夏雲は濃くなったり薄くなったり、広がったり狭まったりと、南西から吹かれる風に流されて自由気ままに形を変えていた。その白い絵の具を指で適当に伸ばしたような雲は時折見たことあるような造形を作り出し、なんだろうと思案を巡らせている間にまた形を変える。
目線を下ろせば、水分をたっぷりと含んだ夏の緑に太陽が反射して眩しさに目を細める。
小さな羽虫が飛んでいた。やわらかな新緑に邪魔な存在だが、それもまたいいかと目で追いながら夏の日差しを肌で感じている。
「慶一って窓の外眺めるの好きだよね」
窓のサッシに腕を付いて、ただただ外を眺めていた慶一にモロが話しかけた。
「まぁな、影とか雲がゆっくり形を変えるのって楽しくないか?」
窓の外を眺めたままの体勢で慶一は答える。
モロも刻々と大空を変化させるように戯れる雲を同じように眺めるが、つまらなさそうな淡々とした抑揚ない声で言葉を発する。
「僕は同じ窓ならパソコンの方が楽しいと思うけどな」
「そりゃそうだ。オレも現代っ子だからな、パソコンの方が楽しいに決まってる」
「じじくさく空見上げてよく言うよ」
「そんなことないぞ、あれ見てみろよ」
慶一が指をさした方向には雲の塊が一つ、形を作って浮かんでいる。二つの膨らみにくびれた腰を支えるような大きなお尻と、まるで女体のような雲が青空のスクリーンに映しだされていた。
「あれがどうかしたの?」
「なかなかお目にかかれないような、ナイズバディだろ」
「でも、風に流されて膨らんだ部分が削れていってるよ……」
モロの言うとおり雲は腰のくびれだけを残して流されていき、土偶のような面白味のない形だけを残していった。
「寄せてあげるタイプだったんだろ。オレ達青少年に、見た目で騙されるなと教えに来たんだろうな」
「どういう悟り方してるのさ!」
「まぁ、正直なんも考えてないんだけどな。難しいことを考えて空を眺めるのは与一に任せた」
そう言うと慶一は人差し指を天井に向けて、おそらく屋上にいるであろう与一を指さした。
「確かに難しいこと考えてそうだよね。中二的なことだろうけど」
「モロが一人で窓の外を眺めてたら、深刻すぎて近寄れなさそうだな」
「ちょっと! そこまでの根暗キャラにしないでよ!」
「そうだよなぁ。こうやって仲良くなれば元気にツッコムのに……」
慶一にとっては見慣れたモロの姿。見知らぬ人の前、特に女子の前ではこの部分がスッと影に隠れてしまう。
「そう染み染み言われると、心にチクチクくるよ……」
「オレで練習してみるか?」
「哀れまないでよ!」
「モロだって普通に女の子と話したりしたいんだろ?」
慶一は廊下に屯している女の子を適当に顎で指して言った。
「それはそうだけど……。それって慶一を女の子として話しかけてみろってこと?」
「そうそう。知らない女の子に話しかけるより、オレを女子と思って話しかけて見る方が楽だろ?」
「うぅ、反論できない自分が情けなすぎる……」
「よし、いつでもいいぞ」
慶一は足を肩幅まで開くと、腕を組んでモロの目の前に立つ。
少し何かを考えてから、モロがおもむろに口を開いた。
「うんと……。普段どんな音楽聞いてるのかな?」
「ラジオをかけて適当に流れてるのを聞くけど、しいて言うなら魚を三昧に下ろす時の骨と包丁がカリカリと音を立てるのが好きかな」
慶一は左手で身を持ち、右手で包丁をいれていくジェスチャーをしている。
「そうなんだ。えっと……。じゃあ趣味はなんですか?」
「料理かな。でも、必要にかられて始めたものが趣味になるって結構寂しいものがあるよな」
「そ、そうなんだ。料理上手なんだね」
