんだから、甘えてくるなよ」

「それどころじゃないぞ」

 慶一は一呼吸置くと、百代の背中に顔を埋めるように顔を擦り付ける。

「あははっ、こら、やめろ! くすぐったいだろっ!」

「我慢しろ。匂いを持ち主に返してるところだ」

「お、落ち着け、意味がわからんぞ」

 百代は身をよじりながらも肘をみぞおちに入れると、慶一の口から風船の空気が針で刺した穴から漏れるように弾き出した。

 慶一の体勢は変わらず後ろから百代にもたれかかったままで、つい先程あった一子との会話を伝える。

「ふむ、それで頭を擦りつけてきたわけか。……オマエ馬鹿だろ」

「まさか匂いで判断されてるとは……」

「いや、風呂上がりで体臭残るほど臭かったら引くぞ」

「シカゴにはベーコンの香りの香水があるらしいんだが、そのカタログに載ってないか?」

 リスのTシャツの写真のページから適当に捲ると、色鮮やかなガラス瓶が掲載されているページを見つける。

「あっても買う前に全力で止めるけどな。拳で」

「つーか、こんな小瓶に入ってこの値段か」

「こっちの方が高くつくぞ」

 百代は自分のお腹に巻き付いている慶一の腕を握るように触る。

「たまのご褒美プライスレス」

「美少女に手を出しておいて、ただで済まそうなんて思ったら大間違いだぞ」

「……どうせ高く付くなら、もうちょっと」

 慶一は腕に力を込める。細いウエストを抱きしめるには腕は長すぎたようで、自分の手の平で自分の肘を抱えるくらいの余裕があった。

「んっ……! こらっ苦しいぞ」

「わりぃわりぃ」

 慶一が腕の力を緩めると、百代はモゾモゾと体勢を少し直して後頭部を慶一の胸に乗せて体重を預けた。

「……いつもと逆だな」

「いつもは背中に来る素晴らしい感触がないもんな」

「だからって触ったら殴るぞ」

 抱きしめる慶一と身を預ける百代はお互いに違和感を感じていた。居心地が悪いわけではなく、むしろこうすることが普通のような当たり前さに身を委ねている。

「この匂いが一子に間違われたのか。妬ましい……」

 慶一は鼻をすするように匂いを嗅ぐ。

「嗅ぐなよ! なんか恥ずかしいだろ!」

「この長い髪って武器に使えたりしないのか? ちゃんちゃんこ着てゲタ履いてるやつみたいに」

「髪が抜ける美少女ってナシだろ。てか、妖怪の話題出すなよ!」

 慶一の腕を握る力が僅かに強くなる。

「モモはあれもダメなのか。物理的に殴れそうなのに」

「物理攻撃が聞くなら話は別だ。ぶっとばしてネコ娘は貰っていく」

「水木し○るの原画だと物凄え顔してるけどな。あれでもいいのか?」

「……やっぱりネコ娘は一人で十分にゃん」

 しばらく他愛もない話を続けていたが、ピタリと話題が止まる。自然と顔が近くなっていたことに気付いたからだ。

 慶一はずっと心に思っていたこと言った。

「なぁ…モモ……」

「……なんだ?」

「カレー臭いな」

「うっ、確かに……」

 シャワーは浴びたものの、胃の中に残るカレーの匂いは二人が喋る度に濃くなっていた。

 

 

 

 

 

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