「料理って作るまでが料理だと思ってる人もいるけど、洗い物を終えるまでが料理なんだよな。人の家でウインナーとか焼いて、フライパンを油でベトベトにして帰る人とか最悪。他にもさ――」
話を続けようとする慶一をモロが声を荒らげて止める。
「最早それはただの愚痴だよ! それに少しくらいはしゃべり方を工夫してよ!」
女の子らしいしゃべり方と言えば「~わ」とか「~よ」と語尾に付ければ良さそうだが、せっかくだからモロが好きそうな語尾にしようと思った慶一は、モロに借りた漫画のヒロインを思い出す。
「わかったでゲソ。努力してみるでゲソ」
「どうして数ある語尾の中からそれを選んだのさ!」
「モロに借りた漫画の知識だからしかたないゲソ」
「その語尾、棒読みにも程があるよ……」
自分には無理だと思った慶一は一旦教室に戻り、目ぼしい人物を探す。キャップもいない、大和もいない、百歩譲ってのガクトもいなかった。仕方なく千歩譲ってヨンパチを連れていくしかなさそうだった。
「ちょっといいか? ヨンパチ」
「どうした? 今スイーツを頭の中で脱がせてるところだから、くだらない話なら後にしてくれよ」
慶一は事情を話すと、ヨンパチは浮き浮きと頬を緩ませてついて来た。
「というわけで、強力な助っ人を呼んできたぞ」
「ありとあらゆるエロ画像から女体を極めたオレに任せとけ!」
「うぅ、心配だなぁ……」
モロの不安をよそにヨンパチはクネクネと身をよじりだす。そして、胸というにはあまりに平らな乳房を自分で揉みしだき、無駄に艶やかな溜め息を漏らす。
「はぁん……。あたし育子、体がうずくわぁ」
「モロの中性的な魅力に早くもヨンパチはメロメロだな」
「なんでいきなり発情してるのさ! 慶一も適当なこと言わないでよ!」
モロは腕を伸ばしてヨンパチが近づいてくるのを静止させる。
「手っ取り早い女の方がいいだろ? まさにオレの理想だ!」
そう言って拳を固めたヨンパチの目は真剣そのものだった。
「うむ、無駄がない。実に合理的だ」
「ややこしいから慶一はもう黙っててよ!」
ツッコミで疲れてきたのか、肩で息をするようにモロが震えていた。
「私ィ、モロとならアヘ顔ダブルピースも余裕って言うかぁー。さぁ、ファックミー!」
「嫌だよ! そんなビッチっぽい子!」
モロが叫ぶと、慶一とヨンパチは目を合わせると肩をすくめて同時に首を横に振った。
「ちょっとちょっと! なんで僕が悪いみたいになってるのさ!」
次の授業を知らせるチャイムが鳴ると、何も言わないまま二人は教室へと戻っていった。
「え? なにこれ、僕が空気読めてないの? 僕は普通の女の子と話したいだけだよー!」
慶一が次にある授業の歴史の教科書を机から出している間も、モロの悲痛の叫びはしばらく続いていた。
興味のない授業とはどうしてこう眠くなるのだろうか。聞きかじった程度の手のひらにある眠気覚ましのツボを押してみるが効果はない。せめて板書でもしていれば多少は眠気は醒めるのだが、歴史教師の綾小路麻呂は平安時代の歴史をつらつらと話しているだけだ。
こんな下手糞な子守唄でも眠くなるのだから不思議だ。
次の板書まですることがない慶一は、前の席のクリスをぼーっと眺めてしまう。日に照らされてキラキラと光る金髪は錦糸卵のようだった。さしずめ白い肌は酢飯といったところだろうか。そうなってくるとリボンは糸唐辛子に見えてくる。
白ごまを混ぜた酢飯を濃い目に漬けた揚げに半分より少なめに詰める。その上に甘く焼いた錦糸卵を乗せて、最後に糸唐辛子を乗せるといいかもしれない。
まず黄色い卵に赤の唐辛子とい色彩は食欲を誘う。赤やオレンジ、黄色などの暖色系は食欲をそそる。胃腸の動きを活発にする効果があるからだ。
更に揚げと卵と言うのは茶色と黄色で、類似色調和という同じ色を含む食材を組み合わる料理の手法がある。これも食欲を誘う効果がある。
糸唐辛子というのは飾りのために使われるので、あまり辛くない品種が使われている。そのほのかに感じる辛味は甘い卵と良く合うだろうし、酢飯との相性は間違いない。糸唐辛子の代わりに小松菜を飾ってもいいかもしれない。野菜の緑色というのは料理には欠かせないものだから。
稲荷寿司は工夫すると幅が広がるので考えがいがある。
慶一がそんなことを考えていると、こそこそと小声でクリスが話しかけてきた。
「慶一、なんかさっきから視線が刺さるんだが……」
「気にするなよ。こっちは有意義な時間を過ごしてるんだから」
「そうか、それは悪いことをした」
「おう、気にするな」
繰り返し繰り返し平安時代の話をされるが、クリスにとって日本の歴史は楽しい物なのだろう。クリスは前を向いて授業に耳を傾ける。
それにしてもクリスか、漢字で書いたら栗栖になるのだろうか。それとも栗酢だろうか。
いや、そんなことよりも稲荷寿司を作るとなると、他のオカズはどうしようかと考える。味は揚げ自体を濃い目にする予定だから、さっぱりとしたものがいいだろう。
基本はさっぱりとしたものとなると酢を使う。酢、クリス、栗、酢。
どうもさっき考えた無駄なことが頭に残ってしまっていた。
でも、生栗の甘さと酢は意外に合うかもしれない。甘露煮だって酢を入れるのだから合わないということはないだろう。
しかし、そんな味が濃いものよりも、芋の代わりに鶏肉と煮るのが良さそうだろうか。味付けはベターに醤油、酢、酒、みりんでいいだろう。そうなると、大事になってくるのは酢の量だが――
「ええい! やっぱり気になるぞ!」
クリスが大きい声を出して振り返った。
「こりゃ! 静かにするでおじゃ!」
「す、すみません……」
「まぁまぁ、落ち着いて授業聞けよ」
慶一はクリスの肩を叩いて前を向かせる。
「うぅ……。絶対自分は悪くないぞ……」
いいところまで考えついたが、これ以上考えるとまたクリスが反応してしまいそうなので諦める。
せっかく覚めかけた目も、欠伸とともに再び顔を出した。
溶け出した瞼は夢と現を交互に映している。授業の終わりになる頃には、白か黒かわからない風景を瞳に宿していた。
「すごい顔してるわよ慶一」
「これが戦った男の顔だ覚えておけ」
眠さに抗い目を開けているが、瞼の裏の暗さを求めて黒目は上を向いている。話しかけてきた一子に慶一は白目で答えていた。
「そのまんまで喋んないでよぉ。ちょっと怖すぎるわ」
慶一は目線を瞼の裏から下ろすと、教室の電灯の眩しさに目を細めた。乾いた目は少し閉じただけで涙が滲んでくる。
「だれか騒ぎでも起こさないもんかねぇ……。そしたら乗じて惰眠を貪れるのに」
「あはは、騒ぎを起こすとしたらうちのクラスよね」
一子と話しながらも、気を抜けば再び白目を向いてしまいそうな程の眠気が慶一を襲っている。
「午後の授業って退屈だと鬼門だよな」
「気持ちはわかるわ。私も大和に起こされながら歴史の授業受けてたし」
「二人共たるみ過ぎだぞ」
気の抜けた会話をしている慶一と一子へクリスが注意を始める。
「クリスを見てると何かを思い出すな……」
「クリって言ったら栗よねぇ」
「そうそう、なんかそんなようなこと」
「ええい! クリクリとなんだ! 犬のくせに!」
慶一が意識が混濁する前の事を思い出そうとしている横で、一子とクリスは「犬」と「クリ」の数少ない文字の悪口を言い合っていた。二人が声を発する度に、一子の茶色いポニーテールとクリスの金色の髪が揺れていた。
そのクリスの細い金色の髪が流れるのを見て、慶一は思い出しクリスに指を向ける。
「あぁ、お稲荷さんだ」
「誰がお稲荷さんだ!」